目次 旅行記 安保


ペリリュー戦跡を訪ねて


コロール島・アラカベサン島・マラカル島・ペリリュー島・バベルダオブ島

2008:平成20年10月22日(水)〜10月27日(月)

5泊6日

番外編


@:倉田洋二先生に関するWeb頁の紹介

A:玉砕戦に生きた兵士 ( 倉田 洋二 )・1

B:玉砕戦に生きた兵士 ( 倉田 洋二 )・2

C:玉砕戦に生きた兵士 ( 倉田 洋二 )・3

D:ニミッツ提督について

E:「ねずきちの ひとりごと」全文転載

F:「激戦のペリリュー島」:Uチューブ

G:「さぁぷらす研究室・パラオ編」

H:パラオの日本戦没者慰霊碑移設/2011/1/4/産経新聞




日本統治時代のコロールの町







倉田洋二先生に関するWeb頁の紹介

「メロウ伝承館」
玉砕戦に生きた兵士 ( 倉田 洋二 )

http://kousei.s40.xrea.com/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?forum=13&topic_id=826&post_id=3579




YOKOのパラオニュース21

パラオに住む現在80歳の生物学者倉田先生はパラオの生き字引。

http://it-net.ddo.jp/2/yoko-news/21/




OWSパラオ (パラオフィールドオフィス) 

副会長 倉田洋二 元小笠原水産センター所長

http://www.ows-npo.org










「メロウ伝承館」より転載

玉砕戦に生きた兵士 ( 倉田 洋二 )


五十九年前、パラオ諸島アンガウル島を守備していた日本軍一、二〇〇名が米陸軍第七七師団二万人と激戦し一カ月後に玉砕した。日本軍 は昭和十九年十二月三十一日全員戦死と発表され、日本の留守家族には死亡通知書(戦時公報)が届けられた、「戦死確認セラレ候」とさ れた一兵士の記録である。

私は孤島アンガウル島で今、過去の記憶を想い出してペンを進めている。

現地召集、初年兵教育、激戦

五十九年前「陛下(昭和天皇)の為、日本の為に太平洋の防波堤になります」と遺書を書いて祖国に帰る引揚者に託したのは、ついこの間 のことの様である。

パラオで現地召集されてから宇都宮の五九連隊に配属され、三ヶ月の初年兵教育、四七ミリ連射砲による対戦車射撃訓練、対戦車壕、タコ 壷(個人掩待壕)堀り等連日の猛暑の中での訓練を積み、昭和一九年九月一七日に空爆、艦砲射撃後に上陸してきた米陸軍第七七師団二万 名を迎撃した。

後藤大隊長以下ニ、一〇〇余名の一員として見事に訓練の成果を開花させた。不運にも日本軍の無線機の故障により途中から通信が途絶し たが、夜間打ち上げる照明弾によってその健闘ぶりは明らかにされた。

他、日本のゼロ式三座偵察機による夜間の偵察、アンガウル海峡を渡る決死の伝令によるパラオ本当(島)への連絡等、ペリリユウ島と共 に天皇の島としで嘉賞された。が追いつめられた戦闘は北西部の山岳戦となった。進行するM四戦車と連射砲との決戦では互角の戦闘が出 来たが砲弾欠乏の為砲を棄て山岳戦へ移行し、狙撃、手榴弾戦となったのである。

夜間は水の確保の為低地へ下らねばならず、砲爆で多くの死者を出した。 十月中旬、日本軍陣地内に打ち込まれてた迫撃砲で三名の兵が 殺傷され、筆者は左半身不随となり動けなくなった。日本軍は残存兵一五〇余名、食料、弾薬共に欠乏し後藤大隊長は最後の攻撃を開始し 玉砕した。

米軍は後藤大隊長の遺体確認をパラオ人に求め、日本軍の組織的戦闘は終結した。

筆者は左肘関節切傷、左大腿部盲カン、胸部破片創を負うが傷が内蔵に達しなかったので助かった。が一ケ月は動くことが出来ず傷の手当 に終始した。十月十八日以降出撃出来ない兵士は陣地死守、自決を命じられた。

明治節十一月三日、傷の手当をして日向ぼつこをしているところを米兵に発見された。幸いなことに米兵は日本軍の戦利品探しに来たらし く逃げ出したので私は洞窟内に逃れ潜むことが出来た。後に米軍数十名が捜索にきて、負傷し隠れていた高木上等兵が発見され手榴弾戦を して戦死した「下園、手榴弾をくれ」と絶叫した高木上等兵の声は今も忘れられない。




