Vol.45 2007年12月24日号
発酵は日本の文化――「挑戦する酒蔵」出版によせて
土田修( 酒蔵環境研究会幹事 )

 キーワード・・・ カビと酵母、魂の酒、坂口謹一郎氏、徒然草、日蓮さんの古酒、酒言葉

■カビと酵母が造り出す神秘

 冬の仕込みの時期に酒蔵に行くと、発酵タンクの中でもろみがボコボコと泡立っているのを見かけることがある。泡は時には高く盛り上がりタンクの上面を覆っていることもある。アルコール発酵の際に生じた炭酸ガスのなせるワザだが、微生物の作用で有機物が分解されていく姿を目の当たりにすると、神秘の世界に迷い込んだような感動を覚えるものだ。

 実はかく言う私も、ほんの少し前までそれほど日本酒好きという訳ではなかった。学生時代以来、飲むのはビールかウィスキーが主体で、日本酒は滅多に飲む機会がなかった。しかも大学の先輩がフランスのブルゴーニュ地方へ留学したこともあり、学生同士の飲み会といえば、安く仕入れたシャブリ、マコン、ポマールなどブルゴーニュの赤白ワインを飲んだ。それも、アロマやブーケがどうの、テロワールやミクロクリマがどうの、とちょっと通ぶってデギュステ(試飲)してみたりした。

 社会人になって最初に飲んだ日本酒は先輩に勧められた「越の寒梅」だった。当時、この酒を入手できる居酒屋は全国でも少数で、しかも新潟の蔵元まで足を運んで「三顧の礼」を尽くしても、せいぜい月に数本しか入手できなかったそうだ。この“幻の銘酒”を初めて口に含んだ瞬間、「これが本当に日本酒なの?」と驚きを感じた。風味も香りも酸味も渋みも苦味も甘みも広がりも重さも何もない、ただの含アルコール液体としか感じなかったからだ。これが誉れ高い銘酒なのか?と当時、不思議でならなかった。

 それから、かなりの年数をへて出会ったのが「酒蔵環境研究会」(酒蔵研)だ。酒蔵をまちおこしの起爆剤として位置づける酒蔵研は、富山県の成政という小さな酒蔵を応援するなりまさトラスト世話人会の運動に呼応し、全国に運動を広げた。そんなことから久しぶりに飲んだ日本酒が成政の純米吟醸酒だった。グラスで一口飲んだ瞬間、えも言われぬ恍惚感に全身を貫かれた。鼻腔を突き刺すフルティーな香り、口中いっぱいに広がる麹と酵母の織り成す独特の風格と風味。そして気が付くとスルスルと内臓に落ちていく爽快感。それがほどなく体の内側から立ち上ってくる陶酔感とほんのりした酔いに変貌した。

 そこにはワインにはない風味があった。ブドウに負けることのない米という原料特性の違いと重み。しかも銘醸ワインの上を行く、カビと酵母が造り出すどっしりとした風格を兼ね備えていた。それから、一ノ蔵の会、純米酒の会、酒蔵研オフ会などさまざまな日本酒の会に顔を出すようになった。そこで飲んだ日本酒はどれもしっかりとした造りの納得の出来るものばかりだった。久しぶりに再会した日本酒の中には、水そのものの酒も、臭くて重くて悪酔いする酒も存在しなかった。

■世界に誇る民族の酒

 発酵学の大家で東大名誉教授の故・坂口謹一郎氏が「日本の酒」(岩波新書)の中でこう書いている。「日本の酒は、日本人が古い大昔から育てあげてきた一大芸術的創作であり、またこれを造る技術の方から見れば、古い社会における最大の化学工業の一つであるといえる。したがって古い時代の日本の科学も技術も、全部この中に打ち込まれているわけであるから、日本人の科学する能力やその限界も、またその特徴もすべて、この古い伝統ある技術をつぶさに調べることによってうかがい知ることができるであろう」

 米のデンプンを麹カビの力で糖分に変え、同時に糖分を酵母の力でアルコール発酵させるという世界でも類を見ない「並行複発酵」という複雑な工程によって醸し出される日本酒は、世界に誇る「民族の酒」ということになる。本来の伝統技術に基づいた造りで出来あがった日本酒が「臭くて重くてまずい」はずはないのだ。どうやら普段、チェーン店の居酒屋で飲んでいる(飲まされている)灘や伏見の大手メーカーが造っている「酒」にこそ、その謎が隠されているのではないか?どうやら消費者はテレビのCMで有名女優や男優などを使って大々的に宣伝している「酒」を日本酒と思いこまされてきたようだ。

