Vol54 2009年2月7日号

  今なぜ、日本で公共哲学なのか

金泰昌(キムテッチャン)(公共哲学共働研究所所長)  

 この原稿は、2008年7月26日に(特非)NPO研修・情報センターがウイングス京都で 開催した「協働コーディネーター養成講座」に、公共哲学共働研究所所長の金泰昌(キムテッチャン)さんを迎えて行った、 「今なぜ、日本で公共哲学なのか」の講演とディスカッションした内容を まとめたものである。

 協働コーディネーターの基本となるNPO公共哲学のエッセンスを 読み取っていただきたいと思う。(世古一穂)

「ともに公共哲学する時空」の主旨、もしくは基本姿勢

 わたくしから「ともに公共哲学する時空」の主旨、もしくは基本姿勢についての説明を申し上げます。

 まず、なぜ哲学なのか。いろんな物事をその大本からきちんと考えてみたいからです。大本からきちんと考えてみたい問題はたくさんあります。しかし、21世紀の日本で改めてじっくり考えてみたいのは、自己と他者がともに幸福になれる世界をどう築くかという問題です。なぜ幸福の問題を考えるのか。それは、今の日本が、日本人が、そして、そのような日本で日本人とともにいろんなことをしている日本在住の人々が、あまり幸福でないのではないかという気がするからです。なぜか元気がない。なぜか明るくない。なぜか鬱が漂う。世界第2の経済大国なのに。いろんな条件がよく備わっているのに。

 わたくしには、現在と将来の日本と日本人は、本当の幸福とは何か、どういうことなのかという問題に対して、誠実に哲学することが何よりも優先されるべきではないかと思われます。幸福の科学、政治学、経済学、社会学、宗教学、心理学よりも、まず幸福の哲学が日本をよりすばらしい国家にする上で真っ先になすべきことではないでしょうか。国民一人ひとりが幸福でないのに富国強兵とか、富国有徳がどのくらいの意味があるのでしょうか。

 日本と日本人が、本当に幸福であってほしいのです。なぜか。日本と日本人が本当に幸福であるということが、韓国と韓国人、中国と中国人が本当に幸福になるということと深くつながっているからです。お互い様であるからです。日本と日本人が幸福でなければ、その不幸の原因を外に求め、それを解消するという名目でどんなことをすることになるか分らないからです。そこからとんでもない敵意と殺気と怨念の悪循環が始動するかも知れないからです。幸福な国家や国民は隣国に攻めいったり、奪い取ったりしないと思うからです。幸福な人こそ仲間とか親類だけでなく見知らぬ人に対して寛大・融和・配慮する傾向が多いと言われるからです。

 では、なぜ哲学対話なのか。わたくし一人で考えても意味がないからです。従来の哲学を想定するのであれば、わたくし一人で書斎にこもって、古今東西の賢者哲人たちの言行録をあまねく読み漁り、深思黙考・理上磨錬をかさねて廓然知得したことを書き記し、それを何らかのかたちで発表するということも考えられます。しかし、そのような哲学のあり方に食傷したのです。哲学者の哲学文献学には興味が湧かなくなったのです。生の人間と心を開いて語りあいたいのです。わたくしとはいろんな側面で相異なる人間との実心実語の対話が恋しいのです。

 対話は会話とは違います。会話は多数の人間が集まって話すということです。「話す」とは「離す」もしくは「放す」とも語源的には類似のものですが、発話者の一方的な発信行為です。独話です。ですから、複数の人間がそれぞれ自分の言いたいことを言うのです。「言」(う)と「話」(す)は一方的な発話という意味では一緒です。「語」(る)とは相手の発言・発話をき(聞・聴)くというのが先にあって、それに応答する形で自分の意見・反応・対応をことばで示すということです。ですから、対話についてのわたくしの個人的な考え方を「語りあう」という言い方であらわしてきたのです。勿論、会話との違いをより鮮明に意味づけするためです。哲学対話と哲学会話とはまったく違うものです。多数の人間が集まって自分の哲学を発表するというのは哲学会話です。ほとんどの哲学関係の学会や集会は、圧倒的多数が独話か会話の集合であります。しかし、そこに対話はあまり見当たりません。

 対話とは基本的に自己と他者の出会い・交じりあい・語りあいが必須条件です。多数の自己たちが集まって自分の言いたいことを話す会話とは違いまして、自己と他者―自己とは相異なる・相反する・同化を拒む存在―とがともに・たがいに・向きあって語りあうのが対話なのです。そして、自己と他者とのあいだ・あわい・向き合いをむすび・つなぎ・いかすための対話には忍耐と寛容と自制が必要です。「おどろ(驚・愕・駭)き」と「とまど(戸惑)い」と「ためら(躊躇)い」を「こわ(怖・恐)がる」ということは禁物です。

