Vol.51  2008年10月15日号

  「参加と協働のまちづくり」 姫路市 の事例 〜 ゆとりとやすらぎを求めた ある「むら」の挑戦〜 (1)

      吉岡幸彦 ( 姫路市 建設局建設総務部建設総務課 課長補佐 )

T.隔たりのあった行政と住民

1.地域の課題

 兵庫県姫路市 は面積534平方キロ・人口54万人の、播磨平野を牽引する中核都市である。

 世界文化遺産姫路城を要する都市であり、ハリウッド映画「ラストサムライ」のロケ地として一躍有名になった書写山円教寺(武蔵坊弁慶の修行寺でもある)さらには播磨の奥座敷塩田温泉などで有名な観光都市である。また、瀬戸内海に面した海岸エリアを中心に新日鉄広畑を始めとする重工業群や次世代TVのための世界規模を誇る松下の液晶パネル生産基地などを有し、全国有数の先端工業都市としても最近では注目を集めている。

                      そんな中で、今回の舞台である「別所町北宿地区」は 姫路市 の東端にあり、古くは山陽街道の宿場があったといわれ、その歴史は古い。集落は背後の丘陵地に抱かれた平地に4つのため池と田畑に囲まれた塊集型状の集落で、山麓の社寺とともに落ち着いた田園居住地景観を形成している。昔からこの風景は現在までほとんどは変わっていないと思われ、もちろん部外からの転入などは皆無に等しく、住民たちは田畑の真ん中で肩を寄せ合うようにして佇んでいる住宅地につつましく暮らしていた。

       北宿地区 の風景

 この北宿地区も全国にある古い集落と同様に、地区内を通っている道路は狭く、しかもグネグネと湾曲していた。ほとんどの道が一間から一間半(1.8 m 〜2.7m)しかないのである。これでは車の進入はほとんど不可能といっても過言ではない。

 年号も昭和から平成になり、時代はバブルの絶頂期。地区に住んでいた若者はこの不便な生活環境から逃げるように飛び出していってしまった。「むら」は高齢者が取り残され、空き家も目立つようになってきた。

 「わしらの代がいなくなれば、いったいこの村はどうなってしまうのだろう」

 地区住民たちは不安と寂しさで、ため息交じりにこう語っていた。

 そんな時期に、近隣地区で大規模な区画整理事業が始まった。田畑の真ん中に広い道路が縦横に建設され、今まで細い畦道を歩いて耕作に行っていた田畑に車で乗りつけることが出来るようになった。人々はその便利さに喜んだ。しかしそれもつかの間、ふっと我に返ってこう言った。

 「人の住んでいない田や畑ばかり便利になっているが、自分達が住んでいるこの住宅地はひとつも便利になっていない。集落内の道路こそ広げるべきじゃないのか。火災が発生したらそれこそ大変だ」

 しかし、100軒以上の家が集中して密集している中、道を広げていくことは至難の業である。すべての道を幅員4m以上にすることは「むら」の人々にとっては夢のまた夢の話であった。

2.行政依存からの脱皮

 当時の区長が、北宿地区での地域の課題を住民にアンケートしたところ、90%以上の人々が道路拡幅整備を望んでいることがわかった。

 「これだけのたくさん人が道路整備を望んでいる。これはなんとかしていかなければならない」

 区長はさっそく役所に出向き、集落内全ての道路の整備を要望した。しかし、いきなりのこの要望には、行政側としても頭を抱えざるを得なかった。整備するためには、家屋が密集しているため、物件移転に莫大な費用がかかる。まして、道路が整備されたとしても、集落内の道路であるため、不特定多数の人が常時通行に使うわけでもなく、道路の利用者は基本的にはその地区の人に限られていることなどから、主要幹線道路の整備もまだ十分でない現状から勘案すると、直ちに整備することを了解できるような内容では到底なかったのである。  