 日本酒の製造工程は「一麹、二もと、三造り」といわれる。このうち一番重要で難しい工程が「麹」の作業である。麹とは米に麹菌というカビをはやしたもののことだ。麹室で蒸し米に種麹という麹カビの胞子を振り掛け25〜30度に保つと数十時間で麹ができる。

 麹は米のデンプンを糖分に変える働きをする。次の「もと」という作業は、麹がつくり出した糖分の液体の中で、雑菌の繁殖を可能な限り抑制しながら、アルコール発酵に必要な酵母(イースト)という菌を増やす過程のことだ。こうして「もと」ができあがると、「醪」の工程に入る。醪の工程とはタンクの中で蒸し米と麹と水を三回に分けて?に加えていく作業(初添え、仲添え、留添えの三段仕込み)のことだ。

 留添えが終わり数日たつと醪の表面が泡で覆われる。最初は「水泡」という薄目の泡だが、発酵が進むと泡が濃さを増し、岩のように盛り上がった「岩泡」になる。最後にきめの細かい「本泡」やタンクの縁を乗り越えそうになる「高泡」になる。

▲ページトップへ

■本物の日本酒とは

 日本酒技術の素晴らしさは、糖化とアルコール発酵を同じタンクの中で同時に進める「並行複発酵」だけではない。明治初年、来日したドイツや英国の学者が驚いたのは日本酒の「火入れ」の技術だった。火入れとは酒を60度前後の低温で殺菌し、腐敗を防止する方法のことだ。明治初年といえば、フランスのパスツールがワインや牛乳を腐敗から防ぐ「低温殺菌法」を発明し、欧州で一世を風靡していた時期に当たる。パスツールの一大発明が実は地球の裏側の日本で大昔からごく当たり前に行われていたのだから、驚きの大きさが図り知れる。

 日本で「火入れ」がいつの時代から行われてきたのかは分かっていない。奈良の興福寺塔頭(たっちゅう)・多聞院で書かれた「多聞院日記」(室町末期ごろ)には「酒を煮させおわる、初度なり」と旧暦五月に仕上がった酒に火入れを行った記録が残っている。

 ところが戦後の技術革新で大手メーカーは酒蔵をオートメーションで「酒」を大量生産する一大工場に変貌させた。米のぬかや米粒で造った「酒」。京都灘の月桂冠が発明した、デンプンを糖化酵素剤で強制的に発酵して仕込む「液化仕込み」の「酒」。本来の酒造技術からかけ離れた「酒」を日本酒と呼ぶことは出来ない。

 「では本物の日本酒とは何か?」。その答えを求めるため全国の酒蔵を回り始めたのは昨年2月のことだった。「本物の日本酒についての本を書こう」。そして最初に訪れたのは富山市岩瀬の桝田酒造だった。桝田酒造は「吟醸酒」が全量の80パーセントを占める特異な蔵だ。一般に、麹の作業を温度・湿度管理が容易な「箱麹法」で造るのが吟醸酒だが、桝田酒造では昔から畳2枚分はある「床」で一気に麹を造る「床麹法」で吟醸酒を造ってきた。

 そのためには高度な技術と深い洞察が必要になる。それを可能にしたのが、「能登四天王」の誉れ高い名杜氏・三盃幸一さんのワザだったのだ。石川県珠洲市出身の三盃さんは18歳で蔵に入り、27歳で杜氏の資格を取得。1958年、31歳のとき父親の跡を継いで桝田酒造の杜氏になった。以来、50年間、「吟醸蔵」を支えてきた。

■名杜氏が追い続けた「魂の酒」

 その三盃さんがいよいよ引退するという情報が入った。既に後継杜氏を指名したという。本を出すといっても、まだ出版社さえ決まっていない。しかし時間がない。とりあえず三盃さんのインタビューをとるため、雪の降りしきる富山へ走った。蔵に着くと三盃さんが直々に出迎えてくれた。開口一番、伝統杜氏としての日本酒への思いが次々と飛び出した。「日本酒は魂の酒だ。うれしいときも悲しいときも日本人は日本酒を飲んできた。それが今や商品として扱われている」。三盃さんの言葉と語り口は熱気を帯びてきた。われわれの到着を待ち焦がれ、伝統杜氏として蔵を去る前に言っておきたいすべてのことを伝えよう、そんな気迫がひしひしと伝わってきた。

 三盃さんのインタビューを文字にしたとき、「これは蔵を去るに当たっての三盃さんの遺言ではないか?」とハタと気がついた。詳しくは本を読んでもらいたいのだが、「日本酒は日本人が造った最高傑作。日本人の血が日本酒を求めている」「鑑評会で金賞を取った酒がいい酒ではない。気がつくと『もう一杯』と自然に手が出る酒がいい酒だ」。三盃さんが語る日本酒の極意を何としても本にして残したいという思いが募った。