 日本も単一民族社会ではなくて多民族共生社会ですから、多様・多重・多層の相違性・特殊性・意外性への柔軟な感受性を育むことが大事なのです。自己と他者とがともに幸福になれる世界を哲学対話するということが21世紀の日本には何よりも必要な課題ではないかと思われるのです。

 わたくしの主旨説明を終える前にもう一言。なぜ公共哲学するのか。

 まず、わたくしは哲学「学」と哲学「する」を分けて考えるからです。そして従来の「み(見・視・観)て考える」哲学でもなく、「よ(読)んで説く」哲学でもなく、「き(聞・聴)いて語りあう」哲学を大事にし、それを実行していきたいからです。他者とともに・たがいに・向きあって、まず他者の呼掛けに真心・本心・誠心を込めて応答する哲学を重視すると同時に、そのような哲学する心構え・覚悟・勇気を日常平凡な生活世界における一般市民の公共する理性・感性・意志・霊性として育みあうことに一意専心したいからです。

 公共哲学とは公共する哲学です。公共するとは他者とともに対話する・共働する・開新する(新しい地平を切り拓く)ということです。ですから、公共哲学とは、別の言い方をすれば、他者とともに対話する哲学であり、共働する哲学であり、開新する哲学です。その基本は、「はじめに対話(共働・開新)ありきの確信」に基づいた公私共媒知であります。公共哲学とは誰か―それが聖人君子であっても―ひとりの人間の人生観・世界観・価値観を一方的に伝達したり・受容したり・教条化することではありません。そのようなものをわたくしは「私」哲学と呼んでいます。「私」哲学の基本は「眞我(はじめに自我ありき)のこころとからだを内側から省察する」ということです。己事究明の心身内観を主軸とする哲学です。「私」哲学には「滅私」の哲学と「活私」の哲学があります。「私」哲学には素晴しいものがあります。しかし、どんなに素晴しくても、「私」哲学は「私」哲学です。

 それと対比されるのが「公」哲学です。「公」哲学とは、国家・政府・体制を正当化し、それを構成員全体に教え込み、それに基づいて同一化・統合化・一体化をはかる哲学であります。「公」哲学の基本は「全体(はじめに全体ありき)の認従」です。全体を確定・強化・守護することです。「公」哲学とは、全体(国家)公認の制度知を基本とする「官」(制・認)哲学でもあります。誰かの「私」哲学が国家・政府・体制によって直接的また間接的に公認されますと、「公」哲学になる場合も多々あります。

 改めて公共哲学とは何か。公共哲学とは普通の市民と市民の・による・のための・とともにする知・徳・行の連動変革をめざす民知養育です。「公私相生」をはかる共媒知を目指します。大学の講義室だけではなく、いつでも・どこでも・どんなかたちでも公共することに関心をもち、その必要性を感じ、時間と資源を使う意志がある人々が時と場と気を共にし、そこで自分とは意見・立場・目標が相異なる他者たちと真摯な対話・共働・開新を試みるというのが、公共哲学の想定する基本姿勢です。

 1990年の来日以来、わたくしは日本学習を続けてまいりました。そこで一つ感じたことがあります。日本には会話はたくさんあっても対話が非常にすく(少・尠・寡)ないということです。しかし、本当の対話があってこそ、家庭も会社も団体も組織もそして国家も生き生きするのではありませんか。人と人とが、自己と他者とが、出会い・交わり・語りあうなかから共働と開新への動機・心情・覚醒が生じ、それが実践・実行・活動につながると思いますがどうでしょうか。

