Vol.43 2007年10月14日号

NGO的映画の楽しみ方  第2回 --『夕凪の街・桜の国』(佐々部清監督、2007年)
                     『ヒロシマナガサキ』(スティーヴン・オカザキ監督、2007年)

被爆の永続性について―― 核兵器のない時代への闘い
長坂寿久(拓殖大学国際学部教授)

キーワード・・・ 原爆、核兵器、被爆、ヒバクシャ、夕凪の街・桜の国、ヒロシマナガサキ、
          父と暮せば、映画、広島、長崎、原爆症認定集団訴訟、
         平和宣言、平和市長会議

『夕凪の街・桜の国』(佐々部清監督、2007年)

『ヒロシマナガサキ』(スティーヴン・オカザキ監督、2007年)

  この二つの映画は、「被爆の62年間」について語る。否、核兵器が一旦爆発した後、人類が背負わなければならなかった、長い長い時間にわたる人間性への侵害について語っている。

 被爆実態の歴史的継続性について語っている映画は実はさほど多くはない。原爆が投下された直後あるいは数年後を描いた、『原爆の子』(新藤兼人監督)、『黒い雨』(今村昌平監督)、『TOMORROW 明日』『父と暮せば』(共に黒木和雄監督)など、どれもすばらしい、心に沁み入る哀しい映画だった。

 しかし、今も続く被爆の悲惨さ、その永続性について語ってくれた映画は、これが初めてのように思える〔黒澤明監督の『八月の狂詩曲』は原爆を背景にした「今」に近い次元のものだが、少しテーマが違う〕。

 広島や長崎の原爆記念館に行けば、爆撃直後の惨状についての展示に胸が詰まり、頭は戦争の実態について想像し、それが身体全体を駆けめぐって思考がストップしてしまうような衝撃を受ける。もちろん展示では、原爆がもたらした、その後も長く続いている被害についても触れている。しかし、原爆投下後の実態を見る衝撃に圧倒され、戦争への憎しみは増すものの、被害の「今」は残されたままのテーマとなってきてしまった。また、整然と整理された展示は、原爆投下の実相について情報を与えてくれる上で大きな役割を果たす一方、「ひとりの人間」の人生をどのように破壊してきたかを、感じにくくさせてしまうということもある。その継続性のリアリティを感じないまま、自分は生きてきてしまっていると、これまで感じていた。

 1945年8月から現在へ、そして未来へと果てることなく続く「被爆」のもつ意味、そして「ひとり」の生と生命。この二つの映画は奇しくもこの同じテーマを、全く異なった手法で描いている。この二つの映画によって、私は「今」を生きる力のリアリティを感じることができたと感じた。

1.「私」が選択する人生

 『夕凪の街・桜の国』は久しぶりに見た、心の和む温かい映画だ。生き残った人々のその後の人生、そして62年後の「今」を生きる、その子どもたちの人生に関する映画である。前編の『夕凪の街』は原爆投下から13年後の広島が、後編の『桜の国』は現代の東京が舞台であり、そこに暮らす「家族」が丁寧に描かれている。

 戦後13年とは、『ALWAYS・三丁目の夕日』(山崎貴監督)が描く時代である。「東京オリンピックの開催決定と同時に、高度経済成長時代に足を踏み入れた日本」、「東京タワーが完成した年である。東京にも色濃く人情が残っていた時代」である。

 しかし、広島で暮らす被爆者、26歳のヒロイン皆実(麻生久美子)と母(藤村志保)の家は、戦争の被災者たちが肩を寄せ合って生きている、今でいえばスラムのあばら家である。ここにはなかなか「戦後」が訪れない。被爆から13年が経ち、愛し合う人と出会いながらも原爆症を発症した皆実は、静かに死を引き受ける。演じている麻生久美子はあたたかさとやさしさにあふれている。〔私はこの映画で彼女にファンになった〕

 彼女は死に際に言う。「なあ、うれしい? 13年も経ったけど、原爆を落した人は私を見て、『やったぁ、また一人殺せた!』って、ちゃんと思ぅてくれとる?」。悲劇は13年後もなお続いているのに、当事者たちは忘れてしまっているのではないか。皆実のこの臨終の言葉は、原爆を投下した米国への非難の言葉ではなく、被爆のその後の継続性を忘れている(あるいは知ろうとしない)私たちへの遺言なのだと、映画館を出てから気づく。

