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 リバイバル「わかさ」に乗った
 
 それは駅に置かれたチラシから始まった。2003年の1月、キハ28・58系気動車列車を正面から捉えた写真が大きくあしらわれ、茶色く縁取られたチラシを見つけた。若狭線電化記念として急行「わかさ」を3月8日にリバイバル運転するという。
 これまで、私の地元の大阪駅を発着する特急「はと」や急行「鷲羽」のリバイバル運転はあったが、予定が折り合わずあきらめていた。幸いリバイバル「わかさ」号は、京都−綾部−西舞鶴−敦賀を往復する。この列車に片道だけ乗り、敦賀−大阪を特急「雷鳥」で移動すれば、そんなに時間はかからない。
   4人掛けボックスシートが並ぶ急行形車両を使った急行列車は、もう「絶滅」する。私の学生時代に慣れ親しんだスタイルの、そして国鉄時代の名残のある急行列車に、今後乗車する機会にはもう恵まれないであろう。時間的に片道だけでも乗り通せそうなので、「国鉄の急行列車」に乗り納めに行くことに決めた。
 列車運転の1月前の2月8日土曜日、発売開始の10分前に人影まばらなみどりの窓口を見つけ一人分の指定券を申し込む。朝の京都発敦賀行でなく、帰りの敦賀発京都行を先に頼むと、申し込んだ通りに帰りの分だけは予約できた。



 3月8日土曜日。「雷鳥23号」で大阪駅を発つ。前後に681系電車を使う「サンダーバード」はあるが、やっぱり国鉄が作った485系電車を使う方が、リバイバル「わかさ」に似つかわしい。



 485系電車は季節列車での使用が中心になっているが、安定した走行感は以前に乗った681系電車と同じである。座席を新調したのだろうか、身長180cm程度の自分の体格に合い、快適だ。
 消費電力が少なくて済むということなどから通勤電車を新しくする例もあるが、きちんと走れる電車を廃車するのは資源やエネルギーの浪費にならないのだろうか? 40年に1回を、20年に1回で交換することにするのである。門外漢だから分からないが、昔の電車はそんなに保守が難しくなっているのだろうか?
 新大阪、京都駅から乗り込んだ人はいるが、「雷鳥23号」は満席にならなかった。湖西線を北上し、照明等が一時停電する近江永原駅付近のデッドセクションを通過し、敦賀駅に定刻14時32分に着く。



 敦賀駅には、鉄道ファンの人々が居た。若狭線ホームには、8両編成の急行形気動車と若狭線用電車になる2両編成の127系電車が入線していた。急行「わかさ」の折り返し時間の余裕をたっぷりとり、その間に往復で急行「わかさ」に乗る人向けに127系電車を展示しているものだ。



 私が着いた時点では、127系電車の展示はもう終わりとなり、車内に人影はない。一方、急行形気動車の方はドアを閉め切り、各席に背広姿の職員が沿線の観光チラシを各席に配ってまわっていた。そのため、若狭線ホームや待合室、北陸本線ホームにまで、急行「わかさ」に折り返しで乗るであろう人々は溢れていた。触車防止と案内のためか、社章の腕章をつけた背広姿の職員も目立った。



 駅の売店や駅前の土産物屋を見て回り、急行「わかさ」に乗ったのは発車の5分前だった。私の席は先頭車の前の方になるので席に近づくと、既に通路に行列ができていた。列車の前端と後端で記念品の販売をしているのだった。席に近づくためにも、買いものをするためにも、並んだ。私が敦賀駅に降りた時点から、レプリカの真新しい行先表示板を手にした人が見受けられ、それを見て私は購入を決めていた。



 15時03分に敦賀駅を発車した。行列に並んでいても、窓の外は見える。積雪がすっかり消えているが、曇り空の下、枯れ色の寒々した景色だった。列車にカメラを向ける人や、手を振る地元の人々が目につく。



