目次 旅行記 安保


ペリリュー戦跡を訪ねて


コロール島・アラカベサン島・マラカル島・ペリリュー島・バベルダオブ島

2008:平成20年10月22日(水)〜10月27日(月)

5泊6日

10月23日(木)晴れ時々雨

2日目:パラオ・コロール島にて


2008.平成20年10月23日(木)

■午前0:40分、パラオ国際空港・到着

機内で映画を見ていた。映画「12人の怒れる男」、一見の価値はある、ホント面白かった。日本映画もこれくらいの映画を作って欲しい。

残念ながら最後まで見れないまま定刻より20分早く着いた。「当地の天候は晴れ」というアナウンスに驚き喜ぶ。

1時過ぎには迎えの人にも出会え空港外に出ていた。バスが迎えに来ていて9人くらいが乗って行くとのこと。暑いのは暑いけど、そんな に暑くも無く蒸し暑さも感じなかった。

1時53分、ホテルの部屋にて
9人のうち三人がココロホテルで降りた。私とあとは女性が二人、二人とも一人旅のようで一人は20代前半、もう一人は私より若いけど そこそこの年配の女性だった。

ココロホテルは日本人が利用する中では下のランクのようだ。フロントの女性は日本人女性、40代くらいだと思う。経営者も日本人との こと。真っ暗で周囲も見えず、あと数時間後には夜が明ける。



23/0:50:12

パラオ空港着

我パラオに来る。そんなに暑さは感じず

ローカル空港の如く




23/0:52:02

入国審査

親日国家の雰囲気は感じる

客が全部?日本人だからかも・・・。




23/1:08:56

預けた荷物はなく、出るのは早い

ホテルまでの送迎を待つ




23/1:47:46

ココロホテル着

私を含めて三人、いずれも一人旅

二人は若い女性と、私と同世代?の女性

同じツアーなのか?帰国も一緒だった



■7時12分:晴れ

一体日本で見て心配した天気予報は何だったのか?
今は雨期の終盤で、毎日一回は雨が降るようだけど青空も結構広がるようだ。窓の外には南洋の海と青空が広がっていた。

朝食付きなので4階の食堂に上がって行った。フロントも4階で、部屋は2,3階だけのようである。朝食は和食で味噌汁も違和感がない。 倉田先生の所には「9時半ごろ電話します」とメールに書いたので、朝食後、早速附近の散歩に出掛けた。



23/7:20:14

4階レストランから窓の外を写す

四日間この席で朝飯を食う

雨、雨、雨の天気予報もこの通り?

南国だ・・・。




23/7:20:30

ココロホテル・レストラン

真正面がロビー

右側にフロント、左側にパソコン

経営者は日本人、マネージャーも日本人




23/7:20:36

宿泊客以外の客はいなかった

宿泊客も朝食時に見かけるだけだった




23/7:22:12

朝食

四日間ともメニューは違い

味にも文句はなく

女性マネジャー以外のスタッフは

見たのは、みんなパラオ女性



■朝の散歩

窓からの景色も外に出ても南洋の植物がそこらじゅうに茂っている。車は右側通行だが、走っているのはほとんど日本の中古車なのでハ ンドルはそのままの右ハンドルである。メーンの国道一号線にはないが、その他の道路には所々に段差をわざと作ってあり、その手前で車 は速度を落とす。

今、コロールの中心部を走る国道1号線(2号線はないようだけど)は、日本の西松建設が請け負って整備中であった。「道が良くなると 交通事故が増える」(倉田先生談)・・・“でこぼこ”していてゆっくりの方が良いのかも。

ココロホテルを南に歩くと直に国道1号線に出る。8時前の国道西行きは中心部に向っての渋滞なのか?トロトロの車の行列だった。その 横を西に向って歩いた。

一応目的地はアサヒ・フィールド(野球場)裏側にある戦車の残骸を見つけに・・・。パレイシア・ホテルの前を通り過ぎ、WCTCショ ッピングセンター前を通り、少し歩くと左手前方にアサヒ・フィールドらしきものが見えた。

消防署・警察の奥にある、しかし、その時は残念ながら戦車を見つけることが出来ず。一応そこらを散歩しパラオの雰囲気を味わった。そ してホテルに戻ろうと歩き出したら、さっきまで青空が広がっていたのに、いつの間にか曇が空を覆いすぐに雨が降ってきた。