 映画を見終わって皆実の言葉を何度も反芻する。「一番怖いのは、死ねばいいと思われるような人間に自分が本当になっとることに気がついてしまうこと」だと彼女は言う。「誰かに死ねばいいと思われた」ことが彼女を強迫観念に陥れる。愛する人の愛の言葉を素直に受け入れられない。「死ねばいい」と思われ、頭上に原爆を落とされた。父と姉は亡くなり、小学生の妹は自分の背中で死んだ。愛された時、幸せの一方で心の傷が痛み始める。幸せを選び取っていくことができない。幸せになってはいけないのだと思う。『父と暮せば』にも同じような場面がある。父の悲惨な死を見送った美津江(宮沢りえ)は、「私一人が生き延びて申し訳ない」と、訪れた幸福を手にすることをためらう。

 皆実の弟・旭は、水戸の親戚宅に疎開していて、戦後そのまま養子となった。皆実の死後広島に戻り、母親のところで暮らしはじめる。やがて被爆者の女性と恋に落ち結婚を決意するが、母はそれに反対する。何のために疎開させ養子にまで出したのか、家族が原爆症で死ぬのを見るのはもういやだ、と嘆く。被爆者自身が、被爆者を息子の妻にすることをためらう。人間のもつ哀しみが心にせまる。ましてや、被爆と「無関係」に生きてきた私たちは、意識しないところでどれだけの「差別」をしているのだろうか。差別と排除が人間の普遍的命題、自分自身の問題であることを、改めてつきつけられる。

 皆実が26歳で亡くなって半世紀後、舞台は東京。ヒロインは旭(堺正章)の子ども七波(田中麗奈)に引き継がれる。桜の咲く街で一緒に暮していたおばあちゃん(藤村志保)や母親(栗田麗)は、七波が小学校のときに白血病で亡くなった。その死を目の当たりにした七波は、記憶を封じ込めるようにして、すでに定年を迎えた父・旭、医師の卵をしている弟・凪生(金井勇太)と暮らしている。私たちの前に登場する彼女は、元気で屈託のない、明るい現代女性である。不審な挙動がつづく父親の後をつけていくうちに、小学校時代の同級生、東子(中越典子)と一緒に広島まで来てしまう。そして、彼女は「原爆」と向き合うことになる。父が辿ろうとしていた「過去」、大切につなぎとめようとしていた「過去」には、いまは亡き祖母、母、そして逢ったことのない伯母、皆実が生きていることを知り、彼女たちとの「つながり」を受け留め始める。そしてまた、弟と東子が愛し合っていること、しかし凪生が「被爆二世」であるがゆえに東子の両親から反対を受け、別れを決意していることも知る。桜の咲く街での記憶が、こぼれ落ちるように七波の中に蘇る。

 七波は広島への旅を経て、人間として大切なものを獲得していく。最後の瞬間まで人間らしく生きた伯母。反対を超えて人生の伴侶を選びとった父。彼らの希望であった自分自身の命。若い日の父母の姿を幻想的に思い浮かべながら、「私はこの二人を選んで生まれてこようと決めたのだ」と誇り高く言葉にし、命――運命も生命も含めて――を、自分が選択したものとして慈しんでいこうと決心する。東子もまた、「今度は両親と広島を訪れよう」と新たな選択を決意する。七波の髪にあるのは、かつて皆実の髪を飾り、祖母、母と、凛と生きる女たちに受け継がれてきた、つつましやかな髪留めである。時を超えた「生」が静かに示される。

2. 再び被爆者をつくらないために

 『ヒロシマナガサキ』はアカデミー賞ドキュメンタリー映画賞をとった作品である。日本の被爆者500人以上に会い、取材し、そのうち14人の証言と、米国側で爆撃に関与した4人の証言を軸に構成されている。

 冒頭、日中戦争から太平洋戦争に至る経過がモンタージュとテロップによって簡潔に紹介される。これは非常に分かりやすい。しかも当時の米国からみた日本人像として、「日本に10年赴任しましたが、彼らと我々とは全く異なる人種と断言できます」「兵器は近代的でも、彼らの思考は2千年も時代遅れなのです」というグルー元駐日米国大使の発言が挿入される。彼らにとって、原爆投下「実験」の下に暮らす存在は「人間」ではなく「怪物」であったのかもしれないと思わされる。

 次に、原宿で遊ぶ若者に対して「1945年8月6日を知っているか」という問いかけが行なわれる。答えられない顔が次々と映し出され、「日本の人口の75%が1945年以降に生まれた」というテロップが流れる。この「忘却」と「風化」に、「平和を意識しない平和の時代」の危うさを感じさせられる。

