Vol.39 2007年6月10日号

協働のデザイン  第23回 ブータン〜GNH=国民総幸福量という考え方

世古一穂(金沢大学大学院教授 / (特非)NPO研修・情報センター 代表理事)

キーワード・・・ ブータン王国 GNH GDP 豊かさを問い直す

1.はじめに
 3月にブータン王国に行ってきた。

 ヒマラヤ山脈の東端に位置するブータン王国。

 人口70万人の8割が農業に従事し、GDP(国内総生産)約540億円のうち農業が34%を占める。

 貨幣経済が導入されたのは約40年前で、30年前まで鎖国状態だったが、2008年に王制から民主制に変わる過渡期の状況だ。

 「最後の秘境」 と呼ばれるブータンでも近年、携帯電話やインターネットの普及も進み、機械化で多くの農民の生活が豊かになってきた。だが、厳格な仏教信仰や民族衣装の義務化など古くからの伝統は今も守り続けられている。

 ブータン政府が掲げる開発理念はGDPではなく、GNH=GROSS NATIONAL HAPPINESS=国民総幸福量。

 経済成長は国民の幸福があって初めて成り立つという考えが、この国を支えている。

 高いGNP(国民総生産)を誇る「豊かな国」ニッポン。

 しかし、その「豊かさ」は生態系や地域文化の破壊、格差の拡大、人間関係の悪化などあまりにも多くの犠牲を伴う、不安定で脆いものだということが明らかになってきている。

 それとは異なる、フェアで持続可能な社会のあり方や、安らかで心豊かな生き方を模索する時、ブータン国王の提案したGNH(国民総幸福)という言葉が、ひとつの手がかりになるのではないかと思う。

 いわゆる先進国に住む私たちはこれまでGDPやGNPを信奉してきた。

 つまり、商品とそれを売り買いするお金の量が増大すれば、社会は豊かになるという幻想を持ち続けてきたともいえる。

 これに対して、ブータン国王は「お金やモノがあまりなくても結構幸せな人たちがいっぱいいますよ」とGNHという考え方を提唱した。

 実際、ブータンの村々を訪ねてみると、まだまだ豊かな生態系、自給型農業、コミュニティの助け合いが健在で、人々は「幸せです」と答える。

 GNH、それは「本当の豊かさとは何か」という問いかけでもある。

 GNHの考え方を次の演説でまず紹介しておこう。

2. GNHとは何か

 価値観と開発:国民総幸福量

 国連開発機構、アジア太平洋地域会議、基調演説

 1998 年 10 月 30 日− 11 月1日  大韓民国 ソウル
 主催  国連開発機構、大韓民国政府
 演説者 ブータン王国政府首相 リョンポ・ジグミ・ティンレイ

 大韓民国、外交通商部長官代理、スン・ジョン・ユン閣下、国連副総長ネチ・トゥ−ン博士、司会の国連事務次長モーリス・ストロング博士、ならびに皆さま方にご挨拶申し上げます。

 本日は、ここ韓国における国連開発計画のミレニアム会議において演説するという栄誉に預かり、国連副総長、ネチ・トゥ−ン閣下に心より感謝いたします。また、わが国の代表団が賜りました暖かい歓迎に関し、大韓民国政府に対しても感謝の意を捧げます。ブータン王国政府および人民は、国民総幸福量を重視するブータンの開発哲学について発表するこの機会を貴重なものと考えています。

 この名高い会議に対するジグメ・シンゲ・ワンチュク国王からのご挨拶と祝福を伝えさせて頂きます。国王はほぼ30年間にわたり、わが国の開発に関する、哲学、思想、政策の中心であり続けられました。そして、政治の究極の目的が人民の幸福を高めることだというのが常に国王の確信でありました。この信念に鼓舞されて、国王は国民総生産よりも国民総幸福量がより重要であると述べられ、そのために、わが国の開発プロセスにおいては、幸福が、経済的繁栄よりも優先されているのです。