 まずは企画書を練り直した。本物の純米酒の凄さを理解してもらうため、トップバッターの蔵には40年かけて全量を純米酒に戻した金沢の「福光屋」を選んだ。東北の幻の銘酒「自然郷」とアミノ酸豊富な料理酒で知られる福島県矢吹町の「大木代吉本店」も本の趣旨にふさわしい蔵だった。江戸時代から続く伝統技法の「生もと造り」にこだわる福島県二本松市の「大七酒造」、国税局の指導に逆らい、真っ赤な古酒「だるま正宗」を造り続けてきた岐阜市の「白木恒助商店」、宮城県気仙沼市のスローフード宣言の立役者であり、まちおこしの核でもある同市の「男山本店」、能登震災を機に能登ブランド作りに邁進する石川県能登町の「数馬酒造」と次々に本で取り上げる7蔵は決まった。

 同時に、日本酒をきちんと理解してもらうため日本酒の技術や歴史、酒米について第1章の「日本酒事始」を書き下ろすとともに、日本酒や蔵元を大切にする居酒屋と酒蔵研の活動を第3章の「造り手と飲み手のコーディネート」で取り上げることにした。第2章では「酒蔵の挑戦」として上記7蔵を蔵元や杜氏の語りを交えて浮き彫りにした。この企画書と三盃さんのインタビュー原稿を本の趣旨に見合った出版元である社団法人「農山漁村文化協会(農文協)」に持ち込んだ。農文協の編集者は一発OKで出版にGOサインを出した。こうして「挑戦する酒蔵」は単行本として日の目をみることになった。

■日本酒の酒言葉

 実は一番苦労したのは、取材旅行を伴った杜氏、蔵元のインタビューではなく、第1章の「日本酒事始」の部分だった。参考文献は、日本酒のバイブルともいえる坂口謹一郎氏の「日本の酒」「世界の酒」「古酒新酒」や、柚木学氏「日本酒の歴史」、秋山祐一氏「日本酒」、上原浩氏「純米酒を極める」、小泉武夫氏「発酵」「酒の話」など数十冊に及んだ。それを基礎知識にして蔵を回ったときに自分の目で見た「造り」を出来るだけ分かりやすく解説することにした。その結果の判断は読者にお任せしたい。

 それから本書の表紙と各ページを飾っている写真の数々は、モノクローム写真家として活躍する中島秀雄氏が担当した。中島氏は初めて酒蔵に入ったとき、「これぞまさにモノクロ写真の対象だ」とうなった。陰影礼賛。中島氏がスウェーデン製の名機ハッセルブラッドで映し出した写真にはこの言葉がふさわしい。

 なんと言っても、この本を書くことができたのは、ベースとして酒蔵研の活動があったからだ。酒蔵回りだけでなく、日本酒の甘辛ピンなど味わいの違いはもちろん、山廃、生?、純米、吟醸など造りの違い、漆器・ガラス・陶器など器による風味の違い、熟酒と淳酒、秋上がりなど様々な日本酒の飲み方・楽しみ方を教わった。一度は酒蔵研の蔵オフ会で日本酒を愛でる言葉を自分たちでつくり出す「酒言葉」を試させてもらったことがある。日本酒の評価基準には、1甘辛、2ピン、3ごく味、4雑味、5色、6光沢−などがある。「尻ピン」「尻はね」「こしがある」「きめが細かい」「はばがある」「てり」「さえ」などは評価の言葉で、「くどい」「きたない」「ざらっぽい」「ぼけ」などは不評の言葉だ。

■枯淡の風情

 江戸時代までは「甘、辛、ピン」の3つしかなかった酒言葉がこれだけ増えた。だが無限ともいえる数々の言葉を駆使して楽しむワインとは、比較にならない。とはいえ日本酒の飲み方については古来、美しい物語や伝説が存在する。万葉集をはじめ詩歌も豊富だ。島崎藤村の「千曲川旅情の歌」も印象的な詩といえる。「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ 緑なすはこべは萌えず 若草も籍(し)くによしなし…」で始まるこの詩の最後のフレーズはこうだ。「千曲川いざよう波の 岸近き宿にのぼりつ 濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む」。春の日差しの下、一人で濁り酒を飲む旅人の心情がにじみ出てきそうだ。

 「徒然草」の第215段「味噌の少しつきたるを」も忘れることができない。 平宣時朝臣が老後に語った昔話だ。ある宵、宣時が最明寺入道(北条時頼)に呼ばれて直垂(ひたたれ)も着けずに屋敷へ向かうと、入道が銚子とカワラケを手に姿を見せ、「この酒をひとりで飲むのは興がないので呼んだ。ところがサカナがない。家人はもう寝てしまったので何かあるか探してみてくれ」と頼んだ。

