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第9回 「UC植物園とお正月とやっかいな病気」

1998年元旦
 元旦は家族が余所余所しくなる日です。子供の頃からそうでした。朝、起きだして家族に洗面所や台所で顔を合わせると「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。」と新年の挨拶をします。それをしないと父親に叱られました。大晦日のテレビのチャンネル争いで口汚く姉弟喧嘩をした翌日、にこやかに弟たちと挨拶を交わさなければならないので、子供心に口惜しいような、気恥ずかしいような思いをしたのを昨日のことのように思い出します。
挨拶の後、食卓につくと母が前日「紅白」も観ずに丹精してこしらえたおせち料理が出てきます。父は朝風呂上がりで、着流しに薄い滝縞の丹前をはおって座椅子にあぐらをかいています。母は父のための日本酒と、子供用に「バヤリース」のオレンジジュースを持ってきて乾杯の用意をととのえます。背筋を伸ばして家族5人が席に着くと「去年までの反省と、今年の抱負を言いなさい。」と父のおきまりの文句が聞こえ、畳のヘリをなぞったり、イグサをむしったりしながらやっとの思いで反省と抱負を語り終えると次に乾杯、そして食事です。おせちをつつきながら、ホッとするのもつかの間、そこからが本格的な父の長話が始まるのです。想い出話だったり、教訓じみたお説教だったり…でもわたしは父の話が好きでした。結婚して、自分の家族を持つ身になってもその習慣が無意識のうちに出てきます。3つ子の魂は執念深いものだとつくづく思います。おせちを前に、2歳児と5歳児をつかまえて「ことしは、どんないちねんにしたいですか?」などと去年もやってしまいました。
 しかし今年は、おせちが無いので気分が盛り上がらず、それもやりませんでした。パンをかみかみ、「あけましておめでとう。」はちょっと不似合いな気がして挨拶もろくに交わしませんでした。お正月というと、子供の頃のかしこまった朝の食卓がすぐに浮かびます。きりりとした朝の空気と、特別な部屋の温度と少し緊張した家族の顔が「ハレの日」という言葉と相まって、わたしは元日の一日が好きです。失敗や後悔があってもこの日を境にまた一からやり直せる気がして…そんなものばかりがやたらに多いわたしにはありがたい一日でもあるのです。


1月2日
 UCバークレーの丘の中腹にあるUC植物園は全米の大学付属植物園の中でも屈指といわれています。広大な園内には13000種類の植物が棲息し、その植物もカリフォルニアにとどまらず、世界中から集められています。正月ムードでひっそりとした大学構内をぬけ、今日、そのUC植物園に行って来ました。南米エリアでは木肌のがっちりした巨木に目をうばわれ、中国エリアで漢方に用いられる薬草の香りにうっとりし、時にユーカリの大木の下で風に吹かれ、サボテンの大きさに驚き、すっかり童心に返って楽しみました。田舎道をのんびり歩くかのような遊歩道もそれだけで味わいがあります。
 中でも日本庭園にある楓が石灯籠の据えられた池にたくさんの葉を落とし、水面の葉が風でふるえている様を目にしたときは思わず、「日本ってやっぱりイイ国だなあ…。」などと感じ入り、しばらく庭石の上に腰掛けていました。


1月3日
 昨日の植物園に味をしめて、今日は同じくUCの施設であるローレンス科学館へ行って来ました。1階にはプラネタリウム、特別展示などがあり地階は実験室やカフェ、科学教育センターなどがあります。ほとんどの展示物は無垢な好奇心で科学をおもしろがる子供たちのためのものです。特に興味深かったのは、子供自身が捜査官になり、ある事件を解決するというシチュエーションの元で、指紋検出、DNA測定、匂いの測定、クロマトグラフィーなど本格的な科学捜査を実際に体験出来るというものでした。ちょとした体育館ほどの広いスペースがすべてこの「捜査ごっこ」のためのもので、「事件現場」のつくりもリアルで子供たちが実際の視線の高さで現場検証が出来、体感できる仕組みになっていました。当然、長男は面白くて動きません。こんなふうに子供を釘付けにしてしまう魅力的な実験科学館が日本にもあればいいな…と思いました。地階の実験室には、生物学専攻の大学生がいて、子供たちに動物を触らせ、生態などを説明をしてくれました。長男とわたしは、生まれて初めてヘビに触れました。読み聞かせる絵本の中にしばしば登場する爬虫類。けれど、日本人にとって爬虫類は身近な存在とは言えません。
 初めはおそるおそるだった長男も、さわりなれてしまうと「ヘビってつめたくてかたいものだと思っていたけど、やわらかくてあったかいんだね。」とつぶやいて、おとなしいヘビ君から離れようとしませんでした。絵本の中では憎たらしい悪役の多いヘビ君が意外にもやさしく、おとなしかったので長男はヘビが好きになったようです。ふれ合えばそれだけでわかり合えることもある…たくさんの生物と共生すべき一族としての大切なことも教えてくれる科学館でした。