結構土砂降りになり傘を持たずに来たので軒下で雨宿りをした。パラオの若者4人くらいも同じ場所で雨宿り、時間を聞かれた、英語で。 彼らは葉っぱを噛んでいた。ビンロージュってやつで口は真っ赤になってます、不気味ですが。



23/7:40:54

ホテル玄関正面の景色

ココロホテルはビジネスホテルのようなもの

もともとこのホテルは

日本の遺族関係者の宿泊用にと寄金で建てられた




23/7:41:04

玄関から右手(北)の方向を写す

右方向には行っていない

何があるのだろう?今も知らず




23/7:41:08

玄関から左方向(南)を写す

この先に1号線が東西に伸びている

いつもこっち方向に歩いて散歩に出て行った




コロール島

ココロホテルからアサヒ・フィールドまで歩く

WCTC附近がパラオのダウンタウン

地図の上が北、すなわち日本の方向




23/7:42:58

コロール島、1号線を西に歩く

朝夕は一応渋滞があるようだ

何もまだ分からないパラオを歩く

「地球の歩き方」の地図を参考に

青空が広がっていて気分良く歩く




23/8:01:34

WCTCも行き過ぎて、アサヒ・フィールド近くまで来る

南国の樹木

陰が出来て自然のパラソルの如し




23/8:02:32

消防署と警察者が隣同士にあった

パラオ共和国といっても総面積は

488平方キロメートル(屋久島とほぼ同じ)

人口2万弱




23/8:06:22

球場横のアバイ:集会所

朝からみんなが集まって世間話でも




23/8:11:08

アサヒ・フィールド(野球場)

パラオでは野球が結構盛んなようだ

そこらで野球をしてるのを見たことはないけど




23/8:17:58

1号線沿いにあった看板

日本の無償援助で1号線の補修がされているようだ

西松建設が請け負っている

まことに小さな国だが、国連の一票の権利を有す




23/8:35:02

ホテルに戻る途中、雨が降って来た

雨宿りをする。車はみんな日本車だ

さっきまでの青空が

今はこの通りの空の色

天気予報なんて意味ないのかも




23/8:40:08

雨宿り場所から西方向を写す

やや青空になってきた

ボチボチ、ホテルに向う




23/8:50:22

1号線を北に曲がると直にホテルがある

右前方の赤い建物がココロホテル

この曲がり角のコンビにで毎日水やジュースを買っていた




23/8:51:28

ココロ・ホテル

日本パラオ友好団体協議会との柱が建つ

ホテル建設当時、遺族関係者の寄付を集めたようだ

経営者はその後変わったそうで・・・。



■倉田先生宅へ

9時前にホテルに戻り、約束の時間より早いけど倉田先生宅に電話を掛けた。娘さんが出て、「事務所に行く途中ホテルに寄って、一緒に と思っているのですが、それともそこから自宅はすぐですので来られますか?」と聞かれたので「それなら今から歩いて行きますので・・」 と答え、資料と土産を入れた小さなリックを背負い、すぐに出発した。

ホテルから歩いて10分ほどで着いた。というより家から出て、私が向う方角に迎えに出てくださっていた。遠目で見てすぐに分かった。 杖を突いておられるけどまだまだお元気な様子が分かる。

最初に一言「そんな歩き方はここでは駄目ですよ・・・」と冗談で言われた。せかせか歩いて来る日本人は遠くてもすぐにバレルのだろう。 自宅に行かず、そのまま歩きながら話をし、いろいろ植物や近辺の風景についての解説して下さった。

とても覚えられないので先生に了解を得てICレコーダー録音した。

向こうから歩いてきた現地の人、二人(男性)が先生を見かけ、行き違いに「おはようございます」と挨拶をしてくる。そして途中、道沿 いにコンクリートの日本軍陣地跡があった。敵がやってる来るであろうアラカベサンの方向に向って作ってある、此処にも日本軍兵士6〜 7人ぐらいが埋まっているということだった。

その向こうには家の前の休憩所で朝から一家ご近所団欒の風景があった。近づくと一人の“おばあさん”が私たちに向かって「おはようご ざいます」と日本語で声を掛けて来た。

その挨拶に答えて「おはようございます」と言うと、「あなたの名前はなんていうの?」と質問された。名前を言うと、お婆さんは奇麗な 日本語で私の名前を復唱していた。

そのおばあさんは80歳でしばらく坐って話をした。「天皇陛下の赤子」「三等国民」「日本人はずるい」などなど流暢な日本語と思いが けない言葉に日本統治の現実が実感できた出会いであった。