 国際開発政策における「幸福」

 「幸福」 はあらゆる人にとっての究極的な願望です。 他のすべてのことは、この目的を達成するための手段です。そう考えると必然的に、個人的あるいは集団的努力はみな、この共通の目標に向けて捧げられるべきだということになります。わが国がどのような方法で、開発の明確な目標としての「幸福」を達成しようと願っているかを述べさせて頂くことを名誉に思います。しかし、私は、自分の概略的な話から沸き起こるであろう、すべての疑問点を説明できるという幻想は抱いておりません。私が、この問題に関する専門的観点を持った社会科学の専門家でも、また悟りを得た僧侶でもないだけになおさらそうなのです。この領域における私の不備は、この主題をユートピア的問題として片づけてしまうアカデミズムの無関心により倍化してしまいます。その結果、私たちが、この人間の第一の価値をよりよく理解するための分析道具が存在していないのです。このように私たちはパラドクス状況に取り残されています。つまり、開発の主要目標は「幸福」であるのに、まさにその主題が開発計画や開発プログラムの中においてほとんど言及されることがないのです。しかし、たとえそうだとしても、「幸福」を評価する科学的道具がないという理由で、私たちが、人間の唯一のもっとも重要な人生の探求目標に関する、政策や倫理的問いを発することを妨げられてはなりません。

 「幸福」 が人間社会の真の福利を測る上での主要な基礎を形成するべきだということは、 まったく自然なことのように思えます。私たちは、ちょうど収入の格差を遺憾に思うのと同様、社会集団間や国家間の幸福量の格差に対しても敏感であるべきなのです。 しかしながら、確かに、「幸福」はほとんどの政府と国際開発機関の掲げる明示的な目標ではありません。彼らは、時として社会的、経済的指標に対しては非常に敏感なのですが、その指標と「幸福量」 の因果関係についてはっきり述べようとしません。せいぜい、「幸福量」の成長が、社会経済的状況の改善の結果として生じるよう望みをかけるぐらいです。

 従来の社会経済的指標は手段を計測しようという試みであり、目的を計測するものではありません。この問題に関して、私は故マーブブ・ウル・ハク氏に謝意を捧げたいと思います。国連開発計画を代表して同氏が着手された人間開発指標は、開発が人民の幸福に対して持つ計量化可能な影響力を測定するための、まったく新たな機軸であります。開発戦略が、それが持つ新しい発想により影響を受けてきたことは疑いありません。わが国の五ヵ年計画も人間開発のための戦略に対して特別な配慮を払ってまいりました。その事実はわが国の計画予算の四分の一が健康と教育の部門に割り当てられていることにも示されています。HDI(人間開発指標)報告が、これから先「幸福量」という因数をなんらかの形で取り入れていくことが望まれます。

 「幸福」は客観的政策であるべきです。そして、そのためには新たな政策の方向性と、新たな調査研究上の発展が必要となることでしょう。わたしたちは、21世紀のグローバリズムがどのように「幸福」の可能性に影響を及ぼすのかを知る必要があります。情報、通信技術はどのように人々に影響を与えるのでしょうか。生物的、文化的多様性の縮小が、個人的、また集団的な「幸福」への可能性に対して及ぼす影響とは何なのでしょうか。現代の教育とカリキュラムに特有の科学的世界観は、次世紀において、文化的に豊かで価値にあふれた、日常生活の基礎を切り崩してしまうのでしょうか。世俗化の流れと核家族化は、都会の群集のただなかで人間の孤独と自己閉塞を拡大させてしまうのでしょうか。社会、経済の急速なオートメーション化は個人の幸福の可能性を高めるのでしょうか、あるいは狭めてしまうのでしょうか。グローバル資本主義と自由競争による国際貿易のために、人々は生きて行く中での不幸と不安にさらされやすくなるのでしょうか。遺伝子工学や、生命創造の領域に手を加えることが「幸福」を高めるでしょうか。国家レベル、地域レベル、また地球レベルにおいて、どのような形態の統治が「幸福」の促進に最も相応しいでしょうか。多くの疑問が浮んで来ます。しかし、常にその中心で問いを発している疑問、それは、そのことによって「幸福」が高まるだろうかということなのです。