1月10日
 正月休みも終わり、長男の学校が再開しました。この日のほとんどの授業は、次週、日系のシルバーセンターで行われる劇「うさぎとかめ」の練習にあてられました。英語を日常語としながらも日本語を習い始めた子供たちが、日本語を忘れてしまう程の長い年月をアメリカで過ごした日本人のお年寄りのために民話を演じてみせるという、心あたたまる企画です。12月に途中入学をした長男は、体を少し硬くしながらも「うさぎとかめ」の劇中歌を大きな声で歌っていました。


1月11日
 実は3日ほど前の夕刻、突然見ず知らぬ女性から電話をもらいました。「わたし、トキコといいます。エメリービルに住んでいるのですが…レイコさんからあなたのことを聞きました。一度、遊びにいらっしゃいませんか?」というものでした。それだけ聞いても最初、何のことだか分からず「失礼ですが、おっしゃっていうことが良く分からないのですか…。」と聞き返してしまいました。よくよく話を伺ってみると、わたしのヘア
カットのため、毎度自宅まで出張して下さっている美容師のレイコさんが、わたしのことを同じお客さんであるトキコさんに話してくれたらしいのです。そう言えば、以前ヘアカットをしてもらった時、エメリービルには日本人が少ない、近所に友達が出来ない…というようなことをレイコさんにお話した心当たりがありました。やっと事情が飲み込めて、「わざわざお電話下さってありがとうございます。ぜひ、近々お目にかかりたいです。」ということになりました。
 トキコさんはご主人の仕事の都合で、アメリカ生活は8年目になるそうです。日本人離れした社交性と開拓精神を持った女性とお見受けしました。「話は早い方がイイわ。今週末に夕食にいらっしゃいませんか?ポットラック(持ち寄り)でやりましょう。あなたは何を作ります?わたしはチキンを焼いて、パスタを用意するわ。」なるほど、話がハヤイ…。気持ちのよいほど迷いが無い、トキコさんの言葉に圧倒され「はい。ええと…わたしはデザートとサラダを作ってうかがいます。」と反射的に答えていました。


