「メディアの読み方」講座 第14回  事件に見る「格差社会」
土田修(ジャーナリスト)

 キーワード・・・ 上流・下流、小さな政府、市場主義改革、規制緩和、社会的包摂

  川崎市で小学生がマンション15階から投げ落とされて死亡した事件の容疑者は「リストラ社員」だった。いつも通り、テレビも新聞も、読者の興味・関心に応じた枝葉末節な報道を繰り返した。だが、事件の背景に見えている社会の構造的欠陥を浮き彫りにしなければ、マスコミは市民社会形成の力にはならない。

1.仮名か実名か
 神奈川県川崎市で小学3年生の男子児童がマンション15階から投げ落とされ、死亡する事件があった。この事件の関連で、4月1日、同市内の男(41)が別件の殺人未遂容疑で逮捕され、全国紙の夕刊1面トップニュースとして扱われた。

 小3児童の転落死は3月20日に発生した。神奈川県警が事故・事件両面で捜査を進めたところ、29日、同じ現場で清掃作業員の女性が突き飛ばされる事件が発生。マンションに設置されていた防犯ビデオの映像から、県警は同一犯による連続事件と判断し、殺人事件として本格捜査を開始した。

 県警は31日にビデオに映った男の映像を公開した。テレビでこの映像を見た男は自ら警察署に出頭し、女性に対する殺人未遂容疑で逮捕された。

 逮捕時点の全国紙を読んで不思議に思ったことがある。男が出頭し、逮捕状を請求している段階(朝日新聞4月1日夕刊トップなど各紙)では仮名で扱われていた容疑者が、翌日の朝刊(朝日新聞4月2日朝刊トップなど各紙)では実名で扱われ、男の経歴や家族関係が詳細に報道されていることだ。

 夕刊段階ではまだ逮捕しておらず、逮捕状を請求している段階だったので、 仮名扱いにしたとの判断も可能ではあるが、1面トップで扱われるほどニュース性の高いニュースで、容疑者が「自分がやった」と容疑を認めているケースでは、実名で扱われてもさほど不思議ではない。恐らく、夕刊段階では男の入院・通院歴が問題になったのだろう。男の入院・通院歴について、朝日新聞はこう書いている。「精神科の病院に昨年11月から今年3月初めまで入院し、その後は別の病院に通院していた。本人は『うつ病だった。昨年、自殺願望があった』などと話しているという。動機に不明な点はあるものの、供述や態度はしっかりしており、捜査本部は、病気との関係は不明だが責任能力は問えるとみて、△△君殺害についても調べる」

2.警察とマスコミの共犯関係
 日本のマスコミ、特に日刊紙やテレビ局は、精神病院に入院・通院歴のある容疑者については匿名扱いにするのが通例で、容疑者の個人的経歴や家族関係について詳細に報道されることはなかった。理由は裁判の過程で「責任能力の有無」が問題になるのは必至であり、「責任能力なし」 と判断された場合、罪に問えなくなるケースも想定されるからだ。男が警察署に出頭した夕刊段階では、恐らく男の入院 ・通院歴が男を仮名扱いにする根拠になったものと思われる。問題は、翌日の朝刊段階でなぜ、実名報道に切り替わったかである。それを解き明かすカギとなる記事が東京新聞川崎版 (4月2日)に載っている。同紙は男の逮捕についての神奈川県警捜査一課長の記者会見の内容を詳しく報じている。その中で、「責任能力があると判断した根拠」についての記者の質問に対し、捜査一課長は「言動や行為。今の段階では、なんでそんなことをするのかという疑問は残るが、状態から問題ないと判断して逮捕した」と答えている。

 責任能力の有無は精神科医ら専門家による精神鑑定など正規の手続きを経たうえで判断されるべきものである。昨年11月から今年3月までの入院歴とその後の通院歴が明らかな容疑者に対し、捜査一課長が記者会見で「(責任能力は)問題ない」と答えているが、その根拠はどこにあるのだろうか。逮捕直後の簡単な取り調べ(いわゆる刑訴法上の手続きである弁解録取=弁録)のみでどうやって「責任能力の有無」を判断し得たのだろうか。

 問題はその先にある。各マスコミは警察判断を根拠に、入院歴・通院歴のある容疑者の実名報道に踏み切った。実名報道に応じて「容疑者は、不動産関係の会社に勤務した後、8年ほど前から川崎市多摩区にあるカーテン販売店で店長を務めていた。しかし、捜査本部の調べに『昨年リストラされ、今は無職』と話しているという」「自宅は、カーテン販売店かから車で20分ほど離れた同市麻生区の住宅地にある。04年秋に妻と3人の子どもとともに転居してきたという」などと経歴や家族歴も詳しく報道され始める。そして、お決まりの「まさか、あんないい人が…」といった類の雑観記事が続々と紙面を埋め始める。「『いい人』評判と別人」「子煩悩な父 なぜ」(4月2日読売新聞社会面見出し)、「近くに住む会社員の女性(35)は、……『こんな凶悪な事件を起こす人だとは思いもしなかった』と驚きを隠さなかった」(同社会面記事)。

