「メディアの読み方」講座 第12回  内閣改造と内外の報道
土田修(ジャーナリスト)

 キーワード・・・ 靖国神社参拝、ネオ・ナショナリズム、アジアの孤児、開国か鎖国か

  この秋、小泉首相の靖国参拝、自民党新憲法草案の発表、第3次小泉改造内閣の発足と大きなニュースが続いた。それぞれに日本の将来を決定づける重要な動きばかりだったのだが、各メディアとも表層的な報道に追われ、十分、事態の本質に迫ることができなかった。特に内閣発足については、新閣僚に抜擢された猪口邦子氏のドレスの色と「ポスト小泉」に話題が集中し、新内閣が国際的にどう評価されているのかについての視点が欠けていたように思える。アジアに位置する日本の将来の国家像を考えるためにも「本質論」を語るべきときが来ている。

1.超保守主義
 小泉改造内閣の発足はアジア諸国以外にも大きな反響を引き起こした。フランス主要紙のル・モンド、ル・フィガロ、リベラシオンなどは、「超タカ派閣僚」を起用し、「右へハンドルを切った」として、小泉内閣を厳しく批判している。

 フランスでも右寄りといわれるル・フィガロ紙のリードはこう書かれている。「小泉首相は彼の後継者を準備するために、中国と衝突する危険を冒してまで、右へ舵を切った」(11月1日)。後継者とはもちろん安部氏と麻生氏のことである。「この内閣は中国にとても悪いシグナルを発信している。首相と官房長官と外務大臣という外交上、注目を集める3ポストが、場違いな物言いと行動で中国と韓国の怒りを買っているナショナリストたちの手に落ちた。それについて小泉首相は無関心だ。こうした視野の狭さが今週のニューズウイーク国際版で『なぜ日本には友がいないのか』というタイトルの記事になって現れた。この記事は、日本が(中国や韓国に対して与えている)外向的な侮辱を激しく非難している」

 一方、リベラシオン紙は「小泉首相は内閣のカギとなるポストにタカ派を起用」「日本は超保守的な右翼を選択」(11月1日)との見出しで、「日本は右へと進路を変えている。憲法上の平和主義を葬り去ることを狙った改憲案を発表した2日後、小泉首相は超保守的でネオ・ナショナリストである複数のタカ派議員を重要なポストに任命した。少なくとも閣僚のうち3人は中国や朝鮮の歴史を明らかに侮辱してきた改憲主義者である」と書いている。3人とは麻生氏と額賀氏、安部氏のことだ。同紙は麻生氏をウルトラ・ナショナリストとしての意見を隠すことのない人物として紹介している。そして、小泉首相の靖国参拝を支持し、中国、韓国、シンガポールから「日本の帝国主義の正当化だ」として繰り返し告発されても、定期的に靖国参拝を続けていることに驚きを隠さない。

 安部氏については、「戦後コンプレックスから解消された、急進右翼の象徴の1人」として紹介し、こう続ける。「戦争犯罪人である岸信介の孫で、定期的に靖国参拝を続けており、これからも靖国参拝を続けると断言している」

麻生氏の曾祖父は、朝鮮人強制連行で悪名高い企業の一つである麻生炭坑の創業者だ。戦後、麻生炭坑は麻生氏の母方の祖父である吉田茂の資金源にもなっている。2年前、東大の学園祭で「創氏改名は朝鮮人が望んだ。日本はハングルの普及に貢献した」と暴論を吐き、反発を招いている。この発言には、麻生炭坑の行った朝鮮人強制連行を正当化しようとする意図が見え隠れしている。

 また、ポスト小泉の最有力候補といわれる安部氏は、戦中、東条内閣で商工大臣を務め、戦後、東条らとともにA級戦犯容疑者として逮捕された岸信介の孫であることは多くの日本人に知られていることだ。だから、2人の閣僚起用を同紙は中国や朝鮮に対する「挑発」と受け止めている。さらに同紙は、「小泉首相が歴史を知らずに歴史を語るナショナリストの1人である」との識者コメントを引用することで、日本が過去の歴史から何も学んでいないこと、または、敢えて歴史を忘却しようとしているかのような姿勢を揶揄している。  

2.アジア外交の危機
 日本の新聞は小泉改造内閣をどう伝えたのか? 「内と外の『危機』に立ち向かえ」という読売新聞の社説(11月1日)は、「770兆円を超す長期債務」と「大国化する中国」を内外の危機と規定する。「外交で直面する困難な課題は、大国化する中国とどう向き合うかだ」と指摘し、「首相の靖国神社参拝をことさらに問題視するのではなく、冷静な姿勢で関係改善を図る」麻生氏に「官邸と連携して対中国外交の建て直しを図るべきだ」と大きな期待を寄せている。

