IT技術を生かした社会参加  第11回 臨床の知を求めて                        

                          
池内健治(産能短大教授)

キーワード・・・ フィールドワーク、現場、対話、臨床の知、分かったつもり

  インターネットの発達とともに、情報を簡単に入手できるという考え方が広がっている。筆者は、短期大学でビジネス・マネジメントを教えているが、レポートを出題するとWebを検索して、無批判のまま、コンテンツを切り貼りしたレポートが増えてきた。今回は、現場に寄り添ってそこから情報を集めるということについて考えてみたい。

身体を通して理解すること
 最近、「脳」に関する本がたくさん売れている。なぜだろう。

 私も池谷裕二氏の『海馬は疲れない』、『進化しすぎた脳 中高生と語る「大脳生理学」の最前線』、茂木 健一郎 氏のクオリアに関係する著作『意識とはなにか―「私」を生成する脳 』、『脳と仮想』、『脳と創造性 「この私」というクオリアへ』などの著作を面白く読んだ。大ヒットした養老孟司氏の『バカの壁』、『唯脳論』などがブームの発端だったと考える。

 身体がうまく使えるときには、その使い方にはあまり関心を持たない。ところが、病気になったり身体が不調になったりすると、人は自分の身体に関心を持つようになる。たとえば、野球選手はスランプになると打撃方法をいろいろ研究して自分のフォームをチェックし、改善を図ろうとする。

 現役時代の王選手が自分の打撃フォームをいろいろと研究して、一本打法を編み出したことは有名である。彼が入団と同時にヒットやホームランを連発していたら、自分の打撃フォームを改良してさらによい方法を編み出すことは無かったのではないか?

 同様に、わたしたちが「脳」に関心を持つのは、頭の使い方に苦労しているからであろう。考えてみればラジオが登場するまで情報は新聞か口コミで伝達されていた。ラジオが情報を伝え、テレビ番組がさまざまなニュースを届けてくれるようになった。1990年代になって、インターネットのサービスを利用して大量のデジタル情報がネットワークを介して私たちに届けられるようになってきた。携帯電話によっていつでもどこでも情報を入手することができ、情報交換することも可能になった。

 このことによって、わたしたちが処理しなければならない情報が飛躍的に増大した。仕事でパソコンを使い、自分の生活でもパソコンを使って大量な情報を処理している。新聞の厚さはどんどん増して、テレビのチャネルがさらに増えていく。このことが「情報の整理術」「捨てる技術」などの著書が売れるようになっている。多種多様な情報がわたしたちの周りをあふれかえっている。

 増大する情報をどのように処理してよいか困り果てているのが、今のわたしたちではないのだろうか。「脳」の本のブームの背後には、あふれる情報にこのように困り果てたわたしたちがいるのではないか。

 「脳」に関する本には、身体と脳との関係を説明したものがある。脳が身体の働きとの相互作用によって変化することが強調されている。とくに、言語が重要であり言語による情報交換であるコミュニケーションが決め手になる。この情報交換の手段が多様になり、その量がわたしたちの処理範囲を超えてきたことが問題である。

 IT技術による情報機器の発達によって、機器による情報交換にたよりがちだが、それでよいのだろうか。学生にレポートを課すと、多くの学生はインターネットによって情報を集め、それを編集してレポートにまとめる。情報の評価能力の習熟度によって、レポートの出来は大きく異なるのであるが、そもそもインターネットの情報だけでよいのだろうか。

 現在、学生にフィールドワークという授業を行っている。そこでは、インターネットを介した情報収集も行うが、主眼は自分の身を現場に置いて、そこから見聞きしたことをもとに自分のテーマを掘り下げることにある。この能力が意外に重要である。現場に身を置くことで、360度を見渡すことができる。匂いを感じ取ることもできる。雑音も含めてさまざまな音があふれていて、多種多様な情報がころがっている。さらに対話によって、理解を深めていくことができる。

 わたしたちは、座学によって学習しようとしたとき、辞書やテキストに解答があり、その解答を自分の頭に叩き込むことを学習と考えることがある。わたしは、知とは自分と対象の間、自分と相手の間にあるのであって、それを引き出すことが対話なのだと考える。いわば、間人間性が重要であって、相手が解答をもっていてそれを引き出すのではないということである。

