知の有効性を拓くーE.W.サイードのテキストを通して― 第2回
土田修(正会員・ジャーナリスト)
<1>フセイン拘束
1.醜悪な国家
 昨年12月中旬、イラクの元大統領フセインがイラク北部ティクリット近郊で米軍特殊部隊に身柄拘束されたというニュースが世界中を駆けめぐった。フセインは農家の狭い穴の中に潜伏していた。拘束の際、「私がサダム・フセイン。イラクの大統領だ」と名乗り、「交渉したい」と申し出たという。長くのびた白い髭とボサボサの頭髪。米軍が公表した写真は、8ヶ月に及ぶ「アラブの英雄」の逃亡生活と哀れな末路を物語っていた。だが、米軍の発表をそのまま信ずることはできない。「私は英雄ではない」と米軍の情報操作を批判した元米陸軍女性兵士ジェシカ・リンチの例があるからだ。とはいえフセインが拘束されたという事実を覆す根拠は何もない。だから現時点でフセイン拘束が事実であるか、ないかについて論ずることは無意味である。
 その上で、テレビを見ていてはたと気が付いた。口を開けて健康診断を受けているというフセインの映像の醜悪さについてだ。フセイン自身が醜悪なのではない。彼は一独裁者としては醜悪だったかも知れないが、虐殺者としてはイスラエルのシャロンの足下にも及ばなかった。それにブッシュを含めたアメリカの大統領ほどには他国を侵略したことはなかった。映像を通して見えてきたものは、イラク戦争の正当性と完全勝利を宣言するため、メディアと映像を使ってフセインの末路をショーアップしたアメリカの醜悪さだ。事実、イラン・イラク戦争の際、
フセインに武器を与えイラクを軍事独裁国家に仕立て上げたのはアメリカだ。化学兵器を使ったクルド人虐殺を許し、湾岸戦争後は反フセイン蜂起に対する鎮圧を放置したのもアメリカだ。そのアメリカは、9・11同時テロを米国内外の組織による犯罪として明らかにすることもなく、一足飛びに「テロに対する戦争」という論理を持ち出し、アフガニスタンに続き、イラクを侵略した。フセイン排除後は中東和平のロードマップを推進し、中東でのリーダーシップを発揮しようとするだろう。だがそれは新たなアポリア(解決不可能な難題)への入り口にしか見えない。テロとの戦争とは、新たなテロと新たな戦争を生み出すスタートでしかないからだ。
  
 しかし、大統領選を控えたブッシュは国内のユダヤ人勢力への配慮から、シャロンに対してパレスチナ自治政府との交渉に応じるよう強く求めることさえできないだろう。これがアメリカという国家の現実だ。アメリカが演出したフセインの映像は、まるで一枚の鏡のように国家としてのアメリカの醜悪さを映し出している。
  
 だからといって決して国民市民大衆としてのアメリカの醜悪さを指摘している訳ではない。サイードは、アラブの週刊紙「アル・アフラム・ウイークリー」に書いた「責任者は誰だ」という論文でこう書いている。「この政府が、すでにあまりに多くの困窮と悲惨に苦しんでいるこの世界に解き放ち、さらに多くの苦しみを加えようとしているこの戦争は、合衆国の国民をほんとうには代表していないからだ」「国民を代表していないこの少数集団を除いては、いったいどんなアメリカ人が、すでに十分たまっている反米感情をこのうえ増殖させるようなことを本気で望んでいるというのだろう。そんなアメリカ人はほとんどいるまい」 (註1)。
  
2.悪夢の連鎖
 サイードはアメリカ政府も主要メディアも米国民の意見を代表していないと指摘する。アメリカには経験と良識ある反対勢力がいる。例えば、それは急進的なアフリカ系アメリカ人であり、ラテン系、アメリカ先住民、ムスリムなどエスニック活動家集団である。社会的に不正や差別を受けてきたという感覚を持っている人たちのグループだ。彼らがアメリカのメディアに登場することはまずない。さらにサイードは「カトリックの司教、英国聖公会の信徒や牧師、クエーカー教徒、長老派教会は戦争と平和の問題については驚くほどリベラルな考えをもち、国際的な人権侵害や軍事費のけた外れの膨張、1980年代初期から公共圏を台無しにしてきた新自由主義の経済政策などへの反対を躊躇なく公然と表明している」(註2)と喝破する。
  
 国民国家(ネイション・ステート)は民族・国民総意という前提で成立したはずだ。しかし、今や国家は国民の意見を代表せず、国民の意思を抑圧・圧殺し、新しい形式の戦争へと国民を駆り立てる制御のきかないモンスターへと変貌してしまった。東西冷戦の集結により、イデオロギー的対立は終わったが、民族・宗教が新たなる問題として浮かび上がった。国家と国家による戦争ではなく、民族・宗教問題をめぐる局地的な地域紛争や「テロリズム」といわれる国際的な武装闘争が始まったのは、東西冷戦によるイデオロギー対立が終わった後だ。イデオロギー対立の終焉は、民族・宗教問題を封じ込めていたパンドラの箱を開けてしまった。
  