参加者との対話

【Aさん】 初めて公共哲学のお話を聞きました。なぜ、公共哲学することが必要なのかについてもう少し説明していただけますか。

金泰昌 はい。公共哲学とは「間」(あいだ・あわい・であい)の哲学であると申し上げたいのです。わたくしが日本に来て20年近い歳月が過ぎました。そして、日本をゼロから改めて学習するという心構えで、わたくしなりに努力してまいりました。そこでなんとなく感じたことがあります。それは、日本人は「間」とか「間柄」を大事にするといろんなところで言われますが、それは「間」というよりは「内」(側・面・在)のことではないでしょうか。それでも、「間」と言うのであれば、その「間」とは、内向きに閉じる「間」であるということです。わたくしの考える「間」とは、外向きに開く・開かれる・開き続ける「間」です。これはとてもとても大事なことであります。ものごとを自分と家族・仲間・親類・同胞との「間」のなかから考えるのではなく、自分と他人、自己と他者、場合によっては、友と敵との「間」から両方をともに・たがいに・偏りなく考えるということです。また個人と全体との間、人間と自然との間、そして、家族間、民族間、国家間、宗教間、文明間などなど多様・多重・多層の「間」をそのなかに「閉じ込める間」としてではなく、そこから両方を「開き直す間」として改めて考えるということであります。「内」 ( 側・面・在 ) と「外」 ( 側・面・在 ) とのあいだ・あわい・であいに身・心・意を置いて・位置づけし・意味づけして、どちらにも一方的に偏りのないように気を配りながら、ものごとをきちんと考えるということです。それはかなりしんどい・きびしい・むずかしいことです。しかしそのような姿勢をもって・に基づいて・を通して哲学することが、現在と将来の日本と東アジア、そして世界の状況改善的要請であると思うから、公共哲学することの必要性を申し上げるのです。

 また、公共哲学とは「中」の哲学です。「中」というのは中間とか中心とか真ん中という意味ではありません。1と3の真ん中は2であるとか、京都と神戸の中間は大阪だというような意味ではないのです。「中」とは「あたる」もしくは「あてる」ということです。場所的には「命中」というのがありますし、時期的には「時中」というのがあります。本当に必要な場と時にあたる、あてるという意味なのです。時代と状況の要請に対してきちんと対面・対応・応答するということです。そして「中」にはむすび・つなぎ・いかすという意味も含まれています。「中」とは A と B との中間・真ん中・中心というよりは、 A と B とのあいだ・あわい・であいにおける時期的・場所的要請に適切に対面・対応・応答しながら、そこから A と B とがともに・たがいに・偏りなくむすばれ・つながり・いかされる地平を切り拓いていくはたらきのことなのです。そのような「中」のダイナミックなはたらきを作動させる工夫としての「中」の哲学というのが公共哲学であり、それがよく理解され、実践される必要があると思うから、公共哲学を語りあう必要があると申し上げるのです。

 そして、公共哲学とは「和」の哲学です。「和」とはやわらぎ・なごみ・いやしという意味です。誰か一人の人間の内面における心理的・心情的状態ではなく、自己と他者とのあいだ・あわい・であいにおけるともに・たがいに・偏りないやわらぎ・なごみ・いやしのはたらきです。「和」のはたらきは一方的・一次元的・直線進行的なものではありません。それは自己と他者との「間」から両方に向かって、両方をバランスよく・両方の連動改善を目指すというものであります。ですから「相和」であり、「互和」であり、「共和」のはたらきと理解する必要がありますね。「和」のはたらきは三次元相関的です。それは自己と他者との「間」が基本的に「相克」(相互対立・葛藤・矛盾)であると同時に、「相生」(相互補足・補充・補完)でもあり、「相克」が「相生」に転換・改変・進展するのは「相和」(相互和心・和語・和行)を通して可能になるということです。

 従来の「和」の考え方は専ら自己の内面の平穏無事に重点を置いて身内・仲間・親類の同質性・一体性・結束性を奨励するものでありました。わたくしの考える「和」とは、それとはまったくちがう力働ということを理解していただきたいのです。わたくしの感覚からすれば、従来の「和」とは「和」ではなく、「同」であります。あえて「和」と言うのであれば、身内とか、仲間同士の同和、もしくは同化です。それは異質の他者を排除・否定・破壊する怖い心理・論理・対策の源泉でもあります。

 日本は和国とも大和国とも言われました。日本人は和人とか大和人と称されました。しかし、その「和」が内向きの単一民族志向になっては、東アジアや世界との相和と和解と共福をめざすのとは逆の方向にはたらくものになりかねないので、日本人同士の同和もしくは同化ではなく、自他相生をはかる自他相和としての和―相和・互和・共和―の体認と、それに基いた実践を共有するためには、思考と判断と行為と責任の大本を正すことが大事であり、それは「和」の哲学としての公共哲学することによって育まれると思うから、公共哲学を強調するのです。

 

【Bさん】 「間」の哲学・「中」の哲学、そして「和」の哲学としての公共哲学は、今日の日本の政治のありかたをどう捉えるのですか。今日の日本における民主政の有り様についてはどのようにお考えですか。

