| 目次 | 旅行記 | 安保 |
2008:平成20年5月13日(火)〜5月24日(土)
11泊12日
ノモンハンへの道

2008.5.18.満洲里〜ノモンハンへ行く
満洲里→新巴爾虎右旗(西旗)→甘珠爾廟→新巴爾虎左旗(東旗:阿木古朗)
→ノモンハン村→国境監視塔→ノモンハン村→東旗→海拉爾
|
2008.平成20年5月18日(日)
■諾門罕(Nuo men han)へ行く 7時前に起きてシャワーを浴び準備をする。今日はいよいよ今回の旅行のメーンでもあるノモンハンの戦場に向かう。そこには一体どんな 風景が広がり何を感じるのだろう?旅の前からノモンハン関係の本を読み、そこから辻政信にも興味を持った。そして敗戦時の満洲の様子、 瀬島龍三や残留孤児、満洲からの苦難の引揚げ体験談の本も読んだ。 1932年:昭和7年、満洲国が建国された。そして1937年・昭和12年の盧溝橋事件、同年8月の第二次上海事変、12月南京攻略、 そして昭和14年5月、ノモンハン事件と戦争は拡大していった。ノモンハンの2年後、昭和16年に大東亜戦争が勃発、昭和20年の8 月9日ソ連の侵攻、15日の敗戦。 そこからシベリア、モンゴル抑留と中国に抑留された留用日本人、満洲からの苦難の引揚げ。残留日本人孤児。そんなドラマが満洲の各地 で起こった。 1932年の満州建国〜1945年の終戦までの13年間。刻々と変化する世界情勢とその中で苦悩し迷い決断し行動する日本の姿を以前 よりは少し理解できた。ノモンハンの戦いもそんな歴史の一こまである。その戦場を見に行く。 7時過ぎに部屋に電話がかかり、「今頃誰かな?」と思ったら成吉思だった。約束は8時半にロビーだったはずなのにと思ったら、「朝食 券二枚あるでしょう、一緒に食べましょう」ということだった。二枚の券を持って食堂に行くと、もうここにも連絡を入れているのか?姑 娘が二枚を黙って受け取った。成吉思はここの朝食が良いのを知ってるから来たのだろう。 私が食堂に入ってすぐに運転手と二人でやって来た。計3名、券は二枚だがホテルには顔が効くようでお構い無しって感じである。食べ終 わって一旦部屋に戻ってリョックを背負いこのホテルともお別れである。そして長年使い慣れ何度も海外旅行に共に行き、家でもテーブル の上で常駐し家内も私もよくお世話になった電子辞書をゴミとしてこの部屋のゴミ箱に捨てた。合掌。
因みに今日のこのホテルの宿泊費は
長年世話になった傷だらけの電子辞書 蝶番のところで断線し、万事窮す 満洲里に置いてゆく サラバ電子辞書よ、サラバ満洲里 礼を言う
この満洲里も工事だらけだった これが中国発展の証なのか? それとも崩壊への序章なのか? 100年後の当地は如何に? サラバ満洲里よ、また来るまでは
満洲里から諾門罕へ:諾門汗ではなく、当地の漢字表記は諾門罕だった。もっとも成吉思曰く「どっちでも良い、音を表すだけだの当て字 だから・・・」と言うことである。ちなみに阿木古朗(アムグロ)も阿穆古朗と書かれていることもあるが、当地では阿木古朗だった。そ してアムグロよりアムグランの方が音としては近い。 海拉爾から行くよりも距離は遠いので一日の走行距離は大分長くなるのだろう。この時の予定では、まだ当初の予定通り阿木古朗で一泊し て19日に海拉爾に行く予定だった。 でも行く途中で、成吉思の希望もあって今日の予定が変わり、満洲里〜甘珠爾廟〜阿木古朗〜諾門罕〜海拉爾となった。成吉思も漠河さん も海拉爾に住んでいるのだから、自宅で寝るのが一番良いのだろうし・・・その代わり、私の海拉爾でのホテルを少し良い所に変更すると いう条件だった。 そりゃあガイドの宿泊代として一泊50元請求しているのだから・・・。私としても十分今日中に予定通り行けると言われれば、事情が詳 しくないだけに・・・「まあ、それならええか」となってしまう。それに今日の天気がまあまあ良かったこともあり 車は満洲里を出るとすぐにホロンバイル大草原の中をひた走った。見えないが呼倫湖を左方向に新巴爾虎右旗に向かう。 大草原で馬が集団で走り回っている姿はホンマ絵になる。馬は放牧と言うより烙印を押して持ち主は特定できるが野生に近い状況で勝手に 生きているようだ。 モンゴル馬の値段は一頭5万円くらいとのこと。牛は朝、囲いから放つと勝手に餌を食べ歩きまた適当な時間に戻ってくる習性があるよう だ。羊は始終牧童が追って付いていないと駄目らしい、たまに馬に乗って羊の群れを追っている姿も目にしたが、今は草原の中をオートバ イで羊を追う姿も多かった。3月の終わりから10月くらいまで外で放牧し、冬季は室内で飼う。50年後の大草原の姿は如何に? 今走っている大草原に、舗装した道は昔はなく、2002年に完成したようなことを言っていた。でも、すぐに出来るけれど粗雑だからす ぐに壊れるようで、あちこちで補修の為に寸断され草原を普通の乗用車で迂回する羽目になった。それでも舗装道路はやはりありがたい。 そうでなければ4WDで速度は三分の一も出せないだろう。今は常時100k〜120km/時でぶっ飛ばしている。
馬の群れにさっそく出会う 大草原と馬は絵になる風景だ 野生馬の如し
まだ草原の草の色は枯草色 見えないが左手方向に呼倫湖がある 西旗(新巴爾虎右旗)に向けてひた走る 100〜120km/時速・・・で
成吉思曰く 出来るのも早いが 壊れるのも早い それが、MADE IN CHINA道路の特徴だと・・・。 しばし草原に迂回す
車が不調になり点検す 別段異常も見つからず 行き違う車も時折あり
ちっこいデジカメの撮影限度 ワイドでは写せない 我の脳裏に刻み込んでいるだけ 将来は脳に取り込んだ映像を復元できるようになるやも? なら世界はどう変わる?