玉砕戦に生きた兵士 ( 倉田 洋二 )・2

投稿日時: 2008-10-6 7:50

陣地を捨て 池の丘に進出

米軍陣地が一望出来る丘の上に中山二等兵と移動し転伏したトロッコを住居にし、昼間は潜み、夜間行動で食糧確保に勉めた パパイヤの 根、オカガニ、ヤシガニ、稀に米軍食糧によって命をつないだが慢性の栄養失調になりつつあった。

遊兵と合流、アンガウル島脱出計画

正月を迎える。小指のようなサツマイモ、野鶏のスープ、ヤシガニで戦友中山と祝う。日本援軍は来ないがいつか来るだろうと祈っていた。 米軍は飛行場を完成し米軍機は西へと飛んでいく。比国攻略の為だろうと考えていた。夜間トロッコから出て米軍陣地を見ていると岩陰を 動く物体に気づいた。

日本兵以外に居ないと思い近寄るのを待って誰何する。
「照」と呼ぶと「神兵」と返事が返ってきた。友軍の木下兵長で沖縄兵二名と旧陣地内に潜んでいるという。合流して数日後、食糧難から このままアンガウル島に居れば餓死するしか無い、島を脱出して北部の無人島へ渡ろうと考えていた私は脱出計画を提案した。

しかし沖縄兵が山原(ヤンパル)出身で泳げないという。そこで一計を案じて筏を作り、つかまって足だけ泳がせペリリユー島を目指して 夕刻出発し一時間に一キロメートル泳ぐ。

十二キロを泳ぎきれば夜明け前にべリリユー島西岸に着く。後は島伝いに適当な無人島に渡ろうと計画した。北東港に近い海に入り上げ潮 に乗り北西に進んだ。やがて下げ潮にかかると逆潮によりグングン流された。必死で泳ぐが、三人を引っばつて体力のない二人の泳ぎでは 無理なことであつた。

ペリリユー島の灯が次第に遠のく。濡れた軍服が、地下足袋が重い。体力の限界を知り三時間の力泳後力尽きて西港近くに逆上陸した。

再び食料確保に出撃、二名射殺され、三名P・O・W(捕虜)に

旧陣地内に再び潜み、長期籠城に備えるべく食糧確保を考え夜間に西港へ出撃、米軍歩哨線のアンテナ(鉄篠網)に引っかかり沖縄兵二名 と中山二等兵が死亡した。倉田・木下・沖縄兵の三名が後ろから撃たれると思い観念したが撃たれなかった。

やがて米兵が集まり見せ者の屈辱。翌日米軍MPの尋問を受けた後、ペリリユー島へ渡る。P・O・W・キャンプで船坂軍曹に逢う。

ハワイへゆくと、下園二等兵、板垣兵長、田中軍曹等が先着し私達がアンガウル島で生存していたことに驚く。

米国P・O・Wキャンプへ、そして復員

  ペリリユーからヤップのウルシー、グアム、ハワイ、米大陸西岸のポートランド、サンフランシスコ、サクラメントを経てウィスコンシン 州、そしてアイオワ州のクラリンダー郊外のP・O・W・キャンプに入る。大陸横断鉄道での移動である。

やがて終戦、私は負傷者の一員として真先に日本に移送されることになり、昭和二〇年の十一月に横浜港に入り浦賀の重砲学校で復員した。

四年ぶりの祖国日本は富士山が美しかった。




玉砕戦に生きた兵士 ( 倉田 洋二 )・3

投稿日時: 2008-10-7 8:17

戦後、海洋生物学を学ぶ

東京都水産試験場の職員として働き始め、出張ということで東京深川の水産講習所で堀重蔵、妹尾秀頼教授、他の学生に混じって数々の講 座を受講した。新宿の資源科学研究所で岡田彌一郎博士等。

パラオの熱帯生物研究所の研究員であつた阿部宗明、江口元起博士他、パラオに居た加藤源治先生等からも個人的に色々ご教示いただいた。 岡田彌一郎博士の戦前パラオのタイマイ(亀)の研究は特に私の注意を引いた。

品川、お台場でマガキ養殖

堀教授からの教示により品川台場でのマガキの採苗試験に松本技師と取組み成功した。その時に浦島橋で見たアカウミガメに興味を引かれ たのを発端に東京湾、伊豆七島、小笠原のアオウミガメに目を付けた。岡田教授の指導でもある。