 現に、ソ連邦崩壊によりアメリカと共産主義との「戦い」は終わったかも知れない。しかし、アメリカの標榜する「自由と民主主義」が弁証法的に止揚された訳ではない。ウイルソン以来、自由主義インターナショナルに基づく「新世界秩序プラン」がアメリカの大統領に引き継がれてきた。冷戦集結後、脅威を感じる相手が「共産主義」から「イスラム」に変わっただけのことだ。歴史は終わりを告げるどころか、アメリカの威圧的な政策が生み出したテロとの戦争という「悪夢の連鎖」が新たな歴史の幕開けを告げている。
  
3.国家の欺瞞
 当然だが、アメリカ国内にもブッシュ政権と異なる意見を持った人は多数いるはずだ。サイードも戦争体制の一翼を担うマスコミが「私たちの大統領」「私たちの軍隊」などと一括りにして使う「私たち」とは違った「アメリカ人」の存在を指摘する。それは「重要で、色んな意味で手ごわい、経験と良識をもついくつかの有権者層」(註3)のことだ。
   
 サイードはパンドラの箱から最後に出てきた「国民市民大衆」という「希望」についても言及している。サイードは希望をマスコミや大学や言論界の中には見いだそうとはしない。なぜならメディアはアメリカという国家の意志に乗っ取られてしまったからだ。9・11テロ以降、アラブやイスラムの声、それにイスラエル批判の声が正当に報道されることはなかった。それらは「われわれの政策への反対意見は反米主義であるという根拠のない断定」(註4)によって圧殺されてきたからだ。サイードが唯一、希望を見いだしているのは知性と正当な判断力を持ったアメリカ国民そのものについてだ。
  
 グローバリゼーションの予期せぬ結果として、政治や文化、アイデンティティの境界線が揺らぎ始めている。その反作用として文化や政治に境界線を引こうとする「文明の衝突論」が登場した。「『歴史の終焉』というフクヤマの主張の大きな欺瞞、あるいはハンティントンの『文明の衝突論』の欺瞞は、文化の歴史とは明確に限定された境界線をつけることだとか、明確な始まりと中間と終わりを定めることだという誤った想定に立っていることだ。……流動的で動揺しつづける文化というものに、固定した境界と内的な支配秩序という何の現実性もないものを押しつけようとする点で、彼らは原理主義者である」(註5)。
  
 「文明の衝突論」と軌を一にした「テロとの戦争」論は、アメリカという国民国家の金属疲労の現れとしか言いようがない。なぜなら他民族・他文化が重なり合うアメリカ国民の在り方そのものが「文明の衝突論」を超越しているからだ。しかもアメリカ国民の大半は「テロとの戦争」を望んでいない。国民を代表していない少数者によって操られた国家がイラク戦争を「正義の戦争」と言い続けている。国民と民主主義を裏切り続ける国家。新たなる敵の出現によってしか維持できない国家。西洋は自らの優位性を維持するためにオリエンタリズムを創出した。同じようにアメリカ国家は世界に対する優位性を保つためテロを必要とし、テロとの戦いを理由に世界中に軍隊を送り続けている。
  
<2>自衛隊のイラク派兵
1.憲法違反のレトリック
 日本政府は昨年12月9日の臨時閣議で、イラクへの「自衛隊派遣」を決定した。この日は62年前の真珠湾攻撃の翌日に当たる。しかも自衛隊が戦闘状態の続く他国へ「派遣」されるのは初めてのことだ。実態論として自衛隊が軍隊であることは自明の理であり、小泉首相も「世界は(自衛隊を)軍隊とみている」と既に認めている。このイラクへの自衛隊派遣について政府は「人道・復興支援のための活動であり、武力行使はしない」「非戦闘地域への派遣だ」「戦争に行くのではない」と繰り返し、武力行使を否定している。ではなぜ、自衛隊は装甲車や無反動砲、対戦車弾などの最新兵器をイラクへ持っていかなければならないのか? 非戦闘地域での医療・給水・学校といった公共施設の復旧・整備活動のために、なぜ武器や兵器を携行する必要があるのだろうか?
 
 この論議は自衛隊のPKO(平和維持活動)派遣のときも問題になったことだ。政府見解によれば、憲法違反である海外派兵は「武力行使を目的に武装した部隊を他国領土へ派遣すること」だった。「武力行使」を目的としなければ、海外派兵には当たらず憲法違反ではない、というのが政府の公式見解だった。PKO派遣で自衛隊は小火器を携行した。理由は自衛隊員が戦闘に巻き込まれたときの正当防衛・緊急避難措置のためだった。この行為はあくまで「武器使用」であり、「武力行使」ではないのだから憲法違反ではない、というのが政府見解だった。何という詭弁だろう? 武装した部隊を他国へ派遣することが、違憲ではないとする根拠は「武力行使をしない」ということだった。自衛隊という組織された軍隊が何らかの攻撃を受けた際、武器を使用して反撃しても、それは武力行使ではない、という訳だ。武力行使をしないのに武装している部隊。武器を使用しても武力行使に当たらない軍隊。これほど矛盾した概念は「丸い三角」のように思い描くことさえ出来ない。
  