この街の看板にも漢字が真ん中で、モンゴル語と共にロシア語が併記されているのが多いようだった。街はここも表通りはピカピカの様相 を呈していた。どこもかしこも道路や不動産で地元共産党幹部とその一味が儲ける構図になっているのだろう。何処に行っても同じような 公園であり、道路も建物も同様である。地域の特色なんて無いに等しい。 草原の景色は6月10日〜7月15日が一番綺麗そうだ。今はまだ緑の草原ではなく枯れた色の草原が広がっている。でも気温や雨量の違 いによって、この時期でも色が付いた美しい緑の大草原もあれば、砂状の砂漠のような大地もある。温暖化で雨量も減りますます砂漠化が 顕著で近い将来ゴビ砂漠と一体化するのではないか・・・と、成吉思は心配していた。 大草原の中で何ヶ所か平屋の集落があったが、昔の「人民公社」だと説明してくれた。集団放牧でもやっていたんだろうか?働き者が損を し、働かざる者が得をする、それが人民公社の集団農場だろう。
西旗に到着 8時半ごろ出発して2時間弱・・・か 新巴爾虎右旗というより西旗の方が 一般的に使われている様子 バスの行き先も「西旗」としか書いていない
西旗市内を走る あっという間に街郊外へ
大草原の中に時折、昔の人民公社跡の集落がある 今も人々は暮らすが、公社と言うのはないそうだ 働く者も働かない者もさして差がつかないなら 誰しも働きが悪くなる:「楽は苦の種」とは公社のことなり
大草原の道路脇でお休み中のトラック 邪魔だからもう少し草原内に入ってオヤスミを
馬も真横になって寝ていた モンゴル人はあまり馬肉を食わないらしいけど この馬たちの将来は如何に? 幸多かれと祈る・・・何がよくも偽善者め、ハイ
西旗から甘珠爾廟に向かう 戦場に近づいた 1939年・昭和14年:前方に広がる大草原で戦ったのだ
ノモンハンの戦場にとうとうやって来た。 中国の甘珠爾廟紹介のHPには、阿木古郎から西北20km、海拉爾から186km、満洲里から200km、交通便利と書いてある。 ならば↑私たちは200kmを満洲里から出発後3時間で甘珠爾廟に到着したことになる。大体道のまともな所は100〜120k/時で 走っていた。信号無く3時間で200kを走破出来るのだろう。成吉思の言う距離では満洲里から此処まで230キロだった。 新巴爾虎左旗(西旗)〜新巴爾虎左(東旗)とを結ぶ道路を走っていたら三重の塔のようなものが見えてきた。(11時22分) そこを 左折して少し走ったら「甘珠爾廟景区」と書いてある真新しい道路をまたぐ門が見えてきた。その門をくぐれば遠く正面に甘珠爾廟があっ た。 呼倫貝爾最大のラマ教寺院で、ノモンハンの戦いの時にソ連軍の爆撃により、また文化大革命で全てを破壊されたようだ。それを2001 年から再建を始め2003年7月完成した。まだ築5年の寺である。でも以前の寺を忠実に再現したようだ。「ここに当時司令部が置かれ ていた」と白布仁は説明してくれた。
半東一利(著)ノモンハンの夏、94頁一部抜粋↓ やはりここは前線基地、司令部であり第23師団師団長:小松原道太郎中将がいたのだ。 当時、ここに居た僧侶は別の寺院に避難させ、この廟の周辺各所にソ連機による空爆に対向するための要塞を作っている。それが今も11 ヶ所くらい残っているとのこと。すぐ傍にも何ヶ所も有った。戦後は地元民が倉庫や物置に使ったりしていたそうだ。今後は遺跡として保 存するようである。 でもまだ整備も出来ていなくてそのままで放置の状態だった。中に入って日本人の書いた文字が残っていないか、何ヶ所か確かめたけど見 つけることは出来なかった。この各要塞の上に高射砲が備えられていた。そしてこの近くに飛行場もあったらしい。
とうとう戦場に着いた。
2003年に破壊前の姿を忠実に再現した甘珠爾廟 ここに関東軍の司令部があった。 このコンクリートは日本軍の対空砲火用の要塞 この写真右前方にも小さな要塞が写っている
西旗から阿木古朗方向に近づいたら こんな塔が建っていた これが甘珠爾廟への道しるべだ この塔を左折すれば、甘珠爾廟に一直線
甘珠爾廟への門 こんなものばかり作っている 往時のままで良いのに それとも昔も有ったのかも?
