Vol.50 2008年8月20日号

「メディアの読み方」講座 第 19 回 「メディアの公共性」を再検証する(下)
                      〜メディア言説のパラダイム転換〜

土田修(TRC正会員 )

 キーワード・・・ グローバリゼーション批判、 G8 イデオロギー、食料主権、国際NGO運動、気候変動リテラシー

 マスメディアはジグゾーパズルのピースのように切れ切れにニュースを提示している。問題は、いつまでたってもジグゾーパズルの全体像が見えてこないことだ。 G8 サミット報道や、地球温暖化報道などメディアコントロールに支配された情報が「世論」形成に大きな影響力を持っている。だが、「プレカリアート雇用」や「グローバリゼーション批判」を扱った、最近のドキュメンタリー映像の中に人々を「公共空間」へと開く、新しい「メディア言説」の兆しが見えている。

 全国の繁華街や駅頭、鉄道のホーム、スポーツジムなどで特異な殺傷事件が起きるたびに、テレビカメラは現場に殺到し、テレジェニックな現場の様子やヒト、モノをハイエナのように探し求める。

 現場周辺を封鎖するパトカーの赤色灯、携帯電話で写真を撮る野次馬、倒れる被害者、路上に残された血痕、さらに、取材側の意図通りマイクに向かって驚き語る目撃者…。そうした映像は、どこの事件の現場であるのかを示すテロップや説明がなければ、一体どの事件のニュースであるのか区別がつかないほど酷似している。

1.「社会」を遠ざける報道

 また、中国ギョーザ事件や食品偽装のニュースも、お茶の間をにぎわせた。テレビには関係者が釈明し、社長が謝罪し、行政や警察が調査や捜査に入る映像が繰り返し映し出された。経営者が開き直り、次いで謝罪する有り様は、社会悪の権化のように描かれ、視聴者の溜飲を下げた。こうして、繰り返し流されるセグメント(断片)映像は、食品偽装問題を個人の資質や経営体質の問題にすり替える結果を招いた。だが、事件の背景にある新自由主義グローバリゼーションの進展と、その結果として出現した世界の食糧事情について言及したメディアは皆無だった。

 1995年に WTO (世界貿易機関)が設立され、世界中で食料が自由に売買されるようになった。その結果、安価な低賃金労働力を背景に中国は世界有数の貿易黒字国となり、日本の食卓には中国製食品や中国製原料を使った日本製食品で溢れかえるようになった。一方、投機資金が穀物市場に流れ込んだことによる史上空前の原料高騰は、日本の食品製造会社に無理なコスト減を強いる結果となった。大手メーカーは大量の食品添加物へと逃げ込んだが、中小メーカーは偽装工作に走り、マスメディアの集中砲火を浴びた、

 繰り返されるセグメント映像が、事件の核心ともいえる社会的な危機を隠蔽し、視聴者を「社会的な事象」から遠ざける役割を果たしている。それは社会面のニュースだけではない。政治面のニュースにおいても同様なことがいえる。最近、内閣改造があり、複数の大臣が入れ替わった。メデイアは解散・総選挙を視野に入れての与党内の派閥配慮や郵政造反組の復権を中心に報じた。「経験アピール」「経済重視」「国民目線」「解散視野」など、それぞれのニュースのセグメントが脈絡のない映像として垂れ流され続けることで、登場人物こそ違え、かつての内閣改造ニュースとの差異性を見いだすのは極めて困難となっている。このニュース報道も日本の政治の底流にある根源的な危機を覆い隠し、視聴者を政治という「公共空間」から遠ざける役割を果たしている。

 安倍の政権投げだし以来、防衛省汚職、「大連立」構想、内閣支持率低迷、北朝鮮の「テロ支援国家」指定解除、洞爺湖サミット、内閣改造と日本の政治情勢は目まぐるしく変化しているが、マスメディアの報道からは事実連鎖の流れが見えてこない。それぞれのセグメントは完成されることのないジグゾーパズルのピースのように取り残され、忘れ去られていく。

