| 目次 | 旅行記 | 安保 |
2008:平成20年10月22日(水)〜10月27日(月)
5泊6日
3日目:ペリリュー島・戦跡巡り
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2008.平成20年10月24日(金):午後編 ■12時14分:サウスドッグ(南波止場)
この波止場は戦後整備されたのかも・・・。
ここで昼食及び小休止。 一人、そこらの椅子に腰掛けてアンガウル島を遠くに見ながら昼飯を食う。隣の椅子にガイドのシュンさんが坐っていたので少し話をする。 彼も倉田先生のことはよく知っているようだった。ここに来てガイドとして働き、2年になるらしい。 パラオは小さい国なので、国土の保全や自国民を守ると言う意識は殊更強いようだ。例えば日本人がパラオで交通事故にあって死亡しても 、パラオ人に過失が多くてもその責任は“外国人にあり”というように・・・。自国民を庇うようだ。 どこの国でも自国民優先と言うのは当然のことだ。パラオのそれがどの程度なのか私には良く分からないが日本のように、何でも外国人、 特に近隣三ヶ国と言われる反日国の外国人に気兼ねばかりをし、自国民が損をするような国家だから余計にその姿勢に感心する。 日本では、県営住宅や公団でも自国民には所得制限や若者の一人暮らしでは入居が出来ないが、外国人、中国人はそこらの県営住宅に何故 か?沢山安い家賃で入居している。その他、バカバカしいくらい他国人に気を使う。 そんな日本だから外国人犯罪者が大挙して日本に出稼ぎに来るのも当たり前だ。国と国民を頑なに守るパラオに敬意を表す 45分間くらいここで休憩した。
24/12:17:52 桟橋がアンガウル島方向に続く
左:1946年10月撮影・・・右:ペリリュー島の図にはどれも左のような波止場はない 南波止場が写真のように整備されたのは何時なのか? 今は1946年当時の写真のようになっている
24/12:18:32 ペリリュー島で食う日本弁当? ここはパラオのペリリュー島 何で弁当の中味はこれなん?
24/12:41:44 木と木の間に薄っぺらく見えるのがアンガウル島 ペリリュー島から南西12km
24/12:43:04 玉砕の島:アンガウル
アンガウル島
24/12:50:08 サウスドッグからオレンジビーチを写す 砂浜が樹木に覆われている
24/13:06:14 昭和60年(1985)3月8日に建立 北の日本を向いて建てられている。 そしてペリリュー島からアンガウル島が一番近く見える南の端。 そんな場所に記念碑は作られている。
24/13:06:50 ペリリュー平和記念公園から見るアンガウル島
今のアンガウル:衛星写真
24/13:07:26 西太平洋戦没者の碑
さきの大戦において 碑文はそれぞれ日米両国の言葉で刻まれている。
24/13:19:44 車窓より、なにやら見える 確かガイドがそのように言った記憶があり、 窓越しにデジカメのスイッチを押す。 定かではないが、場所的にはあっている。
LVT-A1ガイド説明「5人乗り、250馬力」なり 「太平洋戦跡紀行」西村誠(著)の写真と同じ物で、その写真の説明と同じく、ステンレスの車軸は今も尚腐食せず光っていた。この 辺りは中川州男大佐の終焉の地に近く、大山・南征山・水府山の麓になるだろう。
24/13:20:38 米軍の水陸両用戦車 このすぐ右側にペリリュー捕虜収容所あった 前方の階段を登ると次の写真「短20センチ砲」がある
24/13:21:54 LVT-A1ガイド説明「5人乗り、250馬力」 人と比べれば大きさが分かる
24/13:22:52 今も輝くステンレスの車軸 かっての米国が作りました 今、米国の自動車メーカーは破綻の危機を迎えています 物づくり米国:昔の栄華今いずこ
洞窟のような洞穴に鉄骨の台座を組んで短砲は砲身を海に向けていた。猛烈なる爆撃・艦砲射撃をものともせず、今もその雄姿は健在だが 砲身の向きが敵方向では無かったのか活躍の程は不明。ガイドによれば正面はスカーレットビーチの方向らしい。 ここはリン鉱石を採掘した跡を利用したようで、この辺りは複雑にそういった洞窟を繋げた洞窟陣地があったようだ。何せ、この小さな島 に500を越える洞窟陣地があったらしい・・・。 ドラム缶に土を詰めた擁壁で構築してあり砲撃で崩されずに残っていた。凄い湿気のある場所だった。