 そこで宣時が紙燭(しそく)を手に台所の隅々を探すと、棚の小さなカワラケに味噌の少しついているのを見つけた。「これを探し出しました」と告げると、入道は「それで結構」と応じ、二人で何回も杯をさしかわして興に入った。当時はこのように質素だった、という物語だ。

 北条時頼は鎌倉幕府の第五代執権。19歳で執権になり、29歳で執権職を辞し出家した。時頼は歴代執権の中でも名君と言われた人物だ。出家後、最明寺入道として諸国行脚したという伝説は能の「鉢木」に詳しい。

 この話から時頼がいかに倹素に身を持していたかがうかがい知れる。吉田兼好の筆致からは、紙燭の明かりの下で酒を酌み交わす2人の姿が鮮やかに浮かび上がってくる。一枚のエッチング(銅版画)のようだ。時頼は36歳の若さで亡くなっているので、この話のときは30代前半だったことになる。人生を知り尽くしたような枯淡な風情はどこから出てきたものなのか。中学生の国語で初めてこの段を読んだとき、将来の酒の飲み方の理想が見つかったと一人、悦に入ったのを覚えている。

■真っ赤な古酒

 ところで時頼の飲んだ酒は、同時代の日蓮さんが飲んでいたのと同じ真っ赤な古酒だったのだろうか?この真っ赤な古酒とは、日蓮さんが信徒あての礼状に「人の血を絞れる如くなる古酒を仏、法華経にまいらせ給える女人の成仏得道疑うべしや」と書いた酒のことだ。

 古酒については「挑戦する酒蔵」第2章「常識破りの長期熟成酒」を読んでいただきたい。「だるま正宗」のご主人、白木善次さんは頑固一徹に、日蓮さんの真っ赤な古酒を追い求めてきた“ドンキホーテ”だ。古酒についての資料がないため手探りで長期熟成酒を造ってきた。今では30年、40年ものの長期熟成酒が貯蔵庫で唸っている。その昔、ウン億円分の熟成酒があるのに、その日の“福沢諭吉”がないという日もあったそうだ。しかし、最近は、古酒の知名度が上がりつつある。特にフランス人の口に合うらしく、数年前、白木さんはロマネ・コンティのシャトーに招かれたことがあるそうだ。ニューヨークでも「だるま正宗」を置くレストランが増えており、ソムリエの田崎真也さんも「だるま正宗」に注目している一人だ。「だるま正宗」は幅広さ、多様さを兼ね備えた日本酒の本来の姿を教えてくれる貴重な蔵だ。

■おわりに

 「挑戦する酒蔵」には日本酒にまつわる様々なエピソードが詰まっている。杜氏や蔵元の語りの中からは日本酒の長い歴史や伝統がかいま見えてくる。単においしい日本酒を紹介しているだけの本ではない。純米酒、伝統杜氏、熟成酒、地域の食文化との調和、まちおこしと復興支援…。世界に誇る高度な技術に裏打ちされた“魂の酒”“民族の酒”が織りなす芳醇な世界を描いたつもりだ。これぞ日本酒本の決定版と自負するゆえんである。

本書を通して本物の日本酒を理解し、本物の日本酒を愛する人が一人でも増えることを願ってやまない。

        ◇        ◇        ◇

『挑戦する酒蔵――本物の日本酒をもとめて』(農山漁村文化協会発行、1400円)

  

文:世古一穂(金沢大学教授)/土田修(中日新聞記者)/吉岡幸彦(姫路市職員)

   写真:中島秀雄(写真家)

【本の内容】

第T章 日本酒事始 

第U章 酒蔵の挑戦 

福光屋(金沢市)/桝田酒造(富山市)/大木代吉本店(福島県矢吹町)/白木恒助商店(岐阜市)/大七酒造(福島県二本松市)/男山本店(宮城県気仙沼市)/数馬酒造(石川県能登町)

第V章 造り手と飲み手のコーディネート

 樽一/和善くつき/酒蔵環境研究会

世古は、全体の監修と、第V章の「酒蔵環境研究会」と写真説明の執筆を担当

土田は、第T章の「日本酒事始」と第U章の「福光屋」「桝田酒造」「大木代吉本店」「白木恒助商店」「数馬酒造」、第V章の「樽一」「和善くつき」の取材・執筆を担当

吉岡は、第U章の「大七酒造」「男山本店」の取材・執筆を担当

同書は全国の書店で購入できるが、直送を希望される方は、酒蔵環境研究会あて fax : 03(5363)9026 またはメール k-seko@xvh.biglobe.ne.jp で。申し込みの際、 @ 住所 A 氏名 B 注文冊数 C 電話・メールアドレス−を明記のこと。送料 400 円

 

 

 



 

 

©2004 NPO Training and Resource Center All Right reserved