ノモンハンの戦場に到着だ 69年前、ここには日本軍人が駐屯していた 近くにカンジュル廟飛行場もあったそうだ 「愚かな戦争だった」なんて露も思わぬ 今の無様な日本人どもにそんなことを言う資格が有るとは思えない 「戦うことすら出来ない臆病国家」・・・そんな今こそが愚かなのだ 恥を知れ
いまだ遠い歳月を感じさせずに残る要塞 69年以上前に作ったとは思えない・・・けど 中国人よ、折角残してくれるなら・・・。 触らず、そのままそっと置いとってくれ
ここは中には入れなかったが、窓から見てもやたら綺麗 展示物が飾ってあるようだけど・・・。 また整備して遺跡として公開するのだろう 愛国主義教育基地として・・・か.。ふざけんなよ
これらの要塞の上には ソ連の空軍機撃墜の為の高射(機関砲)砲が備えられていたようだ
要塞内部から甘珠爾廟を見る こんな風景が当時も間違いなくあったのだ 69年前に日本軍兵士が目にしたであろう同じ風景を 平成20年にやって来た日本人が見ているんや
このラマ寺を関東軍は司令部として一時期使ったのだ この地で戦死した皇軍兵士たちのご冥福を祈る
昔の甘珠爾廟
日本軍要塞の前でオートバイに乗って遊ぶ 若いラマ僧 あんたら知ってるか?そら知ってるやろなあ どんな風に教えられているんや?
ホロンバイル草原の飛行場 これがガンジュル廟近くの飛行場かも
あの右手の三重の塔を左折したら、 車なら30分もせずに阿木古朗に着く
遠くに阿木古朗が見えてきた 甘珠爾廟から舗装道路を車で走れば あっけなく着くけど 銃を担ぎ40キロの背嚢を背負って歩けば・・・。 我、想像も及ばず
「新巴爾虎左旗」「東旗」:後方基地 何度も書いているが上記、三つの名前は同じ場所と思えば良い。阿木古朗は新巴爾虎左旗の中の一地域。バスの駅名は「東旗」。新巴爾虎 右旗は「西旗」と表示している。ノモンハン事件の時は野戦病院・弾薬食料供給基地であり、そして爆撃も受けたそうだ。この街も戦場だ ったのだ。 甘珠爾廟に11時30分に着き、要塞を見てブラブラし24分後には阿木古朗に着いているなんて・・・。それ程近く、又ゆっくり甘珠爾 廟に居なかったということか、フムフム。 朝日新聞特派員入江徳朗(著)『ホロンバイルの荒鷲』によれば当時は『阿木古朗は蒙古人包(パオ)が並ぶだけの村落で・・・』と書い てある。 時間も昼時でここで昼食をすることになった。それも今日私が泊まる予定のホテルだった「甘珠爾賓館」で食うことになった。メーンの通 りに面して甘珠爾賓館は建っていた。こじんまりとして綺麗なホテルである。この地にも今は普通に泊まれるホテルは沢山あるようだ。実 は、この二日後にもまた一人でこの地を海拉爾からバスに乗って再度訪れた。 何を食ったのか記憶なく写真に一枚だけ写しているのは肉と野菜の炒め物、もっと有ったけど。ただどれも美味かったことだけは覚えてい る。そして三人で100元以内の料金だったことも確かだ・・・。
昔の面影今いずこ
1939年、当時は 今では漢人も多く住む町になっている
右斜め真ん中の建物が「甘珠爾賓館」 私が今夜泊まる予定のホテルだったけど この近くに「東旗」バス乗り場もあり、街の中心だ
甘珠爾賓館 白布仁が私の宿泊をキャンセルし ついでに、ここで昼食を食べる
この他にもイロイロ 腹一杯食う 全部旨かった 日本語ガイドと一緒なら食うものは困らない
ここから60キロ先が戦場真っ只中ノモンハンの草原が広がる地だ。この草原を鉄砲担いで3、40kgの重さの背嚢担いで歩いた。今そ の360度大草原広がる中、地平線に向かって真っ直ぐに伸びる一本の舗装道路を車はあっけなく走る。 これだけ平原が広がると、どうにも距離感が掴めない、車の速度も関係あるのかも知れないが、放牧されている羊の群れや牛、馬の群れが その大きさだけでは分かりにくい。それと牛や馬の背景がどの程度向こうまで続いているのか??? 草原も阿木古朗から車で10分ほど走った所は緑の色も結構鮮やかで7月の草原を想像できるくらい美しかった。 こんな真っ平らな草原を列を成してひたすら歩いていたのだ。時は1939年、昭和14年5月、今から69年前の日本軍兵士たちである。 その時20歳なら今89歳か・・・。当時の兵士たちの写真はみんな体が頑健そうだ。そうでないと戦う前にみんなぶっ倒れてしまうだけ だろう。それだけでも昔と今の違いを思う。 体がそれだけ頑健で強ければ、きっと人生観も違い精神性も異なるに違いない。虚弱と頑健、「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」。そ れも一理はあるはずだ。この草原を黙々と耐えて歩き、戦い死んだ我が先人たちを犬死だと評したり、間違った戦いに参加させられた悲劇 の日本人だと言う今の日本人に問う。貴様の人生はどれほどのものなのか? 子孫に感動を与え、良き影響を残せる人生を送っているというのか?・・・と。現に私は彼らの戦いぶりに感動し、感謝し哀悼の意を表す ためにこの地を訪れている。きっとこの先、100年、200年後にも私と同じような気持ちを抱いてこの地を訪ねる日本人がいると私は 信じる。国の為に戦い死んだ英霊は、死に方は如何にあれど「犬死」はない。ここは故国日本から遥か遠い遠い大草原だ。 このノモンハンに向かう大草原で目にするものは、馬や牛、そして羊の群れの他に、対向車も時折行き違う。そして、移動通信(携帯)の 塔も点々と目に付く。この草原からも日本にメールが確かに送れた。
