Vol.42 2007年9月14日号

NGO的映画の楽しみ方  第1回 --ケネス・ブラナー監督『魔笛』

9条こそ平和への『魔笛』である   非暴力直接行動主義とNGO

長坂寿久(拓殖大学国際学部教授)

キーワード・・・ モーツアルト、魔笛、ケネス・ブラナー、映画、オペラ、日本国憲法9条、九条、
         平和、非暴力直接行動、NGO、阿波根 昌鴻、ヌチドゥタカラの家、陳情規定

  『魔笛』(ケネス・ブラナー監督、 2006 年、英国)

1.戦場のモーツアルト〜9条物語

 ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトが最後に創り上げたオペラ『魔笛』(マジック・フルート)を、ケネス・ブラナーが映画化した。すばらしい映像、天才が遺した音楽を最高の歌唱力で現出させる歌手たちに魅了され、映画だからこそできる演出の数々を堪能する。

 冒頭は序曲。広大な野原一面に蛇行する一筋の紋様が目を惹きつける。その紋様は、戦地最前線の 塹壕の連なりで ある。こ のカメラワークには圧倒され る。ブラナーは、魔笛の舞台として、第一次世界大戦のヨーロッパの戦場を選んだのである。

 フィナーレのクライマックスでは、落雷と豪雨の中 で「闇の女王」と「光の国」の 両軍が対峙し、双方の兵士たちが塹壕から飛び出て突撃していく。しかしその時、「光の国」側は塹壕から出ると 、銃を地に置き、武装を解いて、突き進む。その先頭には、高くフルートを掲げた、タミーノとパミーナがいる。ひるむことなく堂々と前進する姿に、「闇の国」の兵士たちも称賛と歓喜の声をあげる。闇 の女王は、非武装非暴力の「敵」に茫然とし、「攻撃」命令を出すことができない。その間に、女王の兵隊たちも武器を放棄して合流していく。魔笛が平和の踊りを導き出す。このシーンには胸の高鳴りを禁じ得なかった。

 武力放棄によって平和が蘇る。「 国権 の発動たる 戦争 と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれ を放棄する。」という条文が、頭の中に響き、 胸が熱くなってくる。 武器を棄ててしまえば、そこにいるのは兵士ではなく、生きつづけたいと願う一個人である。 『9条』こそ『魔笛 』、『魔笛』こそ『9条』なのだ。

 平和の回復にともなって、荒廃した大自然も蘇る。塹壕の紋様を縫われていた大地に、豊かな緑が戻る。戦争こそが最大の環境破壊なので ある。そして戦争終結、戦争阻止こそが、環境破壊をくい止める力である。 終曲の合唱「智慧の光は戦いよりも強く、全ての人間は平和を求める」が、この映画『魔笛』のす べ てを語っている。現代世界へのメッセージ、平和への祈りを知り、さらに感動を深める。

 オペラ『魔笛』は18世紀末(1791年)の作品である と同時に、21世紀的平和運動の最先端をリードするメッセージをすでに内包している。優れた作品は時代を越える普遍性を有していることに改めて気づかされる。スクリーンに再現され た『魔笛』は、現代の人間たちが直面せざるをえない、回避を許さない命題を扱った、現代の物語である。

 原典ではドイツ語の歌が英語になり、一部は「少し現代風に書き換えたセリフもある(映画パンフレット)」が、自分がオペラ舞台で知っている『魔笛』の世界とは全く乖離していない。実は、最近のオペラの演出には時々驚かされることがある。中世のお城が病院だったり、死にそうな王様が病室のベッドに寝ていたりする。そし てこのような新しい試み――原典の世界を、今日的解釈によっていかに読み解いているかが、オペラ鑑賞の楽しみにもなっている。

 『魔笛』の 基盤には、争いと対立(光と闇、ザラストロと闇の女王の対決)がある。それは現代では戦争と平和のテーマである。そして、憎しみと愛の対立、2人の若者の精神的成長の旅路の物語(聖杯伝説)があり、モーツアルト的な大衆的娯楽性(おとぎ話、メルヘン、ユーモア、喜劇)も盛り込まれている。このオペラはモーツアルトが加入してい たフリーメイソンの思想と儀式の影響を受けて作られているとされているが、その点では 宗教性・哲学性が核心にある。そ れらの哲学に裏打ちされたメッセージを、ブラナーは最も適切な形で現代化している。

2.「征服」や「復讐」でなく、「乗り越えていく」 ――平和への道

 映画の世界 をもう少し子細に見ていこう。

 どの歌手も超一流のすばらしさを遺憾なく発揮してくれている。歌唱力のみならず演技もいい。 とくに闇の女王のコロラトゥール(リューボフ・ペトロヴァ)と光の国のザラストロのバス(ルネ・パーペ)は圧巻 中の圧巻だ。今でも耳を離れない。原典版では、タミーノとパパゲーノが主役のようになっているが、この映画では闇の女王とザラストロが圧倒的な存在感で対峙する。これらの素晴らしい歌声によって、『魔笛』の世界が紡ぎ出されていく。

