Vol.47 2008年3月20日号

東アジアの循環型社会の形成を目ざして

          稲垣久和(東京基督教大学教授)

キーワード  公害から環境倫理へ、疫学的方法、公共信託論、大人になる、生活領域の主権(領域主権)

  ※以下は、 2008 年 2 月 25 日に行われた NPO 公共哲学定例研究会において講演したものである。

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 今日の私の話は、公共哲学からアプローチする環境倫理である。これは企業活動、 NPO 活動、市民の政治運動などが関係する問題である。そこで、ちょうどこれらをテーマにした NPO 公共哲学研究会過去 3 回分、これらのまとめをまずお話して、そこから本題に入りたい。

 2007年11月 19日には長坂寿久氏に「 CSR (企業の社会的責任)と NPO 」という内容でお話していただいた。要約すれば「企業経営とはもともと儲け主義ではなく NPO の要素を最初から含んでいた」、「企業活動のレジテイマシー(正当性)は政府から与えられるのではなく、「市民社会」との対話の中から獲得する」ということになろう。そのような企業活動が、市民の大きな問題関心である環境問題に積極的にコミットするのは当然で、欧米では環境 NGO からの提言を受け入れた企業が普通になってきた。しかし日本ではまだその認識が十分ではない。これは NPO が弱体であることによる。

 12月25 日には岡室美恵子氏から「中国北京五輪と NPO 」という内容で話していただいた。中国の政治体制つまり共産党一党独裁下における NGO 活動、市民社会の力がどれほどのものになっているか、という報告は大いに興味をそそられた。中国社会が北京五輪を前に大きく転換している様子も話された。かつて「合情不合理」なるレッテルをはられた NGO が、黙認やがて公認されてきているのが現実である。2007 年第 17回党大会で胡錦涛氏は「慈善事業、商業保険で補充し社会補償制度を完備する」と報告しているのだが、この「慈善事業」というのは誰がやっていることなのだろう。社会資本の担い手になる富裕層なのであろうか、それとも貧しくとも庶民が切りつめた生活の中で「友愛と連帯」のモラルをつくりつつある、ということなのであろうか。日本でも同じ問題が考えられるのではないだろうか、と思わされた次第である。

 2008年 1 月28 日には木下ちがや、平沢剛両氏から「G8 をめぐる運動の現在」という話をしていただいた。政治的には民主主義のあり方を問い、経済的には新自由主義を批判する、という内容であった。ただ、民主主義政治理論への NPO の位置づけを、まだ十分に展開していないきらいがあった。これは当研究会がこれまで議論を積み重ねてきた「「公、私、公共の三元論」や「領域主権論」という発想がないからであろう。たとえば、今年7月のG8による洞爺湖サミットへの反対の示威表示において、理論的根拠にネグリ・ハート『帝国』の「マルチチュード」概念を引用しているところなど、依然として「国家・個人」(公私)二元論が目立つ。(ネグリ・ハートへの筆者の批判については拙著『宗教と公共哲学』東京大学出版会、 189 頁参照)。自由主義経済が、新自由主義という競争原理一辺倒になることへの抑制は確かに必要である。まさに、企業の CSR (社会的責任)の位置づけと普及、さらには NPO 育成のための税制改革が今後の課題として欠かせない、ということである。

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 もう一つ、ごく最近のホットな話題である、「中国産餃子事件」に触れておきたい。不可解な事件で今日に至るまでその全貌が分からないままだ( 2008 年 3 月 15 日現在)。その事件を詮索するよりも、ここでは「食の安全の危機管理」という視点から、思考の枠組みになる基本的コメントをしておきたい。食品衛生法にすでに出ている「疫学的方法」が重要である。

 昨年12月末に千葉市で患者が病院に駆け込んだ。そこで中毒症状を起こした患者の食べた食物が「天洋食品のギョ―ザ」と判別された時点で、食品衛生法を根拠に行政の同食品回収命令が出せたはずだ。ところが対応が遅れているうちに兵庫県で同じような事件が発生し、その後に次々と事件が発生したのだ。人命尊重が本当に社会に浸透しているのか。原因物質として「農薬のメタミドホスが検出される」といった化学物質の原因究明ばかりがニュース報道で脚光を浴びた。これは因果関係とは何か、という理解が社会的な教養として浸透していないことによる。

 要素還元主義的に因果関係を追うのは、近代科学の方法論による。しかし環境科学そして環境倫理では発想が全然異なるのである。まずは「細かいことはともかく全体として何が起こっているのか」「塊と塊の因果関係がどうなっているのか」(要素還元主義の否定)という理解が必要なのだ。そうでないと日常の市民のための、生活世界のための科学とはならないのである。市民の自覚が問われるところである。行政―企業―市民( NPO )はそれぞれにどういう役割を果たすべきか。市民レベルの公共哲学がまだ十分にわれわれのものになっていない現実、それをまざまざと見せ付けられた事件であった。

 そもそも今日の環境問題への関心は80年代の「公害問題から環境倫理へ」という転回によるものである。水俣病を例に取ろう。水俣病「公式発見」(1956年)から最高裁判決(2004年10月15日)まで実に半世紀を要した。この悲劇的出来事が、人々の環境問題への意識を高めた。