 他の政治ニュースでも、「社会性」を覆い隠し、「個人」にばかり光を当てた報道がまかり通っている。福田改造内閣で誕生した麻生新幹事長についての報道は、麻生の政治的コンテクストではなく、次期総選挙への思惑(森前首相の斡旋による公明党配慮説や総選挙前の禅定説など)を中心に語られた。何より、テレビは麻生人気に照準を合わせてしまった。

 週に10冊前後、コミックを読むというマンガオタクぶりが秋葉原の若者に評価されているとか(秋葉原の若者のうち何パーセントが投票するのか不明だが)、思ったことを歯切れ良く発言する分かりやすさ(「創氏改名は朝鮮人が望んだこと」など)とか、政治家の資質よりも個人的なユニークさに焦点を合わせたニュースを報道することで、視聴者の目を政治という「社会的もの=公共空間」から覆い隠してしまった。

2.公共空間の解体

 元五輪選手でコミック好きの政治家という「個人的事柄」をカバーすることで、本来の政治が意味していた公共空間や社会性を視聴者に提示するという、メディア本来の使命である「アジェンダセッティング(議題設定)」の絶好の機会を放棄してしまった。

 こうしたニュースに共通しているのは(恐らく経済ニュースもそうなのだが)、ニュースの発信者が政治や社会そのものを見失い、また、政治や社会の実像を捉える努力を放棄してしまっているという事実だ。際限なく繰り返されるセグメントとしてのニュースは、視聴者や読者の「興味・関心事=特異性」に合わせて都合良く再編成され、個別具体的な事象として提示される。その瞬間、すべての人々に開かれるべきニュース報道が「個人的なモノ」「個別的なモノ」へと塗り替えられ、社会性を失い、便利な「日用品」のように消費され、翌日には視界から消え失せてしまっている。

 一昔前、日本人が中流意識を持っていたころ、テレビは平均的な日本人を映し出す鏡だった。マイカーやマイホームが欲望の対象となり、「名犬ラッシー」「ルーシーショー」「バス通り裏」といった日米のホームドラマが家族愛や家庭の理想像として描かれた。ホームドラマが醸し出すイデオロギーは、「滅私奉公」とモーレツ会社人間を奨励し、日本の高度経済成長を支えた。

 いまや、テレビ画面は「個人」を映し出す鏡の役割を失った。最早、誰もテレビの中に「自分」を見いだすことができなくなった。同時に社会の中に自分の位置を見つけることができない人々が出現し始め、若者たちの自分探しの旅が始まった。「世界内存在としての自我」が失われ、それに即応して、公共空間の解体が進んでいる。いまや日本には「公共空間=社会」に自己像を見いだすことのできなくなった若者たちで溢れかえっている。自分探しの旅は時として突発事件として表現される。秋葉原路上事件と、その後の模倣事件は、社会から見捨てられ、人間としての尊厳を奪われた若者たちの逆襲なのだ。

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3.G8 サミット報道

 社会性を失ったマスメディアの問題点は、7月に北海道洞爺湖で開催された「 G8 サミット報道」と、昨年来の「地球温暖化報道」にも端的に見て取れる。

 まず、7月に北海道で催された洞爺湖 G8 サミット(主要国首脳会議)での報道。サミット期間中、北海道大学など札幌市内3カ所に「市民メディアセンター」が開設された。国内外の約100人が登録し、非政府組織( NGO )のシンポジウムやイベント、7月5日に札幌市内で約 3000人が参加した反 G8 サミットデモの模様などを世界に伝えた。

 センターはインターネットで世界のニュースや独自制作番組を発信している NGO 「 Our Planet TV 」などさまざまな市民団体や市民がネットワークをつくって共同運営した。市民メディセンター設置は、国際的な会議が開催される場合、欧米などでは一般化しているが、日本では初めての試みだった。朝日新聞や東京新聞などは、その取り組みの様子を報道した。