Web頁参照↓元兵士の証言
阿木古朗を出たらすぐにこんな風景が広がっている ノモンハンの戦場までずっと360度
草原に馬はいいなあ ノモンハンに向かう途中 何故だか・・・。 馬との出会いは心安らぐ
海拉爾から兵隊は250km離れた戦場に歩いたそうだ 阿木古朗を経て、ノモンハンへと 36kgの背嚢を背負い、灼熱地獄をひたすらに その先には地獄の戦場が待っていた それでも果敢に向かっていった 全てに今の日本との圧倒的違いを思う どちらの日本が後世の歴史で評価されるのか? 私なら、69年前の日本を評価する
ホロンバイル大草原 最前線で戦った将校・兵士たちは勇敢で立派だった そして今の日本人にこき下ろされている上級幹部たちも 今の高級官僚・知識人・評論家・小説家の類と比較して どっちがどうだか? 今の日本に私が敬意を持って期待する人材など極僅かであり
ノモンハンを書いた作家、ノモンハンを只批判する輩は 司馬遼太郎しかり・・・全員が、つまらん奴ばかりだ
白布仁と阿木古朗の地元のタクシーの運転手は、この村は当時何も無く草原だったと言っていたが、小さな集落があったというノモンハン 関係の文章もある。今も小さな村だ。ここに立ち寄ったのは、ノモンハン村を見るためと、この近くにノモンハン戦争遺跡陳列館があり、 そこを見に来た。ここからSRが代わって運転をした。 それにハルハ河を見るために国境に近づくには、国境警備の許可が要るのだ。その為にノモンハンのガイドというか、役所勤めのYTさん という若い女性を同伴して行く事になっていたので国境警備の基地を通り過ぎて先にこっちに来た。 この陳列館なるの物が、日本で調べていたのと場所も変わり、今、その建物を大体建設し終わり内装及び展示をしているところで、まだオ ープンしていなかった。取りあえず先に旧陳列館に行ってみたが作業員は何人かいたが展示物は全部引越し済みだった。次いでオープン前 の巨大戦争遺跡陳列館に向かった。 ノモンハン村が程近い所だけど、大草原に何かしら巨大なモニュメントのように突っ立っていた。近づくにつれて、これも愛国教育の一環 として中国全土に愚かしくもやたら作っている箱物の一つだと分かった。規模もその館に行く道も含めて巨額の金を掛けているように見え る。近々オープンのようだがこれも中国人の抗日賛美の象徴にでもしようと言うのか。一体、漢人の誰が戦ったと言うのか? さすがに成吉思のお蔭で、無理やりトビラを開けてもらって一階の展示物だけ見ることが出来た。写真もOK、入場料不要である。でも、 残念ながらデジカメ不調でピンボケが多い。貴重な興味ある資料も多かった。当時の兵士が持っていた雑誌の焼き焦げた頁だとか、敵戦車 に投げた火炎瓶、何人もの命が亡くなったであろう錆び付き弾丸のアナの残った鉄兜の数々。ノモンハンの戦場写真もあった。スキャナー 代わりにと写しておいたがピンボケなのが多い。 そこから又ノモンハン村に戻って、前に戦争陳列館だった小学校を見に行った。彼女の家のすぐ傍に建っているのだが、この小学校という のが聞いて面白かった。あの日中友好協会の平山郁夫が寄贈した小学校だった。それも1999年に建てて2003年には廃校になってい ると言う。たった4年間しか使っていないとは・・・。 子供が少なく阿木古朗で寄宿しながら小学校に通っている。そんなこと作る前から分かっているだろうに。平山はこのことを知ってるのか ?以前はこの建物に平山の名前が入った看板のようなものがあったようだが今はそれも外され、空き家になっている。 平山郁夫は媚中の筆頭であり、すなわち反日日本人の一人であり、歴史に断罪されるだろう。偽善の証がたった四年で廃校になったこの建 物だ。つまらぬ中共政府に敬意を払ってもらえるのが、つまらぬ日本人の証明でもある。
国境近くの草原の中にある小さな集落 それが諾門罕村だ
成吉思も、阿木古朗のタクシーの運転手も ノモンハン戦記に「小さな集落」と書いてあるのもあった ここで生まれ育った山丹に聞いておけば良かった
すぐそばにアブダラ湖がある 随分水は少なくなっているようだったが この辺でも激戦があったのだろうと思う
ノモンハン村から少し離れた場所に旧諾門罕戦争遺跡陳列館がある また今草原に巨大な博物館を建てているが・・・。 旧陳列館に展示物がまだ置いてあるかも知れないので 先に行って見る事にした 引越し済みだった
また、しょうもないモニュメントを建てていた そのままの状態こそ価値があるとは思えないのか? 何といってもこれが金蔓なのでどうしようもない 共産党の腐り切った体質は自ら治しようがないだろう 崩壊を待つ
巨大な陳列館がもうすぐオープンするのだろう これも愛国主義教育基地の事業の一つだ あきれて開いた口が塞がらない