金泰昌 日本の政治は専ら統治ですね。自治への要求とそれに対する対応が徐々に行われてはいますが、中央集権型の統治が圧倒する政治ですね。野党が育ち難い。与党支配が長期間続く中で野党の存在とその役割、別の言い方をすれば、野党の存在理由が国民によって十分理解されていないような気がします。与党と言っても政治家ではなく、官僚が主役を担ってきたわけですから、実質的には官治―官僚民主制とも言えますね―であったわけです。ですから、政治は統治であり、それは官治であるという政治の図式が定着しているとしか言い様がありませんね。自治が叫ばれてはいますが、それも住民自治というよりは、統治の部分的移譲であり、それは中央指示の官治の下請けであり、地方委託の官治ではないかという気がしますが、どうですか。

 日本の政治は「公」の政治ではあっても「公共」の政治にはなっていないと思われます。「公」とは、「全体のため」もしくは「全員のため」という発想・論理・立場です。ですから、「公」の政治というのは、「国家全体のため」の政治であり、「国民全員のため」の政治であると言われます。「私」とは「自分(だけ)のため」もしくは「自分の身内・仲間・親類のため」という発想・論理・立場です。ですから、「私」の政治―私政とも言われます―とは「専ら自分一人のため」の政治、もしくは「自分の身内・仲間・親類のため」の政治であります。日本の政治は「公」の政治という見掛けの「私」の政治ではないかという印象を受けます。「国益」という名(だけ)の官益、もしくは党益・派益・省益―結局、私益の変種にすぎない―に執着する政治ではないでしょうか。

 では「公共」の政治とは何か。それは「ため」の政治ではなく「ともに」の政治なのです。「国民全体のため」とか、「国民全員のため」という名分・弁説・主張ではなく「自分一人のため」とか「自分の身内・仲間・親類のため」の徒党・策略・術数でもなく、「一人ひとりの国民とともに」する深思・熟慮・判断・決定なのです。「ために」は一方的な思い込みにすぎない場合が多いのです。統治者が「国民全体のため」もしくは「国民全員のため」と思い込んでいるだけであって、それが本当に「ために」なっているか、その逆かというのが、確認される仕組みがきちんと作動されにくくなっているのです。統治者の自分中心の思考・判断・行動・責任の仕組みが自己完結されやすいのです。

 ですから、「ともに」が公共(する)政治の要訣と言えるのです。それは別の言い方をすれば、統治と自治との「間」から統治と自治とをともに・たがいに・偏りなくむすび・つなぎ・いかすと同時に、統治と自治との相克が相和を通して相生に転換されることを目指す政治のありかたです。それは「間治」であり、「中治」であり「和治」です。一言で「共治」とも言えます。公共の政治とは共治のことであります。

 ここで警戒する必要があります。何を警戒するのか。それは「公」と「公共」をあえて分ける必要などまったくないという考え方です。何故か。公と公共は同じものであるというのは、官の発想であり、それは民の上に君臨する考え方なのに、それに気づかせないようにするから危険なのです。「公」とは「全体のため」・「全員のため」の統合化・同質化・一体化を志向します。「官」(人・僚・組織)の論理以外の何物でもありません。そこでは「私」の存在と価値と尊厳が認められないのです。「私」は全体の中に回収されるべきものであり、回収されなければ排除・否定・抹殺するしかないのです。「私」が全体の中に吸収・同化・統合されなければ全体が全体でなくなるからです。

 ですから、「私」の肯定を前提するうえで、「私」と「公」との媒介・仲介・共媒をはかるはたらき・うごき・しわざとしての「公共」を「公」とは別途に想定するというのは、「公」・「官」統合原理との相性がよくないのです。都合が悪いのです。官治の正当性が崩れるからです。官治の正当性はそれが「公」の担い手であるということです。その「公」とはちがう「公共」が政治の正当性の根拠として認められるようになりますと、官治が受容されなくなるわけです。官の一方的な統治ではなく、民主導の民官共治が公共に基づいて・を通して・によって実現するというのが公共の政治であり、それは公の政治とはちがうのです。

【Cさん】 「公」は「みんなのため」、「私」は「自分のため」、そして「公共」は「自己と他者」・「私と公」・「個人と国家」などを「そのあいだから媒介・仲介・共媒するはたらき・うごき・しわざ」であるということは、ある程度、理解できました。また、「公」は統治、「私」は自治、そして「公共(する)」は共治の正当性を担保するものであるということも分かりました。そこでわたくしが知りたいのは、公共が重視され、共治に政治のありかたが変換していく時代と状況に対応できる人間のタイプとはどういうものでしょうか。たとえば、「公」優位の時代と状況においては官僚が主役でありました。「私」優先の時代と状況のなかでは、経済的に自立した個人が重視されると考えられます。「公共」の時代と状況における最も期待される人間像というのがあるとすればどのような人間ですか。