 一方、こうした市民レベルの盛り上がりの背景で、海外の知識人や市民活動家らが空港で足止めを受けたる事態が相次いだ。昨年、ドイツのハイリゲンダムで開かれたサミットの際、欧米を中心にアクティビストら多数が集結し、サミットに抗議する激しい行動が起こった。一部、警察の挑発が招いた暴力行為もあり、多数の逮捕者が出た。

 洞爺湖サミットでは、事前に在外日本大使館や領事館でのビザ発給を本省扱いにして時間を引き延ばすなど巧妙な手口で G 8サミットに批判的な、フィリピン大学教授ウォールデン・ベローら知識人や活動家の入国が妨害された。また、 G8 サミット対抗集会に参加する予定だった「帝国」の著者マイケル・ハートや国際 NGO 「 ATTAC 」副代表スーザン・ジョージら多数の知識人が成田空港の入管で長時間の尋問を受けた。韓国の農民グループら25人は新千歳空港の入管で拘束され、韓国へ強制送還された。

 こうした民主国家とは思えない日本政府の対応は「日本は言論・表現・思想の自由を認めない独裁国家だったのか?」と世界の NGO の物笑いのタネになった。アルカイダに友人がいるが、「市民」という言葉が大嫌いな法務大臣が“水際作戦”の指示を出したといわれているが、サミットに批判的な人物を狙い撃ちした入国妨害について、どのメディアも国家権力に迎合したのか報道しなかった。

4. G8 イデオロギー

 成田空港で4時間足止めを食らったスーザン・ジョージは、新自由主義的グローバリゼーションのもたらすさまざまな悪弊を批判し、グローバル・ジャスティス運動を提唱してきた人物だ。 ATTAC は投機的な国際金融取引の抑制を目的としたトービン税導入を求め世界的規模の市民運動を展開している。

 スーザン・ジョージは、世界の主要国を自称する8カ国による非公式の集まりである G8 サミットを、世界支配をもくろむ新自由主義的グローバリゼーションの推進母体として批判してきた。

 1970年代初頭、アメリカが貿易赤字の解消のためドルと金の交換制度を一方的に破棄し、ブレントウッズ体制(固定相場制度)を崩させた後、ドルに連動しての各国通貨の急速な変動を調整する必要にせまられた。この調整機能を果たすために1975年に登場した G6 (フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、日本、アメリカ)は、1998年、カナダ、ロシアの参加で G8 になった。そして、国際通貨基金( IMF )、世界貿易機関( WTO )世界銀行などと協定し、一貫して、自由貿易の拡大と市場の自由化という新自由主義的経済政策を進めてきた。

 また、巨大アグリビジネスを優遇し、農産物の輸入自由化を強制し、その結果、世界中で小規模農家の生活基盤を破壊した。資本投資や金融の自由化はマネーゲームを激化させ、90年代後半以降、アジア、ブラジル、アルゼンチンを襲った金融・経済危機やアメリカのサブプライムローン問題を引き起こした。

 労働市場政策としては、雇用創出のため社会保障制度の見直しと、パートタイムや有期限雇用などフレキシブルな雇用形態を提唱し、企業が使い捨ての出来る「プレカリアート(不安定な)労働」を生み出した。さらに G8 サミットは「地球温暖化」を主要な議題とすることで、原子力発電を推進し、 CO2 排出権取引の投機的取引への道を開いた。また、「自由と民主主義」と「テロとの戦い」を名目に国内の治安維持と軍事力増大を進めている。

 都内の地下鉄や JR が「警察の協力」を仰いでいること、国際空港に配備された US − VISIT 、共謀罪制定への動きなどは、「9 ・11 同時テロ」やイラク戦争と対をなして進行しているグローバルな流れの一つだ。アメリカはもちろん、「自由の国」フランスでも地下鉄駅はもちろん観光名所には警備員が多数配置され、路上には監視カメラが設置されている。きわめて「安全安心な」町の出現もまた、ひとつのグローバリゼーションを現している。