 三人の天使が歌う。人々を幸福に導くものはなにか。常に忘れてはならないものは何か。それは「思慮深さ」「忍耐」「勇気」であり、「勝利」や「強い腕力」ではない。「負け組」の存在を前提とした「勝ち組」を幸福とする発想は、『魔笛』の世界の外にある。

 愛し合うタミーノとパミーナは沈黙の試練では言葉を交わせず、パミーナは愛を失ったと自殺すら考える。しかし、タミーノへの信頼を回復した彼女は、火の試練、水の試練を、共に受けて乗り越えることを選択していく。当初、戦地に赴く場面では、タミーノはパミーナを残して出征する。男は武装して戦う。女は状況さえ知らされずひたすらに待つ。絶望にうちひしがれる女と、心を置いて戦場に出ていく男。古典的構図である。しかしこの映画では、いざ「敵」と対峙するとき、女は戦場にかけつけ、平和のフルートを共に掲げて突き進んでいく。古典的構図では平和への力は発揮できない。ともに試練の場に立つことが、より強い力を生み出し、勇気をもたらす。ジェンダーの視点からも説得力のある整合性がとれている、すごい映画だと思う。

 平和が訪れて、光の国では塔の上の広間で祝福の宴が催される。そこに侵入しようとした闇の女王は窓枠に手を掛けるが、滑り落ちそうになる。その腕を、ザラストロはつかんで助けようとするが、支えきれない。女王の落ちていく姿を、哀しみを湛えた深い眼差しでザラストロが見つめる。ハリウッド映画ならライフルかなにかで撃ち落とし、それを「勝利」だと肯定的に表現するのであろう。しかし平和を求める者たちは「復讐」など考えない。これもこの映画のとても大切なメッセージだ。9.11後、「完膚無きまでに叩きのめしてやる」というブッシュの「報復」によって、テロは常態化し、イラクは泥沼に陥った。フセインが殺したよりも多くの人 々 が、ブッシュの戦争によって殺されている。 「報復の図式」 によって、現代は平和から遠ざかり、迷走してしまっている。

 戦争と平和を巡って、人間の生き方は二つの方向に別れてしまうのだろうか。戦争によって大切な人が命を落としたり、傷ついたりする。そのことは悲しい。とても悲しく、憤ろしい。その怒りをどの方向に向けていくのか。「相手の国が憎い。やっつけてやる」という方向に行けば、果てしない殺戮が待っている。しかしその怒りを、「戦争そのものがいけない。戦争をやめさせよう」という方向に広げていく人もいる。そこで、道が大きく分かれる。

 前者の人たちは、「自分の家族が殺されたのに相手を憎いと思わないのは、人間としておかしい」というようなことを言う。あるいは、「闘いのために血を流している人がいるのだから、自分たちも血を流すべきだ」と言う。現代のように情報が発達し、人権について学び、 地球上のどの地域で生きる人も、 一人一人の人間なのだと感じられる世界にいるのに、「人の命を重んじる」ことが、第一義とならない。特に権力を握る側の人間には、どういうわけかこういった傾向がある。権力には他者への抑圧や攻撃、殺傷もためらわなくさせる、そういう魔力があるのだろうか。愛する人を失い傷つけられた哀しみや怒りは、「敵国」を壊滅させても癒されることはない。偏狭なナショナリズムから脱却して、普遍的な平和を築く以外に、死者を真に悼む方法はない。そのことと、「自分の文化を大切にする」こととは、何も矛盾しない。それを全ての人の共通認識にしていくには、あらゆる努力――このような映画の制作を含めて――が必要であろう。

 この映画 にはさらに興味深い 演出 がある。 はじめは「闇の女王」が平和を求める側で、娘を誘拐されて苦しんでいる被害者 として登場する。観る者は ザラストロが戦争を好み、敵の王女を誘拐して自分のものにしてしまう邪悪な側と 思ってしまう 。しかし、次第にザラストロが平和を求める名君で、闇の女王が戦争と復讐を求める悪の側であることが分かっていく。この逆転がこの映画の 大きな要素となっているだろう。 そういえば、9・11 直後 は、イラクへの一方的強硬姿勢をとるブッシュを多くの人々が支持し、戦争は やむをえない と受け止め、歓迎すらした。それが今では逆転しているではないか。

 戦争を前に、戦車の上で肩をいからし、「怒りと復讐の歌」を歌う闇の女王の姿とブッシュの姿が重なる。映画の中では、ザラストロがさしのべる手にも拘わらず、彼女に救済は訪れない。現実の社会では、ブッシュはどう救済したらいいのだろうか。

