Vol.49 2008年7月15日号

「メディアの読み方」講座 第 18 回 「メディアの公共性」を再検証する(上)

土田修(TRC正会員 )

 キーワード・・・ プレカリアート、メディア・コントロール、ドメスティックな報道、公共的メディアの役割

1. 公共性を喪失したメディア

 連日、新聞やテレビは「ニュース」で溢れかえっている。殺人、汚職、偽装、司法改革、サミット etc 。しかし、今ほど、何が本当の「ニュース」なのかが見えない時代はかつてなかったのではないか? なぜ、それがニュースなのか? これほど大きく、または長時間にわたって繰り返し報じる必要があるのか? もっと伝えるべきニュースがほかにあるのではないか? こうしたニュースの本質に関する疑問について、誰もこたえようとしないのはなぜなのだろうか? 

 例えば、視聴者受けする格好の「悪玉」を仕立て上げ、興味本意なナレーションやバッシングを繰り返し浴びせるテレビ。読者の「社会的関心」という幻想に取り付かれ、消費されるだけの「話題」を「ニュース」と取り違えて報道する新聞。一時、「居酒屋タクシー」という「話題」がメディアをにぎわした。国家公務員が深夜帰宅の際、個人タクシー運転手から缶ビールや金券を受け取っていたという問題だ。だが、公務員バッシングの興味本位な報道に終始し、問題の背景はなおざりにされた。

 タクシー運転手が身銭を切らなければならないほどタクシー業界を過当競争に追い込んだのは小泉改革だ。小泉改革を後押ししたマスメディアにも責任の一端はある。夜中にタクシーを使って帰宅する公務員を「悪玉」にする前に、市場原理に基づく「規制緩和」という「問題の本質=社会性」に焦点を当てるべきだったのではないか。そもそも販売拡張のためビール券を公務員も含めて一般家庭に配り続ける新聞社には「居酒屋タクシー」を批判する資格はないと思う。

 秋葉原路上殺傷事件では、不特定多数を狙った犯行様態と、携帯サイトでの犯行声明がニュースバリューを高めた。メディアは連日、大々的に容疑者の人となりや事件にいたるプロセスについて詳しく報じた。ところが、ニュース報道の方向性が「プレカリアート」(フリーターや日雇い労働者など不安定な就労形態のこと)や「新しい貧困」に向かった途端、宮崎死刑囚に対する死刑執行というニュースが飛び込んできた。その結果、プレカリアートの問題はマスメディアのアジェンダから消え去り、報道の流れは両事件の無益な比較へと向かった。だが、宮崎事件は幼児性愛と死体愛好症という古典的犯罪だし、秋葉原事件の方はメディアを利用したナルシシズム的な犯罪だった。

 実は、秋葉原事件はまさに犯罪のグローバリズム化を示す事件だった。アメリカなどでは若者による銃乱射事件が相次いでいるが、遅ればせながら経済・文化面でグローバリズム化が進むフランスでも2002年3月にパリ郊外ナンテールで26人が殺傷される乱射事件が起きている。容疑者のリシャール・デュランは「人生でせめて一度、生きていることを実感したかった」と日記に書き残している(ルモンド紙)。自分の存在を実感することとメディアに取り上げられることが同一視されている点で犯罪意識の類似性が見られる。

 チベット暴動と聖火リレー問題では、「反中国政府」「チベット擁護」の報道が繰り返された。ここにもメディア受けする「善玉・悪玉」論が作用していた。抑圧する国家と、迫害に抗する少数民族。分かりやすいテレビ受けする問題構成の中では、チベット民族と漢民族の歴史的対立や、チベット亡命政府に対する CIA 支援など複雑な背景は一顧だにされなかった。

 歴史認識を欠き、「臆見=ドクサ( doxa )」に満ちあふれた「ニュース」の数々は、「社会性」「公共性」だけでなく、「客観性」さえかなぐり捨ててしまったように思える。

2.国家との共犯関係 

 今、まさにニュースの公共性、社会性が問われている。最近のニュース報道は、どれだけ分量や時間を割いているにせよ、内容は金太郎飴のように画一的なものが多い。秋葉原事件の容疑者逮捕(携帯写真)、「飛騨牛」偽装を指示した社長の謝罪会見は一日に何十回も放映された。