 私は環境倫理の基本に「公共信託論」を置きたいと思っている。 J ・ L ・サックスが1970年代に唱えた段階での「公共信託論」とは以下のようなものだ。

 @ 大気や水のような一定の利益は市民全体にとって極めて重要なので、それを私的所有の対象にすべきでない。

 A 大気や水は、個々の企業のものというよりは、自然の恩恵にあずかるものであるから、個人の経済的地位に関わりなく、すべての市民が自由に利用できるようにされるべきである。

 B 公共財を、広範な一般的使用が可能な状態から私的利益のために制限的なものに分配しなおしたりしないで、むしろ一般公衆の利益を増進することが政府の主要な目的である。

 これは、今日、一政府、さらに一国家を超えてグローバルな概念として確立していくべきである。

V .

 さて、以上のような前置きを踏まえた上で、本題の「 東アジアの循環型社会の形成を目ざして −環境倫理は国境を越える−」というテーマに入ろう。

 循環型社会形成推進基本計画 'の HP に言われている「循環型社会のイメージ」は、

 1 .暮らし:良いものを大事に使う「スロー」なライフスタイル

 2 .ものづくり:環境保全志向のものづくり・サービスの提供

 3 .廃棄物:廃棄物等の適正な循環的利用・処分システムなど

 われわれはこれら実践的な課題の背後にある、現代人が抱えるグローバルな思想的、文明論的な課題に目を注ごう。

 現代人のライフスタイルは「スロー」であるどころか、早ければ早いほどよい、いや「早い者勝ち」が常識化していることを、まず、率直に認めるべきである。これは何も、市場的な競争原理のみを指しているのではなく、行政のあり方もそれに巻き込まれているということである。したがって「スローなライフスタイル」ということを本気で掲げるのであれば、近現代文明とライフスタイルへの根本的な反省を伴うのである。そのことを自覚しなければならない。それは確実に痛みを伴う。なぜなら、明日からの「私」の生き方を変えなければならないからである。そして生き方を変えるには、「思想」を変えなければならないからである。以下、四点に分けて整理しよう。

 1 .近代科学文明と地球文明

 西洋近代は科学革命、市民革命、産業革命を生み出した。このすべてをひっくるめて近代文明と呼ぶとすると、現代の環境問題と地球温暖化を生み出したのは紛れもなく近代文明である。近代文明は「スローなライフスタイル」を悪として退ける文明である。もし、われわれが「スローなライフスタイル」を善とするためには、今度は「近代文明」という悪と戦わなければならない。この悪と戦うには一人ひとりが「聖人」にならなければならないし、「聖戦」(ジハード)を遂行しなければならないであろう。これはブラックユーモアでも何でもなく、以下に述べるように本当にそうなのだ。ここで「聖人」と言っているのは、平たく言えば「大人」(おとな)ということである。欲望をコントロールできる人間、ということである。

 人間には制御できる自然と、制御できない自然とがある。近代地球文明は「制御できる自然」を利用しつつ、最終的には「制御できない自然」の領域にまで入り込んでしまった。いまや「制御できない自然」からの復讐を受けて右往左往しているのである。自然というのは全体としてひと続きのものだから当然であろう。自然とそこに眠る資源を海にたとえてみよう。浅い海で漁をしているうちはまだよかった。しかしそのうち浅い海の魚は採りつくしたから、深くもぐって深海魚まで採りにいくことになった。しかし深海魚もやがて採り尽くすことは時間の問題だ。そうなればすべては終わる。しかし、そもそもその前に、深海魚には人間を食う怪物がウジャウジャいた。もはや人間には手が付けられない状態。人間が生き延びる道は唯一つ、魚を食う文明を止めること、欲望を断ち切ること、清貧に甘んじること、海草のみを食うようにライフスタイルを変えることだ。

 しかし「欲望を自由に伸ばすことが善」、こういうライフスタイルに慣れきった人間に、果たして可能な注文なのか?

 2 .環境倫理は国境を越える

 われわれが欲望を抑え、清貧に甘んじられる「聖人」(大人)になるにはどうすればよいのだろう。自ら生み出した廃棄物を処理しつつ、循環型社会の典型であった農業・牧畜文明の時代に戻ればよいのであろうか。しかしながら、第一の波(農業・牧畜革命)、第二の波(産業革命)を経過し、今や第三の波(情報革命)に突入してしまった。

 情報、 IT はいやおうなくスピードが命である。コンピューター上のキーを一つ打てば、地球の裏と交信でき、情報は 1 秒間に地球を7廻り半の速度で駆け巡る。しかし人間の情法処理能力はそれについていけない。人間の脳神経細胞の伝達は電気的信号を利用しているのではなく、化学的物質のやり取りを利用しているからだ。もっとも、人間の脳をすべてコンピューターに置き換えれば話は別だ。だが、それは人間が人間でなくなるときである(国家予算はそちらの方向に大々的にシフトしているのだが)。

