Vol.46  2008年2月5日号

NGO的映画の楽しみ方  第5回 -- ペルセポリス
               ( マルジャン・サラトビ&ヴァンサン・パロノー監督、 2007 年
                    

長坂寿久(拓殖大学国際学部教授)

キーワード・・・ ペルセポリス、スパイダーマン3、アムネスティ・インターナショナル、
         アムネスティ・レポート、イラン、イスラム革命、マルジャン・サラトビ、人権NGO

ペルセポリス

(マルジャン・サラトビ&ヴァンサン・パロノー監督、 2007 年、フランス)

 *渋谷シネマライズにて上映中 (2月初旬頃まで)

1.女性あるいは人間の生き方の普遍性

 あるイラン女性の 9 歳 (1978 年 ) から25 歳( 1994 年)までの成長の物語である。国家がもつ圧政・弾圧という不条理の歴史を背景にした個人のドラマであると同時に、個人を丹念に描くことで、すべての人々の心に届く普遍性を有した映画として完成している。

 可笑しくて笑う。悲しみに涙する。正直さに声援を送りたくなる。皮肉、ユーモア、時として自虐性に溢れていて、ものすごく面白く、そしてものすごく元気がでる。生き方への希望が得られる。実にパワフルな映画だ。夢をもつ人、志をもつ人、自立した生き方をしたいと願っている人なら、この映画の主人公マルジを、ごく身近な大切な友達のように感じるだろう。

 マルジャン・サラトビ監督。 2000 年に出版された、彼女自身の自伝的グラフィック・ノベル(漫画)『ペルセポリス』を映画化したものである。ニューヨーク・タイムズ紙が選ぶ注目すべき本に選出され、いくつかの国際的な賞を受賞し、世界的なベストセラーになった本である。

 日本版(2005年にバジリコ社から 2巻本として刊行)を入手して読んだが、面白くてあっという間に物語の世界に引きこまれてしまった。そのアニメーション映画版である。いくつかの部分を削除しているが、ほぼ本に沿って制作されている。白と黒、そして灰色の濃淡のみによって描かれた映像が、かくも多様で自由で繊細で深い表現をなし得ること、そして実にインパクトのある映像を創り上げていることに驚かされる。

 カトリーヌ・ドヌーブとその実の娘であるキアラ・マストロヤンニが、そのまま親子としてボイス・キャストを務めているのも話題で、それがまた実に好ましい感じにできあがっている( 2007年カンヌ国際映画祭で審査員賞などを受賞)。

2.人々の生き方――激動のイラン――王政からイラスム革命へ

 マルジが潜り抜けてきた時代は、まさに激動の時代だった。物語は 1978年、9歳から始まる。まだ幼い彼女は、日本のイメージとしてゴジラと切腹を持っている、無邪気で活発で、ひたすら元気な少女である。この年に、シャー ( 国王 ) を追い出すデモや暴動が全国に波及していった。

 翌 1979年1 月、パーレヴィ国王は国外に脱出し、革命が成功する。しかし、市民が立ち上がった革命の結果は、それまで弾圧の中で中心的に闘ってきたコミュニストたちによる政権樹立ではなかった。フランスに亡命していたイスラム教シーア派原理主義の宗教指導者ホメイニ師が帰国し、神政イラスム国家を宣言する。達成されたのは「イスラム革命」であった。

 当時のことを私も鮮明に記憶している。三井物産がイランで行なっていた巨大かつ巨額の石油開発プロジェクトが破綻し、日本も大騒動となった。海外調査の仕事をしていたので、仲間たちとは、「これからの時代はイスラム時代へと向かう」、「世界を観るにはイラスムを知らないとダメだ」とよく議論していた。

