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旧海軍兵学校

平成16年11月1日撮影

「五省」

Five reflection

(一) 至誠に悖(もと)るなかりしか

Hast thou not gone against sincerity.

(一) 言行に恥づるなかりしか

Hast thou not felt ashamed of thy words and deeds.

(一) 気力に缺(か)くるなかりしか

Hast thou not lacked vigor.

(一)努力に憾(うら)みなかりしか

Hast thou not exerted all possible effort.

(一) 不精に亘(わた)るなかりしか

Hast thou not become slothful.


2004.10月31日:広島へ出発 
原爆ドーム・平和公園
江田島へ・11月1日
教育参考資料館:佐久間艇長の遺言
護国神社と広島城跡


2004・平成16年10月31日(日):出発

■広島へ出発
以前から一度行きたいと思っていた江田島へ一泊二日の旅に出た。10月の20・21日に行く予定だったのに台風23号の来襲で行けな くなったのだが、ちょうどこの二日間仕事の予約が入っていなくて急遽行くことにした。朝、大和ホテルに電話をし、一泊の予約をする。 4,600円であった。西明石〜広島ままでの普通乗車券は4,940円。AM9:39分発の新快速で姫路まで行き、姫路から広島まで は一部を除き各駅停車である。途中、福山で昼になったので途中下車し、駅前のラーメン店で定食(ラーメン・餃子・小メシ=700円) を食う。味と見栄えはちょっと違った。

・・・

福山駅より・・駅前で見かけたボンネットバス


広島に15:25分着。一度20代前半に陸送をしていた時に、平和公園を見たが記憶は薄い。家を出る時は、日差しも少しあり、そこそ この天気だったのに、岡山あたりから雨になり、広島では“雨”だった。傘をコンビニで買い、ホテル大和まで案内所で道を聞いて行った 。5分ほどで着いた。ホテルの部屋は窓からの展望も開け気に入った。路面電車に乗って、まず原爆ドーム前で降りる。雨の日だが、観光 なのか写真を撮ってる者がちらほらいる。平和公園を足元をビショビショにしながら歩き、例の「安らかに眠って下さい/過ちは繰返しま せぬから・・・」と書いている慰霊碑を、「間違いは繰り返しません・・・と言うのはアメリカ人の言うことやろ・・・」とつぶやきなが ら通り過ぎ、資料館へ入った。入場料50円。


原爆ドーム

外国人も多く、誰しもが静まり返った館内を黙々と平和を尊ぶ真人間の顔をして資料に見入っていた。私はほとんど素通りしながら、資料 を見るより、そこに来ている外国人の様子を観察していた。アメリカ人も多いのだろうか?一体奴らはこの悲惨な資料をどんな気持ちを持 って見ているのだろう???一瞬にして広島の街並みが壊滅した写真こそ、その原爆の威力を感じる。こんなもの、日本だけが北朝鮮や中 国から又やられたら・・・と考えると、やられっぱなしは絶対ごめんだと思う。早く日本も核を持たねば・・。


平和記念公園・・原子爆弾模型

熱心に見学とは程遠く、一周回って出て来た。そして、帰りはひたすら雨の中を歩く。歩く。歩く。びちょびちょになりながら。駅まで戻 り駅の中にあ食堂街で、お好み焼きを食った。せっかくの広島、広島焼きと言う“お好みの焼き”を。900円、高いが量は多い、こっち のモダン焼き風だが、関西の方が上手い。お腹は一杯になる。ぶらぶら散策して、歩きつかれて部屋に戻った。

夜の11時、三男から携帯に電話があり、長男が友達の結婚式のあと三次会で飲みすぎ病院に運ばれたとのこと・・・。急性アルコール中 毒で持続点滴。大変な一晩で、三男や家内と連絡を取り、病院での様子を聞いたり、心配したりで・・・ほとんど寝れずに朝を迎えた。結 局朝の5時過ぎに長男は目を覚まし、安心したが、びっくりの広島の旅の夜になった。


