| 旅行記 | 安保 |
2009:平成21年10月20日(火)〜10月27日(火)
7泊8日

@黒河10/21.22:A愛琿.10/21:B孫呉.10/23.24:C阿城.10/26:D哈爾濱.10/26
はじめにこれは旅行記にあらず。わが能書き也。今までのも同じだ。 思いのままを書き連ねる。同じ事を百篇でも千篇でも。 公開する以上見てもらいたい読んでもらいたいのは山々だが。 |
| (0) | 旅たち前:黒河・孫呉の戦跡を訪ねて |
| (1) | 10月20日(火)関空〜哈爾濱へ到着 |
| (2) | 10月21日(水)黒河・法別拉・愛琿 |
| (3) | 10月22日(木)黒河市内散策 |
| (4) | 10月23日(金)黒河〜孫呉へ、周辺散策 |
| (5) | 10月24日(土)孫呉、勝山要塞へ |
| (6) | 10月25日(日)孫呉〜哈爾濱へ・汽車の旅 |
| (7) | 10月26日(月)阿城へ・午後哈爾濱、散策 |
| (8) | 10月27日(火)哈爾濱〜瀋陽〜関空 |
| (9) | 帰国後:番外編 |
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アムール河(黒龍江)を挟み

2009.5.16.Am.10:06:54.撮影
満洲への旅で思うこと在留邦人の満洲引揚げに関し様々な体験談が、書物或いはインターネットで見ることが出来る。敗戦による在留邦人の地獄絵図とも言える 避難行は、戦争の実態、敗戦後に起きる事実を後世の人に伝えるために大切なことだ。 しかし、私が目にする引揚げ者の体験談のほとんどは、自分が体験した悲惨な一局面を持って、先の戦争全てを否定し、愚かな侵略戦争だ ったかのような論調が付け加えられている。 満洲からの引揚者は幼児から大人まで年齢は様々だが、今、本やWeb頁で溢れている引揚げ者の関東軍・時の日本政府への非難は読むに 堪えない。 戦後歳月の経過と最近になってのインターネットの普及によって当然なのだろうが、ネット上では当時幼児だった方々や、小中学校くらい の年齢の方が、満洲時代を同窓会で思い出話しを語りあうかのように語っている。 そんな彼等は生きて日本の土を踏み、戦後の日本で安定した生活を送っている人たちだ。そして、そんな彼等が里帰りをするかのような懐 かしさを抱いて今の中国東北部に旅する。 その気持ちと行動には何の異存も無い。しかしそこで現地の中国人に、日本国或いは日本人を代表するかのように満州建国を謝罪し許しを 乞う。そんな日本人を私は同じ同胞として許す事が出来ない。 当時の世界は白人列強国が揃って覇権を争い、アジアだけではなく世界の有色人種国家の大部分は植民地化されていた。そんな時代背景の 真っ只中で、日本は明治維新を成し遂げ、その後も独立を保つ為に日清日露を戦い、有色人種国家で唯一列強に伍し対等なる国家足らんと していた。 「侵略、侵略」と、二言目には、戦後の日本人は過去の日本を悪の国家であったかのように言うが、国際的にその定義が定まったのは19 74年:昭和49年、戦後29年目の国連総会でのことである。それさえも多種の意見があり統一されていない。 そして戦争という言葉の前に「自衛」「侵略」と付ければ?侵略戦争というだけで、戦後思考停止に陥った多くの日本人は「悪」と規定す るのだろう・・・。 ならば言葉を変えて、家族の命を狙う悪漢から家族を守る為に、どう守るのか?悪漢を自分の家に侵入させて守るのか?誰しもそんなこと は考えないはずだ。 その時点で家族の誰かが命を落とし傷付く可能性がある。そんな戦術は戦術とは言えない。愚か極まりなく家族を守る以前の問題だ。 侵略と言う言葉を使うのは、進攻された側の人間が、相手国に使う言葉だ。中国人が日本に対して使うのは仕方ないが、祖国を守る為に遠 い異国に戦いの場を求め散って行った先人たちは断じて侵略者ではない。決して安易に同胞が使うべき言葉ではない。