伊豆大島、小笠原に海亀を追って

日本沿岸のアオウミガメは小笠原から来遊すると推定し、岡田教授の指導の下で研究を続けた。世界にさきがけた小笠原のカメの人工孵化 は明治時代に島庁長官の小花作助により開始され惜しくも第二次大戦で中断していたのを小笠原返還後私は復活させた。

米国のP・O・Wとなった日本の一兵士、三十年後に米国へ

国際ウミガメ会議が米国で開催され、私は外務省より日本代表とし出席する為、バンクーバー経由でワシントン、ケネディ空港へ向った。 会場となった国務省で小笠原のアオウミガメの放流成果を発表し、世界にさきがけた人工孵化の再開は注目を浴びた。 

ゼロ戦乗りであつた東京大学の鯨博士こと西脇教授にほめられたのも嬉しかった。パラオ諸島アンガウル島で米国捕虜となった一兵士が三 十年後に米国国務省の講堂で講演をするなど夢にも考えなかった事であつた。生きていて良かつた。

再びアンガウル島に暮らす

私の海産爬虫類の研究はアオウミガメからタイマイも含め、やがて比国の絶滅危惧種ミンドロワニに及んだ。比国パラワン島に国立ワニ研 究所をJICAで建設しミンドロワニ・イリエワニの研究を開始、今も継続している。

そして今、パラオのタイマイ・イリエワニの研究を継続し、再び玉砕島アンガウル島に暮らしている。

(2003年4月) 

 ー完ー





アンガウル島



西カロリン海軍航空隊ペリリュー司令部跡






敵将:チェスター・ウィリアム・ニミッツ司令官


ペリリュー島玉砕戦:船坂弘(著)“あとがき”より以下抜粋↓

ニミッツはその戦史の中で数多い戦場の要点を回想しているが、彼が難攻不落の激戦場と最初に断定しているのは、ペリリュー島の攻防戦 だけである。この戦闘が米軍にとって、いかに不利であり悲惨であったか知ることができる。

それだけに日本軍守備隊の必死の抗戦が予想できる。それらを時の太平洋方面最高指揮官としての立場と、責任において、ニミッツは次の ような戦闘経過を記録している。

「ペリリューの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸戦にも見られない最高の損害比率(約四十パーセント の損害=米海兵師団の第一連隊を全滅させた)を出した。すでに制空権をとっていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出し て、この島を占領したことは、今もって疑問である」と。

味方の甚大な損害を率直に述べ、認めている。彼は“勝利者の強がりを抑え”“勝って兜の緒をしめよ”を知るまれに見る名将である。

文責:船坂弘:以上



チェスター・ウィリアム・ニミッツ

(Chester William Nimitz, 1885年2月24日 - 1966年2月20日)

アメリカ海軍の軍人、最終階級は元帥。

テキサス州出身。第二次世界大戦中のアメリカ太平洋艦隊司令長官

および連合軍の中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官

親日家で、東郷平八郎元帥 を尊敬していたことでも知られている。



パラオ・ペリリュー島の戦い






「ねずきちの ひとりごと」より転載


パラオ・ロックアイランド

パラオと聞けば、上の写真が有名です。観光ガイドなどでご覧になった方も多いのでは・・・。

日本からだと、成田を出て、グアム経由で、だいたい8時間くらいかかる南洋の島です。

最近の遺跡などの調査で、この島には約4000年前から人が住んでいた。

そしてパラオは、1885年にスペインの植民地となりました。

スペイン人によってもたらされた天然痘や、略奪、殺戮の結果、パラオの人口は当時90%も減少したといわれています。

1899年、スペインは、グアムを除くスペイン領ミクロネシアを450万ドルでドイツに売却します。 この中に、パラオも含まれた。

1914年に第一次世界大戦が開始されると、ドイツに対して宣戦を布告した日本が海軍を派遣し、ドイツ守備隊を降伏させてこれを占領した。

1919年、第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の“委任統治領”になります。

当時のパラオの人口(パラオ先住民の人口)は、約6000人でした。 スペインによって植民地にされる前の人口は、約6万人だったともいいますから、いかに西欧の植民地政策がすさまじいものだったかが、 推してわかろうというものです。(ちなみに2005年のパラオの人口は20,323人)

日本は、この島に南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)を置き、稲作、なす、きゅうり、さとうきび、パイナップルなど野菜や果実の 栽培を持ちこんだ。