 この映画に登場する被爆者の方々の毅然とした人格には、深い感銘を受ける。苦難とともに人生を生きてきた穏やかさと強さは、表層的な同情など入り込む余地などあるべくもなく、神々しく、また清々しくさえある。同じ日本に同じ60年余を過ごし、原爆の惨禍にも決して無関心ではない生き方を考えてきたはずなのに、自分はどれだけこの人たちに近づきえているか。この方々の発言は、被害者意識ではなく、感傷ではなく、反米でもない。すでに国家の枠を超え、人類的視点の域から発せられている。

 『夕凪の街・桜の国』ではケロイドの残る被爆者が銭湯で入浴しているシーンが登場する。『ヒロシマナガサキ』では、証言者が片肌を脱いでケロイドを見せてくれるシーンがある。実は私はこのシーンで少しうろたえた。写真では見ていたが、映像で、ご本人の動きや声とともに見るのは初めてだったからだ。この身体を背負って生きてきたこと。海水浴も温泉を楽しむことも、いや、愛する人と抱き合うことも、苦しみを伴わずにはいられなかったであろう。私が当然のように楽しんできた日常のあれこれから、そのとき被爆地にいたというそのことだけで、遮られてきたのだ。そう思うだけで涙が出てきた。谷口さんは「傷をさらけ出しながら話すのは、再び私のような被爆者をつくらないため」だと言った。その言葉を、何度も何度も受けとめ続けなければならない。

 映画は原爆投下に至る米国側の動きを示していく。ロスアラモス研究所が登場する。ニューヨーク駐在中、家族でアメリカを横断したことがある。その時、この研究所を旅の目的地の一つとした。広島に投下されたリトルボーイと長崎に投下されたファットマンの実物模型を見、原爆開発の展示を見、「この投下によって平和が来た」という説明文を読んだ。米国ではそう説明されているということを読んだことがあり、実際にその記述を読んでみたいと思っていた。実際にその展示説明文を読んでみると、やはり衝撃だった。さらに、ロスアラモス近くの高校の校章が原爆のキノコ雲であること、今なおそうであることを知って一層衝撃が増した。 原爆によってもたらされた「平和」とは、いったい何なのか。

 映画の最後の方で、広島へ原爆を投下したエノラゲイに乗っていたカークが言う。「何人か集まると、必ずバカな奴がこう言う。『イラクに原爆落しゃいいんだ!』核兵器が何なのかまるで分かちゃいない。分ったらいえないことだ」。この言葉に、少し救われた気分になった。

 『はだしのゲン』の作者、中沢啓治さんの言葉が、まっすぐに向かってくる。「だから、日本の敗戦によって・・・日本の9条ができて・・・僕はこれは最高にいい憲法をもらったんだと、これはもうどんなことがあろうと守らなくちゃいけないと」。

3.ヒバクシャの心の傷

 この2本の映画を見て、皆実やこの映画に登場した人々の心の深みをもっと知りたいと思うようになった。精神科医師である中澤正夫さんの『ヒバクシャの心の傷を追って』(岩波書店、 2007 年)が、よい機会に出版されたので読んでみた。

 冒頭に「原爆の被害についてはだれもがよくわかっていると思っているのではないだろうか。それは『体、心、暮らし』すべてにおよぶ障害であり、いまも癒えていないことを(私たちは)知っている(思い込んでいる)。・・・しかし、では『心の被害』とは具体的にどんなものかと問われると、こたえに窮してしまうはずである」とある。そのとおりだ〔( )内は長坂挿入〕。

 『心の障がい』は『身体の障がい』と表裏一体に存在し、被爆者を苦しめつづける。まず『見捨て体験』と『無感情(感情麻痺)体験』について紹介される。見捨て体験は、助けをもとめられたが助けられなかったことへの悔恨である。生き残った自分はいつまでたってもそれを許すことができない。被爆者は自分が生き残ったことへの罪の意識をもって生きることに追い込まれてしまう。皆実も『父と暮せば』の美津江もそうだ。

 ちょっとしたことからあの日の体験が生々しくよみがえり(フラッシュバック、引き戻され現象)、忘れようとしても悪夢にうなされる。この「脳裏への再現」は60年たってもいささかも軽減されずに起こる。音、光、においという物理的刺激がきっかけとなり、恐怖の「あの日」に引き戻される。同じ被爆者の病気や死、自分の身体的不調によっても引き戻される。「自分の体験を話す」ことはこの引き戻され現象を繰り返すことにほかならない。それを超えて体験を話すことがいかに大変なことか。