2004・平成16年11月1日(月):江田島へ


大和ホテル・広島駅・駅前路面電車乗り場

■江田島へ
ほとんど寝ないまま朝を迎え、朝風呂に入って身支度を整えた。天気は良さそうでホッと一安心。朝の7時に部屋を出て、一階の食堂でま ずモーニングを注文して腹ごしらえ。トースト・紅茶・サラダ・ゆで卵・味噌汁・お茶・・・計500円は安い。月曜日の広島駅に向かい 広島港行きの路面電車に乗る・整理券なるものもあったが、ほとんどの路線が150円のようだ。私も4,5回は使ったが全部150円だ った。広島港から見えるのは島、島、島の風景で、江田島も見える。あちこちに行くフェリーや高速船の船着場である。


路面電車広島港終点・広島港・高速船(870円)

江田島行きの船は小さな高速船で、9:05分発には3,4人だけの乗客だった。その内の一人の女性は、行き先は私と同じであった。い つか機会があれば行こうと思っていた江田島にとうとう着いた。バスに乗って術科学校まで行く。バスの出発までの待ち時間に運転手さん と少し話をした。なんと今日11月1日に江田島町が市になったそうだ。平成の大合併で近隣の4町が合併したそうである。市の名前を決 めるに際し、だいぶ揉めたそうだが・・・やはり江田島の知名度は消しがたく、江田島市となったらしい。良かった。


江田島・標識・海上自衛隊玄関


旧海軍兵学校・大講堂・ボストンからの来訪女性、元造船マン

海上自衛隊術科学校に10分足らずで到着。玄関で氏名と住所を書き、見学者のバッチを貸してもらう。そして控え室に行った。私と同じ 船に乗ってきた女性、そして、60代の男性の三人だった。事務所に案内をしてくれる男性が居て、海上自衛隊のPRビデオを付けて、「 10時半まで待っていて下さい」と言われた。テレビを見ている間に、年配の女性とや60代の男性の二人連れが来て、見学者は5人とな った。

少し後から知ったのだが、年配の女性は75歳の米国籍日本女性・・30年ボストン在住で、もと呉市民・・・戦時中、菊水隊(潜水艦・ 特攻ではない)を良く見送った大和なでしこ。連れの男性は、60過ぎの元造船マン呉の造船所で定年を迎え、上記女性の和弓の師匠で、 お父さんは戦争で海軍軍人で小笠原付近で戦死されたそうである。一緒の船だった30代の東京から一人やって来た女性は、お父さんが防 衛大学出の陸上自衛隊員、今は定年退官。空挺部隊、レインジャー訓練にも参加した方の娘さんで、もう一人の60代男性は身元不明?? ?・・・そして、私の計5人が一緒に見学となった。

案内の海上自衛隊OBの方(元潜水艦乗り=Eさん)は、商売柄?凄く話し上手で、その上、バリバリの真の保守派(笑)で話を聞いてい ても頷くことばかりで私たちとの話もはずんだ。ここは当然のごとく沢山の見学者あるようだが、あの憎っくき日教組の反日女教師が引率 の学生や生徒の団体見学の時も、在日韓国人が居ようとも、「自虐史観など糞食らえ」とばかり、日本の誇るべき軍神たちの話をとうとう と語るそうです。この場にふさわしい本当に頼もしいEさんでした。見学より身元不明の一人の男性を除いて、5人の話が盛り上がり、ゆ っくりと見たかった・・・資料が見れずに少し残念だったが、それ以上に、いろんな話を聞けて大満足の見学だった。

ボストン在住の女性は、最近の日本人の精神性や道徳の低下を憂慮されていた。米国から今の日本や日本人を見ると、そして、強い時代の 日本で戦前の教育の中で育った人から見れば、嘆かわしい今の現状がより鮮烈に感じるのだろうと思う。そんな彼女が暮らすボストンは今 年、ヤンキースを下し、ワールドシリーズでも4連勝でカージナルスを破ってチャンピオンになったレッドソックスの本拠地だったのだ。 学園都市でもあり日本人の留学生も多いようなのだが、総じて最近の日本人留学生は成績も悪く、親の仕送りで寮ではなくマンションに住 み、車で通学するなど、米国人の顰蹙を買っているそうだ。

日本人の駐在員も、戦後教育で大人になった日本人だから、子育ても躾が出来ず、日本の子供は現地の人たちから「ガキ(躾の出来ていな いペットのようなもの)」と言われているそうだ。やはり、国が滅ぶのは戦争でもなければ、貧困でもなく、高潔な精神性の低下、道徳心 の衰退こそが国が滅ぶ原因になるのだと痛感する。