 ブータンにおける開発の目標としての国民総幸福量

 ここでわが国の経験について詳しく述べさせて頂きたいと思います。まず、わが国の開発哲学の概略を手短かに示し、そしてそれが、どのように国民総幸福量というわが国の目標に関係しているかを述べることにいたします。国民総幸福量と、それが実践上もたらすものを提唱するための概念的裏付けを素描しながらも、わが国の開発政策が、ヒマラヤ山脈の境界をこえて意味合いを持つこと、そして次世紀がかかげる目標及びそれがもたらす機会の全領域に、幸福という本質が浸潤することを願います。

 国民総幸福量は、開発の主要目的に関するわが国特有の認識をもっとも適確に表現しています。その認識はわが国の哲学的、また政治的考え方に根差したものです。それに加えてまた、他の発展途上国の経験から得られる教訓があります。私たちは物質的発展の追求だけに邁進することが、精神的な価値を侵食しつつある事実を目の当たりにして来ました。しかし、私たちの信じるところでは、この精神的価値こそが、人類の文明のまさしく中核をなすものなのです。従って、わが国が直面する最初の課題は、より快適で安全な生活を築くよう努力をする一方で、どのように自分たちの精神性を保持し、さらには、発展させていくかということなのです。私たちは、物質主義と精神主義の均衡をどのように確保できるだろうかと考えたのです。

 一般的ブータン人が自らどのようにして精神主義と物質主義のバランスを求めて努力しているかを示す、印象的な経験が数多くあります。私が数年前、東ブータン地方の知事だった時のことですが、ある有名な人物が説得を受け、収穫高の高い品種の米で二期作を行いました。そして彼はその年、二度の豊作で報われました。他の農夫たちに動機付けを与える完全な成功物語だったわけです。それから、驚いたことに、その模範例である農夫は翌年栽培を続けることを拒否したのです。彼の決意は、貪欲さに絡め取られてしまうよりも、むしろゆっくりと精神的な生き方をすることだったのです。

 残念なことに、魂の堕落は、競争心と羨望を掻き立てることによって、特に貧しい人々を物質主義の世界に招きいれる際の必要悪のように思えます。このやり方を推奨する論拠は多く、特に、必需品を手に入れること、貧困のみじめさから逃れることが火急の目標であるような場合と場所においてそうなのです。

 経済的繁栄の数値化可能な指標に焦点を絞った従来の開発概念に加えて、ブータンの開発ヴィジョンは、それ以外の三つの数値化することの出来ない目標を等しく強調しています。それは、環境保護、文化促進、そして良い統治であります。これら四つの目標は、表面的には互いに相反していますが、根本的には、互いに補い合い、補強し合う関係にあります。文化的、また環境上の目標は経済発展を妨げ、計画にかかる費用を押し上げてしまうように思えるでしょう。しかし、長期的に見た場合の利益は疑いが無く、それに加えて、盲目的な経済的利益追求への衝動を抑制するのに役立つのです。確実に言えることは、経済原理という形式での、洪水のような否定的な力が入り込むのを許していたら、ブータンの社会の豊かな特質は不毛なものになっていたことでしょう。わが国が富を生み出すことにのみ専念していたとしたら、人民が「幸福」の縮小を経験していたであろうことにもほとんど疑いがありません。

 「幸福量」としての悟り

 ブータンの文化の中で内的、精神的な発展は、外的、物質的発展と同じくらい重要な関心事です。これは、伝統的に ” development ” (成長、開発)という言葉を悟りを意味するものと理解して来たことの結果です。私は急いで付け加えねばなりません。悟りとは単に宗教的活動の目標なのではないということを。それは、「幸福」が開花することなのです。それは、調和した、心理的、社会的、経済的な環境を意識的に創り上げることにより、さらに実現の可能性が高まるのです。