その後も附近を散歩しながら植物の名前やいろんなガイドをしてもらった。帰国後録音を聞きながら思い出し、まとめないととても記憶の 片隅にも残らない量である。

そして南洋の植物、花と緑に囲まれた自宅へとお邪魔し、娘さんであるEさんの出迎えを受け応接間で又一時話を伺った。お茶にお菓子を 頂き、果物も出してもらって、しばしの時間が経った。



倉田先生:散歩しながら:No1



23/9:21:42

真ん中への道が先生宅へと続く

穴ぼこだらけの道だが

舗装してあるだけでも上等だ

周囲は南洋の植物に溢れている




23/9:26:04

ジャングルの中に家があるっていう感じ

高床式で、休憩所があって

家の周囲には果実のなる木々が揃っている




23/9:30:02

見難いけど日本軍のトーチカ跡

この辺の陣地跡にも日本軍兵士が埋まったままだそうだ

こんな道沿いの土手にもコンクリートの陣地が構築されていた

米軍の上陸は無かったが、空爆は激しかったようだ




23/9:33:14

私に「あなたの名前は?」と声を掛けて来たオバアチャン

80歳の彼女の話す日本語は達者だった

5年生まで日本人として教育を受けたそうだ

「日本人はずるい」というその顔には笑みが浮かんでいた

日本統治のパラオの現実に出会う




23/9:36:36

今日は木曜日だけど、おっちゃんも休憩してる

仕事はないのだろうか?




23/9:36:42

パラオの人もみんな太っている

太りすぎちゃう?俺は今減量中やのに

減量中の俺って、ここでは間抜けのよう

米国当地以後に太りだす、援助は人を太らす?

昔はこうではなかったようですが



倉田先生:散歩中:No2






23/9:40:06

おばあちゃんと別れ、なお南に歩く

パラオ松島の方向へと




23/9:41:48

この部落の集会所、現代的なアバイ

この先が下り坂で海へと続く

どことも以前は海が玄関だったが

車社会になり今では昔の玄関はすっかり寂れている




23/9:54:58

周囲を散歩の後、倉田家に戻る

四日前に日本から帰国したら、庭はジャングルに戻る

南洋で暮らすのも大変だ



倉田先生:自宅にて:No3



■海軍墓地へ行く

そして、車で事務所まで送って下さるEさんの(娘さん)の支度が出来たようで、出発することになった。事務所に行く前にまず、倉田先生 宅のすぐ近くにある海軍墓地に案内して頂いた。

北に向って下り坂の左側が墓地であった。墓地も道と同じく勾配があり段々になっている。この墓地だけではなく、その後に巡った慰霊碑 も大概が北、すなわち日本の方向を向いて建てられている。異国にあれば生きていようが骨になろうが故国は想うだけで、誰もがその程度 の差こそあれ「万感胸迫り恋しい・・・」が当然だろう。

広大とは言えないが、この墓地にパラオの日本人の歴史が凝縮されている。自らの意思でこの地に来て亡くなった方も、軍人として国の為 に戦地に赴き若き生涯を終えた者も、この広くはないが日本を向いた傾斜地に静かに眠っている。

倉田先生に教えられてまだ読んでいなかった本を帰国後にアマゾンで購入し読んだ。それは「ベラウの生と死」澤地久枝(著)の本。

戦争、負け戦の裏側の真実を水戸歩兵59連隊の書記として終戦を迎えた陸軍曹長:巣山隆男の記した「恩賞に関する綴」を元に書いてい る。記録によれば歩兵59連隊のパラオでの死者の89.5%が病死とある。

米軍上陸のなかったパラオ本島の戦没者は4,838人。
(生還24,897人)

倉田先生が口にした「日本軍はひどいですよ」「日本軍は世界で一番ひどい軍隊じゃあないですか」と、私がその時聞いて一体何のことな のか?