見学コースは、Eさんが「普通は入れないのだけど、今日は内緒で・・」と大講堂の貴賓室にも入れてくれました。昭和天皇陛下も二回来 られたそうで、毎年、卒業式などに皇族の方が来られた時にも使用する部屋だそうだ。大正時代に立てられた大講堂はマイクなしでも、端 から端まで声が届く音響効果があるようで、中に入ればひそひそ話しもすぐに全体に響く。我々が普通に会話する声が響くので、ホントそ れは実感出来た。この大講堂は終戦後の駐留軍が接収していた時には教会として使っていたようである。


大講堂、元潜水艦乗りの案内係りの方と・貴賓室(天皇陛下及び皇室の方も休息した)


大講堂・教育参考館・大和の主砲46センチ砲の弾丸


真珠湾に侵入した特殊潜航艇・見学者仲間とガイドさん・帰りのバス道を歩く


■教育参考館(資料館)
じっくりと一日掛りで見学し、その内容を読み当時の雰囲気を肌で感じ、想いにふけっていたいほどの資料が溢れていた。その中でも佐久 間艇長(享年30歳)のメモも印象深い物であった。潜水艦の草創期の明治四十三年、佐久間艇長の潜水艇が広島湾沖で訓練中、潜行をはじ めるとまもなく海水が侵入し、そのまま海底に着水。もはや死ぬしかない状況になった中で、わずかな光を頼りに書き残しているメモであ る。その筆跡の推移がすさまじい現実を想像させるに十分の迫力があった。同じ人間でも、こうなれるものなのか???と。

その遺言は


佐久間勉海軍大尉:明治43年


艇長:佐久間勉海軍大尉


刻々と迫りくる死を前にしながらの遺言

小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ 

サレド艇員一同死ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ

我レ等ハ国家ノ為メ職ニ斃レシト雖モ唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハ之ヲ誤リ

以テ将来潜水艇ノ発展ニ打撃ヲ与フルニ至ラザルヤヲ憂ウルニアリ 

希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ

サスレバ我レ等一モ遺憾トスル所ナシ


沈没原因

瓦素林潜航ノ際 過度深入セシ為「スルイス・バルブ」ヲ諦メントセシモ 途中「チエン」キレ依ッテ手ニテ之シメタルモ後レ後部ニ満水 約廿五度ノ傾斜ニテ沈降セリ


  沈拒後ノ状況

一、傾斜約仰角十三度位

一、配電盤ツカリタル為電灯消エ 悪瓦斯ヲ発生呼吸ニ困難ヲ感ゼリ 十四日午前十時頃沈没ス 此ノ悪瓦斯ノ下ニ手動ポンプニテ排水ニ 力ム

一、沈下ト共ニ「メンタンク」ヲ排水セリ 燈消エ ゲージ見エザレドモ「メンタンク」ハ排水終レルモノト認ム 電流ハ全ク使用スル能 ハズ 電液ハ溢ルモ少々海水ハ入ラズ「クロリン」ガス発生セズ残気ハ五00磅位ナリ 唯々頼ム所ハ手動ポンプアルノミ 「ツリム」ハ 安全ノ為メ ヨビ浮量六00(モーターノトキハ二00位)トセリ (右十一時四十五分司令塔ノ明リニテ記ス)


溢入ノ水ニ溢サレ乗員大部衣湿フ寒冷ヲ感ズ 余ハ常ニ潜水艇員ハ沈着細心ノ注意ヲ要スルト共ニ大胆ニ行動セザレバソノ発展ヲ望ム可カ ラズ 細心ノ余リ畏縮セザラン事ヲ戒メタリ 世ノ人ハ此ノ失敗ヲ以テ或ハ嘲笑スルモノアラン サレド我レハ前言ノ誤リナキヲ確信ス


  一、司令塔ノ深度計ハ五十二ヲ示シ 排水ニ勉メドモ十二時迄ハ底止シテ動カズ 此ノ辺深度ハ八十尋位ナレバ正シキモノナラン

一、潜水艇員士卒ハ抜群中ノ抜群者ヨリ採用スルヲ要ス カカルトキニ困ル故 幸ニ本艇員ハ皆ヨク其職ヲ尽セリ 満足ニ思フ 我レハ常 ニ家ヲ出ヅレバ死ヲ期ス サレバ遺言状ハ既ニ「カラサキ」引出シノ中ニアリ(之レ但私事ニ関スル事言フ必要ナシ田口浅見兄ヨ之レヲ愚父 ニ致サレヨ)


