知の有効性を拓くーE.W.サイードのテキストを通して― 第6回
土田修(正会員・ジャーナリスト)
4.改憲論と非政府的視点 その4
(6)自己責任論
――政府と保守系マスコミの大合唱
イラクでの人質事件を契機に、「個人の無謀で軽率な行動が国や世間に迷惑をかけるのはけしからん、甘えるな」と人質や家族らを非難する「自己責任論」の大合唱が起きたのは記憶に新しい。発端になったのは政府関係者の発言だった。「『自らの安全は自ら責任を持つ』との自覚を持って行動を律してほしい」(4月15日、川口外相)、「いかに善意の気持ちがあっても、これだけの目にあい、これだけ政府や多くの人たちが救出に寝食を忘れて努力しているのに、なおかつそういうことを言うのかねえ。自覚というものを持っていただきたい」(同16日、小泉首相)、「帰国して、頭を冷やして、よく考えて、判断されることだ」(同、福田官房長官)などがそれだ。
それに拍車をかけたのが保守系マスコミの報道だ。「国家には国民の生命や財産を保護する責務がある。しかしここでは『自己責任の原則』がとられるべきだ」(同10日「産経抄」)、「イラクは"超危険地帯"とし最高の『退避勧告』がたびたび出ていた。それを無視していた三人の無謀と軽率さに対して、テレビ会見を見ている限り、家族の側に自覚も反省もないようである」(同13日「産経抄)、「三人は事件に巻き込まれたのではなく、自ら危険な地域に飛び込み、今回の事件を招いたのである。自己責任の自覚を欠いた、無謀かつ無責任な行動が、政府や関係機関などに、大きな無用の負担をかけている」(同13日読売新聞「社説」)、「退避勧告を無視して行動する人は、国としても面倒見切れません、自分が責任をとって下さいよ、というのも仕方がない。いやむしろ当然ではないか」(同23日「産経抄」)など。
これらの論説記事に共通しているのは、゚人質は国が「退避勧告」を出しているところに勝手に行ったのだから自業自得だ(国の責任ではない)燻ゥ分で責任をとれない軽率な行動が国に多大な迷惑をかけた瘤膜盾招いた「個」の自己責任と、自衛隊派遣という「公」の政治的判断は無関係。だから国は自衛隊を撤退する必要はない――というものだった。この論調に後押しされたのか、政府・与党内からは「救出費用を請求すべきだ」「渡航禁止の法制化が必要だ」といったヒステリックな議論が噴出した。人質を評して、うかつにも「反日分子」と口走ってしまった国会議員まで現れた。本当は「非国民」と言いたかったのだろう。さすがに下品だと思い"スマート"な表現に切り替えたに違いない。論理性のかけらも持ち合わせない、この程度の人たちを国会に送りだしている国民の責任はあまりにも重い。
ジャーナリストやNGOが危険な場所で取材したり、活動することはおかしなことではない。本当のことが書きたければ、ジャーナリストは「そこ」へ行って見て来る必要がある。国境を越えて活動するNGOには、国家にはできないことをやるからこそ価値がある。日米安保に縛られている自衛隊に劣化ウラン弾の調査ができるはずがない。制服を着て武装した「軍隊」がイラク市民と本音で語り合えるはずがない。政府・与党の憤りは、まさに自分たちのコントロールの効かない、フリーな取材活動やNGOの非政府性にこそ向けられたものだ。
  