2.国際感覚という鏡
 自衛隊派遣の閣議決定後、小泉首相は記者会見で憲法の前文を強調し「憲法の理念に沿った活動が国際社会から求められている」と述べた。憲法前文の精神を引き合いに自衛隊派遣を根拠付けようとした。かねてより小泉首相は、憲法前文の「国際協調主義」の理念が、憲法9条の「戦争放棄」「武力行使の禁止」の規定と矛盾していると主張してきた。その整合性を整えるために法的措置が必要だとも主張してきた。だからイラク復興特別措置法は憲法の不備を補うものであり、自衛隊派遣は国際協調の理念にかなった活動だということになる。だが、自衛隊
派遣を求めている国際社会とは一体、どこの誰のことなのだろう? 
  
 そろそろ言葉遊びは終わりにしよう。自衛隊という日本軍が戦闘の続くイラクという他国領土へ派兵されることを、どの国際社会が求めているのだろう? 国際法上の根拠を欠いたままイラク侵略に踏み切った米英二カ国だけのことではないのか? 湾岸戦争のときには特殊部隊を派遣したフランスも、今回のイラク戦争には最初から反対してきた。専守防衛を定めている基本法(憲法)を持つドイツは、憲法判断からイラク派兵を見送った。
  
 「トニー・ブレアが本気で親アメリカ姿勢をとっていることは、わたしのような部外者にとっては不可解なことだ。ほっとさせてくれるのは、イギリス国民にとってもブレアはユーモアのない例外的な存在だということだ――ヨーロッパ人でありながら自分のアイデンティティを抹消して、嘆かわしいブッシュに代表されるような別のアイデンティティを獲得した逸脱者なのだ。ヨーロッパがいつ正気を取り戻し、アメリカに対する対抗勢力としての役割を引き受けるようになるのか、それを見とどける時間がわたしにはまだ残されている」(註6)
  
 イラク派兵が占領政策への加担というアラブ側の反発を買うことは目に見えている。日本政府に欠けているのは、日本が他国からどう見られているのかを判断する国際感覚という鏡だ。
  
3.新たなるオリエンタリズム
 日本は日米同盟を優先し中東地域への軍事介入を押し進めようとしている。当然のことながらアラブ世界は国際社会を米英の戦争に反対する陣営と支持する陣営の二つに分けている。これまで平和憲法を掲げ軍事的中立を守ってきた日本が米英に追随しイラク派兵を決めたことで、中東地域での国際強調に寄与する道は閉ざされた。
  

 「武力行使は違憲だが、武器使用は合憲だ」「自衛隊は戦闘地域では活動しない。だから憲法に抵触しない」「武力行使を目的としない自衛隊の海外派遣は合憲」。日本の安全保障政策をめぐる論議は詭弁で塗り固められてしまった。マスコミも野党も有効打を放ち得ない状況をいいことに、小泉首相は自衛隊のイラク派遣について「日本国民の精神が試されている」とまで言い放った。これはイラク派兵に反対する多くの国民に対する言葉の暴力であり、恫喝だ。不可解なことに野党議員もマスコミもこの発言を問題にしようとさえしない。日本国民は一体誰に試されているというのか。この不可解な言説からは超大国アメリカの政策になりふり構わず追随しようとする政府の卑屈さと萎縮ぶりが透けて見える。

オリエンタリズムを「(東洋を)支配し再構成し威圧するための西洋の様式(スタイル)」と定義したサイードの言葉が思い出される。

 「オリエンタリズムとは、オリエントが西洋より弱かったためにオリエントの上におしつけられた、本質的に政治的な教義(ドクトリン)なのであり、それはオリエントのもつ異質性をその弱さにつけこんで無視しようとするものであった」(註7)
  

 日本政府は「日米同盟と国際強調の両立」という新たな教義を自らに課した。それは形を変えたオリエンタリズムそのものだ。日本の戦後保守政治がアメリカの政治的支配の下で自らの政策を再構成してきた理由がそこにある。その結果、憲法解釈は言葉の言い換えによって少しずつねじ曲げられてきた。今問われているのは日本の安全保障ではなく日本の民主主義そのものだ。自衛隊の海外派兵により平和憲法を軸とした戦後精神はなし崩し的に葬り去られようとしている。論理の地平に立ち戻り、言葉の本来の意味を取り戻すことで、『改革派』の暴走を
止めなければならない。本当に試されているのは詭弁を弄することで「不正義への加担」へと突き進む小泉首相の精神そのなのだ。
  
註1 E・W・サイード「裏切られた民主主義」(みすず書房)P63、64
註2 同上P87
註3 同上P85
註4 同上P81
註5 同上P90
註6 同P7−8
註7 E・W・サイード「オリエンタリズム」(平凡社下巻)P17
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