8月24日 快晴
「抜けるような空の下で、青い芝生の上に寝そべってオーケストラの生演奏を聞いてみたい。椰子の木陰で…できれば冷えたワインを飲みながら。」
「夢みたいな事言って、どうかしちゃったの?」って日本にいたら一笑に付されそうだけれど。ソノマのワイナリー、シャトー・セント・ジーンの庭で恥ずかしくて口にも出せなかった夢のひとつが、いとも簡単に叶えられてしまいました。
ふらりと立ち寄ったセント・ジーンはソノマでは最も有名なワイナリーで、葡萄の房を持った女神の像を囲む噴水や、パティオのあるテイスティングルーム、その前に広がるみずみずしい芝生…と申し分のない庭園を持つワイナリーです。
サンドウイッチと冷えた白ワインを買って椰子の木陰に座りました。ちょうど正午に芝生の上で「フィルズハーモニックオーケストラ」という地元のジャズグループの生演奏が始まりました。ジャズといってもサックス、トランペット、ピアノなどの他にチェロ、バイオリン、ギターなどの弦楽器やフルートなども入ったライトサウンドなジャズです。寝ころんだり、サンチェアーにもたれたり、みんな思い思いのスタイルで演奏を聴いています。
目を閉じてしばらく聴き入っていると瞼の裏に霧のようなものがたちこめてくるのを感じました。「山霧の中をフルートを吹きながら裸足の少女が歩いている。その足は朝露に濡れて冷たい。髪も濡れ、うすい風のようなドレスも濡れて肌に張り付いている。フルートの音色はかなしい生き物の声のようだ。どこまでも、どこまでも少女は霧の中を歩いてゆく。」そんな物語的幻想が頭の中で創られてゆきました。1時間30分のすばらしい演奏が終わって、庭の片隅で売られていた彼らのオリジナルCDを買いました。そのCDのジャケットは山霧の中に4つの楽器が置かれている風景でした。
演奏の余韻にうっとりしながらの帰り道。立ち寄ったショッピングモールの駐車場で、車輪からシュウーという奇妙な音がしているのに気ずきました。
「パンクしてるー。」反対側の車輪を調べていた夫にわたしは素っ頓狂な声で告げました。左後輪に長さ3センチほどのプラスチィック片が刺さっています。日本でパンクを経験したことがないわたし。経験はあるものの自分で処理したことがない夫。
「ジャッキはどこだ。」「スペアタイアはどうやってはずすんだ。」などと大騒ぎをしながら手や顔を油だらけにしてやっとタイア交換も終わり、ちょっと離れた場所から、車の全体象をまじまじと見てため息をつきました。スペアタイアの径が他の3本と恐ろしく違うのです。「コレでホントに走るの?」「走るしかないじゃん。」
傾いた車でヨタヨタ走りながら「これもアメリカならでは…。」とトホホ顔を夫と見合わせ。
ほどよく上品な懐石料理のあとの、おもいっきりヘビーで大味なバターケーキのデザート…。そんな一日。
8月26日 晴れ
日本人会の和子さんがいよいよ帰国するというので、和子さんはわたしをお宅へ招待してくれました。引っ越しのダンボールが積み重なった殺風景な部屋の中でお手製のハヤシライスとサラダをいただきました。「お料理は今晩が最後になると思います。もう、冷蔵庫もカラッポ。そして、このお家ともお別れ…。」そんな大事な日の昼食に和子さんと差し向かいで手料理をいただくなんて「なんか、おごそかな最後の晩餐みたいですね。」とわたしが言うと「ほほっ。」と笑った和子さん。「わたしはすこし、人が苦手なんです。」といつも言っていたけれど、あなたほど人の心を知ろうと努力する人をわたしは知りません。
子供の頃、本ばかり読んでいる無口な色白の女の子がクラスにいて、その子と友達になりたいと思っていたのだけれど、とうとう仲良くなれなかった。その子にどこか似ている和子さんとこうして一緒にいるだけでわたしは嬉しい。「あかねさん、もう一度詩を書いてくださいね。」詩とメルヘンの読者だったという和子さんの言葉に、わたしの心はキュンと音をたてて少しだけ縮んだようでもありました。