(トキコさんちのディナー)
 トキコさんの住むコンドミニアムは、エメリービルで一番高層の建物です。海に面していて、ゴールデンゲートを含むサンフランシスコの夜景はさぞ素晴らしいだろうと想像していました。トキコさんのお部屋は16階にありました。部屋はオーシャンビューではなく、オークランドの丘を臨む部屋でしたが、オークランドダウンタウンから丘にかけての高級住宅地までが一望に見渡せて、夜景も素晴らしいものでした。実際にお逢いしたトキコさんは、色白で目鼻立ちのくっきりとした美しい人でした。お化粧は感じさせませんでしたが、肌の透明さと彫りの深さだけで美しさの為の装いは充分なされているという印象でした。貿易会社を営む日本人のご主人は、冒険家のようなたくましさと少年のようないたずらっぽさを併せ持つ方で、聞けば大学卒業後、何年もヨーロッパを放浪していたといいます。ちょうど10年前アメリカに来て、自力で会社を興したのだそうです。そんなステキなご主人との間にふたりの男の子がいらっしゃいます。「うちの中は日本です。子供も日本のおもちゃが大好きだし、絵本もビデオも日本製。漬け物をつけたり、和菓子をつくったり、やっぱり長く暮らせば暮らすほど日本の良いところが見えてきますね。まあ、その逆もありますけれど…。」肩をすくめてオーバーアクションで話すトキコさんは、わたしから見ればすっかりアメリカンといったふうなのですが、意外にも日本的な生活を大事にしていらっしゃるので驚きました。
 「息子はバイリンガルの学校へ行かせています。たくさんの人種が均等にいる学校をわざと選びました。子供たちはアメリカで成長してゆくわけだから、まずは、世の中にはいろんな個性、考え方があるってことを肌で学んで欲しいんです。」そんなふうに話すトキコさんに感心しながら「日本から離れて、日本の子供たちのことをどう思いますか?」と質問してみました。
 「アメリカには少し前〈子供にとって幸せな時代〉と言われた時がありました。それは文字通り子供たちにとって物が豊かで食べ物も豊富、情報も多く、欲しい物はすぐ手に入る、兄弟も少ないので親の愛情も受け取りやすい…そんな一見、子供にとって満ち足りた時期に少年犯罪が激増したんです。その時、専門家や教育者などを先頭にこぞってそれを問題にして、なにが原因なのかを探求したんです。心が豊かじゃなかったのね。子供にとっての幸せはもっと次元の違うところにあるということが理解されてきたんです。その頃のアメリカに今の日本はそっくりだと言われています。日本の子供たちはある意味で、危ない時を迎えていると思うし、これからもっと犯罪が低年齢化してゆくと思いますね。」うむむ…。本当にその通りかもしれないとわたしも考えさせられました。井の中の蛙社会では海の広さも知らなければ、蛙以外の生き物がいることすらも知らない(知ろうとしない)。だからどうしたって蛙同士の考えを比較して善悪を論じ合うしか方法がない。でも、実際に海を越えた場所には、イモリもザリガニもタガメも住んでいて、それぞれいろんな考えを持って発言しあっている。蛙社会からひょんな事で海に飛び出した一匹の蛙が、長らく井戸の中を覗いていると、そのどっちもが間違いでもっと違う考え方もあることに気づく。
 むかし、井戸の中にいたトキコさんはとても哀しいだろうと思います。


1月17日
 エルセリートにあるシルバーセンターで予定通り「うさぎとかめ」の劇は行われました。数人単位で集まってくるおじいちゃん、おばあちゃんたちは英語で世間話をしながら会場に入って来ます。(この催しは毎年行われているので)日本語学校の校長先生とも顔見知りで、先生とはきれいな日本語で歓談しています。英語で話すのを除けば、日本のどこにでもいる、どこででも見かける普通のおじいちゃんとおばあちゃん。少し背中を丸め、地味色のセーターにゆったりめのズボン、おばあちゃんは小さな巾着袋を手に持って、中からタオル地のハンカチを取り出して老眼鏡をお掃除している。日本の老人のお手本のようなおじいちゃんとおばあちゃん。物静かで、慎み深い。けれど、知った顔が会場に入ってくると、「Hi!Takiko.How are you?long time no see.」なんて言ってニコニコ笑っている。日本人の心を忘れることなく、アメリカで陽気に暮らす…を実践なさっているこんなお年寄りをみるにつけ「昔のひとは強いなあ。」とつく
づく感じてしまいます。


1月24日
 今日は長男の学校に「鏡会」という餅つきパフォーマンスが来るというので、家族で出かけました。この学校は子供たちに日本語を教えるのと同時に、日本の文化や歴史などにも親しむ機会を作ってくれます。普段の授業も「日本という国は美しい文化を生み出した歴史のある国です。だから、そのひとつである言語というものを大切にしなければいけません。」という先生方の真摯な思いが伝わってくるようで素晴らしいのですが、その他に、年中行事や古典芸能、昔話や玩具作りを事あるごとに教えてくれます。
 あるご父兄の方が言っていました。「日本に住んでいるころは気づきもしなかった日本文化の素晴らしさが、ここにいると強く感じられるんです。外国で暮らしているとそれを大切にしなければ…という思いが強くなるものです。」と。「にわか住民」であるわたしにも、その感覚はわからなくもありません。ふと入った美術館で浮世絵を目にした時、お寿司屋さんで清潔な調理服を着た板前さんが、見事な手さばきでピカピカのにぎり寿司を作り並べるのを見ているとき、バークレーにある和紙のお店ですがすがしいお香の匂いに包まれた時、わたしの体の緊張がゆるやかにほぐれていくのを感じるのです。それは、形はものすごく気に入っているのだけれど、殺人的に重いコートを家に帰って脱ぎ捨てた時の脱力感と解放感のようなものに似ているのではないかと思います。外国で暮らすというのは、「はたから見れば格好の良い、実はとんでもなく重たいコート」を着ているようなものかもしれないと近頃思います。「やせがまん」的な忍耐をどこかで強いられているのです。それを癒やしてくれるのは、そんな「古い日本的なものたち」なのです。もっとも日本にいたときは、そんなありきたりなモノに癒やされた経験はなかったのですけれど…。