 日本はアジア地域での唯一の参加国として、 G8 イデオロギーに沿って、治安管理強化とともに、日米軍事同盟強化や憲法9条改憲へと突き進む運命にある。 G8 サミットの問題性は単に経済・金融体制としての新自由主義グローバリゼーションにあるのではない。90年代以降、湾岸戦争、中東和平プロセス、旧ユーゴ紛争をへて、 G8 サミットは政治上の新自由主義グローバリゼーション推進という新しい理念をつくりだしてきた。メディアはこの新しくつくりだされた「政治理念」に基づいて世界を再構成し、 G8 イデオロギーに基づく公共空間の創出に加担してきた。当然、メディアがニュース報道や映像を通して、世論づくりに大きな影響を与えてきたことはいうまでもない。

 この理念に基づく政治的ベクトルは、小泉・安倍政権を貫く柱だったが、福田政権においては大きく失速している。世界的にも、フランスのサルコジ、イギリスのブラウン、韓国の李、イタリアのベルルスコーニらの支持率低下は、 G8 イデオロギーに沿った政治の終焉を暗示しているのかも知れない。

5. CO2 排出問題から原発推進へ

 こうした政治の変化、それに応じた社会の変化にメディアは対応できていない。洞爺湖サミット報道は、政治や社会の潮流を見据える絶好の機会だったのだが、新聞テレビの報道を見る限り、 G8 を後押しする記事(「首脳らは、世界規模の処方箋を描くことができるのか」(朝日新聞)、または、些末な出来事にこだわった記事「豪華ディナーを食べ食糧危機を語る G8 首脳」(東京新聞)などに終始した。

 各紙ともサミット最終日に発表された「首脳宣言」を大きく報道したが、「食料安全保障」に言及しながら、相変わらず「食料、農業のための堅固な世界市場、貿易システム」を要求し、「開放的で効率的な農産物や食料市場」を進めようとしている G8 路線に対する批判は皆無だった。世界食料危機と自給農業の崩壊は、 G8 をトップに IMF 、 WTO 、世界銀行が一体となって進めてきた貿易拡大・市場開放政策による結果だ。

 この8月、 WTO 閣僚会合が決裂したのは、途上国政府が自国の農産物市場の開放を否定し、アメリカや EU の農業補助金の大幅削減を求めたからだ。背景には、飢餓に苦しむ途上国農民の組織抵抗があった。農民組織は「ビア・カンペシーナ(農民の道)」など国際ネットワークを形成している。農業のグローバル化に反対しているだけでなく、自国の食料の生産と消費を決定し、農業から WTO を放逐し、低価格農産物の流入を防ぎ、農家・農民を大切にする農業の確立をめざした「食料主権」というあらたなパースペクティブを打ち出している。

 「首脳宣言」を批判的に読むことで、 WTO 閣僚会合決裂の流れは読み取ることができたはずだが、現実には、メディアは G8 イデオロギーに冒された記事ばかりを掲載した。 WTO を、農業補助金削減を協議する唯一の機関と持ち上げ、途上国が農民保護にこだわってアメリカの譲歩をご破算にしたことを批判的に伝えた朝日新聞の記事(8月7日)などはその典型だ。

 今回のサミット首脳宣言の最大の問題点は、気候変動への取り組みとして、 CO2 を排出しないクリーンエネルギーとして原子力発電への展望を大きく開いたことだ。しかも日本の提案として、「原子力エネルギー基盤整備に関する国際イニシアチブの開始」が高らかに宣言された。

 洞爺湖サミットで明確に打ち出された「原発推進」の方針は、 1979年のスリーマイル原発事故と、86年のチェルノブイリ原発事故で止まっていた原発建設計画を大きく前進させようとしている。今年、イギリス、イタリアが原発推進へと方向転換し、これまで脱原発国だったドイツでさえ、方針変更を示唆している。慢性的な電力不足に悩む中国、インドはもとより、ロシア、南アフリカ、ブラジルなどでも原発建設計画が持ち上がっている。