8月28日 晴れ
ソノマの帰りにパンクしたタイアを交換するためにモトコさんに紹介してもらった自動車修理工場へ車を預けてあります。ただのタイア交換だけなら1日で終わったものを、「オイルが汚れているし、ブレーキパットも減ってますね。」と社長のトムさんから電話を頂戴し、昨日、4日間の修理・点検が終わって車が帰ってきました。
車を工場に持っていった日、大学が終わってから車で修理工場へ来てくれたモトコさん。「ちょっと様子を見に来たの。帰りの足に困ると思って…。帰りはわたしの車に乗って行って下さいね。」と…。
本当になんて気のつくお方。わたしにとって、困ったときに颯爽と現れてくれるスーパーウーマンの彼女。アパートに戻る車の中で、「週末、我が家で夕食でもどうですか?」とお誘いしたら、「いいですね。感激です。」とこころよい返事。
今日、モトコさんは手製の串だんごを持って夕食に来てくれました。わたしの手料理をデザートまで残さずきれいにたいらげて「本当においしかった。また、ごちそうして下さい。」と素敵な笑顔をむけてくれました。何から何まで小気味よいすがすがしさを、モトコさんには感じます。
8月30日 快晴
US101を北西へ走り、ミュアウッズ・ナショナルモニュメントへ行って来ました。ここは、現在では貴重となった樹齢1000年〜2000年のレッドウッド(アカ杉)の森林です。高さ60メートル以上の老木たちはどれも空へ向かって一直線に伸び上がり、広げた枝々の隙間から細かい砂金のような木漏れ日が降ってきます。植物学者ジョン・ミュアが乱伐から守り通したアカ杉の大木は、深い樹の香りと浄化された空気をわたしたちにプレゼントしてくれます。1時間のハイキングコースを選び、ゆっくりと森の中を歩きました。森の真ん中を断ち切るように流れるレッドウッドクリーク。水と樹と風と木漏れ日。
目の前に突然、野生の鹿が二頭現れました。ハイカーのわたしたちと穏やかな時間を共有してくれるかのように、逃げもせずゆっくりと木の実を食べ続けています。無口で寛容な自然に、わたしたちは生かされているのだという思いが一足ごとに深くなってゆきます。森を守るレンジャーの語っていた言葉が印象的でした。
「この樹の下にあなたが立って樹を見上げている時間は、あなたの足元の名もない昆虫があなたを見上げている時間なのです。この樹にとってみれば、人間の生の営みなどとるに足らないものです。」1850年頃から1900年初頭にかけて人間達に乱伐されたレッドウッドのまさに生き残りが、わたしたちを空に近い場所から、哀しい目をして見下ろしているようで。わたしたち人間がこの森林で、なお樹の恩恵を受け続けていることが少し苦しくなりました。
8月31日 快晴
夫の英会話のチューターであるエミリーさんが、妹のシンシアさんとボーイフレンドのクリント君を伴って我が家へやってきました。エミリーさんが大好きだと言う天ぷらなどの和風料理でおもてなしをしました。「わたしはこっちで…。」と言ってコーヒーテーブルに皿を置いて、正座して食事をするエミリーさん。
「正座は辛くありませんか?」と聞くと「能を演じる時はいつも正座です。」ときれいな日本語で答えてくれました。日本の映画も音楽も文学も、とても良くご存じなので驚きました。エミリーさんのボーイフレンドのクリント君はチャイニーズとアメリカンのハーフです。もしも、二人が結婚して赤ちゃんが誕生したら、その子は日本とイタリアと中国とアメリカの4カ国の血筋をもったグローバルな赤ちゃんなのですねえ。そんなこともこちらでは、あまり珍しくないのかもしれないけれど…。エミリーさんは今、日本語の他に中国語、イタリア語の勉強をしているのだそうです。クリント君は中国語との完全なバイリンガルだし。統一民族のいたしかたない性だとしても、日本人は語学に関しては非常に怠惰な国民な
