| 旅行記 | 安保 |
延吉・琿春・図們・龍井
2011:平成23年9月11日(日)~9月21日(水)
10泊11日

①大連:②延吉:③琿春:④張鼓峰:⑤図們:⑥開山屯:⑦三合(望閣江):⑧龍井
はじめにこれは旅行記にあらず。わが能書き也。今までのも同じだ。 思いのままを書き連ねる。同じ事を百篇でも千篇でも。 公開する以上見てもらいたい読んでもらいたいのは山々だが。 |
| (0) | 旅たち前:張鼓峰事件の戦跡を訪ねる |
| (1) | 9月11日(日)関空~大連~延吉へ出発 |
| (2) | 9月12日(月)延吉~龍井~延吉 |
| (3) | 9月13日(火)延吉~琿春~張鼓峰 |
| (4) | 9月14日(水)琿春~張鼓峰~防川村 |
| (5) | 9月15日(木)琿春~図們 |
| (6) | 9月16日(金)図們 |
| (7) | 9月17日(土)図們~傑満~開山屯~三合~龍井 |
| (8) | 9月18日(日)龍井 |
| (9) | 9月19日(月)龍井~延吉 |
| (10) | 9月20日(火)延吉~大連 |
| (11) | 9月21日(日)大連~関空 |
| (12) | 帰国後:番外編 |
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写真が大きいで~す。
1938/昭和13年:満ソ国境紛争:張鼓峰事件の現場