 したがって「スローなライフスタイル」を取り戻すには、農業・牧畜文明のよさを取り戻すだけでは不十分で、コンピューターの不使用を義務付けることが必要である。多分、そんなことはできないであろうから、次の処方箋は人間が人間の速度でコミュニケーションする訓練を積むことである。これは過去のいかなる時代にも増して、今日、求められていることである。一言で言えば、一人ひとりのライフスタイルが、人格的な対話をする訓練を積む方向に変えられることである。国家間の交渉とは違う方向だ。なぜなら国家は人格ではなく巨大なシステムであるから、もともと対話という人間的な価値に向いていない。これは国家がいらないということではまったくない。

 国家は国境を前提としているシステムだが、いま地球環境問題で必要なのは、国境を越えた対話である。これには国家の構成員である国民が率先してやるほかはない。人々は国境を越えて自由に往来する。しかし国家は国境の内側のみに責任を持つシステムである(国境を越えて行動するとすればそれはもはや国家ではない)。国家は国境を越えられない。しかし大気は国境を越えて自由に往来するから、環境倫理の対話は国家単位でやることには限界がある。国境を越えた自由な人格的な人と人の対話、人と人のライフスタイルの交流から出発する。国家はそれを補完する装置として、責任を果たすべきである。

 3 .東アジア共通の遺産から

 儒教と道教(無為自然の道)は東アジアの共通の遺産である。東アジアの戦後史は「五十にして天命を知る」(論語)の境地に入ったのである。互いの愛国心を抑え、国境問題でいがみ合うよりも歴史認識を共有しつつ和解(和諧)を目ざすべきだ。理(中国人の特性)と情(日本人の特性)と気(韓国人の特性)を生かしつつ、これら全体を備えた寛容な「聖人(大人)」の育成に励んで、互いに国境を越えて学び合い、交流を深めるべきだ。本当に「スローなライフスタイル」を確立する気があるのなら、東アジアの伝統である「天命」を知るべきだ。

 われわれの環境倫理は、公共信託論という言葉に要約できよう。「信託」という言葉自体は憲法前文に「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、・・・・」とあるような使われ方をする。地球環境問題のような国境を越える「新たな公共」は、国家を越える地球市民的公共性の確立にあるので、単に一国民の信託ではすまされないものである。「国政は、国民の厳粛な信託による」の部分の英訳は Government is a sacred trust of the people  となっているのは興味深い。 sacred trust とは「聖なる信託」という意味の言葉だからである。六十歳を過ぎた日本国憲法は、われわれ一人ひとりが欲望を抑えた「聖人(大人)」になることを期待しているのである。地球環境を管理することは国境を超えた「天命」(聖なる信託)としてわれわれの下にある。

 地球環境問題には、国境を越えて、東アジアの人々全体の信託がここにかかっている。だから「人々の聖なる信託」という、日本国憲法が英文で世界に発信しているメッセージの意味は極めて重い。「制御できない自然」には、「天命」の下に、一人ひとりが責任倫理を発揮して対処すべき時代に入ったのである。

 4 .公共信託論

 他方で、日本国憲法は「公共の福祉」という全人類に共通する概念、国境を越えて適用可能な思想性をも含んでいた( 12 , 13 , 22 , 29 条)。そこで同時にこの「公共の福祉」の新たな意味も探究されるべきだ。

 公共信託論は現憲法にある「信託」の考え方を、地球大規模で全人類的に拡大するとともに、かつそれぞれの地域や NGO 、 NPO など環境保全や生活のニーズに応じた中間集団の持つ「領域主権論」を基本にしている。公共信託論によるサービスの担い手は「市民」であり、「行政」であり、「企業」である。立憲主義を尊重しつつ、しかし国民主権という抽象性に安住することなく、生活領域に委託された主権性を活かせ、という主張である。領域主権論は、こうして何よりも、生活者が生活のさまざまな領域で生じるニーズを大切にし、一人ひとりの内面の自我を磨き上げて、良心に基づいた実践を促していく。

 市民の一人ひとりの自立した磨かれた自我は、国境を越えて「他者」を配慮でき、徳性を備え、自分と異なる考えを持つ者に対して寛容であるような人格でありたい(これが「聖人(大人)」となるという意味である)。あくまでも一人ひとりの自発性と自治を重んじ、「よき社会」を作るために互いに助け合い、補い合う。

 もともと日本の伝統は、古代から、このような多様な「他者」を受け入れ、共存させてきた多元的で、重層的な社会であったはずだ。古代の仏教、儒教、道教の受容から始まり、キリシタン、啓蒙主義、近代の新宗教、戦後の多種多様なイデオロギーの受容等々。もし、日本のアイデンテイテ イ ーを確立したいのであれば、このような多元的な思想が共存できる、いや古くから共存させてきた日本人の寛容さに見出すべきではないか。多様なものを自分に同化するのではなく多様なままで受け容れることだ。論語の現代版を実践することだ。「小人は同じて和せず、大人は和して同ぜず」と。

 このように、国境を越えて市民が協働することが地球大の規模の「公共の福祉」に資することであり、市民、政府、企業の間の互いの「公共信託論」である(詳細は筆者の近著『国家・個人・宗教―近現代日本の精神』講談社現代新書、参照)。


 



 

 

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