金泰昌 媒介・仲介・共媒の資質・力量・度量が最重要視されるのではないかと思われます。ですから、そのような資質と力量と度量の持ち主への要望・期待・需要が増加するでしょう。対話力・共働力・開新力を備えた人間が主役になるのではないでしょうか。「ために」を強弁するような人間ではなく「ともに」を実行できる人間です。すべてはお前のためにしていると言いながら、専ら自分のためしか念頭にない人間ではなく、常に相手とともに対話し、共働し、開新する人間ではないでしょうか。

 世古先生がその育成に全力投入していらっしゃる、協働コーディネーターも公共の時代と状況における主役の典型であると思われます。「間」から考える能力・「中」を開新にまでつなげる能力・「和」をもたらす能力というのは、従来の能力概念では理解し難いかもしれません。たとえば、良質の通訳力です。従来の言語力と言えば、個人の発信力と受信力に重点が置かれました。読解力とか、聴取力というのもどこまでも自己本位の言語能力のことです。しかし、自己と他者とのあいだ・あわい・であいから両方をともに・たがいに・向きあって・むすび・つなぎ・いかすというのは、それぞれちがう言語を通して表言されるものをどちらも理解可能なものに転換・変化・発展させる能力が通訳能力です。単一民族・文化・伝統社会では、通訳というのは、ほとんど、必要なかったわけです。

 しかし、多民族・文化・伝統社会では通訳なしには、民族的・文化的・伝統的多様性・異質性・個別性の対立・衝突・葛藤をやわらげ・なごませ・いやしあう能力・力量・度量が発動されないのです。何らかの通訳・通弁・通詞のはたらき・うごき・しわざが必須不可欠なのです。わたくし自身の経験に基づいて申し上げますと、ほとんどの対話と共働と開新は、いろんな意味における通訳がうまくいけば成功しますが、そのはたらきが欠如しているところでは、うまくいかないということです。通訳無しの一方的な発言・発語・発意の強行は、あらゆる独断・独善・独裁の始発点であります。善意に動機づけられた場合でもそうです。「お前のため」と言いながらも「自分のため」のものごとを相手側に一方的に強要・強制・強行することになりやすいのです。他者の言い分をき(聞・聴)いてそれに応答するという姿勢・態度・用意が欠けているのです。自分の言語とは語彙も文法も構文もちがう他者の言語に真摯に耳を傾け、それをよく理解するためには、通訳の能力が自分に備わっているか、そうでなければ、誰かの協力を受ける必要があるのです。他者がいるところでは、通訳無しにはものごとがうまくいかないということを留意すべきです。

 

【Dさん】 世古先生が強調される協働コーディネーターを、日本語で言い換えればどのようなことばになるでしょうか。

金泰昌 そうですね。わたくしが思い出す事例を申し上げますと、世話人とか世話役ですね。幕末維新期の思想家に横井小楠( 1809 ─ 1869 )という偉い方がいらっしゃいましたが、その方が、日本国は世界の世話役に徹するべきだとおっしゃったのです。21世紀の世界の動向を見ていますと、たとえば、アメリカと中国とロシアがそれぞれ強大国としての覇権争いを地球大に繰り広げるなかで、何よりも多数の良質の世話役を担える国家と国民、もしくは国境と民族と文化の境界線を横断媒介できる世界市民たちの活動・連動・連帯が火急に要請されます。私の個人的な願望は、日本および日本人が横井小楠の言う世界の世話役に徹することです。世界の協働コーディネーターになるということです。そして、日本国内でも単一民族国家的発想・論理・慣行を多民族国家にふさわしいものに転換・変革・改善する必要があります。そこには、自己と他者とがともに・たがいに・向き合って対話する・共働する・開新する心構え・覚悟・勇気が最も基本的な姿勢・態度・用意として受容・定着・拡散する必要があります。

 

【Eさん】 公共性とか公共するとか言われるものは理屈ですか。気持ちですか。何か特別な領域ですか。

金泰昌 公共哲学の核心になる問題の一つをずばりご指摘なさいました。公共哲学を研究していらっしゃる、所謂、公共哲学者・専門家たちのあいだにもいろんな意見・立場・主張があります。ですから、簡単には言えないのですが、どこまでもわたくしの個人的な見解として申し上げます。