 そして、イランの歴史やイラスムの本を読んだりしたが、その中で、パーレヴィ王政は第一次世界大戦後に普通の軍人が成り上がって、一方的に国王を宣言して王政をつくり上げたものであることを知って、唖然としたことを覚えている。しかし、実は王政の歴史とは欧州においても同様で、ただ時代が異なっているに過ぎない。相当に昔からのことだから権威の威光を帯びているに過ぎず、20世紀半ば、つい最近に王政宣言があってもおかしいとは言えないだろうなどとも議論していた。この映画の中でも、父親がそのことについてマルジに話し聞かせるシーンが出てきて、とても納得した。

 シャー ( 王政 ) を倒すためにコミュニストになった人も多かった。王政下、彼らは厳しく弾圧され、逮捕され、投獄されてきた。こうした人々は革命によって一旦解放され、英雄として称賛を受けるが、ホメイニ政権下で再び弾圧される。政権に抗議する人は逮捕されるか、あるいは外国に逃れるかした。逮捕された人は行方不明者のように隔離され、最終的には変節か死刑かの選択を迫られることになった。マルジの伯父もその一人である。

 イラスム革命は、シャー ( 王政 ) の時代よりも一層の弾圧をイランの人々にもたらした。女性はベール ( チャドルやマグナエ ) の着用を義務づけられ、男女共学は廃止された。言論・思想の自由は規制され、ボッティチエッリの名画「ヴィーナスの誕生」にはボカシが入れられ、西洋文化の締め出しが行なわれるようになる。

 こうした社会の変革を敏感に感じ取りながらも、マルジは家族の愛情の中で天真爛漫に自己を育てながら生きていく。世界中のティーンエイジャーとまったく同じように、おしゃれやロックに夢中になっていた。

 しかし、それから4年後の1982年、マルジ自身が国外に逃れることになる。政府の教育方針通りに、「イスラム共和国樹立以来、わが国には政治犯の囚人はいない」と政権を讃える先生に反論してやり込めてしまい、学校から完全に睨まれることになる。両親は心配し、マルジをウィーンに留学させることで、危険を回避させる決意をする。母親は、「反政府として捕まった娘は殺される。しかも、処女を殺す罪を逃れるという大義名分のために、革命防衛隊の男と無理矢理結婚させられてから処刑される」のだと説明する。

3.「カルチャーショック」

 マルジ 14歳。ウィーンへ留学。知り合いの家に下宿するはずであったのに、身を寄せることのできた場所は修道院であった。しかし、修道院の文化に、彼女はまったくなじめない。しだいに友達ができてはいくものの、ドイツ語の話せないイラン女性というアウトサイダーである彼女が近づけたのは、やはり、いずれもアウトサイダー的若者たちである。

 やがてマルジも思春期を経て成人の女へと成長していく。マリファナを吸い、世界の革命情勢や虚無について友たちと論じ合い、運命の人と思い定めて熱い恋をする。しかし彼が同性愛者だと分かって失恋。しばらくして今度こそ運命的だと思う恋をするが、浮気現場を見せられ失意のどん底へ。下宿を飛び出し、街を彷徨し、野宿し、お金がなくなり、空腹と寒さに震え、ついに血を吐いて路上に倒れる。こうしてマルジは、失意のうちに故郷テヘランへ戻る。

 しかし帰ってきたイランも、彼女にはさらに住みにくいものだった。弾圧で疲弊したイランにイラクが侵攻し、両国は互いを潰し合う無意味な戦争の真っ只中だった。帰国したマルジは市内を見て墓場のようだと感じる。

 不毛な戦争のために次々と兵士が死んでいく。彼らは、戦争で死んだ者は天国で四つ星クラスの生活ができる、天国には美しい女がいっぱいだ、と信じ込まされている。こうしたくだらない説明も、現実社会に希望を失った若者には意味をもってしまうのである。

 政府は政治犯に選択を迫る。革命の理想を放棄してイスラム共和国に忠誠を誓い刑期を終わらせるか、さもなくば死刑。多くの者が死刑を選んだ。祖国イランで起こった痛ましいできごとの数々を父が語ってくれる。それに比べれば、自分のウィーンでの不運など意味のないちっぽけな出来事だと、マルジは思う。