 役所からの帰り道、区長はため息をつきながら

 「この様子では役所を頼りにしていてはダメだ。まずは自分たちで出来ることから始めよう」

 区長はそう思ってさっそく行動を始めた。むらの集会はもちろん、道で住民と顔を合わせば

 「あんたの所の土地、道路広げるために少し提供してほしいんじゃ」

 と訴え続けた。しかし、アンケートで賛成した人も総論賛成、各論反対という人が多く、いっこうに話は前に進まなかった。しかし、区長は粘り強く対話を続けていった。

 「孫子の代の人から“わしらのおじぃちゃんたちはいいことしてくれたなあ”と喜んでもらえるような事をしようや」

 「まちづくりは100年の大計、100年先に出来上がったらいい、あせりは禁物」

 これが区長の口癖であった。

 そんな中、一部の住民が自分の家のブロック塀を取り壊して、部分的に道路を広げていくという行動に出た。自力で拡幅整備を実行する人が出てきたのである。

 そういう機運が高まってきた平成5年の春、ついに北宿自治会は集落の将来像を示す「北宿町長期基本計画」を制定した。

特に集落内道路については

 「家の立替時には建築基準法を守り、道路中心線から2mの幅員は道路敷として確保し、将来はむらの中の道を全て4m幅員にすること」

という事項がむらの総会において可決されることとなった。平成5年 4 月17日のことである。

U.協働の始まり

1.行政の参画

 自治会の様子を見守っていた行政側も、せっかくまちづくりの機運が高まっているこの北宿地区を、なんとかバックアップできないものかと模索していた。しかし、状況は極めて厳しいものであった。集落内道路総延長1.5kmの両側にはびっしりと家屋が張り付いているのである。100軒以上もある家屋の移転費と用地買収費及び道路整備工事費を合わせると莫大な経費が必要となる。経費を軽減出来る何かいい方策はないものであろうか。

 そんな中、住民と行政との間をコーディネートしていたコンサルタントから、建設省(現在の国土交通省)住宅局において、新しく街なみ環境整備事業という補助事業の施策が制定されたとの報告を受けた。

 この事業は住宅が密集し、生活道路等の地区施設が未整備であり、住環境の整備改善をする必要のある区域において、ゆとりとうるおいのある住宅地区を形成するために実施する事業である。

 しかも住民間で「街づくり協定」を締結することを前提としており、住民にも費用の一部を負担してもらいながら、住民と行政が一体となって実施することになっているという。

 まさに北宿にぴったり当てはまる。しかも事業費は補助金や住民負担があるためかなり軽減されるという結果が出た。しかも、安全で安心なまちづくりを目指している当市の施策にも対応する事業となる。行政側は早々事業導入に向けての検討に入った。

           住民の思い、それになんとか応えようとする行政、そしてその両者をうまく橋渡ししてきたコンサルタントが、それぞれの立場で力を発揮したことにより、いよいよ夢が現実に向かって動き始めた。

2.市民の参画

 行政側からの事業決定の通知を受けて北宿自治会は、街なみ環境整備事業の実施に向けて、「まちづくり協議会」を設置することを自治会の総会において議決した。平成7年4月8日のことである。

 役員の選定については、地縁を優先し、従来からある各種団体からの推薦は最小限にした。

 区長の考えはこうであった。

 「各種団体の役員は任期があり、そこから選定された委員だと、その団体の任期が切れるとまちづくり協議会の委員もやめる可能性が強いのです。まちづくりは長い年月続くものであるから、やっぱり最初から最後まで努めていただける人が役員になってほしかったのです。だから、整備を要する道路に番号を付けて、その番号の道路毎に2名ずつ役員をその沿線から選定してもらいました。選定方法は路線毎にまちまちでしたが、それは各々に任せました」

 そうして総会から一月半後の5月20日に全役員が決定した。決定までには少々時間はかかったが、この人選方法は後々大きな力を発揮することとなる。

 まちづくり協議会の会長には、今まで音頭をとってきた区長が就任した。

 まちづくり協議会が発足して半年後に区長の改選があった。今まで3期務めていた区長は周囲から4選目を望まれていたのであるが、4選を固辞した。会長の意見はこうであった。

 「区長は自治会全体の面倒をみなければなりません。道路拡幅をすることはあくまでも地域の中の特定箇所の整備なのです。だから両者はおのずと一線を引いておく必要があります。区長とまちづくりの会長を兼任してしまうと、自分はいったいどちらの立場で動いているのかわからなくなるからです」

 こうして、会長の他6路線からの選出委員12名及び学識経験者として北宿在住の土地家屋調査士 1 名そして自治会選出委員4名の18名の体制でまちづくり協議会が発足した。

3.住民始動

 協議会が発足して、まず最初に行ったことは民地境界の決定である。それを集落全体で実施する必要があった。全ての住民が再度自分の敷地の境界を再確認、最確定するのである。しかし、昔から歴代住み続けている家屋ばかりである。現在のように境界がはっきり確定されているということはない。昔からの言い伝えを頼りに民地境界を決定していくのである。