 『無感情体験』は、後になって、激しい焦燥感と自責感を引き起こす。そして記憶欠損(記憶脱)、ぶらぶら症状(倦怠感、無気力状態)、うつ状態など、大きな恐怖をともなう脅威的なできごとに遭遇した人に起こるPTSD(心的外傷後ストレス障害)が一生続くのである。そして、一見健康に見えていても、 21 世紀になってから前立腺癌を発症する人がいるように、一度浴びた放射能は体内に悪魔のように潜伏し、突然牙を剥く。いつ死の病に捕まるかわからない恐怖から逃れることができない。そのため、自死を選ぶ被爆者も多いと指摘されている。

 さらに、差別。「ピカはうつる」と子どもたちは仲間外れにされる。被爆者手帳を取得することもためらう。「被爆者」とは生き残って被爆者手帳をもっている人のことだが、被爆しても「被爆者」ではない人がいかに多いかを知る。また、この被爆手帳をとる基準がいかに厳しいかも、この本で知った。

 ケロイド、白血病、癌、ぶらぶら病、こうした放射能被害は、現在も襲ってくる。原爆による身体被害は『あの日』が頂点ではなく、あの日が出発点(スタート)に過ぎなかったという「原子爆弾の悪魔性」が日時の経過と共に明らかになっていく。被爆者たちは、放射能の後遺症、恐怖、そして貧困、差別、偏見に、否応なしに直面させられて生きているのである。

 「原爆投下によって、衝撃波、爆風、熱線、そして放射能によって、当日も多くの人を殺傷した。爆風や熱線はいかに激しかろうと一過性のものである。しかし、放射能はあとになるほど、その悪魔性を発揮してくる」。「放射能は一生追いかけてくる」、そして時代を経て二世、三世に引き継がれていく可能性がある。だからこそ、凪生と東子の「現代の恋」さえもが、引き裂かれようとしているのだ。

4.原爆症認定集団訴訟

 「原爆症認定制度」の不備が露呈し、「原爆症認定集団訴訟」が行なわれていることを、この本で詳しく知った。現在のところ認定されているのは、被爆者のうちたったの0.8%なのだという。現在、日本各地で「原爆症認定訴訟」がおこっている。原告は「原爆症認定」を却下された被爆者であり、被告(国)に対して「却下処分の取消」を求めているものである。

 『ヒバクシャの心の傷を追って』の最後には次のように書かれている。

 「原爆症認定」(の裁判)が重要なのは「原爆被害は被爆者の責任でおきたものではなく、さかのぼれば戦争という国の行為によってもたらされたもの」である以上「その被害の補償は戦争を遂行した国の責任で行なわれなければならないという『原爆被害者の基本要求』へとつながっていくからである。そして、国が責任を認めるということは、もう一つの基本要求である『核廃絶』『いかなる名目であれ核保有を認めない』への第一歩になるからである。だから勝訴には涙を流して喜び合う。そのことはまた、地球上のすべての生命につながる問題であると自覚しているからである。この裁判に無関心でいる人がいるとしたら、それは許されない。なぜなら、被爆者の戦いが、無関心の人の命を守っているからである。・・その意味で、『被爆者の基本要求』は日本国民の、世界人類の基本要求なのである。」

 現在、核保有国は、米国、ロシア、英国、フランス、中国、パキスタン、インド、イスラエルの8カ国。それに北朝鮮(放棄することが一応決まったが)、イランが加わろうとしている。「非核三原則」で佐藤栄作首相はノーベル平和賞を受賞した。その日本が今では米国の核の傘を容認し、核兵器をもつ国へひた走ろうとしている。今年の参院選の結果はそれを一旦阻止したことになっているが、今後どのような社会を選んでいくかは、被爆国に住む私たちに課せられた、普遍的人類的課題だといえよう。

 「核廃絶――人類と核兵器は共存できない」――被爆者たちの活動によって、私たちは3つめの被爆を免れている。そのことに深い感謝を捧げるべきだ。被爆者団体協議会にノーベル平和賞が与えられることを強く望む。(後述する2005年の平和市長会議第6回総会の議事録に、「受賞を求める取組みについて積極的な発言があった」と記載されている)。

