世界の潮流とNGOの動き 第18
新しい世界システムと憲法九条(その1)

長坂寿久(拓殖大学国際開発学部教授)

キーワード・・・憲法九条/憲法九条、世界システム、国家システム、ヘントの和平条約/ゲントの和約、
         ウェストファリア条約、オランダ、ユトレヒト条約、寛容性の哲学、戦争/平和、近代国家、超近代国家

 21世紀になり、国家システムは、世界状況の変化、国益の変化を踏まえ、「近代国家」システムの変容が求められている。近代国家は「自衛」の名において武力をもち、暴力(戦争)へ邁進する仕組みを内包している。しかし、21世紀は、「超近代国家」システムを追求すべき時代となっている。近代国家システムは、ヘントの和平条約を理念とし、ウェストファリア条約によって具体的に形成されてきた。新しい「超近代国家」システムの“和平協定”の導入において理念となる先駆的な役割を果たすものは、日本国憲法九条である。

1. 国家システムの形成――ヘントの和平条約からウェストファリア条約へ
 近代の国家システムを確立することになったのは1648年のウェストファリア条約である。戦争の絶えない欧州諸候は、各諸侯の領地を不可侵の「国家」として認める条約に署名した。そしてこの条約によって、信仰の自由が全欧的に承認された。

 この条約が調印されるに至る経過を少し説明しておこう。 

 欧州の戦争史の中でも、オランダとスペインの「八〇年戦争」(オランダがスペインからの独立を求める戦争を開始した1568年から)は、それまでとは全く違う初めての様相を呈した。二つの異なる生き方の衝突、二つの相反する価値観の衝突、すなわちスペインの軍事的・貴族的社会と、オランダの自治都市の商人・農民の世界との衝突である。そこにはイデオロギー間の戦いであったが故に宗教戦争の様相が強く現われた。後者はプロテスタント改革者ジョン・カルヴァンの教えに導かれていた。彼らはスペイン国王(カトリック)への反逆について、旧約聖書を援用してその意味を説いた。スペインの圧政を頽廃の結果、やがて陥落する都、バビロンの物語に譬えた。一方、自らをゴリアスに勝利するダビデに擬し、エジプトの圧政に抗し、モーゼに導かれてエジプトを脱出するイスラエルの民の姿として語った。神は紅海の水を二つに分けてイスラエルの民を助けたのだ、と。

 オランダ側は、独立戦争の過程の中で、1576年4月、ホラント州とゼーラント州の二州が連合協定 (デルフト同盟)を締結する。そして、同11月に、ヘント(ゲント)で「和平条約」(和約)が成る。ネーデルラント全 17州が信教の自由について合意する協定である。各州はカトリックかプロテスタントか、自州の宗教を自ら決定できる。しかも他宗派の礼拝を禁止しないという合意である。

 寛容の精神を条約にした「ヘントの和平条約」は、当時はオランダ諸州にとってだけの理念・理想に過ぎなかった。他の欧州諸国にとっては容認できないどころか、理解さえできない非現実的考え方であった。

 この間もスペインとの戦争は激しく続いていた。しかし、オランダ側の団結は次第に強化されていき、ついに、1579年1月、オランダ共和国建設の基盤となる「ユトレヒト同盟」が結成される。ホラント州とゼーラント州の2州同盟(デルフト同盟)が7州に拡大されたのである。ホラント、 ゼーラント、ユトレヒト、ヘルダーラント、フリースラント、オーフェルエイセル、フロニンへンの7つの州・地方が連邦議会に代表を送り、「ネーデルラント連合」として、あたかも一つの国のごとく連合することになった。

 しかも、各州はそれぞれの権利、自由、慣習を保持できる。 この連邦議会では各州がそれぞれ等しく一票の権利を持ち、重要議題についての議決はすべて満場一致を原則とした。弱い行政機構ではあるが、 この同盟によって議会が総督の諮問機関から、完全なる自立・決議機関へと発展し、近代民主主義の礎となった。

 ユトレヒト同盟は、その後の議会制の確立と連邦制の始まりを象徴する、革命的な同盟としての歴史的性格をもっていた。1581年7月、オランダ連合議会はスペイン総督の「追放令」を決議する。この追放令は近代国家のプロセスにおける最初の独立宣言として知られることになった。

 この、一つの和平条約(ヘント)が一つの同盟 (ユトレヒト条約) へと繋がり、そして一つの決議(独立宣言)へと、歴史的端緒を造り上げていく過程は、以後の英国の清教徒革命、米国の独立と合衆国の成立、フランス革命へと受け継がれてゆくことになる。オランダの誕生は、その点で近代史の初めて尽くしであった。

 しかし、スペインがオランダの独立を公式に認める条約が締結されるには、ユトレヒト条約から69年を要した。1648年、ドイツのオランダ国境に近いウェストファリア(ヴェストファーレン)地域のミュンスター市で、両国の代表が顔を合わせ、スペインがオランダを独立国として公式に認める条約(ミュンスター条約)が調印されたのである。 