6.集団ヒステリー報道

 昨年末から今年にかけて各新聞の大型連載企画は「 CO2 地球発熱」(東京新聞)など、どこも「地球温暖化」と「二酸化炭素( CO2 )排出削減」を取り上げた。すべての始まりは、2007年に公表された IPCC (気候変動に関する政府間パネル)の第4次報告書だった。同報告書は「20世紀後半の気温上昇は、人為的に放出される二酸化炭素( CO2 )が原因」と結論付け、「温暖化が進めば異常気象が多発し、地球が海面上昇や自然災害に見舞われる」と指摘した。世界的な「温室効果ガス= CO2 犯人説」の大合唱はここからスタートした。

 この IPCC 報告を根拠に「 CO2 排出削減」は世界中の政治課題となった。マスメディアは環境 NGO などと組んで「温暖化の危機」をあおる IPCC や、温暖化に関する研究費を申請する学者、予算の増額を図る役人、「エコ」「省エネ」の新製品を開発し消費行動を煽る産業界のお先棒を担いでいる。

 そもそも、地球の温度は太陽活動の変動に応じており、時に的影響は極めて少ないという学説がある。地球が温暖化した結果、海水中の CO2 が大気中に上り、 CO2 濃度が上昇したとし、 CO2 排出と温暖化の因果関係が逆転していると指摘する声もある。南極の氷の崩壊は大昔から続いている自然現象だし、ツバルは潮位計のデータを見る限り水没していないとの反論も耳にする。その真偽はともかく、少なくとも、地球の気温上昇は温室効果ガスによるものだけではないし、温室効果ガスは CO2 だけではない。「 CO2 犯人説」に基づき、京都議定書通りに「 CO2 削減目標」を達成しても、地球温暖化が止まるのかどうかは疑問だ。

 こうした調査や研究者の声をまったく無視することで、日本のマスメディアは政府・産業界と歩調を合わせて「温暖化の危機」を訴えてきた。新聞の連載企画の書き出しはこうだ。「気候変動による自然災害激化で、人々の暮らしが脅かされている」( 7 月 1 日読売新聞「人を守る」)。ズバリ、「 CO2 地球発熱」という政治スローガンをタイトルカットに付した新聞は「氷河の溶解、海面水位の上昇や異常気象が地球を襲っている。主因は二酸化炭素( CO2 )など温室効果ガスにある」( 07 年 12 月 2 日東京新聞)と決めつけた。

 だが、本当にマスメディアや政府、産業界が無批判的に信奉する「 IPCC 報告書」は科学的に間違いがないか疑問がある。マスメディア報道は一方的に「 CO2 犯人説」を信奉し、「温暖化の危機」を煽り続けている。報道、広告、政府公報が一体となって「 CO2 削減」「省エネ」「エコ社会」を喧伝している現在の言論状況は、大政翼賛的な集団ヒステリー状況といえる。

 07年末からは「排出量取引」が本格化し、「 CO2 削減」が投機の対象になった。 CO2 削減価格は高騰しており、目標値達成のため日本は年間1兆円を超す税金を投入する必要が出てきた。もうすぐ国とマスメディアを挙げた「 CO2 大増税」の合唱が始まるに違いない。

7.現実社会の再発見

 環境問題の帰結としての「クリーンエネルギー(原発)」推進政策は、2002年のヨハネスブルグ環境・開発サミットの公式文書で初めて登場した。この時、サミット会場に集まった国際 NGO からは批判の声さえ上がらなかった。マスメディアも各国政府に気を遣ったのか一切、報道しなかった。

 G8 イデオロギーを表象し続けているマスメディア報道は、結果として「 CO2 排出問題」を原発推進へと結びつけてしまった。現実に起きていることを記録し、伝えることで、人々の関心を「公共性」へと導くことがメディアの機能であるはずなのだが、政府によるメディアコントロールが浸透した報道は、現実に起きている出来事を「われわれ」の目から覆い隠す役割を果たしている。