 ナショナリズム=愛国心は、人々の心をとらえやすい。しかし、人はいかなる理由によって自国を愛するのだろうか。映画の中では、 ザラストロの館の民は、彼に心から共感し自らの意思で忠誠を守る。一方、女王の兵士たちは、圧制と規律によって統制されている。平和の館で、体の弱い仲間をいたわりつつ、楽しそうに労働に勤しむ民の穏やかな表情も印象的であった。この館では「最初からここにいた」か否かではなく「ここで生きようとする者」が、民として迎え入れられているのだ。

 人間にとって自然の「試練」とは何か。これも映画のテーマの一つである。火の試練では火の中を越え、水の試練では濁流を泳ぎきる。火を消そうとか、水を止めようとはしない。 自然の猛威の前で謙虚にひざまずき、自らの力で生きのびてい く。映画の中では、火は戦火であり、水は塹壕に入り込んだ敵を攻めるためのものであるから、純粋な自然ではない。しかし、それであっても、「征服する」という視点から解放され、「乗り越えていく」という姿勢が貫かれる。 「忍耐」をもって 試練に向かう ことの、深い意味を考えさせられる。 その試練を越えたところに平和が訪れる。「征服」や「復讐」ではなく、「思慮深さ」「勇気」「忍耐」によって「乗り越えていく」、 そして、新しい地平をめざす、その ことによって得られるのだというメッセージを受け取った。

 救済の訪れない人物がもう一人登場する。パミーナを力ずくで誘惑しようとするモノスタトス。彼女の思いを無視して、無理矢理からだを奪おうとし、嘘によって彼女を得ようとする。誠実に彼女の心を射止めようとはせず、母(闇の女王)との「取引」の代価として パミーナ を得ようとする。彼女を人格を持った存在としてではなく、単に自己の欲求対象のモノとしてしかとらえていない。ザラストロの思想を理解せず、簡単に「暴力」の側に走ってしまう。このようなモノスタトスは衆人の眼前で辱められ、「去れ」と命じられ、最後には塔の外壁から落ちていく。闇の女王を救おうと試みたザラストロも、彼には手を差し伸べない。「悪人」であるから死んでもよいのか。ハリウッド的世界=ブッシュ的論理ではそのことに迷いはないだろう。しかし、不幸になってもしかたない人間、 命を落としてもよい人間 というものを、私たちは想定してよいのだろうか。モノスタトスが「なぜ自分は愛されないのか。膚が黒いというだけで」と歌う場面がある。この場面は悲しい。「悪人」だから排除されたのではなく、排除されたから「悪人」になった。その可能性はないのか。映画の中で、彼はその人格故に「愛されず」「選ばれず」「追放」される。「なぜ自分は愛されないのか・・・」という歌声の悲しさが心に残る。

 すべての人間が本当に連帯しようとするとき、現実にはとても難しいことがやはり起こるだろう。「復讐を考えない」ということは、容易なことではない。絵空事だという人もいるだろう。だからこそ、「人間の尊厳」に焦点をあてて思考し、解決の道を模索する必要がある。「困難だ」ということは、「あきらめてよい」ことの弁解にはならない。「現時点での到達点」が「最終結果」でもない。モノスタトスも含めて救済する方法は、私たちが考えるべき課題だと提示されたように思える。

3.非暴力直接行動主義――市民社会力(NGOの力)

 冒頭でも紹介したとおり、クライマックスでは、ザラストロ軍が武器を置いて走っていく。「非暴力直接行動主義」の力強さを感じさせるシーンである。この 映画版『魔笛』は、「9条」の意味を描いた映画であると同時に、「非暴力直接行動主義」を描いた映画である。

 映画『魔笛』を堪能し、心に強く残る映画となったことを長々と書いてきたが、本稿の目的である「映画とNGO」の観点について、やっとこれから書くこ とになる。

 NGOの活動と目的は多様で柔軟であるが、その行動理念は一つに集約される。それが「非暴力直接行動主義」である。暴力主義や革命を標榜するものはいわゆる市民社会団体としてのNGOとは定義されない。「人命に対して非暴力」という 狭義の 捉え方から、人命だけでなく、生きとし生けるものすべてに対して暴力を拒否する広い捉え方まであ り、 後者の考え方では、動物の虐待のみならず、動物の権利を主張する考え方まで及ぶことになる。 しかし、「非暴力」という根幹の理念は共通している。

 非暴力主義はそもそも古代から先住民の思想の中に存在してきた。米国先住民のイロコイ族の平和主義はとくに有名であるし(星川淳『魂の民主主義――北米先住民・アメリカ建国・日本国憲法』築地書館、 2005 )、沖縄に 住む人々に も伝統文化として絶対平和主義が 受け継がれている。