24/13:24:50 写真写りが悪いですが・・・。 砲身の向きが??? 敵はいずこの方角から
24/13:25:40 右側に米軍の水陸両用戦車「LVT-A1」がある 左側にペリリューの捕虜収容所があった 倉田先生・船坂弘氏が収容されていた 今は柵だけが残っている
24/13:26:22 この洞窟をくぐって行くと短砲の裏側に至る
24/13:26:34 燐鉱採掘跡に鉄骨の足場を組んで据えられている 実戦での活躍の程は分からない
24/13:29:44 短砲への洞窟に築かれたドラム缶の擁壁 堅固な陣地の構築に艱難辛苦の努力跡が伺える
ここに倉田先生が収容された時に、船坂弘さんに出会った。共にアンガウルで戦い抜き捕虜になった。船坂弘氏が気を失って捕虜になった のは10月24日。船坂氏が収容所に入った時はまだペリリューの戦いは続いていた。 倉田先生が捕虜になったのは、10月19日のアンガウル玉砕(最後の組織的反撃)から三ヶ月後だから昭和20年1月後半くらいだろう。 ペリリューでの戦闘終結は日本軍の最後の打電は11月24日。11月27日(米軍公刊戦史)には、ほぼ完全に終結した模様である。 倉田先生がペリリューの収容所に入った時にはすでに戦いは終わっていた。場所的には大山の麓である。ここで朝鮮人の作る激辛料理に倉 田先生たちは閉口していたようだ。
24/13:24:50 米軍の水陸両用戦車の真向かいが収容所跡 今も鉄柵が残っている 船坂氏はここでペリリューの戦いの音を聞いていた
戦後、右翼団体でもある清流社が建立したものだそうだ。神社建立にあたり地元との話では「納骨堂の建設」「宿泊施設の建設(島の観光 産業振興)」も条件になっているが、まだ建設に至っていない。 神社は1982年創建当時木造だったが、白蟻などの被害で現在の石造りとなったようだ。
24/13:34:12 日本政府ではなく一右翼団体が建立した
24/13:37:06 米太平洋艦隊司令長官 ニミッツ提督の言葉↓ 『諸国から訪れる旅人達よ この島を守るために日本軍人が いかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ』
24/13:37:06 米軍慰霊碑 ペリリュー神社と対面するかのように立っている アメリカ人の関係者なのだろうか? 盾を手にして記念撮影をしていた
水戸歩兵第二連隊HP↓
(抜粋)
24/13:43:32 大山の顕彰碑
24/13:46:38 鎮魂碑
24/13:49:40 ペリリューの千羽鶴 洞窟の入口にぶら下がる この洞窟陣地が終焉の地ではない
24/13:50:04 洞窟陣地と鎮魂碑 米軍が大方埋めたそうだ まだまだ遺骨が故国に戻れず この地に眠っている
ガイドブックには「米軍が建造したペリリュー戦のモニュメント」と書かれている。 中川州男大佐も洞窟に潜みながらも時折、高台から戦況を見ていたのだろう。きっとその攻防の成り行きが手に取るように分かったのかも。 少なくとも敵が押し込んできて友軍の範囲が狭まる現実は日毎感じたに違いない。音も含めて。 この激戦孤島の島に、まだまだ幾多の遺骨が眠っている。それだけではなく日本人の多くがまだこの地の存在すら知らず、無論、ここで何 があったのかも一部の者しか知らない。それではこの地で国の為に戦い死んでいった者はいつまで経っても報われないだろう。 当時の誰もが国を信じ、同胞を信じ、後に続く者を信じ、過酷な戦いにのぞんだはずだ。「散る桜 残る桜も散る桜」誰もがその覚悟で命 を投げ出した。そんな数多くの英霊の魂が今もこの地の洞窟深く眠っている。そして、そんな同胞たちの死の上に今の日本がある。 英霊に謝罪しご冥福を祈る。
24/13:54:02 115段の階段 木造テラスの展望台に
24/13:54:44 残念ながらどっちの方向を写したのか不明 只、ジャングルのみ
24/13:54:48 拡大写真で見れば遠くにアンガウル島が・・・。
24/13:54:54 上の写真の「0.06秒」後にシャッターを押す どっちを向いたのだろうか?