 ところで臨時列車とはいえ、列車名や行き先を車体外部に表示する必要がある。いわゆるサボが必要になるのだが、これらは今回プラスチックで新製された。盗難防止のためだろう、車体にはプラスチックコードでくくりつけられ固定されている。
 これと同じものが、車内で売られている。臨時列車の乗客数を見込んで大量に作られ、列車名のキーホルダーなどとともに売られている。私もそういう記念品を買うために並んだのだった。トワイライトエクスプレス車内販売員の制服を着た男性から記念品を買って着席したのは15時15分。発車から12分たっていた。その頃には、記念の駅弁も売り切れていた。



 自分の席は、記念品販売コーナーに充てられたボックスから一つ隔てた隣にあるボックスだ。いわば客室の前の方になる。そのためかどうか分からないが、私の座るボックスには他の乗客は現れなかった。車内のほとんどのボックスは、鉄道ファンが4人きっちり座っていたが、どういうわけか私は4人分の席を1人でゆっくり座れたのだった。



 壁に肩を押し当て、車窓に見入っていると風が入ってきた。腕が痺れるほどに寒い。そればかりか、降雨までが侵入してきた。本来開閉可能な窓のたてつけが悪くなっているためだ。チラシを折り畳んで詰め物としたら、雨の侵入は収まったが、隙間風が続く。後で40歳代後半の車掌に言うと、私の感想と同じ答えが戸惑った笑いとともに返ってきた。「古い車両なので、許してください。」車両銘板を見ると、新潟鉄工所で昭和41年に製造された車両だった。





 定期列車の時と同じように、こまめに停車するが、乗降客はほとんどない。乗客は大人しく着席している。停車時間が短かったためらしく、小浜駅で長時間停車となり、車内の空気が動いた。私も小浜駅2番線のホームに立つ。電車用に新しく嵩上げされたホームと、蒸気機関車用の給水塔との取り合わせが面白い。



 キハ53形気動車の下り列車が到着して、「わかさ」は発車する。寒風に気をつけつつ、車窓に相変わらず見入る。これが私の鉄道旅行スタイルで、久しぶりの旅のたのしさを味わう。列車は若狭湾沿いの平地を走っていたのが、上り勾配を駆け上がり、峠のトンネルを抜けて京都府舞鶴市に入った。敦賀駅発車以来の高架線は真新しいものになっていたが、東舞鶴駅の高架駅はこぢんまりとしていた。かつては貨物ホームやヤードを擁した地上駅の広い構内が、京葉線の駅よりも小さなものになっていた。ホームも狭くなって気動車急行があまり似合わないこの駅で、運転士は交代する。



 既に電化が済んだ舞鶴線を走った後、綾部駅でも交代した。ここまで定刻通りだ。次の停車駅は19時05分の園部駅。綾部駅から2時間近くかかる。夕方の下り定期列車のラッシュに対応して各駅のように行き違いがあるのだろう。






   綾部駅で列車は進行方向が替わり、下り電車の到着が遅れ5分ほど遅れて京都駅に向かって発車する。今まで先頭車に乗っていたのが、最後尾になる。若狭線を走行中の車内放送で予告にはあったが、記念乗車証の配布は綾部駅発後すぐに始まった。正当な指定券を確認して記念乗車証を配布するとの放送で、他の車両から何人かが移ってきた。私一人だったボックスにも、50歳くらいの男性がやってきて、記念乗車証の配布を待った。
 配布は背広姿の二人組だった。車掌でなく、支社の営業関係であろう職員が、指定券を確認し車掌のようにチケッターを捺印し、かつてのD型急行券に似せた乗車証を配布して行く。私に経済的余裕が出来て急行列車に用意に乗れるようになった頃には、急行券はマルス発券になっていた。D型急行券を手にすることはなかったが、懐かしさを覚えた。





 配布作業は事務的に終わった。乗車記念証の裏面を見ると「02858」とあった。隣の人のものを見せてもらうと、それも「02858」だった。使用車両の型式番号を一律に使っているのだった。
 園部駅には、定刻の19時05分に着いた。走っているよりも停車している時間が長いと思える、しかし客扱いのための扉が開かない運転停車を繰り返したので、車内に疲労感が漂ってはいるが。私は、列車が長時間停車する場合、できるだけプラットフォームに下り、できるなら改札口まで行き、駅舎を眺めるようにしている。園部駅の発車は19時20分頃になるとアナウンスがあったので、改札まで行ってみた。線路の両側と行き来できる構造の、新しい橋上駅舎になっていた。