 2007年夏の広島市長の「平和宣言」を掲載させていただきたい。そして、この平和宣言の持つ意味を、読者と一緒に分かち合いたいと思う。

〔平 和 宣 言〕

 運命の夏、8時15分。朝凪 ( あさなぎ ) を破る B−29の 爆音。青空に開く「落下傘」。そして閃光 ( せんこう ) 、轟音 ( ごうおん ) ――静寂――阿鼻 ( あび ) 叫喚 ( きょうかん ) 。

 落下傘を見た少女たちの眼 ( まなこ ) は焼かれ顔は爛 ( ただ ) れ、助けを求める人々の皮膚は爪から垂れ下がり、髪は天を衝 ( つ ) き、衣服は原形を止めぬほどでした。爆風により潰 ( つぶ ) れた家の下敷になり焼け死んだ人、目の玉や内臓まで飛び出し息絶えた人――辛うじて生き永らえた人々も、死者を羨 ( うらや ) むほどの「地獄」でした。

 一四万人もの方々が年内に亡くなり、死を免れた人々もその後、白血病、甲状腺癌 ( こうじょうせんがん ) 等、様々な疾病に襲われ、今なお苦しんでいます。

 それだけではありません。ケロイドを疎まれ、仕事や結婚で差別され、深い心の傷はなおのこと理解されず、悩み苦しみ、生きる意味を問う日々が続きました。

 しかし、その中から生れたメッセージは、現在も人類の行く手を照らす一筋の光です。「こんな思いは他の誰にもさせてはならぬ」と、忘れてしまいたい体験を語り続け、三度目の核兵器使用を防いだ被爆者の功績を未来 ( みらい ) 永劫 ( えいごう ) 忘れてはなりません。

 こうした被爆者の努力にもかかわらず、核即応態勢はそのままに膨大な量の核兵器が備蓄・配備され、核拡散も加速する等、人類は今なお滅亡の危機に瀕 ( ひん ) しています。時代に遅れた少数の指導者たちが、未だに、力の支配を奉ずる20世紀前半の世界観にしがみつき、地球規模の民主主義を否定するだけでなく、被爆の実相や被爆者のメッセージに背を向けているからです。

 しかし21世紀は、市民の力で問題を解決できる時代です。かつての植民地は独立し、民主的な政治が世界に定着しました。さらに人類は、歴史からの教訓を汲んで、非戦闘員への攻撃や非人道的兵器の使用を禁ずる国際ルールを築き、国連を国際紛争解決の手段として育ててきました。そして今や、市民と共に歩み、悲しみや痛みを共有してきた都市が立ち上がり、人類の叡智 ( えいち ) を基に、市民の声で国際政治を動かそうとしています。

 世界の一六九八都市が加盟する平和市長会議は、「戦争で最大の被害を受けるのは都市だ」という事実を元に、2020年までの核兵器廃絶を目指して積極的に活動しています。

 我がヒロシマは、全米101都市での原爆展開催や世界の大学での「広島・長崎講座」普及など、被爆体験を世界と共有するための努力を続けています。アメリカの市長たちは「都市を攻撃目標にするな」プロジェクトの先頭に立ち、チェコの市長たちはミサイル防衛に反対しています。ゲルニカ市長は国際政治への倫理の再登場を呼び掛け、イーペル市長は平和市長会議の国際事務局を提供し、ベルギーの市長たちが資金を集める等、世界中の市長たちが市民と共に先導的な取組を展開しています。今年10月には、地球人口の過半数を擁する自治体組織、「都市・自治体連合」総会で、私たちは、人類の意志として核兵器廃絶を呼び掛けます。

 唯一の被爆国である日本国政府には、まず謙虚に被爆の実相と被爆者の哲学を学び、それを世界に広める責任があります。同時に、国際法により核兵器廃絶のため誠実に努力する義務を負う日本国政府は、世界に誇るべき平和憲法をあるがままに遵守し、米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべきです。また、「黒い雨降雨地域」や海外の被爆者も含め、平均年齢が 七四歳を 超えた被爆者の実態に即した温かい援護策の充実を求めます。

 被爆62周年の今日、私たちは原爆犠牲者、そして核兵器廃絶の道半ばで凶弾に倒れた伊藤前長崎市長の御霊 ( みたま ) に心から哀悼の誠を捧 ( ささ ) げ、核兵器のない地球を未来の世代に残すため行動することをここに誓います。

  2007年(平成19年)8月6日
                                                            広島市長 秋 葉 忠 利