24/13:55:12 展望台から周囲を眺めたら どこも、こんな感じ
24/13:56:50 我ペリリュー展望台に立つ
24/13:56:10 米軍モニュメント 『LES’T WE FORGET THOSE WHO DIED』 我々はこの地で亡くなった兵士を忘れない 323 IN FANTRAY(インディアナ) U S ARMY(アメリカ軍) アメリカ陸軍第323連隊
最後の拠点となった大山の連隊本部壕跡を後にして、直に北波止場に戻ることになった。
14時10分:門柱があった 戦跡は昨日のように生々しく残っているが、焼け尽くしたあとのペリリューは北地区の一部を除きジャングルと化した。ダイビングやその 他のマリンスポーツ、レジャーの島として観光客、そして戦跡を訪ねての日米両国の人たちが訪れる島となっている。 1946年、昭和21年のペリリュー島の航空写真では、島全体が活用され米軍関係者も多数居住していたように思う。
24/14:10:28 門柱が残っている 何の跡なのか?ガイドの説明を忘れる
ペリリューの「肝っ玉母さん」とも言われる民宿の主人がマユミさんのようだ。ガイドが「父親が日本人」とか言っていた。マユミさんが おられたので、「お父さんが日本人?」と唐突に質問したら頷いてくれたけど言葉はなかった。 店?の中には写真、他、いろんな展示がしてあった。慰霊団一行の方が宿泊したり休憩したりするところでもあるのだろう。
24/14:18:02 マユミ・イン 日系おかみさん経営の民宿
24/14:19:28 日章旗の真ん中に「南無妙法蓮華経」とある 御遺族が慰霊に来た時のものだろう 平成五年十一月十三日と書いてある
今朝の10時15分に波止場に着き、4時間15分ほどの滞在で戦跡を駆け足で巡り、早くも去る。ツアーだから致し方ないが、やはり巡 った戦跡の互いの位置関係もあんまり分からないままである。全体像が掴めない。 点と点を繋ぎ次々と遺跡に到着しても、さっき訪ねた遺跡の方角も分からないままだ。「ペリリューの戦跡は一日で見れない」というのが 良く分かった。13kuの小さい島なら歩いて回りたい気分だ。仕方がないけど。 でもツアーだからこそ短い時間で要所を回ることが出来た。将来、再度この地を訪れることが出来たらその時はゆっくりと歩きたい。戦跡 巡りルートも整備され、ペリリューの戦史もより正しいものに成って行くだろう。 倉田先生がそういったパラオの戦跡、戦史などを集大成して本を出すようなことを言っておられた。それに大いに期待したい。そうでない と今は考証も錯綜し、当時の真実が正しく後世に伝えられない可能性が大である。 博物館が当時何の建物だったのか?それだけでも今はいろんな風に言われている。「天皇の島」とも言われるペリリュー島。日本統治時代、 そして終戦に至る歴史を正しく後世に残すことは何よりも大切なことである。 感傷に耽るまもなくボートに乗り込みペリリューをあとにした。波止場にいた人に手を振ると向こうも手を振って答えてくれる。日本の離 島でも同じ様な光景はあるのかもしれないが、ペリリューではなんともそれが自然である。南洋ならなのか・・・。 すぐ隣のガドブス島(ゲドブス)には、このガルゴル波止場から桟橋が繋がっていたのだろう。 サラバ、ペリリュー又、来る日まで・・・。 離れ行くペリリューの全景を振り返り見ながら、名残は尽きぬがボートは波を蹴立てて快走する。好天とは言えない空だったが、島巡りの 最中は一度も雨に降られず幸いだった。 コロールへ戻る途中、激しいスコールに遭遇したが、それもよし。 この海を飯田部隊は大発に乗ってペリリューに向かい、ペリリューから奈良少尉以下15名が飯田少佐の命を受けてコロールに泳いで報告 に戻り、無線連絡が不能になったアンガウルからも戦況報告の為に金城二等兵が10月1日に泳いでコロール本島に向かい12日に無事に 着いている。 その海をボートは快走した
24/14:31:00 ペリリュー戦跡巡りツアーご一行様 それぞれにそれぞれの想いを胸に秘め