  公遺言

謹ンデ陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ


  左ノ諸君ニ宜敷(順序不順)

一、斎藤大臣  一、島村中將  一、藤井中將  一、名和中將  一、山下少將 一、成田少將  一、(気圧高マリ鼓マクヲ破ラル如 キ感アリ)  一、小栗大佐 一、井手大佐  一、松村中佐(純一)  一、松村大佐(龍) 一、松村小佐(菊)(小生ノ兄ナリ)一、 船越大佐   一、成田綱太郎先生 一、生田小金次先生


  十二時三十分呼吸非常ニクルシイ

瓦素林ヲブローアウトセシ積リナレドモ ガソリンニヨウタ


  一、中野大佐十二時四十分ナリ


乗組員14名は、それぞれが自分の持ち場で絶命していたそうだ。その他、18歳や19歳で特攻隊員として散華された軍神の遺言が、数 多く展示されている。靖国でも知覧でも沢山の遺言が展示、紹介されているが、その字の達筆さとともにその落ち着きある達観した内容に 驚愕の念を禁じえない。出撃1時間前に書かれた遺言もあったが、筆も文章も乱れることは何もなく、淡々と覚悟と後世に託した思いを述 べる19歳の少年の遺言には言葉もない。

一体、人間は此処まで覚悟が出来るものなのか?洗脳や強制で作られた人間の文章では、あんな自然で素直な表現は有り得ないと確信して いる。60年前は日本人の精神が此処まで昇華した時代、私が羨ましく思う、最高の日本人が存在した時代なのかとも思う。確かに若者を 犠牲にしながら自分の保身を考えていた卑怯な人間も皆無だったとは思わないが・・・。それでもなお、命こそ掛け替えのないものであり ながら、その命を一番生きたい時に、毅然と捨て去ることが出来た少年たちが居た事は紛れもない事実である。彼らこそ私たちの父祖であ り、同じ日本人なのだ。それこそが後世の日本人に自らを犠牲にして残してくれた大切な尊い「宝」だと思う。

12時が過ぎ、見学は終了した。その後、三人(ボストン女性と元造船マンの男性の二人連れ)で、基地内の食堂で昼食を食べた。30代 の女性は船の時間があるからと、先に帰った。海軍ならカレーだと、三人ともカレー(450円)を注文した。そして話をしながらのひと 時を過ごし、もう生きて二度と会うことのないだろう一期一会の食事会だった。食べ終わったあと、二人ともお別れをし、私は基地を出て、 バスに乗って来た1.5キロの道を歩いて小用まで戻った。その後、船で広島港に戻り、又150円の路面電車に乗って、今度は広島城跡と 護国神社に行った。


■護国神社と広島城跡
原爆ドームの近く、広島カープの本拠地、市民球場のそばに護国神社はある。そこで二礼二拍手一礼をして、手を合わせた。ちょうど私が お参りをした直後に中国人の5人くらいの団体が一人の日本人に案内されて来ていた。奴ら中国人は、靖国神社と同じような意味合いの護 国神社に対してどんな態度をとるのだろうか?と見ていた。手も合わせず、賽銭も入れずだったが・・・それ以上のことも何もせず、大人 しく見ていた。何かしやがったら、文句を言ってやろうと・・・見張っていたのだが。

その後、広島城に登ったが外見と違い鉄筋コンクリートであった。天守閣の最上階から、病院から退院して来た長男と携帯で話をした。い つものようにぶっきらぼうな話し振りに、腹が立ったが・・・。こっちはお前のお陰でほとんど寝ないで今日の旅となっていると言うのに、 親しき仲にも礼儀ありだ。又、後から文句を言うぞ。さあ、一泊二日の広島、江田島の旅は終わった。来て良かった。術校のガイドさんが、 いつもEさんだったら良いのにと思う。5時11分発の新幹線に乗り、西明石着は7時38分だった。2時間27分・・・「ひかり」「の ぞみ」の通過待ちの時間も多かったが・・・。

・・

広島:護国神社

・・

広島城:鉄筋コンクリートだった・・・がっくり。江田島への旅は終わった。

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