「世界で一番ひどい軍隊?」の真意が分からず衝撃を受けたことの中味はこのことだったのかと、帰国後にこの本を読み思ったことである。

現地召集でアンガウルで玉砕戦を戦い抜いた兵士の率直な感想だろう。「弾無く、食い物無く、玉砕も許されず、陸の孤島で戦い続けろ」 そんな命令とも言えぬ命を下す日本軍。孤独に戦場をさまよった20歳の若者なら誰しもそう思って当然だろう。

そんな惨劇のあったはずのパラオの歩兵第59連隊だが終戦後の昭和21年2月17日朝、浦賀、馬堀海岸に上陸してからも部隊として階 級証を付けたまま軍律を保ち堂々たる行動であった。そして、行幸された天皇陛下をお迎えし陛下からお言葉を賜ったそうだ。その記念の 碑も海軍墓地の一角に、まだ新しい碑として建っていた。



倉田先生:海軍墓地にて:No4




以下↓:「メロウ伝承館」参照

パラウ:歩兵第五十九聯隊の復員

昭和二十一年二月十七日朝、水平線上に富士山を見る。

全員甲板に立ち、誠に感無量なるものがあった。夕刻無事馬堀海岸に上陸、直ちに兵舎に入ったが、復員局の連中にしてみれば、全員階級 章を付けたままであったので、まず驚いたらしい。すぐにも階級章を取るよう指示して来たが、復員手続が終わって、この兵舎を出るまで は部隊を解散したわけではなく、その日まではあくまでも軍隊である、との信念でその指示を拒否したのである。

いままでPWの服を着けた復員部隊の多い中で、大変奇異に感じたものらしい。予てこのような状態も予測していたので、準備していた週番 肩章《しゅうばんけんしょう》とラッパを持ち出し、平時の軍隊生活のまま起床、点呼、消灯などラッパをもって規制し、週番士官を置い て内務の責任を取らせたのである。

しかも夜は軍歌演習を行い、営庭の中を隊伍堂々《たいごどうどう》と行進して士気の高揚を図り、最後の日本陸軍への別れを告げたので ある。当初は、この歩五九将兵の態度に対して内地の状況も知らない生意気者と思っていた復貞局の人々もその気持ちが分かると共に、驚 異と尊敬の念をもって見るに至り、上陸後三日目に解散の規定にも拘わらず、陛下の行幸まで是非残られたしとの依頼により、解散を延期 して二十一日に天皇陛下をお迎えすることになったのである。

後で聞くところによると、これが戦後初めての行幸であり、歩五九将兵の前に立たせられ、何くれとなく親しく御下問になったのである。 また、陛下の御下問に対する江口聯隊長の烈々たる答申ぶりは見事と言うほか形容のしようのないものであった。かくて、翌二十二日朝、 解散式を行い、ここに歩兵第五十九聯隊の歴史は完全に幕を閉じたのである



23/10:56:18

1996年10月吉日建立

この碑に上記のことが書かれている








24/16:45:46/24.撮影

先生曰く

この海軍の碑はどこからかここに持って来たもので

最近までここに転がっていたのに

誰かがこうやって固定したようだ




23/10:45:14

日本軍慰霊碑から北方向を写す

こっちが日本




23/10:45:46

誰かがこの慰霊碑をこすったようで

それを見入る倉田先生

それぞれの慰霊碑・墓標についても教えて頂いた




23/10:55:26

海軍墓地ともひとまずサラバ

翌日、24日ペリリュー戦跡巡り後

一人で再訪する




倉田先生:事務所にて:No5



■事務所にて:11時05分

20分ほど墓地を散策し、先生の事務所に向った。国道1号線から西に向って左折し、道なりに右に曲がったところに事務所はあった。こ こで一日の大半を過ごし泊まることも多いと言われていた。

事務所の書棚には一杯の書籍や資料が積み重なっていた。ここで私の持って来た資料をテーブルに置き、いろんな質問をしながら貴重なお 話を伺った。当地で元兵士である方の話を聞けるのは、旅冥利ににつきる。

お昼にはEさんお手製のいなり寿司をご馳走になり、私は多分初めてだと思う「ミクロネシアのドリアン」も先生自らが皮をむいて下さり 頂いた。桃の食感でジューシーで甘く、これはホンマ旨かった。これは木から落ちないと食べれないそうだ。

木の上にある時はまだ青酸カリを含んでいて食べられないとのこと・・・。成るほど熟して落ちてこそ食える果物なのか。だからこそ「果 物の王様」という別名がある。

「ゆっくりと写真や資料を見て行けば」と言って頂いたけど、その時はもう十二分に満足しお暇することにした。今から思えばお言葉に甘 えて、沢山の写真や資料をもっともっと見せてもらっておけば良かったと思う。

きっと先生の事務所の書棚は宝の山だったのに・・・。
残念無念、後の祭りとはこのことなり。

そして近くに、観光ガイドにはないけど素晴らしいアバイがあるので見て行くようにと案内してもらった。

そして25日に、私がレンタカーを借りて島巡りをするなら、先生も用事がなければ「ペリリューの感想も聞きたいし、案内しよう」と言 ってもらい、再度連絡する約束をしてお別れした。