 閑話休題。餅つきの前に、7つのブースにわかれて小文化祭のようなものがありました。習字、和紙人形作り、凧作り、独楽作り、かるた取り、竹細工、そしてお母さんのための寿司作りの実演販売…こんなことを子供たちに丁寧に教えてくれる学校が日本にどれだけあるでしょうか?
実を言うと「たかが餅つき」とわたしは思っていたのです。去年、日本の幼稚園でも息子は経験していますし、物珍しくもないと。ところが違いました。「鏡会」の方たちはサンフランシスコに本部を持つ本格的な餅つきパフォーマーの集まりで、アメリカではあちこちからお声がかかるほどの人気グループだそうです。写真を見ていただければおわかりになると思いますが、笛と太鼓のお囃子に合わせてかけ声も凛々しく、リズミカルに純白の餅をつきあげていく…まさに芸術でした。しんみりとお囃子を聞いていたらなんだか泣きたくなりました。心にしみました。(またしても、重いコートをさっさと脱いで)「こんな美しい音色の楽器をあやつれる、やっぱり日本人ってイイなあ。」と根が単純に出来ているわたしは、またしてもしみじみとしてしまいました。つきたての餅を子供たちが丸め、そのやわらかさとあたたかさを肌で感じ、みんなでお腹いっぱい食べました。子供も大人もイイ顔をしていて、その顔に囲まれているだけで幸せな気分になれました。


1月26日
 美和子さんと初めて逢ったのは、昨年帰国された智美さんのお宅ででした。その時はまだ、わたしはアメリカの地を踏んだばかりで、体じゅうに緊張の鎧を着ていました。その日は親子3人で外出するのも初めてという日でしたので、「はじめまして。」の挨拶も口元あたりがひきつっていたかもしれません。美和子さんはわたしより2ヶ月早くアメリカに来ていました。「わたしには少しも緊張感なんてないわ。楽しくて仕方がないの。もともと、どんなことにも大変だって感じたことがないのよ。」そんなふうにサラリと言ってのける美和子さんを見ていて「こんな人も世の中にはいるんだな。わたしは人間が小さくできているんだな。」と少し悲しくなりました。美和子さんはその時、お腹にふたり目の赤ちゃんがいて、外国での出産にも不安は無い様子でした。それどころか「7月に赤ちゃんが生まれたら、体が自由になるのでサンフランシスコの洋菓子学校に入学するの。」と早くも出産後の日々に思いを馳せていました。美和子さんは日本でケーキ教室を開いておられた洋菓子作りの先生で、テーブルコーディネイトやフラワーアレンジメントという流行の横文字資格も併せ持ち、そちらにも生徒さんがいたそうです。まさに、食と住のトータルコーディネイトを専門的に勉強していらしただけあって、美和子さんご自身も華と香があるような美しい人です。
 平凡な人間は哀しいもので、自分に無い才能とパワーを持って生きている人を見ると、近づいていくより少し遠巻きにして見ていたくなるものです。そんなわたしの姑息な思いがいつしか美和子さんを遠い世界に住む人にしてしまったのでしょう。YWCAなどで、時々顔を合わせてもありきたりの挨拶を交わすだけで、それ以上のことはありませんでした。でも、わたしはずっと彼女のことが気になっていたのです。