のかもしれませんねえ。
9月1日 快晴
ワイナリーで有名なナパはアウトレットショップでもちょっと知られています。しかし、ブランドオンチのわたしたち夫婦は値札を見ても、果たして日本よりどれだけ安いのかさえさっぱり分かりません。それでも「良い物が安いから一度行ってごらん。」と勧められ、今日はナパでウインドーショッピングとなりました。
食器、靴、バック、服、化粧品とずらりと並んだブランドショップをまわりながら「これでどのくらい安いのかしら?」と夫の顔をのぞき込んでも、「オレに聞くな。」の一言。確かに物は良さそうだ。けれど、わたしはやっぱり無印良品の方が性に合っている。だって、どれを見ても胸がトキメかない。
結局、ショッピングモールの片隅にあるファーストフードでランチをとっただけで、山々の静けさを楽しみながらナパを後にしました。
9月8日 快晴
チュバロンの桟橋からフェリーボートに乗ってエンジェルアイランドへやってきました。チュバロンの港町は魚のにおいのするそれではなく、明るい海辺のリゾート地といったところです。
入り組んだ海岸線にそって花に囲まれた美しいトレイルがあり、短パンにTシャツの人々がジョギング、サイクリング、ローラースケートに勤しんでいます。海辺からせり上がるような小高い丘には、別荘のような生活感のない建物が張り付くように並んでいます。行ったことはないけれど、地中海のリゾート地ってきっとこんなところじゃないかしら…。桟橋からフェリーボートに乗ること約10分。途中ゴールデンゲートやサンフランシスコのダウンタウンを遠くに眺めながらデッキで潮風に吹かれていると「ああ…太陽がいっぱい。」という言葉がこぼれだしそう。
エンジェルアイランドに降り立つと、人々は個々の目的のために様々な動きをし始めます。マウンテンバイクにまたがり、サイクリングコースを走り出す人。島一周(約5マイル)のトレイルを歩き始める人。砂浜で海水浴をする人。係留したヨットに乗って再び海へ出てゆく人。オーバーナイトキャンピングのための荷物をいっぱい背中に背負っている人。トラムに乗って島の観光をする人。
すべての人の目的は遊ぶことだから、ここには暗い顔をしている人なんかひとりもいないわけです。島全体がハッピーで、のびやかな雰囲気。俗世間から少しだけ遠い場所。ここが島であることがなんとも良いカンジです。一時間のトラムに乗って島の歴史を学びながらベイエリアの景観を楽しみ、その後夕刻まで、波打ち際ではしゃぐ息子たちをぼんやりと眺めながら砂浜に座っていました。
「記憶というのは小説に似ている、あるいは小説というのは記憶に似ている。」という言葉をどこかの本で読んだのを、ふと思い出しました。
このとりとめのない明るい空白のような一日は、ずっと後になるとどんな思い出になってゆくのだろう。ぼんやりとした幸せがそこにあって、質感のはっきりした空気がそこにあるだけの、ある一日のとても曖昧な記憶。うすい磨りガラスを何枚も重ねてゆくような日々は、ある分量に達するとひとまとめになって存在感を持つ記憶となるのだろうか。重ねた磨りガラスの上から何百枚目かの磨りガラスを見るように、記憶とは不安定なものだ。
小説のような一日はまた、記憶のような不安定なものに、いつしかすり替えられてしまうのかもしれない。
9月9日 快晴
これは私的な日記風の旅便りであるので、何もここで現実に起こったことだけを探して書くこともないのだと、開き直って今日は書くことにします。
わたしがアメリカという国を意識したのは「小学校3年生の時」だったとはっきりと言えると思います。(そんなことはっきりと言えることが別にどうということもないのだけれど…。)というのは当時わたしには気のあった親友がいて、毎日のように彼女の家にお気に入りの人形なんかを抱えて遊びに行っていました。