23/12:42:10

事務所の書斎には資料、その他

うず高く積まれていた

お言葉に甘えてもっとゆっくり見せてもらっておけば・・・と

今頃になって悔やんでいる




23/12:56:54

いなり寿司も、ドリアンも

ホント美味しかったです

ありがとうございました



■アバイ(集会所)

ガイドブックにはBai・バイと書かれているが、倉田先生はアバイと言っていた。

いかにも南洋の集会所で、昔も今も酋長や部落の古老などなどを中心にして村の様々なことを相談する所に相応しい建物であり雰囲気があ る。今はコンクリート作りの新しい集会所もあるが、やはりパラオには昔のままのアバイが似合うのは当然だ。

アバイの周囲に描かれた彩色豊かな絵は、ストーリーがあり、村の歴史や子孫に伝えていかなければならない大切な伝承としての意味があ るのだろう。高床式で縦長、内部を見ても外から見ても船をイメージするかのような建物だ。

このアバイの写真を撮っている時に、8月に買ったばかりで初の海外へ携帯してきたデジカメのレンズカバーが完全に開いていないことに 気付いた。カバーがちゃんと開き切らず垂れ下がっていた。

このまま写さずにいることは無念なので、薄い金属製のカバーを引きちぎろうとした。そして上部二枚重ねの先端の一枚は引きちぎれたが、 基のがどうしてもちぎれなかった。仕方ないのでカメラを逆さまにして写し、帰国後、パソコンに取り込んで180度回転させて元の位置 という写真になった。

でもホンマ写しにくかった。このデジカメに関しては帰国後に不良品として交換してもらった。幸い今まで使っていた型は同じだが機種の 古いのを予備で持っていたので翌日からの旅は乗り切れたが、これもレンズカバーが開ききらずに陰になってしまう。これじゃあホンマに カバーは邪魔なだけだ。




23/13:38:44

先生の事務所近くにあるパラオで一番新しいアバイ

観光客も誰もいない

カメラのレンズカバーが開かず

逆さまにして撮影する




23/13:41:16

カメラが気になって

一応写す・・も

その場では集中できず

と、言うよりあまり興味もなくかも




23/13:44:28

今もアバイの創建技術は継承されている

釘は使っていない



■コロールの町を一人散策する

アバイを見て1号線を東に歩き、途中から幹線を外れてやや上りになっている南の方向に歩いた。ジャングルの中に住宅が点在しているよ うな感じで閑散としている。

雨もまた降り出し、土地勘もないまま歩いた。一応「地球の歩き方」を手にコロール島のマップを見ながらベラウ・ナショナルミュージア ムへと思ったが、目印、標識、案内も何も目につかず、1号線に戻った。

次なる目標をトヨタ・レンタカーにして歩く。その時は分からなかったが、25日に再度先生の案内でここを訪れた。

パラオ最大の港はマラカル島にあるパラオ港だが、コロール島の重要な桟橋の一つでもあるTドッグへの途中にトヨタ・レンタカーはある はずだった。

地図では1号線から東に向かって左折してすぐ右手にあるはずのレンタカーの看板がなく、更に海に向って歩けば、遠くにトヨタの看板が 見えた。てっきりそこだろうと行くとカーディーラーのようで往路は見つけることが出来なかった。

そして引返す途中に地図と同じ場所に車も何もないが、何となくここでは?と、思うような事務所がありドアを開けて入ると左手に受付の ような所があり、可愛くて愛想の良い女性が居た。「レンタカー?OK」って聞いたらそうだった。

英語?と、日本語?と身振り手振りで予約し、25日AM8時半にココロホテルに車を持って来てもらう段取りが出来た。値段は30ドル 、そして保険にも入った。9ドル、合計39ドル。ガイドブック通りの一番安い値段で良かった。予約だけで料金は当日支払いである。免 許証の確認もなにもなし・・・。

3時16分
雨でズボンがベチョベチョになった。川口支隊が堂々の行進をしたパラオの一号線をトボトボと歩いてホテルへと向う

そして、今日はさすがに疲れてホテル近くのストアーでジュースにおやつのパンを買い早々にホテルに戻った。何せ、午前2時前にホテル について寝たのか?寝てないのか?分からないまま、緊張して倉田先生宅にお邪魔し話を聞き、質問をし、充実の時を過ごしたパラオの初 日だ。




23/13:46:48

1号線を東に歩く

空模様は・・・

我、昨日の今頃、神戸の三ノ宮

そして今コロール島を歩く

これって不思議なリ




23/13:50:32

旧南洋庁支庁舎

今、パラオの最高裁判所として健在なり

地方?高裁は如何に?