また、缶詰やビールなどの工場を建設。道路を造り、舗装し、橋を架け、電話をひき、学校、病院をつくるなど、各種インフラの整備を行 なった。

さらに日本は、パラオの住民すべてにたいして、数種類の疾病に対する予防接種をうけさせています。



1920年代のパラオの町並み

パラオの尋常小学校では、文字をもたないパラオの人々のために、日本語教科書を用いて、日本語教育を行った。

中島敦という作家をご存知でしょうか? 
「李陵」「弟子」「名人伝」など、格調高い文芸作品を残した方ですが、彼は、このパラオ南洋庁の、国語教科書編集書記だった。彼の作った教科書で学んだパラオの老人たちは、いまでも日本語を話すことができる。 中島敦は、パラオ赴任中に有名な「山月記」を著わしています。

パラオの人々は優秀で、小学校1年生ですら掛け算九九を暗証できたといいます。

そして第二次世界大戦がはじまる。

日本は、1941年にはパラオ南部のペリリュー島に、1200M滑走路2本の、飛行場を完成させている。

パラオは、日本軍にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また日本の絶対的防衛圏上の、重要な拠点だったのです。

ところが、フィリピン奪還に総力をあげる米軍にとって、フィリピン戦の背後をとるパラオ・ペリリュー島の日本軍基地は、まさに目の上のたんこぶになった。

そこで、米軍は、アメリカ太平洋艦隊司令長官、連合軍中部太平洋方面の陸海空3軍の最高司令官であるチェスター・ニミッツ提督の指揮下、このパラオ・ペリリュー島の攻略作戦を計画する。

1943年の時点で、ペリリュー島には、899名のパラオの村人がいた。

刻一刻と迫る米軍。

村人たちは、白人統治の時代を知っています。
そして日本統治の時代も、身をもって経験している。

日本兵と仲良くなって、日本の歌を一緒に歌っていた村人は、仲間たちと話し合った。
そして村人たちは、大人も子供も、一緒になって日本軍とともに戦おう。
そう決めた彼らは、代表数人とともに、日本の守備隊長である中川州男大佐のもとを訪れます。

平素、温厚な中川隊長なら、自分たちの頼み・・・一緒に戦う・・・を聞いてくれるに違いない。

そして中川隊長に、「自分たちも一緒に戦わせてほしい」と申し出た。

それを聞いた中川隊長は、瞬間、驚くような大声をあげた。

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」

・・・・・・

驚いた。日本人は仲間だと信じていたのに、・・・みせかけだったのか。。。。

村人たちは、日本人に裏切られた思いで、みんな悔し涙を流した。

そして、日本軍が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきた。

港には、日本兵はひとりも、見送りに来ない。

村人たちは悄然として船に乗り込んだそうです。

そして、汽笛が鳴る。

船が岸辺を離れた。。。。

次の瞬間、

ペリリュー島に残る日本兵全員が、浜に走り出てきた。

そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送った。


中川州男大佐
1898年1月23日 - 1944年11月24日
享年47才

そのとき、船上にあった村人たちは、わかった。 日本の軍人さん達は、我々村人を戦火に巻き込んではいけないと配慮したのだ、と。

涙が出た。

岸辺に見える日本兵に向かって、村人たちは、号泣しながら、手を振った。

誰もが泣いた。ちぎれるほどに手を振った。

1944年9月12日、ペリリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたは切られた。

島に立てこもる日本軍10,500名。

対する米軍総員48,740名。

そして航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃を行う米軍は、すでに補給を断たれた日本軍の数百倍の火力を投下した。

最初に米軍は、は艦砲射撃と高性能焼夷弾の集中砲火を浴びせ、周囲のジャングルを完全に焼き払った。

そして9月15日、「2、3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とする第一陣、約28,000名が島に上陸した。

対する日本軍は地中深くに穴を掘り、米軍の上陸を待ち構えていた。

米軍上陸直後の水際での戦闘は凄惨を極めた。
米軍の第一次上陸部隊は大損害を蒙り、煙幕を焚いて一時退却するという場面もあったという。 この戦闘によって米軍の血で海岸が赤く染まり、現在でもこの海岸には「オレンジビーチ」の名が残っている。


オレンジビーチ


10月30日には米軍第1海兵師団が全滅。
海兵隊の司令官はこの惨状への心労から、心臓病を発病した。
この時点で3日で終わるとされた戦いは1ヶ月半も継続されていた。