 「公共性」と言われますと、理念・理論・規範という意味あいが強くなりますね。しかし、「公共空間」とか、「公共領域」とか、「公共圏」とか、学者によってそれぞれちがう概念語が使われていますが、たとえば、国会は公的な空間・領域・圏ですが、家庭は私的な空間・領域・圏と区分けして理解するということですね。公共精神とか公共心とか公共感情というのは、まさに気持ちの問題でありますね。わたくし自身は「理としての公共」・「場としての公共」そして「気としての公共」と三つに分けて考えております。それは特に中国と日本と韓国をいろんな側面から比較検討してきた経験学習に基づいたわたくしなりの基本的な発想・立場・見解であります。中国はどちらかと言うと、「理」の文化、日本は「場」の文化、そして、韓国は「気」の文化がそれぞれの特徴・特性・特色であると同時に、中国にも日本にも韓国にも「理」と「場」と「気」の文化が適度に混在融合しているということであります。

 ですから、「公共」というのも「理」・「場」・「気」として分けて考えると同時に相互連関的に理解するのがよろしいのではないかと考えるわけでございます。

 

【Fさん】 「理」とか「場」としての公共というのは、なんとなく分かるような感じですが、「気」としての公共というのは、どのようなものですか。「気」というのは何ですか。

金泰昌 「気」というのは、いのちのはたらきです。いのちはからだを通してはたらき、こころになってはたらきます。ですから、「気」とはからだのはたらきでもあり、こころのはたらきでもあります。そのはたらきが個人の身体感覚的な素質として捉えられるのが「気質」です。それがそれなりの品格を備えると「気品」といわれます。それが、社会的風土のもとになりますと、「気風」と称されます。それが時の流行・傾向・空気に反映されると「気流」にもなります。「気」とはそういうものです。それらすべてとそれ以外のありとあらゆる「気」のはたらきの大本は、「元気」です。宇宙の根元にはたらく「気」です。万物生生の「気」というものです。それは皆様お一人おひとりのなかにも、皆様お一人おひとりのあいだにも、そして、今ここでの時と場にも元気がはたらいているわけです。それがたがいに疑い・妬み・憎しむのであれば、それぞれ「疑気」・「妬気」・「憎気」になります。ともに・たがいに・偏りなく対話する・共働する・開新することを念ずる・願う・めざすというのであれば、それこそ「気」としての公共がはたらくようになるわけです。そこには、「理」と「場」も伴うかも知れません。「理」とか「場」とかとはかかわりなく作動するかも知れません。それは一人ひとりのものでありながら、自己と他者とがともに・たがいに・偏りなくなす実践・活動・連帯としてはじまり・つながり・広まっていくものでもあります。

【Gさん】 「気」としての公共というのは、たとえば「理」とか「場」としての公共とは何がちがうのですか。何か目指すとか意図するところがちがうのですか。あえて「気」としての公共を想定するというのには、それなりの理由があると思われるからです。

金泰昌 はい。勿論、わたくしなりの理由があります。めざすところもあります。そして意図もあります。

 1990年来日以来、わたくしなりに精一杯、日本学習に力を尽くしてまいりました。いろんなことを学びました。その上で、いつでもどこでも、わたくしは日本と中国と韓国がともにたがいに・バランスよく幸せになれるためには何が必要かということが基本課題として、わたくしの知・情・意から離れないのです。特に、韓国が日本や中国からの圧力や侵略や破壊による悲劇・悲惨・苦痛をくりかえし体験してきたから、このような状況・事態・経過を何とか抜本的に変えたいという気持ちが強いのです。そこで日本と中国の実像を知り、それを日本と韓国との「間」、中国と韓国との「間」の変革・改善・向上に活かしたいのです。それは日本と中国との「間」にも直接的・間接的にむすばれ・つながれ・いかされると思うのです。そのための「理」を究めることも「場」を設けることも大事ですが、何よりも「気」を養い・育み・相通じるようにすることが必要だということをいろんな経験によって、実感したわけです。「気」が相通じるということは「理」を解得し、「場」を共有することよりも、根源的ではないかと思われたわけです。

