旅行記 安保


グアムの戦跡を訪ねる


2011:平成23年1月17日(月)~1月21日(金)

4泊5日





はじめに

これは旅行記にあらず。わが能書き也。今までのも同じだ。

思いのままを書き連ねる。同じ事を百篇でも千篇でも。

公開する以上見てもらいたい読んでもらいたいのは山々だが。

目 次

(0)旅たち前:グアムの戦跡を訪ねて
(1)1月17日(月)関空~グアムへ出発
(2)1月18日(日)グアム到着一日目
(3)1月19日(月)グアムでの二日目
(4)1月20日(火)グアムでの三日目
(5)1月21日(水)グアム~関空
(6)帰国後:番外編


「フォートラベル」に同じ旅行記を掲載しています。
写真が大きいで~す。

「フォートラベル」





又木山(マタグアク)司令部壕前に建つ慰霊碑


雨に濡れた日の丸が慰霊碑を包む


‎2011‎年‎1‎月‎19‎日、‏‎14:35:44.撮影




グアム島の戦跡を訪ねる

戦跡を訪ねたのは祖父の日露戦争従軍軌跡を追っての旅(2005年:平成17年:満54才)が最初だが、戦跡巡りが趣味となったのは2007年:平成19年のノモンハンへの旅からだ。ノモンハン以降、私の海外旅行はほとんど戦跡を訪ねるのが目的の海外旅行となっている。

今回のグアムは、9回目の戦跡巡りの旅であり、太平洋戦線としてはぺリリュー島・サイパンに続いて三ヶ所目になる。「グアム島玉砕」「横井庄一」くらいの言葉しか知らず、グアム島で日本人はどんな戦いをしたのか、その内容は全く知らないのがいつものように行くまでの私であった。

数年前から一年二回の海外旅行が目標の私だが、それがこれからも達成出来たとしても残りの人生で、一体どれほどの戦跡を訪ね戦いの一端を知ることが出来るのか?はなはだ心もとないが、出来ることしか出来ないのが人生であり、可能な限り続けたい。

グアム島は昭和19年7月21日に米軍が上陸した。米軍の圧倒的な火力・兵力によって日本軍の戦いは苦闘を極めたが、そんな状況においてもグアムを守備する陸海軍兵士たちは随所で多くの部隊が歴史に燦然と輝く戦いをしている。日本軍守備隊の総数は約2万、米軍約5万5千。日米両軍の戦死者の数は、日本軍「18000~19000人」米軍死者「1500~3000人」、米軍戦傷者「約5600~7100」と言われている。

淡路島ほどの大きさのグアム島に、日本軍守備隊のほとんどは満洲から転出し、米軍上陸前の4ヶ月ほど前の昭和19年3月に、第一陣がグアムに上陸を果たした。支那戦線で実戦を経験した兵士もいるが多くはなく、関東軍精鋭といえどそのほとんどが本格的な実戦を経験せぬ兵士たちであったようだ。

まして米軍の武器の何たるかも知らず、満洲とグアムとでは地形をはじめとして何もかもが違った環境であり、一兵卒はもとより部隊を指揮し、迫り来る米軍来襲に備えて陣地構築の計画実行。対米戦への戦略を練り、それに対応できる訓練等々を急がねばならない幹部将兵の思いは如何ばかりであっただろうか?

グアム島守備隊最高指揮官は第29師団師団長:高品 彪(たかしな たけし)中将:53歳。そして7月28日、本田台付近の戦場に置いて高品中将は戦車砲or戦車からの機銃射撃で戦死を遂げる。高品中将戦死後は、第31軍:軍司令官:小畑 英良(おばた ひでよし)中将:54歳がグアムでの日本軍玉砕までの指揮をとった。

小畑中将はサイパン守備隊軍司令官として赴任したがサイパンへの米軍上陸時にパラオに出張していたためにサイパンに戻れずグアムでサイパン攻防の指揮をとり、サイパン玉砕後もそのままグアムに残っていた。

そしてグアム攻防最後の決戦場であるグアム北東部の叉木山において小畑中将は8月11日に自決とされているが、グアム戦跡巡りでガイドの芳賀さんから聞いた真相は「戦死であった」とのことである。




■旅たち前の予備知識と実際の印象

主に
グアム島玉砕戦記―悲劇の島三百日の戦い:佐藤 和正(著)
孤島戦記―若き軍医中尉のグアム島の戦い:吉田重紀(著)

上記二冊の戦記本を主とし、その他ネットでの情報を整理してグアム戦跡巡りへの私の予備知識とした。しかし、グアムでの米軍の戦死者数、小畑軍司令官が「自決?」か「戦死?」というように情報は錯綜し、私の中では真実は定かではない。

そして「グアム島玉砕戦記」もノンフィクションではあるが小説であり、著者の取材による元兵士の証言などによってグアム戦が書かれている。グアムでの展示写真の紹介に、本の内容と食い違っている説明もあり、真実に近づくには余程時間と労力を掛けなければ無理だというのが私の感想だ。

私の戦跡巡りの旅は、そこでどんな戦いがあったのか?その一端を知ることができればという程度のものである。この旅行記も、記述には多々間違い箇所があるだろうと思う。信用は無用ということでご寛大に・・・。

1944年8月11日:グアム玉砕から今年で67年目を迎える。そのグアムは今もジャングルだった。タモンを中心とする観光地はグアムのホンの一部分であり、大部分はジャングル及び米軍基地が占めている。そんな印象だった。トーチカ・司令部壕・防空壕などなどの戦跡もグアム全地域に山ほどあるようだが、見たのはその極々一部にしか過ぎず。

グアムは十分に広く、海岸線以外の戦場には近づけなかった。青葉山・茶屋(チャチャオ)山・有羽山(アリファン山)・折田(オルドット)・牧山(フェンナ)・などを遠望しただけに終わった。でも実際に現地を見て、芳賀さんの案内を受けて概ねの位置関係や戦いの模様を窺い知ることが出来、自分の頭の中で少し整理が出来た。

たった正味三日のグアムの旅、帰国後にグーグルアースを見ながら、そして改めて資料を読みながらグアム戦跡巡りの感想をここに記す。

2011/平成23年1月23日(日)記




アサン展望台より浅間(アサン)岬を望む



2010‎年‎9‎月‎18‎日、‏‎13:13:18.撮影

昭和19年7月21日早朝、真正面の浅間(アサン)岬と右手、山向こうの

見晴岬(アデラップ岬)との間、二キロの砂浜に米軍は大挙上陸してきた

迎え撃つ日本軍は、この高台に陣地を構え米軍を水際で撃退すべく戦った

すでに日本軍は制海権・制空権とも失い

上陸前の艦砲射撃・空爆によってほとんどの火力を喪失し、兵士の消耗も夥しいものだった

水際作戦は失敗に帰すも、この地を守備する第18連隊は

深夜、突撃を敢行し米軍に多大な被害を与えた。




昭和(アガット)地区・有羽山(アリファン山)



‎2011‎年‎1‎月‎18‎日、‏‎16:05:22 撮影

ガアン・ポイントより有羽山(アリファン山)を望む

歩兵第38連隊:末長常太郎連隊長ここにあり

この山頂付近の東側に連隊本部を置き、米軍上陸のその日

反撃のために総攻撃を具申し、

この地はグアム最大の激戦地となり米軍に一矢を報いた

米軍戦記には、この昭和(アガット)の戦いのことが

一番多く書き記されていたということである。



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