満洲建国前の当時の彼の地は、張作霖が一応支配していた。 河本大佐の事件後の様子を調べるだけでも、当時の満州の現実を知ることが出来る。張作霖の満州統治は、善政とはほど遠く、その能力も なく満州は混乱の中にあった。そんな満州であったからこそ日本は満州国建国へと進んで行った。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog053.html 『第一次大戦後の1919年:大正8年、パリの講和会議の席上、日本代表団は当時の白人国家のあからさまな人種差別に反発し是正を促 す為に「人種平等条項提案」を出した。 しかし人種平等への反発の激しさに直面した日本は、場所を移した国際連盟で「人種」という言葉を省き、「国家平等の原則と国民の公正 な処遇」という修正案を作成し、採択に持ち込んだ。 そして採択の結果は、16票中11票が日本案に対して賛成票を投じたにも係わらず、議長であるウィルソン米国大統領が、前例を無視し て全会一致を盾にし、採択しないと宣言した。』 以上:抜粋終わり 当時世界人口の中で6割を越す有色人種の代表として、日本が白人国家からどのように思われ、その後の経過を辿ることになったのか、歴 史の必然を感じる。今も人間の深層心理は同じだろうが、現実の世界は表面上だけは随分変わった。 その牽引役を先人達は国家の命運を掛け自分の命を賭けて、白人たちの人種差別・横暴と戦って来たのだ。それが先の戦争であり、その結 果が今なのだ。 「先進文明国が非文明国を植民地化し、それによって非文明国の生活の向上を計る」という、今では「侵略」と言われることが世界の強国 の間では常識として通用し実践していた時代だ。 そんな時代、台頭して来た有色人種国家の日本が、彼らの目障りになったのは当然だろう。そんな中、先人達はあくまでも日本の独立を保 ち白人列強国と対等の立場を得んが為に、がむしゃらに頑張った。その為にも富国強兵は必然であり、台湾統治、朝鮮併合を経て満洲建国 へと繋がっていく。 それらは今で言う「侵略」ではない。資源無き日本が列強に伍して独立を守る。すなわち自存自衛の為に必要であった。そして日本の統治 政策は、白人列強とは異なる。差別意識は、当然のようにあっただろうが、その統治内容は白人覇権国家と比較にならないほど良心的だ。 今も昔を知る台湾人は親日であり、日本が統治していたパラオも親日派が多い。そして、一番日本統治時代を懐かしく良き時代だったと思 っているのは、今の北朝鮮の高齢者ではなかろうか・・・。 そんな時代に命を賭けて日本を守り通そうとし、その為に最善を尽くした先人たち。想像力を精一杯駆使して、“今とは違うかもしれない” と思いながら、当時の現実を考えて欲しい。
確かに今の満州は漢族が大多数を占めている。しかし私は中共政府に満洲崩壊後の統治の正当性があるとは思えない。歴史に“もしも”は ないのだろうが満洲と言う国が今も存在していれば、当然又違った世界がある。それは今よりも、良き東アジアであり世界であるだろう。 今の満洲が中国だと思うのは漢族が多数を占めた、その一点だけだ。それこそが毛沢東が建国した中共政府の戦略であり、内蒙古は無論、 新疆ウィグル・チベットも同じように漢族を大量移住させ、それらの地域で多数を占めんがため現在進行形で侵略、人口侵略が進行してい る。 13億、いや14億とも言われる現在、漢族は世界多地域に、日本へも同様の遣り方で侵蝕しようとしている。そんな漢族・中国人に、安 易に謝罪することの愚かさを考えたことはあるのか? 自分の責任で成したことではなく、先人達の成したことを自分の主観で謝罪する。それは先人の行為を“悪”と規定し、過去現在未来の日 本人全体を辱めることだ。 満州引揚者が過去を非難し謝罪することが、悲劇を体験した自分の成すべき事であり、それが良識ある日本人の証でもあるかのような言動 は、天に唾することであり、生ある内に改めるべき所は改めてもらいたい。 ソ連軍と死闘を演じ辺境の地で亡くなった関東軍兵士のことも少しは思って欲しい。自分は地獄の悲惨を体験したと言えど、生きて故国の 土を踏み、戦後の日本の豊かさを謳歌しているのだ。 そして引揚者が良く口にする「国に捨てられた」「関東軍に置き去りにされた」「棄民」とかの言葉を使い非難するのであれば、今の拉致 被害者を戦ってでも取り戻せ!と、声を大にして引揚者たちは何故叫ばない? 四半世紀もの長い間、その実数も掴めず放置された拉致被害者こそ「棄民」であるはずだ? あなた達は、「国に捨てられた!」と叫びながら、やむにやまれぬ当時の状況と違い、今の日本は国家国民一丸となって奪還の気概さえ持 てば、どんな事でも可能だ。そんな今なのに、目を瞑っているのも同じだ。 そのことをあなた達はどう考える。私から見ればそんな人たちは偽善者でしかない。