しかし、日本軍には決死の逆上陸による兵力増援はあったものの補給が一切なかった。

日本軍の抵抗は次第に衰えを見せ、米軍の火炎放射器と手榴弾によって日本軍の洞窟陣地は次々と陥落。
さらに食料や水もなくなった。

11月24日、日本軍は司令部陣地の兵力弾薬も底を尽き、司令部は玉砕を決定。

中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が割腹自決。

その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵力による「万歳突撃」が行われた。

こうして11月27日、ついに米軍はペリリュー島の占領を果たすこととなる。

上陸開始から2ヵ月半が経過してのことだった。

中川隊長の異例の奮闘に対して昭和天皇より嘉賞11度、感状3度が与えられています。 また中川隊長は死後に2階級特進し陸軍中将となった。

なお、戦闘終結後も生き残りの日本兵34人が洞窟を転々として生き延びており、終戦後の1947年に米軍へ投降しています。

【ペリリュー島の戦い】

日本軍 戦死者 10,695名
     捕虜    202名

米 軍 戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名

村 人 死者     0名
     負傷者    0名

1981年、パラオ共和国が誕生したとき、パラオの人々は、独立を記念して、ペリリュー島守備隊を讃える歌をつくりました。

【ペリリュー島守備隊を讃える歌】
一 激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ浜を血で染めた
  つわものたちはみな散って
  ペ島はすべて墓(はか)となる

二 小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち
  弾射ち尽くし食糧もない

三 ヘいしは桜を叫ぴつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの”桜"に意味深し

四 日本の”桜"は春いちど
  見事に咲いて明日は散る
  ペ島の”桜"は散り散りに
  玉砕れども勲功はとこしえに

五 今もののふの姿なく
  残りし洞窟の夢の跡
  古いペ島の習慣で
  我等勇士の霊魂守る 

六 平和と自由の尊さを
  身をこなにしてこの島に
  教えて散りし"桜花"
  今では平和が甦る

七 どうぞ再びペリリューヘ
  時なしさくらの花びらは
  椰子の木陰で待ちわびし
  あつい涙がこみあげる    

1994年、パラオはアメリカから独立をはたしました。
独立にあたり国旗を制定することになり、国民の間からデザインを一般公募した結果、日の丸をもじった今のデザインが採用となりました。


パラオ共和国・国旗

周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月をあらわします。

月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。

そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。
日本に失礼だからと,わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。

お亡くなりになられた、英霊の方々に深い哀悼の意を表するとともに、深く深く感謝いたします。


「ねずきちの ひとりごと」

以上・全文転載





激戦のペリリュー島







パラオの日本戦没者慰霊碑移設

  立ち退きから再興 100人の“善意”

2011.1.4 20:42 産経新聞より転載


無事移転された慰霊碑や観音像を清掃する倉田洋二さん

パラオ・アンガウル島(釘宮敏浩さん撮影)


太平洋戦争で日本軍が玉砕したパラオのアンガウル島に立つ戦没者慰霊碑が、ホテル建設計画のため立ち退きを迫られていたが昨年、日本国内の人々の善意により無事移設された。「戦友の碑を守りたい」と奔走した玉砕戦経験者でパラオ在住の海洋生物学者、倉田洋二さん(84)は「きれいになった。皆さんに感謝したい」と、この冬、帰国して関係者らに移設の報告に回っている。

パラオは昭和20年の終戦まで31年間、日本が統治した。日米の激戦地となりアンガウル島でも日本軍の守備隊が玉砕した。戦後、倉田さんは東京都職員としてウミガメの食用研究を進め「カメ博士」と呼ばれた。平成6年、戦友の墓守をしたいとパラオへ移住した。

アンガウル島の浜辺には「戦没日本人之碑 日本国政府 内閣総理大臣 吉田茂」などと刻まれた昭和28年建立の日本国の碑など慰霊碑26基と観音像1体が太平洋かなたにある日本の方角を向いて建てられていた。ところが平成20年に地主から移転を求められ、島内で代替地を確保できたものの移設費に苦慮した。

倉田さんが同年、一時帰国して寄付を募って回ったが、戦友会は解散し、遺族の多くは亡くなって連絡が取れなくなっていた。戦友のため奔走する倉田さんの姿を本紙などが紹介したところ、3つの団体と100人を超える個人から目標の80万円を上回る約350万円が寄せられた。

当時、厚生労働省は国が建てた碑の移設費は国が負担するとしていたが、同省外事室は「倉田さん側から費用が十分集まったため負担に及ばないとの連絡があり、お任せすることにした」という。約250万円かけ平和公園を整備し、すべての碑と観音像を移した。熱帯気候で育たないソメイヨシノに代えて、真っ赤なインドザクラも約20本植えた。残金約100万円は維持管理費に充てる。

倉田さんは「新聞記事を読んで寄付してくださった方が一番多かった。本当にありがたい。だが関係者は亡くなっていき、私もこの年齢。日本の国が何とか永代供養を考えてほしい」と話している。






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