 彼女はテヘランでもウィーンでも異邦人だった。第三世界の人間であることの困惑。西洋ではイラン人としてアウトサイダーでしかありえない。イランでは西洋文化を身につけた女として珍しがられる。何のアイデンティティもない。ウィーンでは異邦人の故にオーストリア人だと偽ってしまうこともあった。ウィーンからテヘランに戻る時はベールをかぶるが、そのベールは彼女の体になじむものではない。

 優れた映画は様々な視点から堪能できる。この映画は、ひとりの女性がイスラム文化と西洋文化の狭間の「カルチャーショック」を通して成長していき、自分らしい生き方を真摯に見つけていく物語でもある。

4.外の世界と内の世界の生き方の乖離

 イランではすでに若者たちの求めているロックなどの西洋音楽は禁止され、お酒は厳禁、お化粧も男女のデイトもパーティも摘発の対象となっていた。大学でのデッサンの授業での課題は、黒いチャドル(全身を覆う布の服)から顔だけを出した女性の全身像であり、裸婦は御法度となっている。女性は道路を走ってはいけない。お尻が揺れるとわいせつだから。髪を見せること、化粧することは反逆行為と見なされる。

 現代のイランの政治と人々の生活を知るには、この映画は格好の手段となるだろう。しかし、この映画で最も深く印象づけられるのは、そうした外(公の場)と内(プライベートの場)の格差・乖離・落差の大きさである。

 かくも厳格に言論・思想・海外芸術が統制されているにもかかわらず、若者も大人も、その本質・内面では自由に生きようと努力している。若者は依然ロックを聞き、男女関係にはもちろん興味津々であり、秘密のパーティを楽しみ、隠したお酒を飲み、人生の一時一時を貴重な瞬間として生き、楽しもうとしている。それは大人たちも同様である。

 「何かを禁じられると、それが極端に重要に思えてしまう」(サラトビ監督)ことは理解できるような気がする。お化粧をしたり、西洋風に行動したりするのは、彼女たちなりの反抗の示し方だともいえる。どんな圧政下であっても、表の従順さとは裏腹に、自分の好む音楽や服装や化粧や男女関係への興味をもち続けること、隠れてでも実行してしまうことが、せめてもの抵抗活動なのである。

 外の世界での体制への従順な行動と、内の世界で毎日のように繰り返される反抗的パーティやお酒。肩を出してドレスを着る。パーティに手入れがあって、皆逃げる。逃げ遅れ、ビルを飛び移るのに失敗した友達が死ぬ。それでもパーティは止めない。自由であることを止めるのは「奴ら」の思うつぼになり、自分を「生きる」ことの放棄だと考えているからだ。

 この映画は弾圧や戦争で絶望を経験した人々に、きっと大きな希望を与えるだろう。そして、日本人である私は、映画を見終わった後、イランの人々が非常に身近になっていることを発見する。と同時に、イランという国について起こっていることの「現実」について、その実態を皮膚感覚として知らされることになる。圧政の中でも心は自由に生き続けている。見知らぬイスラム世界のエキゾチックな物語、先進国の自分たちとは違う第三世界・開発途上国のかわいそうな物語、あるいは独裁政権の弾圧を告発する、イランの裏側を描いただけの映画では味わえない感覚である。それらを超えた普遍性を、「個人の物語」を描いたこの映画は提示してくれている。

 マルジは鬱から脱して、決意して1989年にテヘランの大学に入学する。そして「運命の恋人」と出会うが、「合法的」にはデイトもできないので結婚をする。 21歳である。しかし、結婚の甘い夢は瞬く間に破れ、離婚を決意し、 1994年、フランスへ旅立っていく。

 パリのオルリー空港に着き、タクシーに乗る。タクシー運転手に「どこから?」と聞かれ、「イランよ」と答えて映画は終わる。ヨーロッパにおいては異邦人であることを受け入れ、自らのアイデンティティを踏まえて人生を切り開いていこうとする彼女の姿がある。