日本の委任統治領当時のコロール

『ウィキペディア(Wikipedia)』↑

今より美しい町のように見えるなあ・・・。




23/13:51:50

どう見ても日本時代のものとしか思えん

パラオ高校の門になっていた

門はやたらに残っている

空爆、艦砲射撃でも門はしぶとく残る

///////////////////////////

追記(2011/H23.1.25.記)

この門は日本時代の「昌南クラブ:娯楽施設」の門

http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main02/battlefield/palaukoror/area11.html

上記Web頁に記載あり




23/13:55:42

ベラウ語は文字無く

英語でもなく

やっぱし日本語だ

ここはパラオ公園だろうか?




23/14:08:32

パラオ大統領選挙迫る

人口2万人弱、村長選挙と重みが違う

小さくとも独立国家なり

日本は米国の属国也




23/14:22:22

国道から一歩中に入ればこのような

静かだと感じた

雨が降り出し傘をさして歩く




23/14:22:34

少々の雨なら傘などささずに歩くパラオの人たち

この国に天気予報などと言うものは必要なのか?

予報官に聞いて見たい

明日の天気はどうなのか?・・・と




23/14:29:14

雑貨屋さんの店頭に

招き猫が

やっぱり買う人がいるから売っているのだろう




23/14:51:10

パラオ最大の港はマラカル島にあるパラオ港

コロール島の重要な桟橋は

このTドックとMドッグ

レンタカーを予約しにTドッグまで来た

この時は何も知らず




23/14:59:16

右手桟橋先端にプールがある

この時は何も知らず

ここから引返す

25日、先生とここに再訪する

乞うご期待




23/15:25:16

この店で毎日水とジュースを買う

パンも買ったが味は今一

ホテルまで徒歩一分



■ココロ・ホテルに戻る

ホテルに戻ったのは3時半ごろだが、昨日の夜に関空を発ち、今日はほとんど寝ていない状態で、すでに頭はボッーと、していた。

部屋に戻りウトウト仮眠しながら夜になった。

出かける元気も無く晩飯もココロホテルの4階レストランで食う。

親子丼なるものを頼んでしまったが、出てきたのはそれらしき物であっても味がどうしようもない。量は十分だが・・・。しかれど食う。

部屋に戻り、しばらくしてからこのホテル内に日本語ソフト搭載のパソコンが使えるとガイドブックにあったので、無事に着いたことをメ ールでもしようと4階に行った。

経営者は日本人。そして女性日本人マネージャーがいて夕方から彼女がフロントにいつもいた。パソコン使用を頼むと15分:2ドルとい うことで、聞いた瞬間は「えっ、たった15分で?」えらい高いなあ〜と、その時は思ったけど、パラオのインターネット状況を聞いて値 段の高さも頷けた。

それに私のauの携帯は、海外旅行の為に今年買い換えた「W62S」で世界180ヶ国使え、実はパラオでも使えるのだが、料金がとん でもなく高い。パラオ国内¥480/分 日本へ¥880/分 着信¥560/分、パラオ国内でも一分間:480円などと法外に高い。

ニューカレドニアでの国内¥80と比較してその高さが異常なのが分かる。中国¥70。中国から日本¥175/分である。その上、メー ルはパラオは送受信が無理。

こんな国なのでインターネットの高いのも無理ないかも。それにダイヤルアップで繋がるのが無茶苦茶遅い。日本の女性マネージャーがイ ンターネットに繋ごうとしても中々繋がらず、何分待ったのか分からないくらいの“やっとこさ”であった。

こんな遅い環境でWeb頁を見る気もせず、早くHotメールだけを送ろうと思ったが、15分間で家内に「元気で楽しんでいる、じゃあ 時間がない。インターネット高いから」という一通がかろうじて送信できた。それだけでもギリギリで。

その後はNHKの衛星放送を見、又、蚊取り線香を付けて寝る。明日のペリリュー遺跡巡りこがこん回の旅のメーンでもある。




23/18:14:38

ココロ・ホテル:レストラン

親子丼を注文す:7ドル

量は多かったけど、不味かった




倉田先生との会話集


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