その家はどこかたたずまいが日本離れをしていて、その家に行くことはわたしにとって等身大のリカちゃんハウスにでも行くようで楽しいことでした。彼女の父親は国立大学の教授で、聞けば、ボストンの大学に数年留学していて、彼女はその留学中にボストンで生まれたとのことでした。おやつは手製のケーキだったり、居間には暖炉があったり、彼女の幼少のアルバムには金髪の子供達がたくさん写っていたりして、わたしはあまりの物珍しさにいちいち興奮していました。なにせわたしは町工場の娘で、隣り合わせた工場からしてくる機械油のにおいが終日忍び込んでくるような家でしたから、彼女の家に座っているほんの短い間だけ、わたしはリカちゃんになれるのでした。広い庭に所狭しと咲き乱れるバラ。裏庭の芝生に植えられたビワや柿の木。温室には見たこともない南国風の花が咲いていて…。その香りが漂う庭で彼女と人形遊びをしながら、わたしの頭は何度もボーッとしてしまうのです。
ある日、彼女の母親が8ミリビデオなるもの(当時は珍しかった)をセットし、彼女の3歳当時の姿をテレビに映して見せてくれたことがありました。わたしは彼女の愛らしい姿よりも、彼女を取り巻く見たこともない近代的で文化的な街並みや、整然と並んだリカちゃんハウス群に目を奪われました。「これがアメリカという国か…。」という言葉が頭の中をぐるぐると駆けめぐるのでした。それからというもの、わたしにとってのアメリカは彼女の家の隅々から漂ってくる高級な文化の香りそのもので、その後何年も、その感覚的なアメリカはわたしの中に居座り続けました。
最後に彼女と逢ったのは、春浅い3月のある夜でわたしたちは23歳になっていました。違う学校へ進んだわたしたちは(彼女はめっぽうデキが良かった。)それと共に親友関係も自然に消滅してしまい、その日、駅で偶然的な再会をしたのも何年ぶりかのことでした。雨上がりの濡れた道をわたしたちはとりとめのない話をして歩き、思い立ってわたしは、彼女の家を回わって帰ることにしました。
彼女の家は、14年前と少しも変わらず…。夜風にのって流れてくる濃厚なバラの香りは、門前で立ち話をするわたしたちをきっと遠いあの頃へ連れ戻してくれたのです。わたしたちは時間も忘れて長い立ち話をしました。「あと、一週間もしたらやっと憧れの教壇に立てるのよ。」と教師になるという幼い頃からの夢が実現することに彼女はとても喜んでいたし、はりきってもいたのです。それから、一週間ほど経った頃、わたしは急に思い立って新幹線に飛び乗り、姫路に桜を観に出かけました。わたしが満開の大ぶりな桜を堪能している頃、彼女の家で葬儀が行われていたことなど、その時のわたしは想像もしませんでした。彼女の死因は突然死で、朝ベットの中でこときれていたそうです。奇しくも彼女が教壇に立つ前日の事でした。
ただそれだけのわたしの想い出話なのですが、かつてのアメリカドラマ「ニューヨークパパ」で観たような、裕福で、理知的で、されど遠いアメリカというイメージが彼女の死とともにわたしの中からかき消えてしまったという事実。彼女ごと手の届かない場所へいってしまい、色褪せてしまった感覚的なアメリカ。その大切な想い出の代償として天上の人となった彼女がこの旅をわたしに与えてくれたような気がしてならないのです。
9月13日 晴れ
サンフランシスコという大都市と、そのベッドタウンを結ぶ大動脈とも言える地下鉄が、ストライキを決行してから今日でなんと6日目。ハイウエイは大渋滞。観光で賑わうはずのフェリーまでがサンフランシスコをめざす通勤客で満員状態。
日本じゃこんなクレージーなことは許されないでしょうけど、「まあ、アメリカだからね。ここは…。」で何でも納得してしまうクセがついてしまいました。ごく身近で珍事が起きたり、変わった人に出くわしたり、わたしが育ってきた(育ててきた)常識という範疇からちょっぴりはみ出している。(かなりはみだしている時もあるけれど。その事はいずれゆっくりと…。)だから、ここで暮らすのにはそれなりのエネルギーってものが必要になる。