 しかし、ようやく、一部ではあるが、メディアが「現実に起きていること」を再発見し、 G8 イデオロギーへの疑問を差し挟む内容の記事や映像が出始めた。

 月刊誌「論座」(7月号)に掲載された、伊藤公紀・横浜国立大学大学院教授の「気候問題リテラシーを身につける」の記事は、 IPCC (気候変動に関する政府間パネル)の報告書の問題性を指摘した。週刊朝日(8月 15 日号)に掲載された「ゴア元副大統領と『原発利権』」の記事は、 CO2 削減と原発推進が結びついた経緯を暴露している。「政治理念」のパラダイム転換と並行して、世界を再発見する「メディア言説」のパラダイム転換が始まっている。

 世界の途上国で起きている飢餓暴動は、ハーバーマスのいう「生活世界の植民地化」に対する抵抗として始まった。それは、いまやG 8 システムに対抗する世界規模の社会運動へと発展した。メディア世界でも例えばグローバリズム批判のドキュメンタリー映画がつくられている。 2005年公開の「ダーウィンの悪夢」(フーベルト・ザウパー監督)や「おいしいコーヒーの真実」(マークとニック・フランシス監督)、「いまここにある風景」(ジェニファー・バイチウォル監督)などがそれだ。

 「ダーウィンの悪夢」は、アフリカのビクトリア湖畔の町で進むグローバリズムに光を当てる。「適合種」として繁殖した白身魚のナイルパーチは EU や日本への輸出用に加工されているが、地元の人は高級な缶詰を国にすることができずに飢餓に苦しんでいる。しかも小さな町に導入された産業システムは、湖とともに生きてきた住民のエコロジカルな生活形態を破壊した。グローバリズムは人間の生活や生命を「自然淘汰」し、「適者生存」の法則として立ち現れている。

 「おいしいコーヒーの真実」は、コーヒー原産国エチオピアで、食料危機に悩みながらフェアトレードを求める農民らの、ネスルやスターバックスなど大手企業に対する「抵抗」の記録だ。「いまここにある風景」は、中国の貿易黒字を支える低賃金労働の実態と産業発展が国土に与える影響を淡々と描いている。

 映画だけではない。 2006年に NHK 総合テレビで放映された「ワーキングプア――働いても働いても豊かになれない」は、グローバリズムによる規制緩和が生み出した「新しい貧困」を描き出した。これ以外にも、福祉・医療・教育・平和など現実に起きていること、現実に起きたことを「われわれ」に伝えてくれる良質なドキュメンタリー番組が増えている。

 この7月に NHK スペシャルで放映された「証言記録 兵士たちの戦争」は、ガダルカナル作戦の真相や、ビアク島の絶望的な戦闘、ペリリュー島の持久戦の実態を描き出し、戦争の歴史的意味を問う迫力に満ち溢れていた。 NHK の BS 「世界のドキュメンタリー」では、フランス「 Temps Noir (タン・ノワール)」制作の「カストロ 革命と人生を語る」( 2003 年)がオルタナティブな価値やグローバリズムとは異なる世界の可能性を示した。こうした新しい「メディア言説」を表象するドキュメンタリー映像の中に、人々の関心を「公共性」へと導く「アジェンダセッティング」の可能性を探ることができる。

 最大多数の視聴者を獲得するため、画一的で凡庸で、「拉致問題」や「竹島問題」に見られるように、時として排外的な装いとして現れる「メディア言説」は、まさに政治と民主主義の危機を反映したものだ。グローバリズムによって侵害された社会の深刻な痛みが、良質なドキュメンタリー映像を生み出している現在、市民に開かれた「メディア言説」は「公共性」へと「われわれ」を媒介するアクターとして立ち現れる兆しを見せている。

 メディアが公共性を再発見し、真に民主的な「公共空間」を実現数には、主体的な市民による「政治的主権」(例えば「食料主権」)を担保する「メディア言説」を再編成することが肝要だ。

 

 

 



 

 

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