 アジアの多くの社会が肯定的な力の実現に向けての精神的、心理的発展ということを意識して来ました。これらの力は自然界を支配するために外側に向けられるのではありません。むしろそれは、自分たちの心の性質、また心と外界の関係をよりよく理解出来るように、内側つまりわたしたち自身の心に向けられるのです。自己に対する知識は、個人の自由を達成し、幸福を得るために重要です。この話題に関してあまりわき道にそれるのは適当ではないでしょうから、現代の世界が、程度こそ違え、自分自身に、また自分の関心事、要求、好みなどに対して過度の注意を払うという意味で、自己に対してあまりにも強く心を奪われ過ぎていると言うだけで十分でしょう。しかし、ここでのパラドクスは、過度の利己心から自己に対する本当の知識に至る道は通じていないということです。幸福は、そうではなく、他ならぬこの利己心からの自由を獲得することにかかっているのです。

 ブータンの伝統的教育制度と僧院の組織は、このような人生哲学を継続して行く上で非常に適したものです。わたし達の国、社会、そして法律、倫理はこの哲学により決定されて来ました。今日では、この努力は仏教的世界観と社会科学を組み合わせるよう図られたカリキュラムによって新た始められています。これは、矛盾に思えるかもしれませんが、私たちはその二つが根本的には互いに調和するものだと確信しております。そのような価値観と認識が社会に浸透することが人民の精神的福利にとって重要なのです。わが国の開発戦略は僧院と隠棲所への広範な援助を含んでいます。それはさらに、人民の日常生活だけでなく、健康、教育、環境などのプログラムにおいて、僧侶や在家僧のような宗教者たちのネットワークを作り上げるということを含みます。

 環境倫理と「幸福」

 利己心や私欲を最小化することに対する規範的な強調は、通常今日ある姿の世界から方向転換し、開発あるいは積極的な変化を拒絶することとして解釈されます。私たちの考えでは利己心の最小化はまた、より幸せな人間関係のネットワークを構築し、そして自然的、人間的環境の中で、人間をより侵犯性、破壊性の少ない力に変容させるプロセスにおいて、一つの重要なステップなのです。人間は他の形式の存在物の中で、するどい感覚を持った一個の存在に過ぎません。今日科学的研究を通して確認されつつある、神秘的な相互依存関係の網の目について考えれば、人間が存在の連鎖の頂点に立つという考えは見当違いです。現実は階層的ではなく、全体的、循環的で、閉じられたシステムなのです。持続可能な開発はそれゆえに、単に未来の世代にとってだけではなく、日々、あらゆる存在にとっての利益となるのです。環境保護の強い倫理は、以上述べた信念に下支えされながら、ブータンの環境政策に影響を及ぼしました。わが国の環境と持続可能な開発に関する政策は、実際、現在見られる、生態系の悪化に対する地球規模での意識の高まりに先行していたのです。

 幾つかの実例を挙げさせて頂きたいと思います。マナスにあるブータンのもっとも重要な国立公園は、1962年というかなり昔、ちょうど計画開発が始まった一年後につくられました。その地方の驚くべき生物的多様性が保存されるように、総面積の26%以上が保護区域として運営されています。この地方の72%が森林に覆われ、そのほとんどが原生林の状態です。森林はわが国における主要な天然資源の一つなのですが、私たちの開発哲学の基本理念の一つが、森林を商業的に利用しないということなのです。浄化という役割を通して、わが国の森林が寄与出来れば私たちは満足です。ブータンは地球の大気の浄化に対して、地球規模での貢献を続けて行きます。

 私たちは皆、地球規模の生態系に対して高まりつつある脅威は二つの原因から生じているということに同意することでしょう。人口増加と一人あたりの資源消費の上昇です。ブータンでは、いかなる基準に照らしても人口が少ないのですが、家族計画と女性教育が集中的に促進されることで人口増加を減速させ、その結果、ブータンの特徴である、人間と自然の均衡と調和を維持することが出来るのです。私たちは市場経済が生産と流通の効率性に関心を持つことに気づきます。そして市場経済は、生態系との関わりにおける経済的尺度への対応に際しては、非常に近視眼的なものなのです。私は、持続可能な生活様式を助けるような倫理、イデオロギー、信念、そして制度を促進しなければならいと考えています。これが、私たちがブータンにおいて、開発に対し、伝統文化保存的モデルのいくつかの特徴を選択したもう一つの理由です。