 初めて美和子さんにお逢いしてから実に8ヶ月という月日を経て、ふたりきりで話す機会を得ることが出来ました。息子の学校で美和子さんとばったり逢ったのです。「あなたの所に遊びに行きたいとずっと思っていたんです。近い内に誘って下さいませんか?」美和子さんは開口一番、笑顔でこう言いました。思いもよらぬ言葉でした。そして今日、ふたりの坊やを連れて、手作りのケーキを抱えて、美和子さんが遊びに来てくれました。
 知れば知るほど、彼女は気配りの行き届いた女性です。たえず相手が楽しい思いをしているかどうか…彼女の視線はそれを探るアンテナのようです。その上、彼女はそれを人に悟られないようにと気を配ってもいます。でも彼女は少しも疲れていません。彼女のまわりには美の妖精が飛び遊んでいて、彼女にたえずパワーを与えつづけているようなのです。照明、テーブルクロス、花瓶、花、燭台、食器、そして暖かい料理、デザート、会話、振る舞い…心地よい空間でくつろぐのは、誰にとっても至上の喜びと言えるでし
ょう。それに精力を傾け、どうしたら人に喜んでもらえるか、くつろいでもらえるか、試行錯誤しながらも、受け手ではなく施し手になることの喜び…それを美和子さんは知っているのです。「美しいことは、それだけで人を感動させるでしょう?わたしは美しいものと美味しいもので人を感動させたいんです。」美和子さんが自ら試作品と呼ぶケーキを口にしてわたしはすべてを納得しました。「深くて暖かい味ですね。お菓子ひとつでこんな幸せな気分を味わえるなんて驚きました。」わたしが感想をもらすと、美和子さんは何も言わず、ただ「ふふっ。」とうれしそうに笑いました。


1月27日
 トキコさん家族が夕食にみえるので、わたしはサラダを早めに作って冷やしておこうと、たくさんのジャガイモの皮をむいてシンクのディスポーザーに落とし、回転させました。
ガガガッ…といつものけたたましい音がするのにジャガイモの皮は吸い込まれていきません。ここで少々説明しますが、このアパートのシンクには生ゴミを攪拌し、集中して処理するシステムが付いていて、排水溝の中には回転するひき臼のようなものが入っています。スイッチを入れるとそれが回転して生ゴミを粉々にし、下へ落とすのです。使い初めは「アメリカには、なんて便利なものがあるんだろう。やっぱり男女平等、レディファーストの国だ。(カンケイあるのか?)生ゴミごときで女の手は汚させないんだな…。」と感心していたのですが、使い初めてすぐ、わたしはフォークが排水溝に落ちているのに気づかずディスポーザーを回転させ、完全にディスポーザーの息の根をとめてしまい、入居後、初めてリペアマンのお世話になったのです。それからというもの、この便利な品物がすっかり怖くなってしまいました。でもこれを回転させないと水が排水溝に流れ落ちてくれないので一日、何度と無くこの脅迫的にけたたましい音を聞かな
くてはならないのでした。それがまたしても正常に作動していないということは…。
「あーあっ。こわれちゃった…。やっかいだな。詰まったのかな?リペアマンをまた待つのか。いやだな。」ぶつぶつと独りごちました。(電話修理の一件はわたしのなかで完全な学習的効果となっていました。)
トキコさんのところへ電話をしました。「トキコさん、ディスポーザーが故障してシンクに水がたまってしまっているの。お夕食、きちんとしたものが用意できるかわからないのだけれど…。」すると行動力のあるトキコさん「トイレット用のスポイトを持っている?ほら、排水管が詰まったときシュポシュポってやる、あの…。なに?持ってない?じゃ、持っていく。10分で行くわ。待ってて…。」わたしの返事もろくに聞かず、電話を切ったトキコさんはちゃんと10分後には我が家のシンクにスポイトをあてがってシュポシュポっと精を出してくれていました。「やっぱりだめだね、こりゃ。リペアを頼むしかなさそーだね。症状を説明して…。」トキコさんはさんざん吸引したけれどちっとも働かないテキに降参した格好でこう言いました。「説明か…。やっかいだな。わたし英語ダメだからね。」わたしは気が重くなってしまいました。「よし、わたしがやるよ。書類書かなきゃならないでしょうから、一緒に来て。」というわけで、トキコさんの鮮やかな英語をオフィスで聞き、鮮やかに修理要請書にサインして事は済みました。
 わたしといえばトキコさんの横で廊下に立たされた小学生の様な顔で突っ立っていました。姉御肌のトキコさん、マカシトキッ!のトキコさん。あなたのような人とわたしはもっと早く知り合いたかった。