 地権者A:「この境界石は我が家のものだと聞いている」 

 隣接者B:「いや違う。その石はうちの石だと爺さんが言っていた」

 路線の担当役員:「それでは中を取って、石の中心を境界ということにしてはいかがでしょう」

 このように利害関係者と路線担当役員2名が公平に判断しながら、境界を確定していった。

 しかし、隣地同士で民地境界を争っている家屋がどこの路線でも1箇所や2箇所はあった。そういう時は会長が出向いて地権者達にこう説得したという。

 「お互いの言い分はよくわかりました。しかし、先祖代々のこの紛争をあなた方はまだこれから孫子の代にまで残していくのですか?せっかくの機会ですから、今この問題を解決して、お互い孫子が困らないように整理してみてはどうでしょう」

 会長の人徳、まちづくり協議会役員達の活躍、それに街づくり協議会のメンバーに土地家屋調査士がいたことも境界確定にはおおいに役立った。秋風が吹くころにはほぼ全筆の境界が確定した。 こうして道路拡幅整備がいつ実施されてもいい状況ができあがっていった。

4.行政内部のコーディネート

 行政側には事業実施に向けての大詰めに来て、法という壁が大きく立ち塞っていた。

 道路事業、河川事業、区画整理事業などの公共事業は各法律が制定されていて、その法律に基づいて事業を実施すればよいのであるが、街なみ環境整備事業は建設省の新しい事業であり、あくまでも住民主体の事業であるから、他の公共事業のように固まった法律があるわけではなかった。

 行政側としてはまず地区住民が家屋をセットバックするためにかかる費用の全部又は一部を助成することが出来るようにしなければならない。しかし、支出をするための法律がないわけであるから、支出するためには市独自の「助成要綱」作りから始めなければならなかった。

 助成金交付要綱を作成するために法制部局はもちろんのこと財務部局、道路部局、管財部局と幾度となく協議を重ねる必要があった。新しい制度であるがゆえに要綱制定までの道のりは長く、当時の事業担当者は相当にかなりの苦労を要した。しかし、住民の願いを実現させたいという職員の熱意がこの要綱制定に大きく寄与したことは言うまでも無い。

 行政内部での粘り強い折衝を経て、ようやく平成8年11月28日に「街なみ環境整備事業助成金交付要綱」が制定されるに至った。 この要綱が出来たことによって、家屋の移設時に助成金の交付が可能となり、北宿の道路整備の実施が現実のものとなった。

V.協働事業に必要なもの

1.牽引していくリーダーの存在

 行政側の事業化の手続きが完了し、地区住民も境界の確定が完了した。夢にまで見た道路整備の事業に取り掛かることが出来ることになった訳であるが、事態はそう簡単には進まなかった。

 街なみ環境整備事業は事業の趣旨は、住みよい街にしたいという地区住民の思いを行政側が側面から支援していくという性格の事業である。あくまでも主体は住民なのである。よって道路拡張のための家屋のセットバックにしても、要した費用の一部を行政が補助していくということであるから、行政が用地買収を行いながら強制的に道路用地を確保していく、いわゆる収用事業ではない。あくまでも原則、土地は無償提供であり、尚且つ、セットバック費用の一部もしくは大部分を個人が負担しなければならない。まして、家屋の建替えについては、取り壊し費用のみ行政が助成して、新築費用はあくまでも全額個人負担である。なんとも住民にとっては非常に厳しい内容である。しかし、そうとは言っても、行政に頼らずに住民の力だけで道路拡幅していくことを思うと遥かに安くつく。なんとしても地区内の道を広げていくのだという思いで地区住民達はこの事業の実施に踏み切った訳である。

 しかし、いざ実際やるとなるとみんな尻込みしてしまった。

 「自分は用地提供することは賛成だけれども、自分が先行してセットバックして、もし後に誰も続いてセットバックしてくれなかったら、自分だけが馬鹿を見ることになる。みんながやれば自分もやる。なにも一番初めに道路拡幅に協力することはない」

 誰もが様子見をしている状況であった。まだまだ地区住民達はこの事業を実際本当にやるのかどうか半信半疑であった。

 この状態に痺れを切らせた会長は役員たちにこう言った。

 「まず我々から見本を示そうじゃないか。ちょうど各路線毎に2名ずつ役員がいるわけだから、この2軒が最初にセットバックしよう。そうしないと我々がいくらセットバックしてほしいと頼みに行っても、説得力に欠ける。役員自らやれば、住民たちにも本気でやる気なのだと思わせることが出来る。まず模範を示して、後はどの路線が一番早く道路拡幅出来るか、みんなで競争しようや!」