 収入と幸福

 収入の増加は必ずしも、比例的に幸福量の増加に結びつくことはありません。国家が経済収益の階梯を昇るにつれて、幸福量の階梯においてもより高い位置を占めるということはないでしょう。私たちは幸福量や満足度を与えてくれるお金の価値が、その額が上がるにつれて小さくなることを知っています。もっと正面から言えば、人々がお金を割り振るやり方は、社会的見地からは常に最適だとは限らないということです。私は、個人の合理的と思える選択によって引き起こされる、全体的見地から見た場合の最善と言えない消費という観点から、膨大な損失と浪費を強調したいのです。この矛盾の一例として、個人による車の購買が生み出す交通渋滞や、国家の軍事支出の結果として起こる地域や地球規模の不安定化を挙げることが出来るでしょう。それらの結果は幸福と平和の風潮に対して、広範なマイナスの影響を及ぼすのです。

 幸福のための統治と社会機構

 わが国を建設した先人たちは、私たちの政府の独自のシステムを、市民の悟りと幸福に対する一定のヴィジョンを促進するために捧げました。ブータン王国は政治的社会的機構の変革においてそのヴィジョンにずっと導かれ、私たちの快活な旧来からの社会が持つ力と、西洋民主主義国家の長所をともに取り入れています。1961年のブータンにおける近代化の到来以前には、地域社会が、自らの物質的、精神的、持続可能性を容易にするための取り決めや制度を所有していました。これらの一部分は、上意下達式の計画に基づく開発の初期の段階で崩されてしまいました。幸い、その後侵食は阻止されました。そして、1981年に国王が着手された、行政的、政治的地方分権化の力強いプログラムにより、開発に関する決定権が草の根レベルに委譲されたのです。そのため、村落や地域社会の機構は強化され、政府の対応性と透明性が高まりました。

 権限委譲の最大の変化は1998年に、国王が全行政権を、ブータン国会により選出される閣議に対して委譲された時に起こりました。国王は政府代表としての地位を譲り渡され、そして国会の熱烈な願いを退けてまで、それまでには考えることも出来なかったメカニズム、自分に退位を要求する可能性もある信任投票のメカニズムを実現されたのです。そのような変化はよき統治、人民の悟り、幸福に関するヴィジョンへのコミットと結びついた継続的プロセスの一環なのです。

 わが国は国民総幸福量を決定付ける社会的結束、団結を強化することに深くコミットし続けています。そして個人的な私欲の過度の追及が、その中で拡大家族や小家族の絆が恐らく最も重要なより糸を形成する社会という織物を引き裂いてしまう恐れがある、という事実に気を配っています。私たちは、子供から老人まで、すべての成員が情操的、肉体的な安全、援助、そして滋養を見つけることの出来る社会機構を保持したいと願っているのです。私たちの望みは、ちょうど子供たちが愛情豊かな環境で成長するように、老人たちが社会の片隅に追いやられることなく、尊敬され続けることなのです。結局、社会関係の広がりと質が、すべての個人の幼少期から老年に至る人生のサイクルの中で、幸福の根本に存在しているのです。

 結論

 ブータンの開発哲学に対する国際世論はこれまで常に協力的でありました。私は、それが好意的であり続けるよう望みます。しかし、因習的、順応主義的考え方が加える圧力を考慮すれば、すべての革新的で、従来の型を脱した開発への取り組みは、また一つの挑戦でもあるのです。私たちはグローバリゼーションの現実を引きうける一方で常に選択的で揺るぎなくあるよう努めることが出来ます。正しい選択を行うことが、現在そして未来において私たちの最大の任務です。しかし私は、第3期ミレニアムに踏み出すにあたり、すべての国が大胆に創造的に立ち向かわなければならない最大の課題は、人間の幸福を高めるという課題であると信じます。

 私は、21世紀が、私たちの集合的エネルギーと資源が、飽くことのない私欲を満たすことだけではなく、人類すべてに真の幸福と平和をもたらすことを目的とするより高次の開発事業に捧げられる時代となるという希望をここに表明させて頂きたいと思います。

 皆さま方を前に、演説させて頂くというすばらしい恩恵を与えられましたことに心より感謝の意を表させて頂きます。

 

 



 

 

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