24/14:33:34 バイバイと互いに手を振り別れを告げる 故国に帰る日を待つ遺骨を置き去り
24/14:34:10 サラバ、さらば、ペリリューよ
24/15:06:28 うん?ん、何か意味ありげな島の形 きっとなにがしかのなまえがついているのだろう わからんからおれがつけてやろう ふたこぶカメ・・・とな、いや、らくだ亀とでも
パラオの最高級ホテルであるアラカベサン島のパシフィック・リゾートホテルの桟橋に着いた。ここで父娘と一組の夫婦が降りた。
15時57分:マラカル島のRITCの拠点に戻る マラカル、アラカベサンにはダイビングショップやマリーンスポーツを扱うこういった業者がひしめき合う様にオープンしている。そこに 働く日本人スタッフも多いし、又、求人もある。それだけ日本からの観光客が多いのだろう。 最近は韓国のこういった業者も出来たようだ。
24/15:46:52 パシフィック・リゾートホテルの桟橋 二組4人が下船する 私の泊まるホテルとは違う 何が違うのかって?一泊の値段が
24/15:56:38 マラカル島のRITCの拠点に戻る ここから車でホテルまで送ってもらい終了する バレンシアホテルが先で最後にココロホテル 値段が安いのが最後になった
ホントに感激、感動のツアーだった。この旅を思いついた時はペリリューで宿泊して、ゆっくり歩きながら往時を偲びたいと思っていたが それはならなかった。ペリリュー、アンガウルへのアクセスはここに来ても分からない。初めての旅行者が気軽に予定を組むのは無理だと いうことは分かる。 しかしある程度、日程に余裕があれば十分可能だと言うことは分かった。往復の航空券があれば、まずコロールで一泊し、ペリリュー行き の定期船か、若しくはペリリューのホテルが¥80ドルくらいで送迎しているところもあるようだし・・・。 そして戦跡ツアーもペリリューの業者も行っており、ペリリュー滞在なら¥30ドルくらいで内容は同じで回れる。一度ツアーで回ってあ る程度、島の全容を把握してから、次の日から自分ひとりで自転車で巡ればいい。そんなに高低差もないし、大きさから言っても、自分の 足で歩きたい島である。アンガウルもそうだ。 ■16時45分:海軍墓地へ行く ホテルに戻って休憩したはずだが、30分後にはデジカメ時計によれば海軍墓地に立っていた。昨日、パラオ戦跡巡りの最初が倉田先生と 一緒に来たこの場所だった。 もう一度ゆっくりと墓地に佇み、風景を見た。北、すなわち日本を向いて多くの慰霊碑は立っている。前方を見れば海を挟んでバベルダオ ブの西方の島影と重なり湾のように見えるが、そのずっとずっ〜と向こうに日本がある。 改めて写真を撮り狭い墓地を散策する。
24/16:45:46 この碑は誰かがどこからか持って来て 最近まで、この墓苑に転がっていたのに 誰かがこのように立てたとのことだった 倉田先生(談)
24/16:48:44 墓地:最上部を写す 上部に慰霊碑が並んでいる
24/16:49:48 墓地最上部からバベルダオブ島越しに日本を望む
24/15:56:38 並ぶ慰霊碑 我々日本国民は皆さんのことを永久に忘れない
24/16:54:04 墓地を写す
パラオには国道1号線はあっても2号線はないらしい。このコロールのメーンストリートを挟んでダウンタウンと言われる一角が中心なの だろう。朝夕には車も渋滞している。道路は今も工事中で日本のODAなのか?西松建設が請け負ってやっているようだ。事務所もあった。 WCTCショッピングセンターを目指して歩く。すぐ手前に「矢野」「ヤノズ」という日本で言う惣菜屋さんのような店があったが、中に 入ってビックリした。巻き寿司も炊き込みご飯も、イナリも、ここには日本と変わらぬ食生活があるのか? 日本統治時代から1945年8月以後実質的に米国の統治に移行し、1994年独立を果たした。独立後まだ14年の若い国だ。 1920年〜1945年、25年間の日本統治。その後、2008年現在までにすでに63年が経つ。