経験的なものからある程度、予想可能な生活は退屈も生み出すけれど疲れは少ない。日常的な事だってそうです。銀行で新しい口座を開く。水曜日にしか焼いていないパン(おいしいと評判の)を予約して買う。薬屋で子供の風邪の症状を説明して合った薬を教えて貰う。
日本にいれば何でもないことが、わたしにとってはいちいち大問題になってしまう。ちょっとした打ち上げ花火の燃えかすをバケツ1杯の水で消すのと、加熱した天ぷら油に燃え移った火が、カーテンや絨毯を巻き込んで燃え広がっていくのとでは、予想できるか、否かの最初の段階からすでにエネルギーの差があるものね。わたしのお尻にはいつも天ぷら油の火がついていて、それを消すのに凄いエネルギーを使っています。これはきっと日本に帰って、経験に裏打ちされた生活にもどったら、たまらなく懐かしく愛すべき日々になるのだろうなあ…。と想像はするのですが。
9月14日 曇り
日本から両親がやって来ました。父は当初、初めてのアメリカ行きにとても戸惑っていました。「この歳になってアメリカを見ても意味がない。」というようなことも言っていました。母は軽い狭心症で、気候が変わると具合が悪くなったりするので、ここの一定な温暖気候は母の体に良いのではないかと渡米前からわたしは考えていました。そこで、わたしが勝手に航空券をとってしまったのです。
「こっちへ、遊びにこない?」という電話をかけてから三日後には、両親の所へ航空券が届いていました。二の足を踏んでいた両親も、航空券の顔をみたら来ないわけにはいかなくなりました。なぜ、わたしが強引にも両親を渡米させたかったのかは、この旅便りを読んでくれているあなたがここへ来ればきっとわかります。誰だって、大好きな人に心を打れるような素晴らしい景色を見せてあげたい。
到着した夜、お酒を少し飲んだ父は、戦争に4回もかり出された祖父の話をしました。東京の空を埋め尽くしたアメリカの戦闘機が、雨のように焼夷弾を落としていった夜の話をしました。母親をひとり東京に残して、疎開先へ行く列車に乗った幼き頃の自分の話をしました。古い哀しい話でした。でも、父の胸に戦争を抜きにしてはどうしてもアメリカを語れない傷のようなものがあるのも事実です。
父はアメリカに来たことをとても喜んでいるようでしたが、父の中にある無意識的な記憶がゆらゆらと戸惑っているようでした。「日本が戦争で負けた国がアメリカという国で本当に良かったんだ。」最後に父はこう言いました。こんな話を父がしたのは後にも先にもこの夜だけで、その後の2週間の旅行中「楽しい、素晴らしい。」だけを連発していましたが、あの話をあの夜することは、戦死した実父や、悲しい現実を納得しなければならなかった幼少の自分に対する儀式のようなものではなかったか…。とわたしには感じました。
戦争という一番辛い時代をくぐり抜けてきた世代にとってのアメリカと、憧憬と模倣の対象だったわたしたちの世代にとってのアメリカとでは、本質的なものが違うのです。当たり前のように、そして決定的に。
9月15日 快晴
両親を伴ってカリフォルニアが誇る国立公園、ヨセミテ・ナショナルパークへ行くために朝、7時頃アパートを出発しました。
アリゾナのナショナルパークもそうでしたが、アメリカの大自然を見ているとわたしたちが猿であった頃の遠い遺伝子の記憶が、体の中で目覚めてゆく感覚をおぼえます。
「そう…わたしはこんなところで育って、丸裸で野を駆けめぐって木の実を採ったり、川で泳いだりしてたのよねえ…。」的なノスタルジックな思いに浸り、「それに引き替え、今のわたしは洋服も着ちゃって、車も持っちゃって、エアコンもテレビも持っちゃってる。なんか、悲しいわねえ。」というふうに現実の超文化的な生活が急に味気ないものに思えてきてしまう。これも、猿の遺伝子のなせるワザか。