5.平和市長会議の活動――2020年核兵器廃絶へ向けて

さて、本稿の目的である「NGO」的視点に基づいて、筆を進めよう。上記の秋葉市長が述べている「平和市長会議」について紹介し、「被爆の実相」を学んだ私たちが、どのようにこれからの社会を築いていくか、ともに考えていきたい。

「平和市長会議」(旧・世界平和連帯都市市長会議)は、1982年、第2回国連軍縮特別総会において、荒木武・広島市長(当時)が提唱したところから始まった。世界の都市が国境を超えて連帯し、ともに核兵器廃絶への道を切り開こうと、広島・長崎両市長から世界各国の市長宛に、「核兵器廃絶にむけての都市連帯推進計画」への参加が呼びかけられた。これに賛同する世界各国の都市で構成された団体が「平和市長会議」であり、1991年に国連に「特殊協議資格」NGOとして登録されている。2007年10月末現在、世界122カ国・地域から、1793都市が参加している。

目的は、核兵器廃絶の市民意識を国際的な規模で喚起すると共に、人類の共存を脅かす飢餓・貧困などの諸問題の解決、さらには難民問題、人権問題の解決、環境保護のために努力することによって世界恒久平和の実現に寄与することとなっている。

事務局は広島市に置かれており、「連帯都市」間の調整なども広島市が行なっている。事業としては、毎年国連事務総長を始め核保有国などに対してメッセージを送ること、平和・軍縮に貢献する集会・行事の開催、宣言・決議の採択、関係資料・図書の交換などである。特に各国の都市で開催される「原爆写真展」は活動の重要な柱であり、被爆のありのままの実相を世界各地に伝え続けている。

第1回の1985年以降、4年に1回の総会を開催しており、被爆60周年にあたる2005年には第6回総会が広島で開催された。この総会には、20カ国92都市・4団体、欧州議会を含む14カ国政府、NGO7団体、計243人が出席した。

第6回総会では、『2020年の核兵器廃絶を目指して』の取組みが議論された。2005年5月のNPT(核不拡散条約)再検討会議で核兵器廃絶に向けた成果が得られなかったことを踏まえ、2010年までの「核兵器禁止条約の成立」および2020年までの核兵器廃絶に向けた取組みについて議論を行ない、『ヒロシマアピール』を採択した。2020年は被爆75周年にあたる年である。

また、2006年は「国際司法裁判所の勧告的意見」から10周年を迎える年であることから、オランダのハーグの平和宮で平和市長会議主催の記念行事を開催し、「核兵器廃絶のための緊急行動 2020ビジョン」の第二期として『 Good Faith Challenge 』 ( 誠実な交渉義務推進キャンペーン ) を発表した。このキャンペーンの具体的な行動して、CANTプロジェクトを世界的に展開することになった。

 CANT「 Cities Are Not Target 」プロジェクト(「核兵器廃絶へ向けた誠実な交渉開始と都市への攻撃目標解除(CANT)プロジェクト」は、核兵器は絶対悪であるとの認識のもとに、世界中の各都市が核保有国に対して、「我が都市が攻撃目標となることは容認できない」というメッセージを発信することにより、「子どもたちをはじめ、市民が暮らす都市を標的とすることの非人道性を訴え、核保有国の政策変更を求める」キャンペーンである。ここでいう都市とは、「単に地域を示す名称ではなく、自都市のみならず、人々の日常生活営む場所を総称した意味」で使っている。

この「2020ビジョンキャンペーン」にはEU議会、全米市長会など、多くの内外の団体や都市が賛同している。日本国内では、2007年5月に日本非核宣言自治体協議会により賛同が採択されたのに続き、全国市長会では、2007年7月に賛同決議が採択されている。

「平和市長会議」は、公共自治体のネットワークであると同時に、それ自体が、国家・政府に従属しない、NGOネットワークである。私たちは、この「都市間ネットワーク」という、しなやかで強固なネットワークにもっと注目し、支援と連携を強めていく必要があるだろう。「平和市長会議」自身が、すでに1998年に 『平和和市長会議と NGO の連携についてのアンケート調査』を国際的な軍縮 NGO186 団体を対象として実施している。また、『総合的な行動計画』の一つの柱として、NGOとの連携を掲げている。

「都市との連携」によって平和を紡ぎ出し、「被爆者の哲学」を現実社会に具体的に築き上げていく可能性は極めて高い。2本の映画からそのことを学び、21世紀を生きる展望を与えられた。

平和市長会議HP:http://www.mayorsforpeace.org/jp/index.html


 

 



 

 

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