 113系電車に対応して嵩上げ工事を行ってあるホームといい、すっかり都会の駅の装いだ。JR西日本が掲げるアーバンネットワークに組み込まれた駅に、古い気動車急行は似合わず、ミスマッチの印象を受ける。アーバンネットワーク時代になっても気動車急行がどんどん走っていれば、すっかり見慣れて違和感は覚えなかっただろう。


 駅の案内放送を聞くと、下りの電車が遅れているという。「わかさ」車内に戻ると、私の居ない間に車内放送があったらしく、東海道本線で人身事故があったと「わかさ」乗客の会話を小耳に挟む。席に着くと、車掌のアナウンスを聞く。これを聞いて、大型時刻表を引っ張り出し乗り継ぎ列車の接続を確認する人が居た。語り口は東京で聞くものに似ているので、東日本から新幹線に乗りに来ている人もいるようだ。「『はくつる』みたいになるのか?」と大幅の遅れから乗り継げないことを心配する声もあった。


 下り電車が到着して、19時22分に発車。少々遅れているようなので取り戻せるのかと思ったが、次の吉富駅で5分間、千代川駅で6分間停車した。八木駅では下り電車と同時の着だったのですぐに発車し、並河駅では通過したが、亀岡駅は定刻19時28分着のところ19時50分着だった。22分遅れている。亀岡駅着時にダイヤの乱れを説明するアナウンスがあって、午後2時頃に起きた茨木駅での人身事故によるものという。東海道本線との直通電車はめったとないが、新快速に山陰線電車を接続させるため、こんなに遅れているようだ。昨今は、鉄道による人身事故が多発しているが、こんなに長い時間の遅れになるのは私にとって初めてだ。
 亀岡駅からは、1989年の電化開業時に改良された複線で曲線の少ない区間になって、速度が上がる。この快速ぶりも改良区間の終わる嵐山嵯峨駅までで、20時02分着の20時16分発だった。この駅で特急に抜かれ、下り電車の到着を待ったのだった。しかし長いめの停車はここが最後だった。定刻25分遅れのまま進み、二条駅は20時22分着、京都駅は20時31分着だった。
 京都駅着時に、オルゴールなしで車内放送が始まり、「サンダーバード」乗り換えの案内はあっても新幹線の案内はなく、「列車がおくれたことをお詫びします」との締めくくりがあっても、その後に鳴らされるオルゴールは全フレーズ流れずに途中で切られた。臨時列車でダイヤ変更が重なったので、準備周到な放送、というものはなかなか難しいみたいだ。


 京都駅山陰本線ホームに「わかさ」は着いた。巨大な近未来的建築物に吸い込まれたところが終着駅だったので、過去を偲ぶ旅は終わったと実感する。プラットフォームは見物客がいた。私は今回独りで来ていたので、40歳くらいの男性に記念のための写真撮影をお願いした。自分を含めて「わかさ」の写真を撮る人で込み合っていたが、その波が引く。引き波に乗って私も東海道本線の乗り換えに向かう。


 ダイヤはいまだ乱れていた。ちょうど来た下り新快速電車に乗る。京都駅を発車し、梅小路蒸気機関車館の扇形庫が見えるあたりで、急行型気動車が見えた。客室灯が灯る無人の客室が目に入り、ほどなく白熱灯の暖かい色で輝くふたつの前照灯が見えた。そして、後ろに遠ざかってゆく。「わかさ」に使われた車両の向日町への回送だ。ひとつの運転行程の最終部分が、妙に日常的であった。それは、鉄道ファンが大半という非日常的な状態から解放されたから、私にはそう見えたのであろう。
 今後もできればリバイバル列車に乗りたいという欲求はあるが、なによりその列車が当たり前に走っている時に乗るのが、一番だ。■


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