そんなことを考えながら車に揺られていると…面白いものが見えてきました。途中のリバーモアという街を越えたあたりのUS580沿いは起伏のある広大な原野で、そこに大きな金属製の風車が丘の稜線にそって何本も、そりゃ何本も並んでいる。(そこが風力発電所なのは言わずもがな。)
ウルトラマンに出てくる凶悪宇宙人ダダ(知っているかな?)のごとき白黒縞模様の巨大な金属風車が、音もなくグルッグルッと回っている様をみていると、「猿の惑星」ならぬ「ダダの惑星」に不時着してしまった宇宙飛行士の心境になり、なんとも落ち着かない。これが、「風の谷のナウシカ」にでてくるような石組みの大風車だったらもっと趣が違うのに…。
電気を作り出すという平和的な姿は見せかけで、実は人間を狂わす超音波なんか出してんじゃないダローネ?と疑りたくなるようなダダ風車。
(ヨセミテの夜)
かのマーク・トゥエインが「天使の吐息」と表現したヨセミテの空気は、夜になるといっそう澄んでくるように感じます。今日は、グレーシャーポイントをあきらめてジェット・ラグで疲れ気味の両親のために早めにコテージに入りました。
わたしたちが宿泊したのは、ヨセミテの西ゲート近くにある貸しコテージです。管理人さんはコテージの二階に住んでいて、車から荷物をおろしていると挨拶に来てくれました。いかにもアウトドアが似合いそうな(藤竜也のアメリカ版みたいな)日に焼けたステキな管理人さん。コテージは自炊と聞いていたので米や佃煮やカレーの材料などを持ってきました。早めに夕食をとり、「さて、ゆっくりと星空でも見ますか…。」という夫の言葉にうながされ外へ出ました。頭上にはくっきりと天の川が見えます。月は肉眼でもクレーターがはっきり見えるほどクリアで、眩しいほど青白く輝いています。古代から近世にかけて日本にはたくさんの歌人・俳人が月を歌に詠んできた歴史があります。悠久の時をさかのぼった
人々の目には、月はさぞかし神秘的なものに見えたのでしょうね。東京のネオンの海に浮かぶ月は熟れた黄色で、少しクレージーな印象ですが、「天使の吐息」に包まれた闇の中で見る月は、清らかな雫をうすく氷らせた鏡箱を見るような美しさ。遥か山の方へ目を凝らせば紺碧の闇。神がビロードの大マントをすっぽりとかぶせたような真の闇。そこに銀色の鋲を打ち止めたような星々。ただそれだけの満ち足りた夜。
9月16日 快晴
(グレーシャーからのハーフドーム)
「ヨセミテと言えばハーフドームです。なんと言ってもグレーシャーポイントから見るハーフドームです。」とヨセミテ経験者は口を揃えて言います。
ガスがかかっていない早朝、グレーシャーポイントへ向かいました。氷河によって浸食されて出来たと言われるヨセミテ渓谷。間近に見る絶壁の数々は、氷河の爪痕がそのまま残されたような荒々しい様相。その中で、ひときわ目を引くのがハーフドームです。自然の持つ、大いなる手が楕円形の岩塊をひと思いにまっぷたつに引き裂いたような形をしています。そのまわりの岩肌に絹糸をからめたようなバーナル滝とネバダ滝が見えます。
「強いものはやさしいのだ。」と教えてくれるような悠々しく繊細な景観。ターコイズブルーの青すぎる空に日本の渓谷で見るような懐かしい花崗岩のグレーが映えて、その落ち着いた美しさは、わたしを和やかな気持ちにさせてくれました。
ザイオンの岩が、ハーレーにまたがり皮のジャンプスーツに身を包んだ、少し強引な汗くさい男なら、ヨセミテの岩はイタリア製の上品なスーツを着て、夜景をのぞむショットバーで、身の上話に耳を傾けてくれるような包容力のある男。といった感じで。どちらもそれなりに捨てがたい魅力があり…。ううっ…とてもわたしにゃ選べん。選べん。(誰が選べと言ったんだ。)