満洲引揚げ者だけでなく戦前戦中を経験し、且つ戦争を生き延びた人たちの戦後の生き様には大いに疑問を感じ、憤りを持っている。特 に元兵士が語る軍への非難・時の政府への非難は怒りを感じる。まるで自分を被害者の立場に置き反戦反軍を得々と語る。 確かに実体験に基づいて語ってはいるのだろうが、そこには当時、共に大儀を掲げ、国家の存亡を掛け国民一丸となって戦いに突入し、戦 場で散った上官・戦友・同胞を庇う気持ちは更々なく、戦後の風潮にこび、被害者面で戦争・軍への非難を声高に語っている卑怯者だ。 本当に立派だった日本人は戦場で戦死し、或いは自決し、或いは戦後に生き延びても、戦場で散って行った戦友たちに報いることが出来な かった敗戦という結果の無念さを噛み締め、亡き戦友の冥福を祈っている。 そして戦争の大儀に今も誇りを持ち、故国を遠く離れて亡くなった戦友の名誉と誇りを聊(いささ)かでも傷つけてはならずと、戦後一転 しての反戦自虐史観とは一線を画し、生きて来られたと私はそう確信している。
戦後生まれの私が敗戦後64年を経た今、全ての起承転結を知った上でも当時の満洲に関しての日本軍・関東軍の判断とその戦略に基づい ての行動は、知れば知るほど、あの時点でのベターな判断だったと思う。 それは「対ソ静謐確保」が全てであり、又、あの時点でそれしか無かった。関東軍は南方に戦力を引き抜かれ、兵なく武器なく、しかしな がら満洲は昭和20年8月9日まで、見た目の平和があった。 そして、その時点では関東軍幹部の誰もが心中いかに思っていても、公には「最後に日本本土で決戦を行い、硫黄島・沖縄で示したように 敵に大打撃をもたらし、それによって少しでも有利な条件で終戦に導き、あらん限りの力を振り絞って国体を護持する」というのが大方 の思いであったと思う。 ならばソ連進攻時に関東軍が、大連・新京・図們に最終防禦戦を構え、通化に司令部を置くというのは誰が考えても妥当な戦略だったとし か思えない。 その為の事前準備は出来なかった。関東軍は張子の虎であり「対ソ静謐確保」が最重要な戦略だったからだ。他に何が出来ただろう。それ くらい儚い夢に頼るしかない状況に日本軍が追い込まれていた。それを無責任と言わば言え、起承転結を知った私でも他に妙案は浮ばない。 そして避難列車を民・官・軍の優先順位の元に仕立てたが、平和そのものだった満洲で、全てを投げ捨て今すぐ避難の決断行動が出来た民 はなく、それが出来るのは軍だけだった。 無論情報の有無もあっただろう。そして、その現場で実際に起きることは、軍は事前に十分予想していたはずだ。建前だけの民・官・軍に なり、実際は軍・官・民になることくらいは・・・。 だから、その局面に置いて、まさに軍は、すぐに集まらない邦人を無視し、先に軍関係者が列車に乗った。その現場の醜さは十分に私でも 想像できる。その場に私が邦人としての立場でいたなら、憎むべき関東軍であり、日頃威張っていた軍人たちの醜態に裏切られたと恨む。 しかし転進した関東軍兵士もその家族も、その時点、すなわち自分たちが“民”より先にその列車に乗ったことで生き延びたとは思っては いなかっただろう。まして数日後に敗戦になることは予想出来なかったに違いない。 そして、もし「張子の虎」でしかなかった関東軍が、その戦力で邦人を守る為に各所で踏み止まりソ連軍と戦っていたら、多くの都市が更 に悲惨な戦場になり、邦人、満人を含めて計り知れない犠牲者が出たであろうことは容易に推察できる。 その時、国境周辺の関東軍は死に物狂いで数倍のソ連軍と、どことも死闘を戦っていた。それは関東軍の当初からの戦略に基づき、本隊の 通化への移動が速やかに出来るように、そして少しでもソ連の進攻を食い止め、在留邦人たちの避難行の手助けになる為に、国境周辺の関 東軍兵士たちが戦い亡くなっている。 満洲の地、その他、世界の各地で今も尚日本に帰ることなく眠る英霊の方々のご冥福を心をから祈ります。
心からの感謝とお詫びの気持ちを持って・・・。 |
黒河要塞の内部

2009年10月21日、8:48:32.撮影
見学といっても何も管理されていない場所に要塞があった。
64年前の戦いの場所であった交通壕が縦横にある。
8月9日、ソ連軍の怒涛の侵攻の前に陥落したそうだ。
時に兵なく武器なく、さぞや無念の戦いだったであろう。
孫呉:勝山陣地

2009年10月24日、10:05:52 撮影
勝山は全山が陣地になっていた。
ここからアムール河まで8キロの距離だ。
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