その間、米国の影響頗る大というの は当然のことながら、未だに日本文化の影響が大きいことに驚く。 そしてガイドブックにはパラオ最大のショッピングセンターと紹介されているWCTCに入った。スーパーのようで、その他にも各種専門 店が入っている。ここのスーパーの棚を見ても驚く。 日本の商品ばかりと言っても過言でないくらい、「子持ちシシャモ」「塩サバ」「各種調味料」「そば」「ソウメン」「森永のビスコ」・ ・・みんな日本から輸入されたものばかり。包装も商品名も無論みんな日本語である。 「ふ〜ん、こんなんばかり見てたら日本語も覚えそう」と思うくらい日本の商品が棚を占めていた。値段も塩サバの切り身が1枚2ドル¥ 200円とは日本より若干高いかも・・・。 パラオ、コロールを知らない日本人は多いが、パラオ人で日本を知らない者は皆無だと確信する。関空から直行便で4時間で着く。常夏の 国がパラオ共和国だ。
24/16:45:46 マーケットには ししやも、塩サバ、その他、ズラ〜と日本のままが並んでます 日本語に馴染んでしまうぞ
24/17:26:28 うどん、ソウメン、ザル蕎麦 別に日本食品コーナーではありませんが それに今は日本統治ではありませんが
海軍墓地はココロホテルより東にある、そこかから又ホテルを通り過ぎて西に歩いてダウンタウンに行き、又、東に戻って来る。そして夕 方になって中国飯店に入って椅子に坐るまでの時間が、たったの1時間か。ウロウロしたつもりでも時間はそれほど経過していない。 店の駐車場に車はなし、店に入ったら客ではない三人がテーブルを囲んで早い夕ご飯を食っていた。とりあえず坐る。メニューを見たら日 本語で書かれていた。もうすでに名前を忘れたが“海鮮ラーメン”のような物を頼んだ。 頼んでから忘れた頃にやっとラーメンは出てきた。店主は台湾人で、料理人は大連からの出稼ぎだった。こんな南洋にも中国人は働きに来 る。もう一人の女性従業員も中国から来ていた。給料幾らもらっているのかなあ?? 今日のガイドにパラオ人の平均給与は幾らぐらい?って質問したら、彼は「例えば、このバスの運転をしている男で月600ドルくらいで す」と言っていた。今は円高なので日本円で6万ほどか・・。1ドル120円としても¥72,000円ほどの給料だ。物価は安くない。 男は東北出身、7人兄弟、両親はすでに死んで嫁と子供を置いて出稼ぎに来ている。店主の前で私に「味はどう?」と聞いてきたからホン トは味が薄す過ぎて今一だったが、「好吃:うまい」と返事したら満面笑顔になった。愛想の良い30代後半くらいの男だった。 従業員の二人と結構話をしたが、店主は一度も声を発しなかった。
24/17:57:12 客は今のところ私一人 注文し、待って、食って出るまで私一人 その後のことは知りませんが
24/18:11:46 海鮮ラーメンなるものを食す ちょっと薄すぎるんちゃう そんな味でしたが、濃過ぎるより良し
充実の一日は終わった。充実感を感じた内容のある戦跡巡りだった。その一番の要因は戦跡が想像以上にリアルであったからだろう。零戦 も戦車も大砲も残骸となり錆び朽ちかけてはいるが、時を経ながらも戦場にそのままある。 そして周囲の景色もそうだ。人気が無くジャングルに覆われ、今、どこから日本軍兵士が銃を担いで現れても不思議ではない雰囲気があっ た。 洞窟陣地もそうだ。ビール瓶が散乱し、その他の身の回りの物も転がっている。時が止まり、静寂もある。幽霊ではないが国に帰れぬ魂が 徘徊していてもおかしくはない。あ〜我、58歳になるまでペリリューを知らず、アンガウルも知らず。 と、いうことは日本人として知らなければならないのに、まだまだ知らないことが山ほどあるのだろう。出来るだけ知りたい、知らなけれ ばならない・・・。少しでも多くのことを。それこそが戦い亡くなった英霊の供養の一歩であり、残された子孫の責務だと信じる。 明日はパラオをまわる
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