1月28日
 修理人の女性はお昼頃やってきました。電話修理の時と違い、48時間以内の約束通りです。黒人のぽっちゃりした背の低い修理嬢は手の中に収まるような小さなL型レンチでアッという間にディスポーザーの詰まりを直してしまいました。報告書の修理所要時間の欄に「3分間」と書き込んで、さて…と言う感じでわたしに向かって話しかけてきました。あまりに仕事が簡単に終わってしまったので何か世間話でもして帰ろうかな…という顔つきでした。「わたし、この間レストランに行ったんだけど、寿司の変わったのを食べたの?寿司って普通どうやって作るの?」質問されてわたしはとまどいました。
 「ええっと…なんて説明すればいいのかな…。」と日本語で独りごちたあと、実物を見せるのが手っ取り早いと判断し、巻き簀をおもむろに引き出しから引っぱり出し冷蔵庫から海苔を取り出し、「サワーライスをこの上にのせて、アボガドやその他好きなものを巻き、切る。カリフォルニアロールはこれでオーケー。」という中学生レベルの英語で対応しました。「オーッ。アイシー。でもわたしが食べたのはそれじゃなかった。すごく美味しかったから自分で作りたいのに。」むむむ…。「どんなのだった?」と聞くと「レタスみたいな葉の上にご飯がのっていた。肉とかエビとか好みのものをはさんで、巻いて食べるの。」なーるほど。「それは日本の寿司じゃないと思う。中国のものじゃないかと思けど…日本食レストランで食べたのなら、それはライスサラダというものかも知れない。」というようなことをたどたどしい英語で答えました。「サンキュー。わかったわ。ロール寿司の作り方ありがとう。」と言って報告書をピラピラさせてドアをでてゆきました。「ハアーッ。たかだかコレくらいの修理の応対にこんなに疲れてどうする?」座り込みたいほど疲弊を感じている自分に叱咤しました。「自分で意識していなくても気が張っているのかな。どうしてこんなに体が重いんだろ。」何故かわたしは本当に疲れていました。体が無性に重く、昨日から背中には鈍い筋肉痛のような痛みもあります。これがあの病気の前触れだとはこのときは気づかずにいたのです。


1月29日
 本当は29日は午後から英語のレッスンがあるはずだったのです。でも28日の夕刻から例の筋肉痛のような背中の痛みは胸の方にまで移り、その痛み方も尋常じゃなくなってきていました。ユリさんに電話をし、とりあえずわたしは欠席するので会場をうちではなく、ほかのメンバーの家に代えてもらいたいと伝えました。ユリさんの「明日、また電話するから。」という心配そうな声を聞いてから受話器を置きました。28日の午後11時、痛みがいよいよという感じでひどくなったのでわたしは心配になってきました。思い切って日本のヘルシーダイヤルという健康相談センターに電話をかけました。
 40分ほど待たされてのち日本から電話が来ました。東京女子医大の内科の先生からでした。胸がひどく痛むこと、背中に突き抜けるように痛むことなどを話すと「お声の感じからして肺じゃないと思います。一度、近くの医師に診せてください。」と言われました。そしてわたしは眠れないのを知りながらもベットに入りました。冷湿布をした胸と背中はかきむしりたくなるほど痛く、とてもじっとしてはいられません。夜中、何度もベットから跳ね起き部屋の中を徘徊していました。

 そして今朝一番で、エルセリートの日本人医師のところへ電話をかけましたが、長期休暇を取っているとのことで診てもらえませんでした。そうこうしているところへユリさんから電話があり、オークランドの日系アメリカ人医師の電話番号を教えてもらいました。しかし、この病院も「今日のアポイントメントはいっぱいです。明日以降に予約してください。」と断られました。わたしは、痛み止めを使っていました。4時間ほどすると効果が失せてきて、また痛みは激しく舞い戻ってきました。本当は、一刻も早く病院へ行きたい心境でした。夜になって、ひどくなるばかりの痛みに不安を感じ、以前、息子が診ていただいたことのある、
サンフランシスコのジェラルド.リー・ドクターへ電話をしました。
 リー先生には7ヶ月前、次男が発熱したときに診ていただいて以来でした。日・中・英・そしてスペイン語の4カ国語を自在に操る「歩く音声多重放送」のようなドクターです。「今日すぐに診てあげたいんだけれど、実は今、僕は仕事でサンフランシスコを離れているんだよ。明日、いらっしゃい。」そう言われたあと、わたしの症状を詳しく聞いて「帯状疱疹だと思う。たぶん間違いない。心臓や肺じゃないから心配しなくていいよ。」とおっしゃいました。