もうすぐオープンする巨大陳列館の前で・・・。 日本vsソ連の戦いで、日本の負け戦を強調したいってこと? ホンマ情けない根性には笑うしかないけど
日本軍兵士の遺品 この一つ一つに物語あり 故国の土を生きて踏めずも魂は未来永劫日本人の心に宿り 将来、日本の国が危急存亡の時には、日本人足るれば必ず後に続く それは諾門罕で戦い散った先人たちがいたという歴史があるからだ
戦場に残った鉄兜 合掌す
これで戦車に立ち向かった そして敵戦車を炎上させた そんな日本軍人が数多くいたのは事実であり その事実こそが子々孫々への何にも換え難い宝なのだ
諾門罕の戦場を見る 前に並んでいるのは砲弾 兵どもの戦跡
これよりハルハ河、ホルステン河を見るため国境に近づく その前に、地元ガイドに国境警備隊の許可を取ってもらう その地元ガイドを迎えに来た
媚中恥知らずな「平山郁夫」が寄贈したという小学校跡 1999年〜2003年、わずか4年で廃校になり その後、戦争陳列館として一時期使われたが今は廃屋である つまらぬ奴のつまらぬ偽善の成れの果てには相応しいのかも 右の方に停まっている車は私が乗っている専用車と同行の三人
以前は「平山郁夫」という名前の書いた看板もあったそうだが 今は何もなく、当の平山は廃校を知っているのか? 媚中は勝手だが先人を辱め貶めることは万死に値する
いよいよ国境警備の基地へ その場所に近づいたら一匹のドデカイ軍用犬が車に沿って腹の底からの大きな声で吼えながら並走してきた。思わずドアの取っ手に手をや り閉まっていることを確認する。ビビッてしまう。犬の種類は分からないけど迫力はある。 並走する写真を写したかったけどガイドの成吉思も気を使うのか?ホントに厳しいのか?近づいてから「写真は駄目ですよ」と念を押され てしまった。駐屯地の玄関附近に行った時に一人の兵士が向こうから寄って来た。YTも犬が吼えるので車から出られず、ドアを半分開け て体を乗り出し要件を言っていた。 そしてその兵士がまた建物の中に入り数分間待った。そして上司のOKが出たようで、私たちは基地の前を通り過ぎ国境方向に走った。そ んなに遠くないところに監視塔があった。それは星亮一(著)「遥かなるノモンハン」の中にあった写真と同じ監視塔だった。
2時33分:ハルハ河を見る 確かにモンゴルとの国境方向に河らしきものの流れが見えた。でも、それが案外近いように見えたので、ハルハ河なのか確信するには至ら ない。凄い蛇行している河なのか?それに小さなデジカメのズームで撮ったし、距離感も分からない。 そして成吉思が監視塔に登ることにビビッており、「向こうから監視されていますから、早く降りてくださいよ」と言うので落ち着いておれ ず、もっと上にも上がれなかった。仕方なくおりて行った。二段目ぐらいに鳥が巣を作っていたので跨いで降りる。もう玉子もなく鳥の姿 はないが、巣がそのままあるということは国境警備の兵隊もここは使って居ないのだろう。 一番上まで上がるのは恐い高さだが、せっかくそこまで行ったのに、しっかり確認できなかったことが今も悔いが残る。その場所では河に 見えたし、方向からもハルハ河だと思った。成吉思も迷わず「見えました」と言った。でも写真で見ると・・・写真写りが悪いので今一自 信がなくなったしまったのだ。
午後2時33分、国境監視塔3階より撮影する 国境附近を蛇行して流れるハルハ河 監視塔に登って現場で見た時は迷いなくハルハ河だと思った ハルハ河を知っているガイドの成吉思も一緒に上り 「あっ見えましたね・・・」と言った でも帰国後写真を見て不安になった もっと上に上って蛇行の先を見とけば良かったと悔いる 私はハルハ河を知らず。 残念だが世にこれがハルハ河だと言い切る確証を有しない。 遠望小高い丘陵は「ハラ高地」「コマツ台」の方だと思う
「遥かなるノモンハン」星亮一(著)161頁 『上空から見たノモンハン事件当時のハルハ河』↑上記の写真の説明である 上空から写せば、こんなに蛇行している河なので、 私が低い場所から、「見て」「写した」写真の感じも十分有り得ると思う 塔の上で見た時、迷いはなかったのは確かだ・・・けど、今は自信がない
国境警備隊基地 車で近づいたら軍用犬がデカイ声で並走しながら吼えて威嚇してきた 思わずドアロックを確かめる、めちゃ迫力ある こんな犬に追いかけれたら恐怖だなあ
国境監視塔 国境に近づく許可を得て、監視塔方向に向かう この塔の三段目まで駆け上がった
国境監視塔 「遥かなるノモンハン」星亮一(著)64頁
監視塔踊り場三段目からハルハ河を撮影す デジカメのちゃちなズームでの写真である こだわりのハルハ河だったけど 私としては、これがハルハ河だと言い切れぬ この監視塔は国境まじかに立っていると思うけど
「遥かなるノモンハン」星亮一(著)64頁のハルハ河 同じ監視塔からの同じ方向を写した写真のはずだが 様子は随分違う 何故なのか?監視塔の場所が変わったとは思えない カメラの望遠性能の違いは歴然だが? もう一度確認に行きたいけどなあ・・・。 ムムム、無念、残念、一体真相は?