――論理のすり替え
今回、政府と保守系メディアはフリーの立場の取材活動とNGO活動にあからさまな嫌悪感を示した。理由は自衛隊派遣という国家政策に異議を唱えての行動だったからだ。川口外相や小泉首相らの発言は「自衛隊撤退論」を人質の「自己責任論」へすり替えることが目的だった。イラク戦争の大義が崩れ去り、アメリカがファルージャで報復としての住民虐殺を続けている最中に、愚かしくも政府・与党に操作されたマス・メディアは日本の世論を不毛で内向きな「自己責任論」へとせき立てた。本当に問われていたのは、戦線を拡大し続けるアメリカを無批判的に支持し国際的に孤立しつつある日本政府の「自衛隊派遣」の是非だったのだ。
今回の人質事件を受けて、フランスのル・モンド紙は日本が戦後最大の転換点を迎えていると指摘する。「人質事件は小泉首相の対米追随政策の矛盾を明らかにした。このアメリカ贔屓の政策は戦略上のビジョンを欠くと同時に、中国や韓国という隣国との信頼関係を構築しようとする努力を欠くという結果をもたらしている」「人質事件は敗戦以来、優勢だった平和主義を断念することの結果として起きたことだ。しかし、日本が『普通の国』(軍事大国)を目指す手始めが対米追随路線であるならば、可能な政策上の駆け引きの余地を失うことになるし、日本の政策の自主独立性を保つことも難しくなるだろう」(4月27日「日本のゆっくりとした右への方向転換」)。国内で起きている改憲論や、国歌・国旗問題、集団的自衛権の問題を、アメリカ以外の国際社会がどう見ているのかについてル・モンド紙は多くのことを示唆してくれている。
  
――正当な言論空間
国内的に人質事件が示したものは、政府・与党と保守系マスコミの国家主義への傾斜であり、同時にNGOの持つ非政府性・非国家性に対する感情的な反発とむき出しの敵意だった。やっとNGOが政府の政策に影響を与えうるファクターであることが認識されたということだ。NGOの活動が様々な議論の場(?)で語られ、非難されたということは、その存在価値が政府やマスコミにきちんと認められたということでもある。
もっとも「自己責任」という使い方に疑問の残る言葉が、相手を非難するレッテルとしてまかり通る言論状況には危機感を抱かざるを得ない。「自己責任」という言葉は広辞苑には載っていない。一般に使われる言葉ではないということだ。ただ法律用語事典には「自己責任の原則」という言葉が載っている。自己の行為についてだけ責任を負うという近代法上の原則だ。古代や中世には家長が家族や支配下にある者の行為について責任を負わされることがあった。これに対して近代法は自己責任の原則を確立した。故意、過失がある場合のみ賠償責任を負うとする「過失責任の原則」と同じことで、個人の自由な活動を保障する原則として理解されている。それがNGOやジャーナリストの「公的」に価値ある行為を「軽率だ」「無謀だ」と非難するための用語として使われた。同時に国の責任を回避し、自衛隊派遣の是非を問う本来あるべき論議を隠蔽する役割を果たした。みんなが当たり前だと思っている言葉に限って、イデオロギーやプロパガンダとして機能したり、市民をマインドコントロールする道具になる危険性をはらんでいる。正当な言論空間をつくり出すためにも、概念の不明確な上滑りした言葉を、安易に使うことの危険性を、サイードは次のように指摘している。
「今日、大概のアラブや西洋の知識人が陥る大きな誤りの一つは、世俗主義や民主主義のような言葉を、議論も厳格な吟味もないまま、分かり切ったことのように受け入れていることである」「わたしたちは『民主主義』『リベラリズム』というような少数のずさんな言葉や、『テロリズム』『後進性』『急進主義』といった検証されていない言葉を、懐疑論もないまま議論の用語にするのではなく、もっと正確できつい議論を要求する必要がある。その用語は数多くの視点で定義され、いつも具体的で歴史的な背景に位置づけられているべきである」(03年8月21−27日アル・アフラム・ウィークリー誌「夢想と妄想」註)。

註)サイードはこの記事の中で、ウォルフォウィッツやチェイニーといったブッシュ政権の保守派がイラク戦争を進めた背景には、「イラク戦争と戦後処理を60日から90日で簡単に済ませ、自分たちの言うことを聞く民主的なイラクをつくる」という「妄想」があったと書いている。サイードは「言語や現実が、アメリカの力やいわゆる『西洋の視点』の所有物であるかのように言い立てる観念的なデマゴギーを容認するのはやめよう。事態の核心はもちろん帝国主義であり、正義と進歩の名においてサダムのような邪悪な人物を世界から取り除くという、自分勝手な使命感である」と指摘している。
  

▲ページトップへ
 

 



 

 

©2004 NPO Training and Resource Center All Right reserved