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テレビは公共機関か?
1月中旬、メディアと公共性の問題について考えさせられる記事が各紙の紙面をにぎわせた。 「発掘!あるある大事典 U 」 (関西テレビ)の「納豆ダイエット効果あり」という番組で実験データがねつ造されていたという記事だ。
番組が放送された直後から、全国のスーパーや小売店では納豆の品切れ状態が続き、生産が追いつかなくなった大手メーカーは新聞やホームページでおわびを掲載した。まざまざとテレビの力を見せつけられる思いがした。その後、「あるある」疑惑は 「レタスで快眠」 「あずきで頭が活性化」 「みそ汁で減量」など次々と広がり、その度に、新聞は政治家の汚職や核開発疑惑のような大事件なみの報道を続けた。
天下国家について論じるはずの論説記事も 「個別会社の不祥事では済まされない」 「テレビ報道全体の信頼を揺るがした」 「テレビ局が主張する公共性とは何だったのか」と大上段から「関テレ」バッシングを続けた。これに呼応し、評論家も「捏造報道はジャーナリズムの自殺行為だ」 「国家権力の介入を呼び込んだテレビの責任は万死に値する」など、民主主義が死滅したかのような大仰な言葉で批判を繰り返した。でも、ちょっと待って!
― 「あるある」は報道番組だったのか?(バラエティ番組ではないのか)
― 視聴者は本当にテレビを信用しているのか?(テレビの取材方法や報道姿勢についての批判には根強いものがある)
確かに、納豆は町中から姿を消した。つまりテレビは簡単に視聴者の同意を得ることができたのだ。何らかの世論形成に大きな役割を果たしたことは事実だ。だが、視聴者がこれほど簡単に、しかも無批判的にテレビの情報を真実だと思い込んだのはなぜなのか。
最近、テレビ報道はあらゆる出来事をスペクタクル(見せ物)に、 重要な政治課題をトピック(話題)に変えてしまったと言われる。 「小泉劇場」やホリエモン裁判などその実例は枚挙に暇がない。「小泉首相と抵抗勢力」 「改革派と抵抗勢力」 「ホリエモンと裁判官」といった単純な二項対立と、「刺客」 「コメ百俵」 「ガリレオ演説」 「ホリエモンの野望」といったステレオタイプなワンフレーズを駆使し、政治や事件を娯楽に変えてしまった。 |