1月30日
 リー先生の顔を見たら少しほっとしました。「痛む所を診せて。まだ、発疹がでていないね。けれど、そのうち出てくると思う。」そう言ってリー先生は処方箋を書いてくれました。「でも先生、電話だけで帯状疱疹だと分かるなんてスゴイですね。」とわたしが感心して言うと先生は笑いながら答えました。「それぐらいの事、声をきいただけで分からなきゃ僕は医者にはむいていないということになるね。それにしても、どうして
もっと早く僕に電話をくれなかたの?夜中でも診たのに。」わたしは「リー先生の病院がもっと近かったら真っ先に電話していたと思います。」と答えましたが、内心どうしてもっと早くリー先生に電話しなかったのだろうと悔やまれて仕方がありませんでした。


1月31日
 リー先生の言われた通り、胸の下に赤い発疹が出てきました。痛みは相変わらずすさまじいものでしたが、リー先生が言いながら出してくれた「アスピリン20個分の麻薬のような痛み止め」のお陰で眠ることも出来ました。本当はこの神経痛は冷やしてはいけないそうで、激痛の初日、冷湿布をして悶絶しそうになっていた自分がかなしくなりました。知らないということは誠に恐ろしいことです。


2月1日
 痛みは手や顔、耳の中にまで達してきました。左半身の皮膚表面は神経がむきだしてしまったかのように過敏で、パジャマのこすれにもイライラします。湿疹は蕁麻疹のように丘状に盛り上がり、その部分の痛みは特に激しく、痛み止めが切れるのが早いと感じます。


2月2日
 痛みは足の付け根に移った。どうしてこんなふうに痛みが飛ぶのだろう。鏡で背中と胸を映してみたら、こぶし大ほどの丘が5,6カ所もあった。ただひたすら痛い赤い湿疹と、皮膚の過敏な神経はどう考えても不釣り合いで「変な病気にかかってしまったな。」と思う。


2月4日
 リー先生に診てもらうため、サンフランシスコへ行く。「ひどくなってきたね。この病気は疲れちゃいけないんだ。外出は当分の間いけないよ。よけいな事を考えず、ひたすら休みなさい。」リー先生にそう言われて「最初に診ていただいた時、先生は完治まで2週間とおっしゃいましたよね。」と尋ねてみました。すると「うん、普通はね。でも、君のは手当が遅れたので長くかかりそうだ。あと2日早く、薬を飲んでさえいれば湿疹も出なくて済んだのかもしれないがね。2ヶ月…というところかなあ。」完治まで2ヶ月…。痛みはいつまで続くのだろう。


2月7日
 日本から友人と子供たちがやってきました。本当ならば、わたしが観光地を案内し、彼女たちの旅行の手助けをしなければならないところですが、わたしにはまだ、しつこく痛みがついて回っていました。友人にとっては、楽しみにしていた旅行です。私の病状を聞いて恐縮しながらも予定通り、我が家へやってきました。わたしは当初考えていた日程を大幅に変えました。彼女たちに2日間、サンフランシスコのホテルに宿泊してもらい、モントレーへのバスツアーに乗ってもらうことにしたのです。そして、その他の6日間は我が家へ泊まってもらうことにしました。思うようなもてなしが出来ませんでしたが、旅行を楽しんで帰路についた彼女たちを見て、わたしは安心しました。