 視聴者・読者の個人的な興味に基づいて組み立てられている最近のニュースの多くは、多様な意見や異論を受け付ける余裕がない。「個人」「個物」に向けられた多くのニュースは「公共性」への視点を欠いた言論空間を形成している。その場合、何がニュースかを決める価値基準は「社会的関心」に尽きる。「社会的関心」と言ってもわれわれ皆の関心ではない。マスメディア側が一方的に判断した最大公約数的な指標のことだ。指標といっても客観的な基準があるわけではない。

 社会的・国際的に重要な事柄であっても、マスメディアが「社会的関心」が低いと判断すれば報道されることはない。洞爺湖サミット対抗イベント絡みなどで来日した、スーザン・ジョージ、マイケル・ハートら国際的知識人らが成田空港で拘束され長時間尋問を受けた。札幌空港では韓国人農民団体が拘束され入国を拒否された。日本政府によるヤクザ顔負けの嫌がらせだ(テロリストなら逮捕すれば済むことだ)。法律上の理由などどこにもない。サミット反対を表明する知識人らに対する非民主的弾圧だ。憲法で保障されている「思想・表現の自由」を、現場の執行措置でなし崩しにする一種の「解釈改憲」だ。

 問題は、こうした国家による犯罪を、どこのマスメディアも報じなかったことだ。もし、G8首脳を成田で拘束したとしたらどのように報じられたのだろうか。地球の人口の14パーセントしか占めていない「主要国」の首脳が、世界中を代表して会議を開くこと自体が「違法」なのだ。彼らは一国のトップとして選出されているとしても、世界を代表し、世界の政治や経済を支配する政策を決める権限など誰からも与えられてはいない。

 空港で拘束された知識人たちは世界支配を目指す「違法」な人たちのサミットに異議を唱えている。ところがマスメディアはサミットに反対する意思表示を暴徒やテロリストとして報じた。都内や札幌のデモ行進をモンゴルの暴動と同列に報じた民放テレビもあった。国家のメディア・コントロールを受けるうちに、マスメディアはジャーナリズムの魂である「批判力」を失い、違法行為を繰り返す国家と共犯関係を結んでしまった。

 今、メディアの公共性が問われている。曖昧模糊とした「社会的関心」に左右されたニュースは、公共性のはるか彼方に位置している。そうしたニュースは瞬時に飽きられるか、賞味期限を過ぎれば「忘却の彼方」に置き去りにされる。しかも、情報量が過剰であるが故、ニュースの受け手から想像力を奪い去ってしまう。マスメディアは危機の時代を迎えている。本稿では公共的言論空間の現在を、3回に分けて再検証する。

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3.不透明な「社会」と「政治」

 東西冷戦後、情報の流れはグローバル化し、世界中に流通する情報は画一化した。世界中の情報が洪水のように押し寄せては消え去る通信ネットワークのグローバリズム化に呼応し、日本のマスメディア報道も「集中豪雨」と「忘却」を繰り返すようになった。その結果、情報の画一化をもたらし、社会全体のコミュニケーションが細分化されてしまった。少数者の意見、異論、多様な考え方への配慮や関心はメディアのメーンストリームから消え去り、公共的な言論空間は画一間の一途をたどっている。

 「公共性」を剥奪された言論空間は、人々を社会から孤立させ「個」へと埋没させる。お茶の間のテレビが国民の中流意識を映し出した牧歌的なメディアの時代は過ぎ去り、過剰な情報やイメージをまき散らすインターネットとマスメディアは人々からそれぞれの自己像を奪い去った。「ナルシスの鏡」を失った若者たちは自分探しの旅を始めた。コスプレ、ストリートパフォーマンス、オタクといった社会現象には、没コミュニケーティブな分断された「個」が透けて見える。自分の存在を取り戻すため劇場型犯罪に走る若者は欧米でも増え続けている。「個」に細分化された現代人の心的悲惨さが増大するとともに、日本の言論空間では「個人」や「個々の事象」は言挙げされても、「社会的な事柄」を伝える報道はメーンストリームから姿を消した。

 「社会」と同様に「政治」も言論空間の中で見えにくくなっている。ポスト小泉として登場した安倍政権は、小泉が突き進めた「軍事大国化」と「新自由主義改革」という二つの課題を果たそうとした。しかし、「利益誘導型政治」の温床だった地方を切り捨て、大企業擁護のため規制緩和を続行した小泉改革のツケが回り、 07年の参議院選で惨敗し、安倍は自爆した。企業リストラ、規制緩和、不正期雇用、社会保障削減といった「小泉改革」が、特に地方で新自由主義に対する激しい怒りを生み出した結果といえる。