 特に日本で日本人たちと付き合うなかで、切実に感じたことは過剰と言えるほどの内向きの傾向です。それは日本人ではない人間の立場からすれば、対面拒否であり、対話遮断であり、対応停止以外の何ものでもないと捉えられるのです。外から見れば、日本人の心の内側・内面・内在はまったく不可思議な世界です。しかし、ここで誤解されたくないのは、日本人の内側・内面・内在を問題にしているのではないということです。どの民族にも、どの人間集団であれ、個人であれ、それぞれの内側・内面・内在は不可思議な世界であり、他者の介入・干渉・憶測を排斥するというのが日常の世態です。世界中どこに行ってみてもそうです。ですが、そのようなそれぞれの内側・内面・内在を認め・重んじ・大切にしながら、そこに凝るのではなく、自己の内面と他者の内面とのあいだに何らかの相通・開通・通達の回路を切り開くはたらきが必要です。すべてのものごとを自己の内側に収斂させて思考し、判断し、行動し、責任を負うということでは自己による他者の同化・吸収・支配か、それとも他者による自己の併合・消滅・抹殺への途しかなくなるのではありませんか。自己と他者とのあいだを横断媒介できるのは「気」のはたらきではないかと思うのです。ですから、「気」としての公共というのを想定したのです。

 

【Hさん】 結局、金泰昌先生の公共哲学は「理」の哲学とか「場」の哲学というよりは「気」の哲学ということですか。

金泰昌 はい、そういうふうにも言えると思います。「気」の哲学と言いましても、「怨気」とか「悪気」とか「殺気」のはたらきを、「和気」とか「善気」とか「生気」のはたらきに変化・転換・換気させる「気」変換の哲学です。それは結局、「元気」を回復・再生・再動させることでもあります。その「元気」が人間を活気付け、幸福にするのであります。プラトンは哲学を死の準備であると言いました。ハイデッカーは哲学を死の先取りとそれに基づいた実存的投企であると称しました。わたくし自身は哲学を人間における最高の充実な生を実現するための真摯な工夫であると意味づけます。最高の充実な生とは即ち、幸福です。それは到達した終着地というよりは、それを目指す持続的な探究の旅路であります。

 公共哲学とは自己と他者とがともに幸せになるための真摯な工夫です。幸福とは人間の意志とは関係なく訪れたり、離れたりする偶然の事柄でもあります―特に「幸」(せ)の部分―が、人間の最善の深思・熟慮・善行を通して、実感できる感動の響きあい―特に(祝)「福」の部分―でもあります。公共哲学とはともに幸福になれるための「理」と「場」と「気」の探究・構築・共有を目指す自己と他者との協働コーディネーションであるとも言えるでしょう。公共哲学とは自己と他者との共福を共働構築するための市民の・市民のための・市民による、そして市民とともにする哲学運動であります。

 公共哲学とは自己と他者とのあいだ・あわい・であいから自己と他者のいのち・くらし・なりわいを輝かせることだと思うのです。幸福とはいのちとくらしとなりわいが輝くことです。哲学無しの権力も財力も地位も名誉も輝かないのです。いのちとくらしとなりわいを輝かせる公共哲学とは自己と他者とがともに・たがいに・向きあってそれぞれの自分の目でしっかり見つめあい、それぞれの自分の耳でしっかり聞きあい、それぞれの自分の身体で行い、それぞれの自分の実心で実感しあい、それぞれの自分の足で立って、それぞれの自分の頭で考え、それぞれの自分の口で語りあうことです。

 

【Gさん】 「気」としての公共というお話を伺いまして、何となく韓流ブームのことが思い出されました。なんだか「気」があい通じるようなところがあるという感じがするのです。「理」でもなく、「場」ともいえないものです。やはり「気」ではないかと思うのです。「気」と韓流は何か関係がありますか。

金泰昌 ありがとうございます。わたくしにとっては、とても重要な議題を提示していただきました。

 わたくしの日本人哲学者の友人のなかにも韓国のテレビドラマをもって、公共哲学についての対話授業というか、共働学習を試みたという方々がいらっしゃいます。「公心」とか「私心」とは違う「公共心」の具体的・実存的実例を、例えば、『 許浚 ( ホジュン ) 』とか『チャングムの誓い』とか『太王四神記』そして『砂時計』もしくは『 商道 ( サンド ) 』などテレビ・ドラマと小説の両方か、どちらか一方だけを一緒に見たり読んだりしてから、発題・質疑討論・感想を交換するなどの多様な方法と形態があるようですが、それはそれで反応がよいようです。

 しかし、わたくしがここで申し上げたいのは、哲学関係の書籍とか社会問題を題材にした文学作品にも公共哲学を理解するうえで大きく役に立つものが多数あるなかで、身近なところで見られる最近の韓国のテレビドラマの中に、「気」としての公共というか、人間の実心―真心・本心・誠心―としての「公共する心」―対話する心・共働する心・開新する心―が素晴らしい物語として展開されているということであります。「理」とか「場」という側面もありますが、明らかに「気」の公共物語がそこにあるのです。

