6.コーディネーターとしての新たな展開
筆者は地区住民と立ち話をよくすることがある。別にこれといった話題もないのであるが、いわゆる世間話というやつである。ある日、老人が家の庭で竹とんぼを作っていた。思わず懐かしくなって声をかけた。そして、昔話に花を咲かせた。その時の古老との会話はこのようなものであった。
「今の子供達はナイフの使い方ひとつ知らない。昔はこうして、竹とんぼを作って競争していたものや。田んぼやレンガ工場の裏でみんなで飛ばして遊んだもんや」
「えっレンガ工場なんて聞いたことないですが、いったい工場はどこにあったのですか?」
「この村に大きなレンガ工場が昔はあったんや。良い粘土がたくさん採れたので、いつも土を採掘していた。しかし、コンクリートちゅうもんが出来たから、営業不振になって昭和の初期には潰れてしまったんや」
そうか、この北宿は粘土が採れるのか。私はこの会話からヒントを得て、この土地の特産である粘土を採掘して、陶板を作ってみてはどうかという構想を持った。しかもこの地区の子供たちに作ってもらい、公園のモニュメントにしてはどうだろう。どこにも無いオリジナルなものが出来るのではないだろうか。
これが、陶板つくりワークショップの取っ掛かりであった。
さっそくまちづくり協議会に提案して同意を得て、「陶板つくりワークショップ」を始めることになった。
でもいったい粘土はどこで採取できるのだろう?粘土なんてありそうな場所もわからない。ワークショップを始めると言ってはみたものの、いきなり壁にぶち当たってしまった。そんな時、協議会会長が助け舟を出してくれた。
「この辺りは何処掘っても粘土層がある。道路拡幅工事で掘削する時にちょっと余分に掘ってもらったらいいだけや。わしが粘土を採取するように現場で工事監督に指示するから任せてくれればいい。」
本当に会長には頭が下がる。会長は現場監督よりも現場を熟知している。
工事が始まった。土砂掘削機械が地面を掘り出す。1mも掘れば粘性の地層が現れた。やはりこの北宿の地は粘土が採れる土地だったのだろう。会長の指示でトラック一杯分の粘土が集められた。
さて、粘土は手に入れた。次はこれを焼く窯の手配である。
しかし、粘土を焼いてくれる窯がなかなか見つからなかった。計画が頓挫してしまいそうになり、途方に暮れていたそんなある日、筆者はフッとある人物を思い出した。
地元にお住まいの方で、昔は陶芸もやっていて県の展覧会で入選した実績もあると聞いたことがあった人が頭に浮んだのである。たしか窯もあったと思う。地元の行事でもあるし、説明すれば地元の陶芸家として協力してもらえるかもしれない。こういうことはやはり地縁が一番である。
思い立った時が吉日ということもある。さっそく本人に会いにお宅に伺った。そうして今までの経緯を説明して、なんとかここの窯で焼いてもらえないかと頼み込んだ。
「お話はよくわかりました。協力したい気持ちは山々なのですが、実は私は最近体調を崩していて、1日のうち半分は横になっている状態です。陶板焼きは体力いる仕事です。とうてい私には無理です。しかも私の窯はもう5年以上使用していません。窯も使っていないと使い物になりません。残念ですがお断り致します」
最後の望みも絶たれてしまった。やはりだめなのか。
しばしの沈黙の後、陶芸家が言った。
「私は無理ですが、私の知り合いでそういうことに協力してもらえそうな人を知っています。その人に連絡を取ってみましょう」
なんとか望みはつながったのである。しかし、陶芸家の話はまだ続いた。
「それから、粘土をストックしているとあなたは言っているが、掘り出した粘土はそのままでは使えないのですよ。小さな砂粒が一つでも入っていたら、作品は焼いた時に壊れてしまいます。まず粘土の作り方を私でよければ教えましょう」
夢のような話である。そうして窯で焼くことを協力していただける知り合いの陶芸家を紹介してもらえた。
いよいよ粘土つくりの開始である。街づくり協議会会長の呼びかけで、土をふるいにかけて、小石や砂を取り除く作業を地域の老人会が協力してくれることになった。粘土を練り上げる作業は地域の子供育成会のメンバーが手伝ってくれた。小学校や幼稚園のPTAが子供たちに参加を呼びかけてくれた。
地元の陶芸家が協力を申し出てくれてから、とんとん拍子に作業は進んでいった。 |