知の有効性を拓くーE.W.サイードのテキストを通して― 第7回
土田修(正会員、ジャーナリスト)
4.改憲論と非政府的視点 その5
(7)多国籍軍への参加
政府は6月18日、イラクで編成される多国籍軍への自衛隊参加を閣議決定した。小泉首相が日米首脳会談でブッシュ大統領に「参加」を表明してから、わずか10日後のことだ。小泉首相は17日の記者会見で「多国籍軍への参加」という言葉をあえて使っていない。政府統一見解でも「自衛隊は多国籍軍の中で今後とも活動を継続する」とし、「参加」という言葉を巧妙に避けている。なぜか? その理由は2001年12月、内閣法制局長が国会答弁で「(多国籍軍への参加は)憲法上、許されない」と発言し、それが従来の政府見解になってきたからだ。小泉内閣は「参加」を「活動」と言い換えることで、あっさりと従来の政府見解を覆した。さらに「政府見解を変えていない」と嘘までついた。

もう一つ、多国籍軍の指揮権をめぐる問題がある。国連の安保理決議によると、多国籍軍の指揮権は「統一された指揮の下に置かれる」と書かれている。重要なのはこの指揮権が米軍にあるということだ。米国防総省のロドマン次官補も16日、「統一された指揮は現状では米軍の指揮を意味する」と明言している。だから多国籍軍に参加すること、ないし、多国籍軍の中で活動することは、いずれにせよ米軍の指揮の下に置かれることと同じだ。ところが、小泉内閣は「Under unified command(統一された指揮の下)」を「統合された司令部の下」と訳した。そして自衛隊は多国籍軍の司令部から「指揮・命令」を受けるのではなく、多国籍軍の司令部の下で「(司令部と)連絡・調整」を行うだけだと主張する。新しい政府見解でも「自衛隊は我が国の主体的な判断の下に、我が国の指揮に従い、人道復興支援を行う」と明記している。

自衛隊は多国籍軍の下で活動するが、武力行使はしない、しかも米軍の指揮も命令も受けずに、独自の判断で活動する、というのだ。多国籍軍の`統一された司令部aが、こんな自分勝手な行動を許すのだろうか? 政府は米英が了承したと言い張るが、アメリカがこんな曖昧な内容を公式に認めるはずがない。今度は日本語の英語への翻訳で怪しげなマジックを使ったのではないか? 欺罔と詐術! ブッシュ政権も、イラクで大量破壊兵器は発見されず、イラクとアル・カイダの関係まで否定されてしまった。イラク開戦の正当性が崩れてしまい、国際的にアメリカに対する不信感は強くなる一方だ。このブッシ政権を無批判的に支持する小泉政権も嘘つきの殿堂入りを果たしてしまったようだ(註1)。

まるで手品のようなテクニックによって小泉内閣は憲法問題をクリアしてしまった(国民もメディアも追認してしまっているような現状ではクリアしたと言っても過言ではない)。どうして国民もメディアも黙ったままなのか? どうして市民は発言しようとしないのだろうか? フランスにこんな格言がある。「Quineditmotconsent(沈黙は同意の印)」
  

(8)改憲の次に来るもの?
イラク戦争の不正義については、開戦前からサイードが「民主主義の破綻」という結果を予言していた(註2)。サイードの慧眼には驚かされる。小泉内閣はこのイラク戦争を無条件に支持し、自衛隊のイラク派遣を決定した。今度は早々と多国籍軍への参加を表明し、自衛隊が直接的・間接的に「戦闘」に加わる道を切り開いた。自衛隊は人道支援を目的に派遣されたはずだが、実際にはイラク・クエート間で米兵の輸送や武器・弾薬の補給を手伝っている。自衛隊は既にアメリカの戦争に荷担してしまっている。さらに戦争状態にあるイラクで米軍指揮下の多国籍軍に加わればどういう事態が起こりうるのか? 

戦後初の「日本兵」の戦死者が出るのも時間の問題だ。小泉内閣は戦死者が出るのを待っているのだろうか? 弾が飛んできても応戦できず、他国の軍隊に守ってもらわなければならない軍隊。平和憲法を足かせのように引きずる普通でない軍隊。小泉内閣は、戦死者が出た時、「自衛隊は普通の軍隊になるべきだ」「交戦権を持つべきだ」と主張するだろう。平和憲法の矛盾を一気に清算する方向で国論を操作しようとしてくるだろう。一部の保守系メディアの力を借りて憲法改正に持ち込もうとするだろう。その時、戦後初の戦死者は小泉内閣にとって改憲のための捨て石になるに違いない。

自衛隊のイラク派遣は確実に改憲への道を加速させている。恐らく、近々、日本は平和主義の衣を脱ぎ捨てることになる。平和憲法が60歳の還暦を迎えることはできそうにない。この戦後最大の方向転換は何を意味するのか? 対米追随主義からの脱却なのか? 北朝鮮の脅威という東アジア安全保障のイニシアチブをとることが狙いなのか? (特に北朝鮮問題には拉致事件が微妙に影を落としている。感傷論と感情論が入り乱れ、保守派政治家やメディアが好戦的な論調を生み出している。それが改憲への道をさらに加速している)。 

昨年12月のル・モンド紙の記事(註3)は傾聴に値する。「紛争解決の手段として武力行使を禁止している日本の憲法が、自立に向けたすべての野心の拘束衣になっている。アメリカから脱却するために、日本は憲法という閂(かんぬき)を取り除くことが避けて通れない道のりだ」と分析。そして「イラク派兵には多くの疑問があるが、それについて日本政府は一切語ろうとしない」と結論づけている。日本外交の方向転換は中国との武力衝突に向かわせるかも知れない。少なくとも、東アジアに不必要な緊張を生み出すのは間違いないだろう。韓国も北朝鮮も本音の部分では日本という国家を信用しているとは思えないからだ。

小泉内閣は多国籍軍参加について国会で議論しようとさえしなかった。イラク特措法の改正も検討しなかった。日本の国民と民主主義がかつてないほど愚弄され始めている。日本の市民社会はそれに気づこうともしない。日本の市民社会にとってイラク戦争も多国籍軍参加も改憲も自分たちに直接関係のない問題なのだ。この無責任さが日本の市民社会の未成熟ぶりを象徴しているように思えてならない。何故、国の将来を決定付ける政策転換について真剣に論議しようとしないのか? 何故、民主主義の手続きを踏みにじる政府に怒りを感じないのか? 今、市民社会そのものの在り方が問われている。

(註1)ル・モンド紙の社説「イラクについての嘘」(4日付)は、ブッシュ氏のイラク開戦を断罪し、「その結果としてアメリカは信用されなくなり、イスラム世界で前例がないほどの憎しみがうねりとなってわき上がっている」と指摘している。

(註2)「ブッシュ政権が戦争に向かって一方的に、容赦なく突き進んでいるのはさまざまな理由から深く憂慮すべきことである。だが、ことアメリカ市民に関する限り、このグロテスクな見せ物は民主主義のとんでもない破綻を意味している。おそろしく裕福で強力な共和国が、ほんのひと握りの人間たちの秘密結社によってハイジャックされ、あっさりと転覆されてしまったのだ。この戦争は近代史上もっとも不評なものといっても過言ではない」(EWサイード「裏切られた民主主義――戦争とプロパガンダ4」みすず書房)

(註3)2003年12月18日付ル・モンド紙「イラク派兵の隠された意図」
  
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