 そこにあるのは、一人ひとりの人間の内面にひそ(潜・秘・蔵)むこころの有り様だけではありません。だからと言って、国家のため・国民全体のためという名分の下に、滅私奉公が賞賛される英雄談でもないのです。

 そこにあるのは、多様・多重・多層の自己と他者との「間」に繰り広げられる相克・相和・相生の人間ドラマです。「気」としての公共の実例とも言えるでしょう。

【Aさん】 さきほど金先生はお話のなかで、「みて考える」哲学と「読んで説く」哲学と「聞いて語る」哲学という三種類の哲学があるとおっしゃいました。そして、公共する哲学とは「聞いて語りあう」哲学であるとも言われました。では、「みて考える」哲学とか「読んで説く」哲学とはどういう哲学なのか事例をお示しいただけますか。

金泰昌 はい。従来の哲学と言えば、特に大学で専門分野としての哲学の場合、圧倒的に多数を占め、その価値と権威が認められているのは、「みて考える」哲学と「読んで説く」哲学です。

 「みて考える」というのはものごとを直接、自分の目で観察して事実を確認する―科学の基本姿勢はつぶって心眼を開き、宇宙万物の本当の形姿を観想するということに重点を置くということです。また、「百聞は一見に如(し)かず」というのは、『漢書』趙充国伝に出てくることばですが、実際、自分の目で見るほうが何度も聞くより確実性が高いという生活哲学とも考えられます。

 また、「読んで説く」哲学というのも、大学や研究所、もしくは学会などでよく見られる哲学のありかたです。セミナーなんかでも何らかのテキストをもってきて皆に配って、それを読みながら、それに基づいた・についての・と関連した自分の解釈・感想・知識を説明・解説・説教するというのが哲学の正道であるとする場合もたくさんあります。一方的な講義ですね。自分が読んで解得したことを誰かに説くというかたちの哲学です。

 しかし公共する哲学とは自己と他者とがともに・たがいに・向きあって、相手の存在と対面し、顔を見ながら、目を見つめながら、口を通して発せられる音声と、そこに込められた思い・願い・望みとか、痛み・苦しみ・楽しみとか、喜び・うれしさ・幸せを聞き入れ・聞き取り・聞き従ううえで、自分の方からの敬意を備えた相応・対応・応答を試みるという相互関係を開拓・持続・深化させていく言語媒介的ないとなみであります。

 

【Cさん】 「ともに公共哲学する時空」というのは、耳慣れない言葉ですが、何か特別な意味が意図されているのですか。

金泰昌 そうです。日本では普通「公共空間」ということばがよく使われています。わたくしの考えている公共する哲学は国境・民族・宗教・文化などの壁を越えて、相互に横断媒介する公共―空間としての公共―と同時に、過去世代と現在世代と将来世代という三世代相関媒介としての公共―時間としての公共―を同時並行的に考えるから、時空間もしくは時空としての公共という概念を基本にするのです。また、死者と生者と来者(未来の人間)との関係も公共を論究する上で重視しています。

 

【Eさん】 公共哲学は百科全書的知識を求めるものですか。公共哲学さえ分かればすべての問題に正しい答えが出ますか。

金泰昌 そうではありません。公共哲学は私たちの生き方・考え方・見方・行動様式の中の一つにすぎません。今まであまり注目されなかったものごとや議論されなかった問題などを改めて新しい立場・観点・地平―「内」と「外」とをむすび・つなぎ・いかす「間」(あいだ・あわい・であい)―から見直し・考え直し・立て直すという哲学的いとなみです。公共哲学は全体知とか、統合知とか、全能知を追求するのではありません。究極の絶対知・完全知・最高知の体得・悟得・覚得を目指すものでもありません。普通の日常生活をいとなむ生活者市民たちが自己と他者とのあいだで相克を相和に、そして、相和を相生に相転換していくうえで、必要とする良質の民衆知・実践知・生活知を事上磨錬する実践過程であります。

 「公」的機関によって、公教育を通して普及される公知・制度知・正解知ではなく、個々人の生活体験に基づいた私知・個人知・秘伝知でもなく、ともに・たがいに・偏りなく・育みあう対話知・共働知・開新知が公共哲学の目指す知の有り様であります。すべてのものごとに一つの正しい解答を出すようなパズル解きの技術知ではなく、「間」から新しい地平を切り拓くための探問知を重視するのです。

 公共哲学とは一回か二回くらいの会合で片付くようなものではありません。持続的で粘り強い対話・共働・開新が必要なのです。どうもありがとうございました。

▲ページトップへ


 

 



 

 

©2004 NPO Training and Resource Center All Right reserved