 フィールドワークで重要なのは、対象との対話の中から新しい知を想像していくことにあるわけである。そのためには、その場に身を置き、そこから身体全体を通じて情報を取得することが必要になる。インターネットはとても有用な武器であり、それを縦横無尽に使いこなす技術も重要である。

 ITによる情報収集に卓越すればするほど、身体で理解することに重要性が高まることになる。2つの武器を使いこなす「宮本武蔵の二刀流」をバランスよく身につけることが今求められているのではないか。

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2. 分かったつもりになる危険
 次に問題になるのは、インターネットであろうが、フィールドワークであろうが、情報収集の手段を問わず重要なのは、問題を掘り下げる思考力である。では、なぜわたしたちは情報を掘り下げることができないのであろうか。西林克彦氏の『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』という本が参考になる。

 西林氏は、浅い理解をしてしまうわたしたちの状態を、分からないことが問題ではなく、分かっていることが問題なのだという逆説的な言い方で説明している。文章の読解を例にとって、文章を一読した読者に「もっと知りたいことはありますか?」と問いかける。これは、プレゼンテーションなどを聞いた後、質問はありますか?という問いかけと同じである。

 多くの読者は、よく分かっているのでさらに知りたいことはないと応える。ところが、より詳細に読解していくと、個々の記述が立体的で詳細に見えてきて、さらに知りたいことが現れてくる。問題なのは、情報の表面だけをとらえて「分かったつもり」になることなのである。

 たとえば、「郵政民営化」といったときに、わたしたちはどれほどその内容に迫っているのだろうか。個別具体的に読み解いていくことによって、さらに知らなければならないことが浮き彫りになり、そこから新しい現実が見えてくる。テレビ番組で桜井よしこ氏が「悪魔は細部にやどる」と具体的な事項をあげて迫っていた。全体を把握することは重要であるが、全体の中に隠れている問題を見つけるには個別の事項を把握することも必要になる。

 わたしたちは、この話は郵政民営化の話だよと聞いてから個別の細かいことを説明されると分かる。ここでいう「郵政民営化」の話ということが「文脈」と呼ばれるものである。したがって、文脈が見えないと個別の情報だけでは何のことか理解できない。わたしたちは、文脈を与えられることで、私たち自身がもっている文脈に関連する一連の知識(このことをスキーマと呼ぶ)を使って、情報を理解しようとしているわけである。

 文脈を与えることは重要であるが、その文脈だけで個別の情報を精査することなく鵜呑みにしようとすることに危険が潜んでいる。この場合、郵政民営化という文脈を共有することだけで結論を短絡することになる。理解した情報を批判的に解釈すること、そのためには多角的に情報を評価できる能力を総動員しなければならない。現場に身を置くことの重要性はそこにある。メディアを通じた情報は、あるスコープで切り取られた情報だからである。

 自分の目でみて、自分の身体で感じることの重要性はここにある。

 NHKの「ようこそ先輩」という番組で、ルポルタージュ作家の鎌田慧が先生になったものがあった。小学生にテーマを決めさせて、地元の人にインタビュー取材をさせる課題であった。はじめは、小学生は何となく心が重い感じで課題に取り組んでいた。まさしく、取材をする、現場に身を置くことはエネルギーを要する作業なのである。現在、エネルギーをできるだけ使わずに、「効率的」に何事もことを成すように教育されている。逆に、無駄なこともあるかもしれないが、時間をかけて、心理的負担を乗り越えて話を聞く作業がこの「取材」という作業なのである。このコストを負担することによって、取材でしか得られない情報を得ることができるのである。

 この番組では,はじめのうち小学生は充分に掘り下げて取材できない。取材しているところをテープで記録する。テープを他人の耳で聞くことで、改めてどこに問題があったのか理解できる。番組では、鎌田氏がテープを全て聞き取り,問題点をアドバイスしながら掘り下げて取材する学習させていた。このようなトレーニングを通じて、自分も知らなかった、相手も気づいていなかった新しい知を発見することが対話を通じて浮き彫りになってくる。このような知を「臨床の知」と呼びたい。

 情報化が進む中にあって、わたしたちが鍛えなければならないのは、臨床の知を生み出すコミュニケーション能力なのではないだろうか。


 



 

 

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