2月16日
 エルニーニョの影響で今年の雨季は長いと、連日、新聞やテレビで伝えています。雨に弱い、ここカリフォルニアではあちこちで土砂崩れや洪水が起きています。ぼんやりと痛む体は、この長雨のせいかよけいに重く感じます。子供たちも毎日のように窓から外をながめては「パパに買ってもらったマウンテンバイクに早く乗りたいのにな。」「ママ、サッカーボールを家の中で転がしてはダメだよね。」とつぶやいています。長男は今日も朝から雨の止み間を待って、窓辺に椅子を持ち出して張り付くように外をにらんでいました。そんな長男が突然声をあげました。「ママ、変な虹が出ている。すごいよ。見て!」と。見るとアパートを抱き込むような形で、大きくて鮮やかな虹が窓いっぱいにひろがっています。わたしたちの視線からだとちょうど真正面に、まるで子供が画用紙いっぱいに描いた絵のような虹がかかっているのです。「虹は七色」と子供の頃教わりましたが、確かに七色の帯のように見えました。「ホント、すごい虹だね。」とわた
しが言うと長男は納得出来ない様子でこう言いました。「ママ、すごいのは、この虹が双子だってことだよ。」よく見ると、くっきりとした虹の外側にボンヤリと4色くらいをグレーの空に滲ませたもうひとつの虹がかかっているのです。この雨季の間じゅう、わたしは至る所で虹を見ました。30年以上の人生で、こんなに頻繁に虹を見る一年は後にも先にも存在しないだろうと確信できるほどにです。ある所では巨大な虹の一片がビルとビルの間に垣間見えました。雨の止み間に照りだした太陽が、持っている輝きのすべてを太いホースから一瞬に注ぎだした光のシャワーのような虹です。不気味なほどに現実感の薄いセロファンの虹の様にも見えました。虹にも十色、様々な表情があるのだと気が付いたのも最近のことです。

 長男が雨を疎んじて窓辺で空をながめていると、「双子の虹」がやってきてこう言いました。「ぼくひとりの力では、雨は止みそうになかったので[虹にいちゃん]を連れてきた。にいちゃんが来ればもう大丈夫。もうすぐ、雨は止むからね。」やさしい虹。ゆかいな虹。つめたい虹。こわい虹。今日、アパートに遊びに来た虹は、嬉しいことにとても愛らしい双子の虹だったのです。


2月19日
 渡米以来、親しくしていただいたユリさんが今日の飛行機で帰国しました。昨晩、最後の夕食にご一緒させていただいて、いろんな話をしました。実は、勉強している翻訳の腕試しにと参加したコンクールで、今年、彼女はみごと最優秀賞を受賞したのです。わたしが音頭をとってお祝いの会を開きたい…と思っていた矢先、例の病気にかかってしまい、ユリさんに会うこともままなりませんでした。わたしは気持ちばかりがせいて、体が思うようにならぬまま、それでも「なんとかユリさんの帰国までに会を開きたい。」と思っていたところ、それを察して彼女の方から昨晩の夕食に誘ってくれたのです。本当はご主人とふたり、2年半ほどのアメリカ生活の日々をしんみり振り返りたかったでしょうに、人の気持ちをくみ取るのが上手いユリさんのこと、わたしの苛立ちを承知していたのでしょう。「近くのレストランで内々だけの気取らない夕食会をしたいと思っているのですが、いかがですか?」と電話をくれました。頭の回転が早く、涙もろく、
 控えめで奥ゆかしく、「赤毛のアン」や「若草物語」を愛する少女のようなユリさん。「一足先に日本へ帰るけれど、また、すぐに会いましょうね。」と言って涙を浮かべてくれたユリさん。バークレーへ来て一番良かったことは、素敵な友達にたくさんめぐり逢えたこと。お金で買えない人生の宝物をいっぱい持っているユリさんに逢えたことです。


2月28日
 相変わらずお天気がはっきりしないカリフォルニアです。今朝の新聞によれば、今年の雨季明けは4月にもつれ込むのではないかとのことです。嵐が一日おきにやってきて、木をなぎ倒し、土砂崩れで家をつぶし、低い土地に浸水をおこしています。「信号待ちの乗用車、倒れてきた街路樹の下敷きになり、運転手は死亡。」という信じられない記事も数日前の朝刊で読みました。我が家がとっているオークランドトリビューン紙は「エルニーニョ’98」という特集まで組んでこの異常気象を重く見ています。「あの輝く夏空に早く逢いたい。カリフォルニアらしい空の下で、アメリカとさよならをしたい。」とわたしは強く願っているのですが…天気のことばかりはどうにもなりません。中庭の青いプールの水面に、砂利をまくように降る大粒の雨をながめながら、体の深いところからため息ばかりがのぼってくるのです。そこで「ながくつしたのピッピ」のリンドグレーン女史の作品集や「宮沢賢治童話集」、ミヒャエル・エンデの童話を数冊…たてつづけに読みました。雨の日は童話に限ります。お陰でココロとアタマには、つかの間、青空が広がってくれました。

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