 この映画で最も魅力的な人物はおばあちゃんである。彼女の台詞で最も感動的なシーンは、マルジがウィーンに行く時に諭す言葉である。

 おばあちゃんは言う。「これからもたくさんのバカに会うだろう。しかし、きちっと公明正大に。復讐はもっとも愚か。自分が何者か、どこから来たか。ちゃんとしていなさい。許すことを知ることが大切」。「恐れが人に良心を失わせる。恐れが人を卑怯者にする。お前は勇敢だ。」と。

 2007年の『スパイダーマン3』(サム・ライミ監督、米国)でも同様の台詞があった。スバイダーマンのピーターが育ての親であるメイおばさんに言われる言葉である。

 「彼(悪者)は殺されても当然だ」というピーターに、おばさんは言う。「人の死を当然なんて言うべきではないわ。私たちが復讐心を抱くなんて、一瞬たりとも望まなかったわよ。復讐心は毒のように人を蝕み、人の心を乗っ取ってしまう。人を醜く変えてしまう。」そして、この映画の最後は「あなたを許すよ」( Forgive you )の台詞で終わる。イラク戦争を背景にしたアメリカの空気が変わってきていることを象徴する台詞である。自己を絶対的に善の立場に置き、他者を裁く権利を持っていると認知するときに「正義の戦争」が始まる。自己陶酔と被害者意識が人間を醜くすることを、この映画はメッセージとしているのである。

5.アムネスティ・インターナショナルの活動

 この映画は、このように、人間の魂のすばらしさや強さ、勇気を知らせてくれる。しかし、イランの政治と人々の生活に無知な日本人の一人としてこの映画をみると、やはり圧政の実態は衝撃的であった。この映画を観ながら 、 国際的な人権擁護NGO、 アムネスティ・インターナショナルの『アムネスティ・レポート 世界の人権』のことを考えていた。

 私にとって、「NGO」というものとの最初の出会いは、おそらくアムネスティ・インターナショナルであったろうと思う。毎年の『アムネスティ・レポート』は、かつては日本の新聞でも小さい扱いながら報道されていた。自分の信条による主張の故に人権を無視されて拘束されている「良心の囚人」や、反政府的という理由で拘束されている「政治囚」など、世界で人権を無視されて拘束されていたり、殺されたり、行方不明になったりしている人々をフォローし、支援し続けている団体があるということをその記事で知り、深く感動していたのである。最初は高校生の頃であったろうか。

 後に、海外に駐在して仕事をするようになり、この団体が人々から非常に敬意をもって見られていることを知ることになった。世界で最も信頼感をもたれているNGOの一つであることは間違いない。例えばロンドンではこんな体験をした。いくつかのNGOにインタビューをして回っていた時、最近 日系企業からアムネスティ・インターナショナルに転職した人(英国人女性)がいると聞いて、紹介してもらい会食をした。仕事が変わって友達の反応はどう ? と質問したところ、バーやパーティなどでの会話で、皆の反応が全く違うのだという。この国では、アムネスティ・インターナショナルに勤めているというと、この人はいい人に違いない、真面目な人に違いないと思われる傾向にあること、そしてアムネスティでの仕事がどんな仕事なのかを知りたがり、質問攻めに会うことになるという。突然人気者になったような気分よと彼女は言っていた。そして、以後パーティに呼ばれることが実に多くなったというのである。これが有力な「NGO」に対する欧米での反応である。日本とは大きく違う。

 「良心の囚人」( prisoner of conscience ) とは、言論、思想、宗教、人種、性別などを理由に不当に逮捕された非暴力の人を呼ぶ、アムネスティ・インターナショナルが提唱している言葉であり、 「政治囚」 とは別の定義となっている。刑務所や収容所などに囚われている場合のほか、ミャンマーのアウンサンスーチーさん( 1991 年ノーベル平和賞受賞)のように、適正な法手続き(デュープロセス)に基づかずに自宅に軟禁されたり、外出禁止令などで自由を制限されたりしている場合もある。非暴力主義を前提にしているので、暴力的(武力的)活動を伴う人は対象としていない。