私が撮影した水は、国境付近の小さな湖で、 6/20.Google Earthで確認できた。 ハルハ河は遠く前方に流れている 監視塔の上まで上がればきっと、一条の河の流れが見えたと思う 私の登った三段目でも、落ち着いて見ておけばハルハ河が確認出来たかも 前方の湖に目を奪われ、遠くを見る余裕がなかったことを悔やむ
以上が真相だ
塔の上から乗ってきた車を写す 満洲側は大草原が広がっている
SRに急かされたけどもっとゆっくりしておけば良かった ガイドは警備隊や軍関係には繊細だし、国境の厳しさが真にあるのかも? 何故か?国境というだけで緊張し バタバタしてしまった これじゃあ報道カメラマンにはなれないなあ(笑)
監視塔二段目附近に鳥の巣があった 玉子もヒナもなく、巣立った後か?
PM2:32写す 今は無用となりし?無人の国境監視塔 三段目まで登る 私達の乗って来た車も映っている
ここで成吉思に言われていたようにYTに100元のお礼を渡した。彼女は笑顔で受け取った。さっきの監視塔に行くまでも舗装道はなく 輪だちの残るだけの草原の道だったが、そこからホルステン河までは道なき道の砂漠を走ると言うものだった。でも途中で陥没が多く普通 の乗用車だと無理だと言うことになり歩いて行くことになった。私は迷わずすぐに車から降り歩き出した。 成吉思もYTも続いて来た。ホルステン河がどこにあるのかSRは知らないらしく途中私に後ろから声を掛け、「YTさんに付いていかない と分からないから・・・」と言って来た。 先にそれを言えよ・・・であるが。YTさんは私の後方右斜めに向かって歩いていた。私もすぐにその方向に修正して歩いた。車で行くよ り歩きたかったのだ。後で知ったのだが、この辺りは砂漠のように砂地で凹凸が多く、砂漠を歩く感じだった。それに枯れかけたように見 える低い潅木が無数にある。草原とは言いがたい雰囲気の場所だった。 でも実は69年前の昭和14年当時もそうだったことがある方に教えてもらい分かった。 それは『ノモンハン戦記』を書いた小沢親光の記事の中に書かれていた↓
・・・・・・・・・・・・ ハルハ河は、途中でホルステン河に合流するが、ホルステン側は幅10メートル、水量も少なく、水深も浅かった。付近は湖沼が多かったが、 岩塩が流れ込んで塩っからいものがあり、放牧の馬はそれをよく知っていて真水のところでないと寄りつかなかった。部隊の飲料水は馬が 教えてくれた。だからハルハ河やホルステン河は遊牧民にとっても命の水で、この水を求め、草を捜して国境線を移動していた。 ハルハ河の左岸、外蒙側は全体的に右岸の満洲国側より地形が高く、満洲国領を見下ろすことができた。それが、のちの戦闘でソ蒙軍を優 勢にする一因となった。
夏の気温は36,7度まで上がったが、夜は16,7度に冷えた。蚊が多く、防御用の防蚊手袋と坊蚊面を離せなかった。透き通ったような草色
の蚊で、その大軍団の来襲で空も暗くなった。地上に落ちた蚊はまるで砂漠の砂が隆起するようで、不気味だった。防蚊面を忘れると、鼻
や耳の中にまで侵入して、刺した。 上記の文中にも『ホルステン河は幅10メートル、水量も少なく、水深も浅かった。』と書かれているが、この河は2003年にすっかり干 上がったそうだ。そして今は川の名残しかなかったが当時の雰囲気はそのまま残っているのだと思う。松の木は気付かなかったし写真でも 確認は出来ないが潅木は多かった。そして私もダニに刺されたのか両足が蕁麻疹のように被れてヒリヒリが続きビックリした。18日より 10日たった今日28日、未だ完治していない。 この附近を含めてこれよりモンゴル方向の広い範囲を主戦場に壮絶な戦いをしたのだ。日本軍・満洲軍vsソ連軍・外蒙古軍が・・・。 二人に「先に車に戻っていて」と声を掛け、一人でそこらを歩きながら、彼らの姿が砂丘の向こうに消えた時、場所を見計らって日本から 持参した森永のビスケットとキャラメルを砂漠の地に置き、手を合わせ般若心経を唱え冥福を祈った。