(ワウォナ周辺)
ヨセミテは広すぎます。すべてを2〜3日で見て回ることは不可能です。そこで、目的を南側に絞ることにしました。ヨセミテバレーを見てまわった後、あこがれのアワニーホテルで昼食をとり、ワウォナの森の方へ向かうことにしました。ワウォナは黄金色に輝く草原の向こうに、理想的なかたちで森が続いているような場所です。
小説や詩、絵画、演劇と、ジャンルを選ばずどんな芸術にもはめこまれてしまうような、通念的な美しさ。草原と森の分量的配分も色合いのコントラストも見事という他はありません。どんな、腕の良い演出家がいたとしても、こんな美しい舞台は作れないでしょう。日が傾きかけた黄金色の草原に小さなコロボックルたちが次々と現れます。どんぐりの実のように森の奥から転がり出てくるコロボックルたちは、森の入り口に立ちすくんだ美しい一頭の牡鹿を見つめています。森の精に魔法をかけられ、鹿の姿に変えられてしまった王子。かなしみのマントを全身にまとっているかのように、牡鹿の体は霧にぬれています…。なんていう物語が即興でいくつも出来そうな風景。
(ブライダル滝)
9月のヨセミテは滝を見るには不向きな季節です。そもそもヨセミテの滝は、冬の雪解け水が源なので夏は干上がっているか、申し訳程度の水が落ちているかのどちらかです。かの有名なブライダル滝は花嫁のベールのような繊細な姿からその名前をつけられた美しい滝(ガイドブックを見る限りでは)ですが、やはりミストのような少量の水が風に舞うように落ちているだけでした。でも、その水が岩肌をつたって渓流をつくりだしており、その小川へ裸足になって入ってみました。「氷水より冷たい。」流れることによって、やっと凍りつくことをのがれているような冷水です。夏の岩肌を流れてきたとは思えない水の温度。シェラネバダ山脈の雪解け水は、どこまで流れても雪の清らかな冷たさを忘れてはいないのです。
9月17日 快晴
ヨセミテから帰って、この日記を書いています。砂漠と荒野と赤土のアリゾナから1ヶ月。森と岩と水のヨセミテを見て思うのは、ただひたすらにアメリカは広いということ。そして、深いということ。
9月23日 快晴
「サンフランシスコ便り」とは名ばかりで、サンフランシスコの街の様子がちっとも伝わってこないじゃないか!とお叱りを受けてもしかたがないくらい、ダウンタウンの事についてはこれまで本腰を入れて書いたいたことがなかったのです。なぜか?理由は簡単。書けるほど街の中にどっぷりとつかってみたことがないからです。サンフランシスコに行くには、ここ(私が住んでいるエメリービル)から路線バスとバートという地下鉄に乗って40分くらいかかります。ダウンタウンには、これまでかれこれ5、6回くらい行きました。でも、いつもパウエルストリートという、かの有名なケーブルカーの始発駅から(ケーブルカーに乗って)終点のメイスンへ行くか、ギラデリスクエアへ行くため(別ルートの終点の)ハイドという駅で降りるかのどちらかで、見所がいっぱい詰まっている途中下車をしたことがありません。そんな陳腐なシスコ体験記で申し訳ありませんが今日は少し書いてみようと思います。
(わたしの勝手な感じ方ですが…)初めて、ダウンタウンに行ったときの感激を、二度目以降からも同じように持ち続けることは難しいことなのかもしれません。というのは、都会というのはある程度、いつも同じ顔をしているものであり、観光スペースというもうひとつの顔を併せ持つサンフランシスコという街は、いつ行っても「ウエルカム」の同じ笑顔で客を迎え入れなくてはならないという姿勢のようなものを感じるからです。
