知の有効性を拓くーE.W.サイードのテキストを通して― 第3回
土田修(正会員・ジャーナリスト)
4.改憲論と非政府的視点
(1)イラク派遣部隊の出発
 陸上自衛隊のイラク派遣部隊が2月3日、新千歳空港からクエートへ向けて出発した。戦闘が予想される他国領土への自衛隊派遣だ。日本は安全保障上のルビコン川を渡った。カエサルが元老院令を破りローマを目指して進軍したのと同じだ。憲法をめぐる議論を回避しての自衛隊派遣は日本の戦後史の指標となるに違いない。だが、日本政府の選択について国民の大多数はどう理解し、どう納得しているのだろうか? 納得しているとしたらどの部分について納得しているのだろうか?
 国民の中には「自衛隊『派兵』反対」を唱える人がいる。「無事に帰ってきて」と祈る家族もいる。「武士道の国」を引き合いに「武運長久」を願う政治家もいる。とはいえ自衛隊のイラク派遣は国を挙げての議論には発展していない。国会、マスメディア、その他の言論の場で十分な論議が尽くされたとは言い難い。先鋭的であるはずの学園も静かだ。市民社会の構築を念頭に活動を続けているNPOや市民グループもからも大きな議論の輪を呼び起こす動きはなかった。
 本質的な議論抜きの自衛隊派遣。何故このような事態が許されたのだろうか? 政治の責任なのか? マスメディアの責任なのか? それとも国民自身の問題なのか? 
 自衛隊のイラク派遣承認案に関する国会審議は衆院での強行採決を機に空転した後、2月9日なってやっと採択された。自衛隊の本隊が現地に到着した翌日のことだ。しかも実質的な論議はほとんど回避されたままの採決だった。最初の問題は、今回の自衛隊イラク派遣が憲法の想定を超えた事態であるにもかかわらず、「合憲」と言い続ける政府の姿勢にある。政府は日米同盟を重視する立場から「合憲」と言い続けるしかないのだろうが、「同盟」といえるほど日米が対等な関係にあるとは思えない。沖縄の基地問題をみれば明らかなことだ。
  
(2)憲法改正をめぐる論議
 次の問題は自衛隊派遣を「違憲」と主張し、憲法改正を促す民主党の姿勢だ。野党は政府のサマワ市評議会をめぐる答弁の変遷で点数を稼いだ。政府のミスに勢いづき、衆院特別委は何度も空転し、与党は野党抜きの強行採決に走った。その結果、国会の空転を招いた。しかし、このままだと04年度予算案の成立が遅れる。ひいては7月の参議院選挙に悪影響を与える。その判断から結局、与党は野党への大幅譲歩に踏み切った。通常通りの国会内の駆け引きだ。そこには自衛隊の海外派遣という歴史上の転換点に際して、自衛隊派遣の是非を真剣に論じようという真摯な姿勢はみじんもみられない。ただ単に政府と民主党の憲法解釈の対立が浮き彫りになっただけだ。「現行憲法の枠内で派遣できる」と繰り返す政府に対し、民主党は「憲法改正を提起するのが筋だ」と迫った。そして民主党は憲法改正をめぐる党内論議を本格化させている。政府と民主党はコインの裏表のようにも見える。
  
(3)非政府的視点
 改憲論議は今に始まったことではない。戦後政治史は改憲論議と無縁ではなかった。1954年には自由党と改進党が憲法調査会を設置している。自衛隊が発足した年だ。その前後から「自主憲法制定」が改憲派のスローガンになった。しかし60年安保闘争の高揚期を迎え、憲法論は一気に後退する。このため対米追随政策を遂行するため政府は「解釈改憲」へと逃げ込まざるを得なくなった。その一方で池田首相を含めて歴代首相が一貫して改憲を否定してきたのも事実だ。
 今回の自衛隊派遣について政府は「憲法のぎりぎりの解釈で許される範囲」だと主張している。逆に民主党は政府に対抗するため改憲論に乗ったとしか見えない。なのに改憲論議を9条から始めたくないという意図が見え隠れしている。だから「創憲」などという逃げ口上を生み出した。はっきりさせておこう。改憲論議の核心は、まず憲法9条を書き直して自衛隊を「軍隊」と明記することだ。次に集団的自衛権の行使を正当化し、外国での軍事行動を可能にすることだ。
「現行憲法は制定過程に問題があった」「時代にそぐわなくなった」「我々の手で新しい憲法を作ろう」。政府の改憲論に通底しているのは解釈改憲の行き詰まりを隠蔽するものでしかない。国民に真実を知らせたくないという意図が丸見えだ。ここで国民か市民が自分の問題として憲法改正を論議するための方法論を考えみたい。今便宜的に「国民」や「市民」という言葉を使ってみたが、国民は国家との関係によって規定された言葉でしかない。市民という言葉は日本では熟成しているとは言い難い。個人的立場というのもよく分からない。個人が社会から独立して存在するのは不可能だ。必ず共同主観の問題が立ちはだかる。なら敢えてここでは非政府的立場(A)と非政府的視点(B)を前提にして考えてみることにする。それは同時にマスメディアに対して客観的かつ批判的な立場を意味する。
 サイードはこう語っている。「メインストリームのマスメディアがいろんな意味で君臨している公共圏には、表面上の多様性にもかかわらず、議論に骨組みを与え、出来合いのかたちにまとめ、管理する一連の『ナラテーマ』とでも呼ぶべきものが存在している。ここでは、特に鋭く核心に迫っていると思われる少数のものだけを拾って論じよう。ひとつは、もちろん、集合的な`weaという言葉の使い方である。すなわち国連の立場ではわたしたちの大統領や国防長官、砂漠ではわたしたちの軍隊、そしてわたしたちの利害によって、何の疑念もなく代表されているナショナル・アイデンティティだ」(註)。
 今後、サイードにならってwe(つまり善良で愛国的で邪心の無い人々)を使わずにAとBに則って本質的な論議を提起してみたい。(続)
(註)EDサイード「裏切られた民主主義」(みすず書房)P80
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