 対アジア外交の元凶ともいえる人物に何を期待しているのか? 閣内には親中国派の二階氏がいる。だから、「東シナ海のガス田開発などの問題で、閣内で対応が割れるようなことがあってはならない」と中国に対して強行姿勢を取ることを麻生氏に求めているようだ。それは、「日本は米国との同盟関係を一層強化して対応すべきである。『日米分断』を狙う中国を利する愚は避けることだ」と続けていることから明らかである。

 一方、朝日新聞は社説で「アジア外交が心配だ」(同日)と書いた。「首相の靖国神社参拝で中国や韓国との関係はこじれ、アジア外交は浮遊しつづけている。その正面に立つ外相にポスト小泉候補の一人、麻生前総務相が横滑りした」「近隣国とのとげとげしい関係を修復する役回りにふさわしい人選とは思えない」と指摘している。麻生氏は靖国参拝を今後も続けると表明している。官房長官に就任した安部氏も参拝を続ける意向を示している。これまで参拝を控えてきた外相と官房長官が、これからは首相ともども参拝することになるのだろう。朝日の社説は「国内では改革継続の旗を振り、アジア外交の停滞には目をつぶり続ける。この小泉路線があと1年続く。その痛手の深さが心配である」と締めくくっている。

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3.開国か鎖国か?
 読売新聞と朝日新聞の社説はあたかも「鎖国派」と「開国派」との論争にようにも見える。明治維新以降の日本史は「開国欧化」と「鎖国国粋」の間で振幅を重ねてきた。明治時代に使われた国粋は「ナショナリティ」の翻訳語である。開国とは国際社会に関心を持ち、国際社会から学ぼうとする開かれた姿勢のことである。鎖国とはアジアにおける日本の地域的な位置付けと歴史性を忘れ、国際社会から学ぼうとしない排外的な姿勢のことである。

 読売新聞の論調は首相の靖国神社参拝、改憲といった「鎖国政策」を後押しするものでしかない。一方、朝日新聞の論調はただ単に改造内閣の「鎖国政策」に対する不審感を表明しているに過ぎない。評論家の加藤周一氏は「日本人の世界像」という評論の中で、「近代日本の外部との関係は、外部に対抗するために外部から学ぶというこの『対して』と『から』の逆説的で二重の関心の構造からはじまったといえるだろう」(註1)と書いている。

 さらに1930年から45年にいたる15年戦争の時期を次のように述べている。「日本の外部との関係は軍事的冒険主義以外の何ものでもなく、外部からの影響はこのとき全くあとを断つようになる。 日本は世界を今や純粋に軍事的な観点だけから眺める。しかし国際情勢が軍事的条件だけによって左右されないことはいうまでもない。軍事的観点からだけ組み立てられた世界像は、抽象的であり、一面的であって、複雑な国際情勢を説明するのに足りない」(註2)。

 加藤氏によれば、日中戦争から太平洋戦争にいたる時期は、国際社会に対抗しようとする意思が国際社会から学ぼうとする意思を凌駕した時代だったことになる。「対外的関心の『対して』と『から』の二重構造が破れ、一方が他方を圧倒したとき、世界の現実は、日本の理解を超えるものとなってしまった」(註3)。

 日中戦争から太平洋戦争にいたる日本の歴史はまさに鎖国の歴史だった。戦後、開国派が優勢となり、欧米型民主主義が根付いたかに見えた。しかし、実際は、戦前同様、日本民族の優越性を信奉する排外的な価値観が脈々と生き続けてきた。ネオ・ナショナリストたちが改憲を強行し、戦後日本の財産とも言える「戦争・戦力の放棄」という平和主義の神髄をかなぐり捨てるとき、日本は再び鎖国時代の暗闇へと舞い戻ることになるに違いない。

 改造内閣がアジア以外の国からどう見られているのかについて考える際、読売も朝日も加藤氏のいうところの「二重の関心」については全く思いいたってはいない。ル・フィガロやリベラシオンが日本の将来に対して抱いている不安はアジア外交に止まっている訳ではない。日本のナショナリストたちが改憲によって軍事的プレザンスを正当化する道を選択することにも注目していることを忘れるべきではない。靖国参拝と、その結果としてのアジアでの孤立は、日本の対外政策の方向転換や改憲と軌を一にしている。日米同盟に依拠したネオ・ナショナリストの愚かな鎖国政策を打破するためにも、近代日本の歴史を再検討し、日本の国家像について本質的な論議を巻き起こすことこそが求められている。

註1)加藤周一著作集「近代日本の文明史的位置」P365
註2)同・P369
註3)同・P370

 

 

 



 

 

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