 こうして事業は実施された。

 人々が道路整備を模索し始めた平成2年からすでに6年、自治会の総会での議決から3年という年月が経っていた。ようやく「むら」の人々の夢が現実に向けて動き始めた。

2.まちづくり協議会と行政の密接なコミュニケーション

 まちづくり協議会と行政は月一回の例会で必ず意見交換を行うことになっている。これは協議会発足の平成7年からずっと継続していることで、この場で事業の計画や実施方法の検討を行っている。協議会委員は地区内において道路整備のための啓蒙活動をあらゆる機会を利用して実施し、その中で一人ずつ整備に協力してくれる人を増やしていった。

 行政側はそういう情報を受けて、移転時に道路整備がスムーズに実施出来るように、事業の調整を行うようにした。毎年夏までには協議会役員達の協力のもと、地区住民の中で次年度に移転協力できる家屋の了解を取り付けた上で、年度毎の移転実施計画を作成し、事業費の予算を確保するようにした。常にネットワークを地区内に張りめぐらせて、協議会と行政が情報を共有することで、2 〜3年先までの家屋の移転計画の情報を入手することが出来た。そのことにより、事業を全体的にとらえながらの年次計画が立てやすくなった。

 最初はポツポツと庭などのセットバックが始まり、徐々にセットバックが完了した道路が目立ち始めると、地区住民たちは自分たちもしなければならないという雰囲気が漂い始め、セットバックに掛かる費用を捻出するために、真剣に資金計画を考えるようになった。

 「今年は年回りが悪いから、もう1年待ってくれるか。」

 「定期の満期がもうすぐやから、それまで待ってほしい。」

 道づくりを積極的に自分たちでやるんだという空気が充満し始めたのである。

 しかし、どうしても反対であるという人も中にはいた。そういう場合、会長始め協議会のメンバーは解決を急ぐことはしなかった。まず外堀から埋めていこうという訳である。

 こんなエピソードがある。ある老人がどうしても土地の提供に反対していた。先祖代々伝わる土地を手放したくないというわけだ。手前までは道路が整備されていたにもかかわらず、家の前は以前同様細い道のままであった。その老人が急に家の中で倒れて救急車のお世話にならなければならなくなった。道路が家の手前まで拡幅されていたので、緊急車両の進入が可能で、老人は家の玄関からすぐに救急車に乗ることが出来、迅速に病院に運ばれていった。

 道路整備の有り難さを身をもって体験した老人が、早速土地を道路拡幅に提供したことは言うまでも無い。

 このような逸話がもはや過去の話となるほど、むらの中の道路拡幅整備は予想以上の速さで進んでいった。まちづくり協議会の役員たちの、日ごろからの地域住民とのコミュニケーションがこのような結果を生んだのであろう。地域が明らかに変わろうとしていた。

            整備前                             整備 後

 世の中に50%の法則という言葉がある。何事も半数を過ぎると加速度的に賛同者が増えていくということらしいが、この北宿も同様の現象がみられた。事業開始から4年が経過したころ、道路拡幅 が完成しつつある路線が出来始めると、強行に反対する人の影がめっきり薄くなって行った。

 下記の図の朱色が示す部分がそうであるが、事業開始前は村内のほとんどの家屋に緊急車両が入れなかった。集落の外周道路に面している家屋のみ緊急車両が横付け出来る青や緑色になっている。

 しかし、事業が動き出して7年目の平成15年度末時点では朱色の部分がかなり解消されていることがわかる。地元の協力を得て、地区内の道路がどんどん整備されていることがうかがえる資料である。現在ではほぼ100%に近い状態で集落内の家屋に緊急車両が進入可能になっている。地区住民の願いが実現したわけである。

 地元住民だけで道路拡幅を行うことは資金的にも到底不可能である。かといって、行政の力だけで事業を実施したとしても、はたしてこのようにスムーズに進捗したであろうかはなはだ疑問である。やはり、住民が主体となり、地区住民と行政が手を携えて協力して事業を行ったからこそ、大方の予想をはるかに上回る早さで事業が進んでいったことは間違いない事実である。

           事業開始前状況                        平成15年度末状況

朱色:道路幅員3m未満 緑色:道路幅員3m以上 青色:道路幅員4m以上


 



 

 

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