 問題は、入院歴・通院歴のある容疑者の実名報道に踏み切った根拠が、「病気との関係は不明だが、責任能力は問える」(朝日新聞)という漠然とした警察判断に基づいていることである。これは警察発表をそのまま掲載することで自らの判断を回避するという無責任な報道姿勢でしかない。市民の関心の高い重要事件を‘見事に解決'した警察は実名報道により、より派手な紙面や番組の展開を期待することができる。マスコミ側は実名報道によって、容疑者周辺の取材が可能になり、家族や勤務先などの関係者取材を通じて「男の実像」に迫ることができる。実名報道によってより大きく扱ってもらえるという警察側の手柄意識と、実名報道によって読者や視聴者の下世話な関心に応えられるというマスコミ側の思惑の間に、持ちつ持たれつの「利害関係=共犯関係」が成立している。

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3.読者・視聴者の関心
 実名報道を通して、ニュースを取材し報道する側の判断基準が、市民の興味・関心に大きく左右されていることが分かる。多くの記事や番組は、容疑者の人間性を執拗に浮き彫りにし、市民社会に潜む「凶悪な犯人像」として繰り返し報道することで、「地域社会に悪魔が潜んでいる」といった類の社会不安を掻き立て、地域防犯や警察による治安維持の重要性を必要以上に煽る結果となっている。さらに、読者・視聴者に事件や容疑者の「理解不能性=異常性」を再確認させることで、読者・視聴者が自分たちと、自分たちのコミュニティの「正常性」を再認識できる鏡の役割を果たしている。

 あるテレビ局は容疑者の肉声を録音したというCDを入手し、ニュース番組で‘特ダネ'としてその音声を流した。男の「アッ、ハハハ」 という笑い声を放送し、「これが冷酷な事件を起こした容疑者の笑い声です」とコメントを付けた。まるで火星人を発見し、火星人の笑い声の録音に成功したようなはしゃぎようだ。こんなものを視聴者が求めている‘ニュース'だと判断した理由が知りたい。人間に対する優しさや敬意の一かけらも感じさせない報道がまかり通っている。テレビや新聞が市民社会形成に果たす役割を考えるとき、市民を愚弄し、低次元な報道を繰り返す民放テレビの問題性を考えない訳にはいかない。

4.規制緩和と階級社会
 ところで、新聞記事の中に、事件のキーワードと思える見出しが散見しているのも事実だ。「子煩悩な父」(読売新聞)、「無差別犯行」(朝日新聞)、「防犯カメラ決めて」(同)。子煩悩な親が他人の子ども殺害する、子どもの次は女性殺害を狙った、街角に浸透している防犯カメラが容疑者出頭の決め手になった…。どの見出しも現代社会の断面を見事に映し出している。だが、この事件の一番のキーワードは「昨年9月リストラ退職」(読売新聞)の見出しではないか。見出しに続く記事はこう書かれている。

 「捜査本部によると、今井容疑者は高校卒業後に理美容関係の学校に通い、アルバイトを経て…川崎市多摩区の不動産会社に勤務。その後、同市多摩区のインテリア用品店に勤めていたが、昨年9月にリストラで退職したという」(4月2日読売新聞朝刊社会面)。その後、リストラではなかったとの趣旨の報道もあったようだが、本人が事件前後に職探しを続けていたことは事実である。退職と職探し、入院・通院、退院間もなく起こした事件…、知りたい事実はいっぱいある。だが、その後、退職をめぐる問題性に焦点を当てた記事は残念ながら報道されていない。

 日本社会はここ十数年で、「総中流社会」から「階級社会」へと変貌を遂げ、「上流・下流」「勝ち組・負け組」といった言葉が日常的に使われるようになった。背景には、企業倒産とリストラ、労働市場の規制緩和による非正規雇用の増大と職場の不安定化、ストレスによる中間管理職の発病・自殺、失業者やフリーター、ニートの増大と犯罪の増加といった社会現象が隠れている。川崎の事件の背景には、こうした社会的諸問題が影を落としてはいる。

 政府は日本の経済が不況を脱し、上向きに転じたと発表した。「小さな政府」論に基づく市場主義改革の結果、構造改革が進み、その成果が現れた、という訳だ。どのマスコミも「小さな政府」論に反論することはなく、国家財政危機の時代には、行財政改革や規制緩和と市場原理主義に異議を申し立てることは、時代に逆行した抵抗勢力とみなされ、そうした意見や見解が紙面に掲載されることはほとんどない。