 「良心の囚人」は、世界60カ国以上に8000人以上いるといわれている。日本では、2004年2月に立川で逮捕拘束された3 人の被疑者(一審で無罪、二審で有罪。被告人側が上告)が日本で初の「良心の囚人」に認定されている。

 私は大学で「NGO・NPO論」なるゼミを担当している。そこでは、毎年、『アムネスティ・レポート』の日本の項目のコピーをとって、世界のNGOが日本をどう評価しているかを紹介することから演習を始めている。「平和で平穏な日本」に住んでいると思い込んでいる学生たちに、日本には、国際的に見ると、こんなにも人権無視の実態があるのだということを知ってもらうためである。同時に、『アムネスティ・レポート』が、世界中で信頼されている報告書であることを伝えている。

6.『アムネスティ・レポート 人権報告書』――「イラン」報告

 『アムネスティ・レポート』で、 1994年版 (1993年の状況を報告 ) 以降の「イラン」の項に目を通してみた。『ペルセポリス』でみたような過酷な実態が報告され続けている。最新の2007年版 (2006年の状況を紹介 ) には、以下のように書かれている。〔以下の「 」内〕

 「表現や結社の自由にとって基本的権利の制限が拡大し、人権状況は悪化した。良心の囚人を含む数十人の政治囚が、過去の不公正な裁判によって科された刑に服している。2006年にもさらに数千人が逮捕されたが、ほとんどがデモ中、またはデモ後に逮捕されたものだ。ジャーナリスト、学生、弁護士を含む人権擁護活動家も、恣意的に拘禁され、家族や弁護士との面会を許可されない状況に置かれた。とりわけ裁判前拘禁の間、拷問が広く行なわれている。」「少なくとも177人が死刑を執行され、うち少なくとも4人は犯行時に18歳未満であり、刑の執行時に 18歳未満の一人も含まれていた。2人が投石による死刑だったようだ。鞭打ち刑、四肢切断刑、眼球をえぐるといった刑も依然として科されている。死刑や体刑に処された人は、報告よりかなり多いと考えられる。」

 「アムネスティ・レポート」で、イランにおける死刑者数の毎年の数字を足し上げると、1993年1月から2007年9月までのほぼ15年間に約2000人近く ( または以上 ) に上る。毎年約126人が死刑に処されてきた勘定である。

 さらに、次のような報告が記されている。

 「少数民族や宗教的少数派に対する差別的な法律や慣習があり、社会不安や政治不安の原因となっている。」

 「人権擁護活動家の活動はますます制限され、報復される危険にさらされている。 2006年1月、内務省は『国家体制転覆を狙う国内外の問題団体』から資金援助を受けていると疑われるNGO ( 非政府組織 ) の活動を制限する方策を準備していると伝えられた。学生は政治活動が盛んなため、恣意的逮捕や新学年度に学業の機会を剥奪されるなどの報復を受けることがしばしばあった。 8月、内務省は (2003年に ) ノーベル平和賞受賞者シリン・エバディなど数人の著名な弁護士で組織する人権擁護センター (CDHR) を許可を得ていないとして、活動を禁止した。」

 「依然として拷問が日常的に行なわれている。とくに裁判前拘禁で多く、被拘禁者は弁護士との接見を無期限に禁じられている。少なくもと7名が拘禁中に死亡し、うち数件は拷問や虐待、治療拒否が一因になっている可能性がある。」

 「国連総会は (2006年 )12月、イランの人権状況を非難する決議案を可決した。」「国連の人権諸機関のイラン訪問を政府は依然拒否している。」

 イランの死刑相当犯罪は非常に多い。「神に敵対する行為」「イスラム侮辱」「地上での堕落」「反国家宣伝」「国家治安」「既婚者の姦通」「同性間の性行為」、そして「国家の安全保障を脅かす」犯罪では、裁判官が裁量によって死刑判決を言い渡す権限をもっているという。