3時20分:車に戻る 二人に遅れてボチボチ車までノモンハンの砂漠を草原を歩いた。この旅の目的は達した。成し遂げた充実感とホッとしての虚脱感があった。 来て良かったである。でもデジカメの写真撮影の時間で見れば、そんなに短い時間だったのか・・・と、思う。もっと長い時間のように思 っていたのに・・・。 将軍廟は最早なんの跡形もないそうで行けなかった。地図上で大体の場所を教えてもらった。日本にいる時は漠然としか思えなかったノモ ンハンの地を私は歩いていた。そして甘珠爾廟病、阿木古朗、ノモンハン、ハルハ河、ホルステン河の位置関係や風景が分かった。 ノモンハン村のすぐ横にアブダラ湖がある。そこにホルステン河も流れ込んでいたそうだが、今はアブダラ湖の水位も非常に下がって元の 湖の痕跡を示す周囲の様子から、小さくなっているのが一目瞭然だ。
とうとう辿り付いたホルステン河 昭和14年当時から水量少なかったようだが 2003年にすっかり干上がったそうだ でも河の跡は紛れもなく残っていた また一雨降れば水が流れるかのように 人も馬もこの水を飲み、 そしてまた戦場に向かって前進していったのだろう この附近は今も起伏の多い砂丘で潅木も多い あ〜我、ホルステン河に来る、感無量なり
ホルステン河跡は、もうすぐの所にあるようだ 前方方向にホルステン河があるはずだ
今は水なきホルステン河
諾門罕村の地元ガイド、YTさん 成吉思もホルステン河の所在を知らなかった 西にハルハ河に合流し、東にアブダラ湖に流れる
ホルステン河のそばの砂地に 森永のビスケットとキャラメルを置き 般若心経を唱え英霊の冥福を祈る
ハルハ河方向は更に起伏多し、小さい木々も多い 小高い丘陵のようにも見える。小さな松もあるのだろう
写真左方、遠くに国境警備隊基地 そして、その手前に、車と、 車に向かうSRとYTの二人が米粒のように写っている
もう一度ノモンハン村に行った。YTが同乗して阿木古朗に行くと言うので荷物を取りに戻った。YTはモンゴル族なので成吉思とモンゴル 語で話をしていた。そして4時26分頃、阿木古朗に到着し(60kmを45分くらいで走っている)YTと別れ一路、海拉尓に向かった。 阿木古朗から海拉爾までは160kmくらいの距離だそうだ。やはり大草原の中を突っ走るが、砂漠化が進んでいるところも多くあり痛ま しい。草原は砂の上にへばりついているかのようで、ホンノ有るかないかの薄い土が表面にデリケートに覆われただけの大地に見える。草 が枯れると薄いベールの土の表皮は哀れ吹き飛び砂に置き換わる。さすれば風で砂丘になり平原の風景はオウトツのある乾燥した砂漠の風 景となってしまう。雲泥の差とはこのことだ。
5時38分:ラクダの群れに出会い車を降り写真を撮る。 6時8分:海拉爾郊外の刑務所の前を通過す。
6時17分:海拉爾断橋を撮影す。
ノモンハン村に戻って来た どこの家も庭先はこんな様子だ 生まれたばかりの子牛があちこちにいた ここにはここの生活があり夢も希望もある
アブダラ湖 諾門罕村のすぐ傍にある 水量が少なくなっているのが一目瞭然だ
車の停まっているところがYTの実家 YTが阿木古朗まで一緒に乗って行くとのことで 荷物を準備するのに少し待っていた
ノモンハンから阿木古朗まで60km 歩きたいなあ ただ歩くだけなら気分は爽快だろう でも、銃を担いで背嚢背負って戦場へ向うのは・・・。 みんないろんな思いを胸に秘め歩いたに違いない
ホロンバイル草原のラクダ ノモンハンの戦い当時もラクダが写っている写真がある 日本軍も使っていたようだ 馬も牛もラクダもそうだが、この顔見れば 草食動物と銃はミスマッチかも・・・。
おいラクダよ あんたら何考えてるの? それとも何も考えてないのか? 考えるということが出来ないのか? ムムム、どんなんやろ頭の中は? 見た目平和やけど、ホンマはどうなんや 飼われているってことは、先どうなんの?