2011年9月14日、13:31:04.撮影
(左)将軍峰:(右)張鼓峰
張鼓峰事件の戦跡を訪ねるそして、まだ今にしてもこの二つの事件に対しての世間の評価は正されてないように思う。その評価とは『支那戦線とは違い近代兵器の総力を挙げて戦いを挑んできたソ連に張鼓峰事件で日本は痛い目にあいながら、ノモンハンに生かせず再度惨敗し、それらの惨敗に日本軍は学ぶことなく太平洋での米英蘭相手の近代戦に成すすべなく敗れた』等々である。 しかし張鼓峰・ノモンハンは原因も結果も私が知る世間のこれまでの評価とは全然違っており、つくづく自虐史観に基ずく戦後日本の戦史家・歴史家・メディアなどの罪深さには愕然とする。1938年:昭和13年7月末から二週間ほどのこの張鼓峰事件は、スターリンという独裁者が仕掛けた戦争であり、ソ連・ロシアと今にも続く彼等のDNAとも言える果て無き膨張主義が招いたものだ。 張鼓峰事件は極東軍KGB高官の亡命を機に、その失点カバーのつもりか?極東軍司令官がスターリンに張鼓峰占領を具申。それを受けてスターリンが自らの軍隊の「武器の精度・破壊力・効果・兵士の忠誠心・錬度」等々を試し、日本軍を試し、日本国の対ソ認識を試そうとした。スターリンという冷徹な独裁者がゲーム感覚で起こした戦いだ。 しかしスターリンは張鼓峰で相手に圧倒する近代兵器と兵力を投じながら、専守防御というハンディを背負っての日本軍にしてやられた。張鼓峰事件での司令官ブリュヘル元帥は、1938年10月、張鼓峰事件収束後すぐにモスクワに呼び戻され「片目が飛び出すほどの拷問を受け、間もなく獄死した」のがその証でもある。 その雪辱とモンゴルのソ連化及び満洲内蒙古支配を企みスターリンはノモンハンで用意周到の準備を整え再度国境侵犯を仕掛けたが、日本軍の奮戦によってまたしても屈辱を舐めたというのが私の思う両事件の真相だ。両事件とも国境での偶発的な侵犯が引き起こした戦いではない。共に意図を持ってスターリンが仕掛けた。 そんなゲームに付き合わされた日本軍は、張鼓峰では健気にも武器の制約・専守防御などいう圧倒的不利な条件で戦いながら相手に勝る戦いを行い満洲国境を死守した。満洲国境すなわち今の中ロ国境である。それまで極東に拡大するソ連に成すすべなく自国領土?を侵犯されていたのが支那である。日本軍が死守したこらこそ今の国境がある。 そしてこの張鼓峰・ノモンハンで日本軍に手痛い目を合わされた復讐からスターリンは、昭和20年8月9日、150万以上の大軍を持って満洲各地から侵攻し残虐非道の限りを尽くした。「張鼓峰事件」は決して日本の負け戦ではない。日本軍かく戦えり。
張鼓峰事件についての記述は、「われら張鼓峰を死守す」冨永亀太郎(著)から抜粋参照が多い。この旅行記の文章は、ごちゃまぜなのでイチイチ注釈はつけない。みんなパクリだと思ってもらっても構わない。 張鼓峰は、満洲・ソ連・朝鮮との国境を流れる豆満江に近い、湖・沼と河にはさまれた丘陵地帯にそびえる標高149メートルの山で、その名前の通り鼓を張ったような、稜線のきわだったきれいな山である。 その張鼓峰の戦いは、ソ連軍の高官がスターリンの粛清を恐れて、満ソ国境間島省琿春(こんしゅん)の分遣隊に亡命を求めて来たのが始まりです。その人物はソ連ゲ・ペ・ウ、リュシュコフ大将、時は1938年:昭和13年6月13日のことでした。 日本の陸軍省がリシュコフ亡命を発表した7月1日の五日後、関東軍情報部はソ連軍国境警備隊長から極東ソ軍司令部への張鼓峰占領許可の電報を傍受しました。次いでその内容を裏付けるかのように7月9日には張鼓峰にソ連軍兵士40名が現われて陣地を構築しだした。 ウィキペディアでの記載によれば「13日、これを監視中の松島伍長をソ連軍が不法に殺害した。」とあり、そして、現在の中国・朝鮮の張鼓峰事件の説明では、松島伍長の偵察と殺害が張鼓峰事件の切っ掛けであるかのように記している。確かにソ連軍による不法殺害は事実だが、それが切っ掛けと言うのは事実ではない。 昭和13年7月といえば、前年の昭和12年盧溝橋に端を発した支那事変も、すでに南京を含む北支一帯を占領し、日本軍は支那との戦いに全力を挙げていた。そんな日本はソ連軍の越境に「直ちに実力を持って反撃する態度にはでず」とした。 そして外交交渉での解決を目指すことを第一としながらも、朝鮮軍第19師団に対して応急派兵の準備を命じ、7月19日第19師団各隊は前線に集結を完了した。 その後交渉は進展しないまま、武力行使は陛下の反対もあって7月26日には撤退命令が下達された。その三日後、日本軍撤退の動きを見定めるかのようにソ連兵が張鼓峰の北側、沙草峰にも国境侵犯を行い陣地構築を始めた。 それを見た尾高(すえたか)中将が越境ソ連兵の駆逐を命じ、部隊の撤退の中止、前線への復帰命令を出した。 尾高中将は、沙草峰と張鼓峰は切り離しての処理としながら、沙草峰の保持は張鼓峰の確保が必要と7月30日張鼓峰への夜襲をかけ占領した。大本営も戦線拡大なきよう命じながらこれを認め、ここに張鼓峰での戦いが始まった。 ソ連軍は日本軍の三倍に及ぶ圧倒的な物量、戦車、飛行機をもって攻撃して来た。それに対して第19師団は一貫して戦線の不拡大、戦車なく、飛行機なく、あくまでも「専守防御」という、ソ連軍に対してあまりに不利な戦いを強いられながらも国境を守り抜き戦いぬいた。 この7月29日から8月11日までの約2週間に渡るソ連との戦いを日本では張鼓峰事件と呼んでいる。戦後の自虐史観によりこの戦いも日本軍の一方的な敗北とされていたが、ソ連軍資料などでも明らかになったように、 日本軍の戦死者:525名、戦傷者:913名。 それに対して ソ連軍の戦死者:717名、戦傷者:2,752名 死傷者数からも、そして当時、外電がこの戦いをどのように論評しているのかを見れば日本軍の敗北ではないことが分かる。 そしてソ連軍の不法越境によっての戦いも、第19師団の専守防御と言う献身的な敢闘によって沙草峰・張鼓峰の満洲国境を守り抜き停戦となった。停戦の条件として互いの占拠地より双方80メートルづつ後退することになり両軍の間に160メートルの緩衝地帯を設けた。 日本軍は停戦後ソ連軍との衝突を避けるためにすみやかに撤退したが、ソ連軍はそのまま現地に駐留を続け、翌年の解氷期を迎えるや、停戦協定を無視し張鼓峰頂上、52高地などの第19師団が幾多の犠牲を払って守り抜いたはずの要点に野戦要塞を構築した。 この事件を機に、この地域は朝鮮軍から関東軍に防衛移管をした。その後、現地を視察した関東軍、辻正信参謀は、貴重な血を持って守ったはずの国境が、すべてソ連軍によって占領されている事実に憤激した。 この現実こそがソ連であり、世界であり、日本の甘さであり、今もこれからも日本人が歴史に学ぶべきことの一つだと思います。 今日は2011年/平成23年10月20日です。今から73年前に、この辺境の地で満洲の国境を死守し、今尚この地に眠る日本軍兵士の方々に哀悼の意を表し心からご冥福をお祈りします。 張鼓峰の戦いは日本の輝ける歴史の一つとして子々孫々に必ずや語り継がれて行きます。そして国を守るために自己犠牲をいとわぬ精神は、日本人の遺伝子の中に受け継がれていることと信じています。 今の私がどうであろうと・・・。そして今の日本人がどうあろうとも・・・。 |
沙草峰と手前、丸池(蓮花湖)

2011年9月14日、12:22:48
沙草峰がどの山なのか皆目見当がつかないまま現地に行った
ここが、蓮花湖公園ということで行った
湖の向こうの丘陵が沙草峰だと分かったのは
ここを一旦立ち去り、戻って来た時だ
沙草峰の向こう側がソ連との戦場になった
なかなかこの状況で当時を想像するのも難しい
頂上にでも登らないと戦場の様子が分からない
北朝鮮:南陽 東寧重砲兵連隊自爆死す


2011年9月15日、13:32:20 撮影
図們大橋展望台より、北朝鮮「南陽」の東寧重砲兵連隊陣地構築跡を望む
終戦の二日後、東寧重砲兵連隊:渡辺薫連隊長(大佐)以下は
火砲と運命を共にすべく自爆の道を選んだ
詔書を奉読、訓示を行い訣別の宴を催した後
自動貨車、砲車に分乗し自爆を決行し
この図們対岸、北朝鮮南陽西の畑地にて
192名が死亡した
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