 イランの議会は最高立法府である「憲法擁護評議会 (GC) 」によって形骸化している。議会で改革派が多数を占めたとしても、可決された改革のための法案が、この評議会によって繰り返し拒否されるためである。 GC は憲法第 96 条によって設置されており、聖職者6名、一般法学者6名で構成されている。主な役割は大統領選挙、国会選挙、国民投票などの監督、および国会で批准された法案の審査である。国会で批准された法案も、 GC がイスラム法 ( ジネゴシュと呼ばれる基準 ) にそぐわないと判断すれば拒否されることになる。

 例えば、国連拷問等禁止条約への加盟や拷問禁止法案を議会は承認したが、 GC はこれを拒否。同様に、議会の承認した国連女性差別撤廃条約への加入も、 GC は拒否した。また、 GC は選挙の候補者を選出する権利も持っている。これらの判断も実に恣意的に行なわれているといわれる。

 イランにもNGOはあるが極めて強く規制されている。人権擁護のためのイラン法律家協会や、囚人の権利擁護協会などは強い規制と監視を受けるか禁止されるかしている。

 こういった統制や人権侵害も、報告されなければ知り得ない。『アムネスティ・レポート』の存在によって、私たちは、どこの国でどのような抑圧が行われているかを知り、関心を持ち、行動に結びつけていくことができる。

 また、アムネスティ・インターナショナルによる、「良心の囚人」を救出する運動は、抑圧された個人に対する個別の取り組みである。しかし、その個別の運動が、そのまま普遍性を持ったものであることを、私たちは深く知ることができる。

7.“ペルシャの都市”

 最後にもう一度この映画に戻り、監督の言葉を紹介しよう。サラトビはインタビューで次のように語っている。「これは・・・何よりも私の家族への愛についての映画なのよ。でも、西洋の観客から、イラン人も自分たちと同じ人間であって、 ” イスラム原理主義者 ” や ” テロリスト ” や ” 悪の枢軸 ” といった抽象的なイメージでなくなったと感じてもらえれば、何か意義あることができたという気持ちになれるでしょう。原理主義の最初の犠牲者は、イラン人自身だということを忘れないでほしい」

 「絶望のあまり降参していたら、すべてを失っていたかもしれない。だから最後の最後まで、顔を上げて笑い続けるわ。そうすれば私の一番大切なものを奪うことはできないから。生きている限り、抵抗し、叫ぶことができるし、それでも尚、最強の武器というのは笑いなのよ!」。

 ところで、「ペルセポリス( Persepolis )」という題名は、ギリシャ語で「ペルシャの都市」という意味で、アケメネス朝 ( 紀元前 550 〜 330年 ) 時代に築かれたペルシャを象徴する巨大都市のことである。今は世界遺産に登録されている。著者 / 監督は、イスラム原理主義、厳しい戒律、弾圧、テロリストなどのイメージもさることながら、イランの深く長い文化的存在の中で自分を捉えたかったと、映画パンフレットの解説で述べている。

注 : 『アムネスティ・レポート』は 2000 年版以降日本語訳が出されている。

 また、アムネスティ・インターナショナルによるイランの人権報告に関する詳細報告の日本語訳は、 2006年2月報告「イラン:悲惨な人権状況に対処しない新政権」がある。イランに関する最新の日本語訳情報は、 2007年9月5日付の「驚くべき大量処刑」がある。いずれもアムネスティ・インターナショナル・ジャパンのホームページから入手可能。

*長坂寿久(ながさかとしひさ)の映画評論の本:『映画で読む21世紀』明石書店、 2004 年、『映画、見てますか。 Part 2』文藝春秋社、 1996 年、『映画、見てますか』文藝春秋社、 1990 年(『映画で読むアメリカ』朝日文庫で再版、 1995 年)。


 

 



 

 

©2004 NPO Training and Resource Center All Right reserved