 日本のマスコミがグローバリズムや新自由主義を客観的に評価・批判したり、小泉改革との関係で論評したり、世界的潮流を検証することはこれまでほとんどなかった。新自由主義を標榜した英国のサッチャー首相や米国のレーガン大統領が「小さな政府」を唱えたのは80年代のことだ。「小さな政府」論には、政府の市場への介入を極力抑えることで経済成長を実現するという考え方が基本にある。「小さな政府」を唱道する政府の下では、社会保障や医療など福祉関係の財源を企業や個人に求めにくくなることから、福祉政策は大幅に後退することになる。

 東大教授の神野直彦氏(財政学)と北大教授の宮本太郎氏(比較政治学)は「『小さな政府』論と市場主義の終焉」(註1)の中で「日本で繰り広げられている『小さな政府』の市場主義改革こそが、時流に逆行する時代錯誤の改革論議である」と小泉改革を厳しく批判している。論文によると、日本政府が削減しようとしている社会保障や医療などの福祉関係の支出は、拡大前のEU15カ国平均(GDP比)で、80年20.6%、90年23.4%、01年24%と増大する傾向にあるが、日本は01年16.9%と「小さすぎる政府」の部類に入ってしまっているからだ。

5.脱生産主義的福祉ガバナンス(社会的統括)
 さらに、宮本氏は市場主義の圧力が強まる中、脱生産主義的な福祉ガバナンスをポスト福祉国家型のガバナンスとして提示している。 宮本氏は自由主義的体制では 「社会保障が最低限保証に限定される傾向が強く、……社会サービスに関しては、民間非営利組織がサービス供給を担う場合が多かったが、それは不十分な公的サービスを補うためであり、市民の多様なニーズ表出を支える手段と考えられていたわけではなかった」 (註2) と説明している。こうした中、20世紀的な意味での生産主義が限界にさしかかっており、先進工業国において雇用率の長期的な減少傾向が見られ、 「所得の再配分に代えて社会的包摂 (Social Inclusion)という考え方」が浮上してきているという。

 社会的包摂とは、「人々の社会参加をすすめ、他の人々との相互的な関係を回復あるいは形成する」ことを意味する。社会参加の媒介は職場外の教育・訓練機関や育児・介護の場、様々なNPOなど非営利組織が考えられる。社会的包摂の考えは70年代フランスで発生し、EUの社会政策の基本理念になり、欧州各国に広まった。職場の外に活動の場を提供するという脱生産主義的な社会的包摂によって、「『完全雇用社会』に代えて、すべての市民が何らかの社会的活動に参加しているという『完全参加型社会』が構想される」(註3)。社会的包摂の理念は団塊の世代の退職問題に光を当てる可能性がある。

 ところで、川崎の事件を見るまでもなく、企業倒産やリストラの結果、職を失い、行き場を失った人たちを「包摂」していく社会的システムが日本では十分整備されているとは言いがたい。市場原理主義と自己責任論に基づく「小さな政府」は、企業活動の規制緩和によって、高額所得者やIT長者という新たな富裕層を生みだした。一方では、市場の規制緩和によって、労働条件・賃金ともに低水準に置かれる「非正規社員」という貧困層(註4)を生み出した。同時に、リストラされた失業者やニート、フリーターと呼ばれる若者は社会システムから切り捨てられ、社会の底辺で沈殿し、自殺に走るか、犯罪者や犯罪予備軍となり始めている。

6.格差社会からの脱却
 効率優先を掲げる小泉構造改革は社会的な格差拡大と貧困層の増大を生み出した。小泉改革で得をしたのは大企業と高額所得者だけであり、「勝ち組」の利益を優先させた不平等な社会が出現してしまった。「日本列島改造論」を唱えた田中内閣当時の日本国民が総中流意識を持つことができたのは、福祉国家的な社会保障機能が充実し、所得格差も少なく、老後の不安がより少なかったからだ。

 少なくとも、多発する凶悪事件の責任を個人の「自己責任」論の領域に押し込め、犯罪の発生を街頭防犯カメラの設置や、地域防犯パトロールの強化、警察官の立ち寄り・巡回などで押さえ込むのには限界がある。事件報道には警察発表というバイアスが掛かっているせいか、こうした視点での記事が目立っているように思える。

 市民が本当に知りたいのは、「まさかあの人が?」「子煩悩な父親だったのに」といった興味本位で表層的な情報ではない。容疑者や家族の人間性に迫り、人格を傷つけるような下世話な類の情報でもない。市民にとって必要なのは、社会構造にメスを入れ、問題点を浮き彫りにするとともに、競争原理によって失われた人間的な絆を取り戻し、NPOなどによる社会的諸活動を包摂するコミュニティ形成を念頭に置いた情報である。

註1)「世界」06年5月号
註2)「思想」2006第3号「福祉社会の未来」の中の「ポスト福祉国家のガバナンス 新しい政治対抗」P33
註3)同上P41
註4)総務省統計によると、04年の役員を除く雇用者のうち、「正規社員」 63.5%(94年74%) に対して、 「非正規社員」は29.1%(同18.9%)と急増している。

 

 

 



 

 

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