4.メディアの可能性
今、社会と政治は転換期を迎えている。冷戦終結後、湾岸戦争、 9 ・ 11 同時テロ、アフガニスタン・イラク戦争をへてアメリカが主導する世界秩序ができあがったかに見えたが、それも長くは続かず、アメリカは大統領選を契機にネオコン支配からの構造転換を模索している。北朝鮮のテロ支援国家指定解除は、冷戦後20年以上続いてきたアメリカによる世界支配の終焉と外交政策の転換を象徴した出来事といえる。
同時に、世界中では、「新しい貧困」とプレカリアートの増大で市場原理に対する批判が高まってきている。新自由主義グローバリゼーションが曲がり角を迎えており、日本社会も「市場原理」からの転換を迫られている。ところが、日本のメディアはその動きに十分対応しているとは思えない。
そもそもグローバルな「情報秩序」や IT 産業という市場原理からも立ち遅れてきた日本のマスメディアは、憲法と議会制民主主義に依拠する以外、時代に即応した方針やコンセプトを持つことが出来なかった。内部的にも、ニュース価値や公共的メディアの役割について議論することさえしなかった。
その結果、日本のマスメディアはドメスティックな言論空間へと沈殿しつつあるようだ。米国の北朝鮮「テロ指定」解除という国際政治の転換期を象徴する大ニュースを、拉致被害者家族の怒りというドメスティックな視点で語ることしかできなかった。政府の露骨なメディア・コントロールを受けている NHK だけでなく、民放や新聞までもが同じ詐術に陥っていたのは驚くべきことだ。
一方、中国ギョーザ事件、少女殺人事件、食品偽装問題などでは、特定のニュースや話題のため繰り返される「集中豪雨」報道と「忘却」が演出されている。マスメディア内でニュース選択は、その都度の「社会的関心」を基準に行われる。そのニュースの重要性や事態の深刻さではなく、より多くの読者や視聴者を引きつけるであろう「社会的関心」こそが紙面や番組を決定している。ところが、ニュース判断の正当性を担保するはずの「社会的関心」は、編集スタッフの頭の中にしか存在しない。
しかも、日本のマスメディアにとって「社会的関心」とは「日本人の関心」と同義語だ。世界のどこかで飛行機が墜落し多数の死者が出たとしても、日本人乗客がいなければニュース価値は格段に低い。反対に日本人が海外で事件や事故に巻き込まれれば、それだけで大きなニュースになる。
日本の新聞の国際面には、日本人が関わったニュース、日本人が興味を持つニュース、日本の国益に適ったニュースで溢れている。その点では、日本のジャーナリズムは世界のグローバリズム化とは無縁な存在でもある。
こうした旧態然としたナショナリズムの呪縛を受け継ぎ、ドメスティックな言論空間をさまよう日本のマスメディアに可能性があるとすれば、それは「政治」や「社会」の転換期といういまだかつてない深刻な事態を迎え、「公共性」へと再転換を果たすこと以外にない。まずは、政府・企業に偏った従来の報道姿勢を改め、 NPO/NGO など市民社会構成ファクターとパートナーシップをとるモチベーションが必要になる。少なくとも、プレカリアートを生み出した新自由主義的な政治に対する代案を打ち出し、メディアが果たすべき「公共性」の意義を再定義することが問われている。
次回は、政府・大企業・メディアが「共犯」となってメディア・コントロールを続ける「地球温暖化」の大合唱報道と、社会問題を正面から捉えた優れたルポルタージュ報道を対比させることで、メディアが「公共性」へと開かれる可能性を浮き彫りにする。
|