海拉爾郊外の刑務所 新しい刑務所やけど 中はどうなのか? 海拉爾での犯罪とは如何なるものか? 興味あるけど・・。
海拉爾断橋 右:海拉爾市内の一番南に架かる現在の「貝爾橋」 すぐ南側に断橋がある
海拉爾断橋 日本軍よって?ソ連軍の攻撃で? 両方の説があるようで、真相は知らない
断橋と並行して架かる逆光の貝爾橋 ソ連兵士の像が立っている この辺りではあちこちに紀念公園や慰霊碑を建てソ連軍を称えている 歴史はその時々の権力者が都合よく作る その最たる国家が独裁国家であり、愚かな国家である
最初に行ったホテルが、窓のカーテンが閉まらないので部屋を変えてくれと言ったら、空きが無かったのでホテルを変わった。海拉爾は成 吉思の地元だからお手のものなのだろう。 次に行ったのが、川の傍で窓を開ければ伊敏河、その伊敏橋の西角にあるホテルだ。窓からの景色も良いし変えてもらってホント良かった。 この部屋に三泊することになった。最初の契約では、成吉思の旅行社が入っている北苑賓館だったのだが・・・。 運転手の漠河さんによると今日の走行は600kmを越えたそうである。東京駅〜大阪駅が548km、東京駅〜西明石駅が610kmだ から我が家から東京まで一気に走った計算になる。
9時30分:飯を食ってワンバに行ってホテルに戻る。 いつものように私が入ると、姑娘が「一位:イーウェイ=お一人ですか?」と聞いてくる。「我只一個人来」などと答えないが「一個人: イーガレン:ひとり」と言う。そして尚突っ立ていると、怪訝な顔をしだすがメニューを持ってくることが多い。そして、そのメニューを 受け取り、一応開いて見ながらも「ウーン・・・」と悩む。そして、「う〜ん、見ても分からん:看不ドン」と言う。姑娘も店の人間も客 も私が外国人だと多分分かる。 そして、拉麺は漢字を見て分かるので有るのは分かるが「拉麺有るか?」と聞くと、当然「有る」と言う。でもどんな拉麺か分からないの で、量の少ないのを身振りで伝えると、この店には私の要望通りの「小碗」が有ると言う。そして、それを頼んだ。 「小碗」と言っても日本の普通のラーメンの量ぐらいあるのだろう・・・と、思って待っていたが、出てきたのはホントに日本のミニうど んのような「小碗」ラーメンだった。そして味も良かった、汁も飲んだ。そして尚且つ、もう一杯同じ物を頼んだ。 その頃、もう一人の若い兄ちゃんが入って来て私の隣のテーブルに座り、日本の焼きソバ風の食い物とピザのような物を頼んで旨そうに食 いだしていた。私はそれを見て明日はあれを食おうと思って姑娘に「あの食い物は何て言うの?ここに書いて」と頼んで書いてもらった。 因みに私の食った小碗も書いてくれた。面条(Mian tiao) 2小碗 6元。 餅(Bing) 一張2元・・・小麦を薄く円盤状に焼いた物(ピザの具なし)、焼きソバのような物は字を書いてもらったが今も判読不明。一 応腹も膨れ、姑娘にワンバの場所を聞きすぐ近くにあるようなのでそこに行った。
そこで又掲示板に書き込んだ。(9時13分とある)
ハイラルyori 投稿日:2008/05/18(Sun) 22:13 Kyou ノモンハンhe tadoritukimasitayo.
Yatto itikankeiga wakarimasita. Mansyuuri kara Kanjyurubyou wo hete Amuguro sosite Nomonhan mura ni tukimasita. Haruha gawa ha imaha Sotomouko ryou de tikadukemasen ga kokkyou keibi no kansitou ni nobotte kasukani miemasita ホルステン河 ha jimoto no gaido ga annai sitekremasita.2003nen ni mizu ga kare imaha nagori dakedesuga hakkiri kawa no ato ga wakarimasu. yahari tekigawa ga yayatakadai ni natteori hurina senjyoudesune sisyousya no kazu ha gobugobu aruiha tekigawano houga jyakkann ooiyoudesuga otagai sisyousya no kazu ha seikakudehanaito i wareteimasusi... Nihongawano ippoutekina makeikusa deha naito omoimasu Hairaru kara 220km Amugoro kara 60km Daisougen ga hirogatteimasu kono sougen wo 40kg 60kg no jyuusoubi de kougunsita touji no heisi ha tada tada sugoidesu miwo kakusu basyo ha kaimudesune Kandousimasita. ・・・・・・・・・・・ ワンバから帰り、水を買って部屋に戻り充実の一日は終了した。我満足す。
伊敏河沿いの海拉爾賓館
星亮一は自著の「遥かなるノモンハン」のあとがき冒頭に以下のようなことを書いている
・・・・・・・・抜粋
ノモンハンの戦場跡に立って、思うことは、ばかげた戦争だということだった。 ・・・・・・・・以上 ノモンハン戦記の書籍は、星亮一のように何でこんな大草原で「ばかげた戦争」をしたのだと言う意見ばかりだ。私はそうは思わない。戦 争に無意味は無い。戦いの場所は関係ない。どんな辺境であっても命を懸けて戦うのは民族の誇りや正義を貫くためのものだ。
「何を守り、何に価値があるのか?」
そして人間は完璧ではない。間違いがあり失敗もある。 無論戦死傷者の数で勝敗は決まるのではなく、どちらが目的を達成したかが勝敗の分かれ目なのかもしれない。しかし私にとっては日本が その目的を達成しなくても、国家として真の独立を保つ限り、例え彼方此方での戦いに負けでも勝ちだ。 ようするに自国の大儀・正義を貫くために命を賭けて戦う国は全て勝者である。戦わずして屈する或いは戦うことを恐れて従属する、奴隷 になる、誤魔化す・・・それこそが敗戦国であり敗者なのだというのが私の考えだ。 故に、米国の庇護の下に従属生存することを選択している今の日本こそ敗戦国、敗者であり卑怯なる国家であり、国民なのだ。 5月18日:ホテルのフロントに表示していた海拉爾の気温・最高11℃、最低5℃。
ハロンアルシャン出てからは
ホロンバイルを行軍する日本軍兵士
|
| 目次 | 旅行記 | 安保 |