だから、この次はどんなことが起こるかな?というアメージングな面白さは少ないように思われます。しかし、シスコという街はどこか人を引きつけるものがある。シスコは人工的発展を早い時期から拒絶した大都市であるような気がします。築100年くらいは経っていると思われる家並みもさることながら、交通量の少なくない大通りを、大名行列のような威厳と風格を持ったケーブルカーが走るのもその理由です。
自動車はいつも肩身の狭い面持ちで、ケーブルカーの行く手を阻むことなどもっての他と自覚しているようです。時速15キロのケーブルカーを操りながら運転手さんは守護大名のようなこわもてで、客を降ろす場所を探してもたもたしているタクシーに、「おっと、タクシー。何やってんだ。おい!誰かこの状況を説明してくれよ?」なんて怒鳴ってしまうことも度々。でも、運転手のおじさんはジョークが大好きで、(チリンチリンと警笛を鳴らし)「次はノブ・ヒルだ。高級ホテルの集まっているところでもあるけど、オレの彼女のアパートがあるところさ。」なんて言って観光客を笑わせている。なにせ、ケーブルカーは終点まで行くと運転手の人力で方向転換されているのだから、「アンクル・トムのこや」に出てくるような黒人のおじさんたちは筋金入りのパワフルな男達であるわけです。
ケーブルカーにつかまって風を切って走ると、坂の向こうに若草色の海が輝き、もったりとした霧がゴールデンゲートブリッジの方からわいてくるのが見えます。ピア(埠頭)に着く少し手前の海の風景。海は青であることを望み、雲は白であることを望み、風は透明であることを望み、そしてわたしはその強い望みのような鮮やかな色彩が、永久に続く事を望んでいる旅人。
都会の中で、自然と同化できる街。それが、サンフランシスコの目指すものではないか…と感じます。
9月28日 快晴
両親がアメリカを発つ日がやってきました。1時のフライトに間に合うように空港へ見送りに行きました。空港へ誰かを迎えに行ったり、見送りに行ったりする度に思い出します。
5月9日にわたしたち家族が85パーセントの不安と、15パーセントの希望を抱いてはじめてこの空港へ降りた日のこと。それから約5ヶ月…。街の中で外国人としてのいごこちの悪さを感じながらも、以前感じていた、何かが抜け落ちたような寂しさを感じることも少なくなりました。それでも、わたしは旅人です。常駐的旅行者です。うわっつらの生活概念を持ち、バックグラウンドの無い文化概念を持ち、それでも「Home is where the heart is(心が欲する場所、それが家だ)」という言葉を心情に秘めて、住み着いている日本人です。
でも賑わう街中を歩いていて、ふとした拍子に薄ら寒い孤独を感じることがあります。「もし、ここでとんでもない大事故や天災が襲ってきても、わたしは上手くのがれられないだろう…。」という危機的なものが含まれた孤独です。それは、特定の環境や、長い間の経験によって育て上げられた反射能力の違い、または判断力の違い、そういう本能的な感覚のどうしようもない周囲との違いからくるものです。その「周囲と違う」空気がわたしの体の表面を、重く取り囲んでいるかのように感じることがあります。でもまた、時には「人間なんて皆おんなじだ。食べて、寝て、息をして…。国民性の違いなんてちょっとした接点の違いさ。地球はしょせん狭いんだから…。がっはっは…。」なんて開き直る時もあったりして。喜怒哀楽の大安売りだい!もってけドロボー!ってかんじの毎日です。
空港の帰り、本屋に立ち寄り何冊かの童話を買いました(わたしは大の童話好き)。レジで「メンバーズカードはお持ちですか?」と聞かれ、一瞬とまどいました。「えっ?カード?」とおもわず日本語で答えてしまうと、金髪の太ったレジのおばさんは「ふうーっ。」とため息をついて、そのカードに貼るべき点数シールを投げるようにくれました。
悲しくは…ない。しょせん地球は狭いのだから…。
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