 もちろん、安倍の改憲強行路線が民主党との不協和を招き、世論を敵に回したのも事実だ。「安倍自爆」後、政権に就いた福田は、小泉・安倍の急進改革路線を軌道修正し、「生活者の視点」で改革の痛みをケアする新路線をとっている。しかし、早くも永田町で福田の「洞爺湖サミット花道論」がささやかれるなど先の見えない状況が続いている。

 一方、民主党は、07 年の参議院選で福祉国家的な政策を打ち出し、改憲に批判的な有権者の支持を得た。しかし、小沢の政治路線は新自由主義と軍事大国化だったはずだ。改憲、改革路線について一枚岩ではない民主党が「政界再編」のイニシアティブを握ることが出来るかどうかはまったく不透明だ。

4.メディアの可能性

 今、社会と政治は転換期を迎えている。冷戦終結後、湾岸戦争、 9 ・ 11 同時テロ、アフガニスタン・イラク戦争をへてアメリカが主導する世界秩序ができあがったかに見えたが、それも長くは続かず、アメリカは大統領選を契機にネオコン支配からの構造転換を模索している。北朝鮮のテロ支援国家指定解除は、冷戦後20年以上続いてきたアメリカによる世界支配の終焉と外交政策の転換を象徴した出来事といえる。

 同時に、世界中では、「新しい貧困」とプレカリアートの増大で市場原理に対する批判が高まってきている。新自由主義グローバリゼーションが曲がり角を迎えており、日本社会も「市場原理」からの転換を迫られている。ところが、日本のメディアはその動きに十分対応しているとは思えない。

 そもそもグローバルな「情報秩序」や IT 産業という市場原理からも立ち遅れてきた日本のマスメディアは、憲法と議会制民主主義に依拠する以外、時代に即応した方針やコンセプトを持つことが出来なかった。内部的にも、ニュース価値や公共的メディアの役割について議論することさえしなかった。

 その結果、日本のマスメディアはドメスティックな言論空間へと沈殿しつつあるようだ。米国の北朝鮮「テロ指定」解除という国際政治の転換期を象徴する大ニュースを、拉致被害者家族の怒りというドメスティックな視点で語ることしかできなかった。政府の露骨なメディア・コントロールを受けている NHK だけでなく、民放や新聞までもが同じ詐術に陥っていたのは驚くべきことだ。

 一方、中国ギョーザ事件、少女殺人事件、食品偽装問題などでは、特定のニュースや話題のため繰り返される「集中豪雨」報道と「忘却」が演出されている。マスメディア内でニュース選択は、その都度の「社会的関心」を基準に行われる。そのニュースの重要性や事態の深刻さではなく、より多くの読者や視聴者を引きつけるであろう「社会的関心」こそが紙面や番組を決定している。ところが、ニュース判断の正当性を担保するはずの「社会的関心」は、編集スタッフの頭の中にしか存在しない。

 しかも、日本のマスメディアにとって「社会的関心」とは「日本人の関心」と同義語だ。世界のどこかで飛行機が墜落し多数の死者が出たとしても、日本人乗客がいなければニュース価値は格段に低い。反対に日本人が海外で事件や事故に巻き込まれれば、それだけで大きなニュースになる。

 日本の新聞の国際面には、日本人が関わったニュース、日本人が興味を持つニュース、日本の国益に適ったニュースで溢れている。その点では、日本のジャーナリズムは世界のグローバリズム化とは無縁な存在でもある。

 こうした旧態然としたナショナリズムの呪縛を受け継ぎ、ドメスティックな言論空間をさまよう日本のマスメディアに可能性があるとすれば、それは「政治」や「社会」の転換期といういまだかつてない深刻な事態を迎え、「公共性」へと再転換を果たすこと以外にない。まずは、政府・企業に偏った従来の報道姿勢を改め、 NPO/NGO など市民社会構成ファクターとパートナーシップをとるモチベーションが必要になる。少なくとも、プレカリアートを生み出した新自由主義的な政治に対する代案を打ち出し、メディアが果たすべき「公共性」の意義を再定義することが問われている。

 次回は、政府・大企業・メディアが「共犯」となってメディア・コントロールを続ける「地球温暖化」の大合唱報道と、社会問題を正面から捉えた優れたルポルタージュ報道を対比させることで、メディアが「公共性」へと開かれる可能性を浮き彫りにする。

 

 

 



 

 

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