 近代にな って、非暴力直接行動主義を確立したのは、インドを独立に導いたマハトマ・ガンディである。ガンディの思想と行動は、米国の公民権運動を指導したマーチン・ルーサー・キング・ジュニア( 1964 年にノーベル平和賞受賞)や、中国からの独立運動と平和国家建設の思想を打ち立てたチベットのダライ・ラマ一四世( 1989 年にノーベル平和賞受賞)へ受け継がれ、非暴力直接行動主義は近代社会のよき伝統となり、人類が獲得した理性的変革の手段として定着してきた。

 現代日本では、沖縄・伊江島の阿波根昌鴻( 1901 〜 2002 )を非暴力主義の指導者として位置づけられるだろう。彼は沖縄の米軍に対する土地回復・基地反対闘争において、非暴力の思想を積極的に取り入れた。伊江島の農民の人々が策定した『陳情規定』はその闘いの中から作られてきたものだが、徹底した非暴力主義が込められたものとなっている。阿波根昌鴻の自宅敷地内に建てられた反戦平和資料館「ヌチ ドゥタカラの家」( 1984 年 12 月開館)の壁に今もそれは書かれている。

『陳情規定』

 一.アメリカ軍と話しをするときは、なるべく大勢の中で何も手に持たないで、必ず座って話すこと。

 一.耳よりも上に手を挙げないこと。

 一、決して短気をおこしたり、相手の悪口は言わないこと。

 一、うそ、いつわりのことを言わないこと。

 一、布令布告によらず、道理と誠意をもって幼い子供を導いていく態度で話すこと

 一、沖縄人同志はいかなることがあっても決してケンカはしない

 一、私たちは挑発にのらないため、今後も常にこの規定を守りましょう。  

    1954年10月13日 

 阿波根が書いている本からさらに付け加えれば(『米軍と農民』岩波新書、 1973 年、『命こそ宝――沖縄反戦の心』岩波新書、 1992 年):

 一.人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること。

 ガンディにとって、「非暴力」とは「直接行動」なしには意味をもたない。 彼は 「直接行動的な表現なしには、非暴力は私たちの心にとって無意味です。それはこの世において、最も偉大な、最も行動的な力で す。人は消極的には非暴力であることはできません」と 語っている。

 日本では非暴力は受け入れても、「直接行動」には否定的な空気が強い。まして非合法な場合はなおさらである。抵抗運動のためのデモに対する禁止や規制などは権力者側が法律で決めている。合法であることに焦点を合わせていると、デモすらできない状況に置かれてしまうことになる。 上記の 阿波根たちの『布令布告によらず』という表現は、まさに その点を指摘しているのである。

 「非暴力主義」 は、単に暴力を否定するから非暴力というのではなく、非暴力による現場での直接的な行動によって、権力者側が話し合いに応ぜざるを得ない状況、対応せざるを得ない状況を作り出していくことを意味している。「非暴力直接行動によって、民衆が権力を逆規定していくことにこそ核心」(酒 井隆史『暴力の哲学』河出書房新社、 2004 年)があるのである。

 もう一つ、重要な点は、非暴 力直接行動は人間に対する信頼を前提としている運動であるということである。非暴力であるからといって、権力者側の規定によれば非合法の抵抗行為である。銃で撃たれ殺されることになるかもしれない。戦車の前に寝ころがれば、戦車は自分を轢いて行ってしまうかもしれないのである。戦車は自分を轢かず、自分の前で止まるだろうという信頼が前提となっている。この信頼は人類の歴史が獲得してきた歴史への信頼感ともいえるし、警察も「市民」である という市民社会への信頼感ともいえる。つまり、非暴力直接行動主義が機能するかどうかは、「市民社会国家」の証明ともいえるので ある。信頼の全くない野蛮な世界では非暴力直接行動は機能しない恐れがある。魔笛を掲げて前に進んでいく二人。兵士たちが武器を地に置く姿が次々と映しだされる。人々の視線。その中では、闇の女王は武力攻撃ができなかった。

 戦争の現場は醜い。弾丸が行き交うことがなくても、人権抑圧、環境破壊の現場は、一様に醜い。しかしそこから目を背けて厭世的になるのではなく、その場所に直接に出かけ、行動し、連帯の輪を広げていく。それこそが、NGOの姿である。

 ブラナーの『魔笛 』は、非暴力主義を人間が理解するようになった近代を舞台にしている。人類 はこの水準までは「進歩」してきたのである。21世紀にどの方向に進むのか。それは、全ての人間にとっての主体的課題である。

*長坂寿久(ながさかとしひさ)の映画評論の本:『映画で読む21世紀』明石書店、 2004 年、『映画、見てますか。 Part 2』文藝春秋社、 1996 年、『映画、見てますか』文藝春秋社、 1990 年(『映画で読むアメリカ』朝日文庫で再版、 1995 年)。


 

 



 

 

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