 その調印式の時の絵がミュンスター市庁舎のホールに掛けられている。スペイン代表は聖書に手を当てて誓約し、オランダ代表は手を天に向けて、神に誓約する形の姿となっている。前者は旧教(カトリック)を、後者は新教(プロテスタント)を象徴するものである。その周囲をウェストファリア条約の交渉のために集まった諸侯の代表が取り巻いている。

 この時同時に、欧州の国家システムの形成を承認する条約となる歴史的な「ウェストファリア条約」が交渉されていた。近代の曙を告げるはじめての国際大会議であった。参加国は66カ国にのぼった。参加人員は148人、そのうち110人が神聖ローマ帝国内のドイツ領の領主たちであった。ローマ教皇の代表団も出席していた。

 以後、近代国家システムの時代が始まる。ウェストファリア条約によって、信仰の自由が全欧的に承認された。つまりカルビニズムが公認され、宗教問題がもはや国家間の重要な政治問題ではなくなり、領民が領主と異なる信仰をもつことも黙認されるようになった。宗教対立の時代は去ったのである。そして、“自由”と寛容の理念が法的に認定されることになった。

 また、全ての諸侯は“同権”をもつとされた。現在の国家システムの基本がここで始めて確立した。ナショナリズムは三〇年戦争 (1618〜1648年) によって育まれ始めており、ウェストファリア条約の際に画定された支配領域が、その後ほぼそのまま 「国家」の領域となり、国家は互いに同権をもつ近代国家システムへと移行していった。国連が大国も小国も対等の一国一票制となっているのは、ウェストファリア体制の確立を前提としているからである。

2. 近代国家システムの限界と新たな理念としての憲法九条
 オランダは、世界が近代へ向かう最初の宗教革命、最初の議会革命、最初の自由革命をもたらした国である。さらに重要なことに、オランダはその後の欧州・世界の哲学の起源となる「寛容の哲学」を育むことになった。

 ピエール・ベールをはじめとして、スピノザ、デカルト、ジョン・ロックなど、17世紀のオランダの黄金時代に、「寛容の哲学」がこの国で育まれた。彼らの思考の原点となったのが、寛容の精神に基づき宗教の自由が初めて条文に謳われた「ヘントの和平条約」であった。

 「国家」は、住民の国籍を整え、税金を課し、その対価として兵力を整備して国民を保護するというシステムを造り上げた。さらに国家(政府)は国民を強制する立法権を独占した。こうして国家は、「自衛」の名において軍事力をもち、実際的には他国を侵略しうる武力をもつことを、国造りの「目標」として走り始めた。国家は暴力を独占する存在となり、武力こそが国家の条件となった。近代国家とは、システムそのものが戦争の動機を胚胎しているともいえる。このシステムの下で戦争の絶えることがない理由はここにある。

 しかし他方、暴力の独占体となり、暴力(戦争)をふるう仕組みを構造的に内包しながらも、近代国家は運営基盤に一つの歯止めをもっていた。それがヘントの和平条約である。宗教の自由を契機とする、「自由・平和」の理念と理想の追求である。ヘントの和平条約の理念・理想が、その後の国家システムの基盤・目標として現実的な影響を与え続けてきた。

 その後も、権力と武力を独占する国家は、常に暴力的(戦争)となりがちではあったが、他方では「自由と平和」を追求する姿勢だけはとろうとしてきた。ヘントの和平条約の先駆的理念・理想が、国家の暴力の歯止めとなってきた。

 第一次世界大戦、第二次世界大戦の経験を経て、自由と平和、つまり人権を求める思想・哲学が発達し、ヘントの和平条約を超える多くの平和を求める条約が調印・締結されてきた。中で、第二次世界大戦終結時点での平和追求の成果は国連憲章として明文化されることになった。国連憲章は、国家が暴力機構を独占的に保有するものとしての近代国家システムを前提としつつも、しかしヘントの和平条約以来の自由と平和、人権の思想について、われわれ人類が多くの血を流して獲得してきたものを成果としてまとめたものであるといえよう。

 戦後の同じ時に、国連憲章を超える先駆性をもつ条文が一つ世界に登場した。日本国憲法九条(戦争の放棄)である。憲法九条は、その第1項では「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定している。国連憲章の内容とこの第 1項の水準はほぼ等しい。そして、この域に達するよう、その後多くの国の憲法がこの方向に向かって改正されてきている。

 特筆すべきは第2項である。第2項は「前項の目的を達するために、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定している。戦力の不保持を規定したこの条文は、戦後60年たっても、まだ国際的には広く認知されていないし、国連も今後の方向性として決議するに至っていない。なぜならば、この条項は、「超近代国家」の時代を目指した世界史的に先駆的な規定であるからである。

 第二次世界大戦後は世界状況の変化の中で国益の意味するものが変容してきている。必然的に、国家システムもそれにともなった変化が求められるはずであるのに、依然として近代国家の時の概念のまま21世紀を迎えている。

 国連はすでに半世紀以上にわたり存在してきた。国連の役割はかつてないほど重要になってきてはいる。しかし、アナン事務総長の呼びかけで設立された国際的な市民社会ネットワークである「武力紛争予防のためのグローバル・パートナーシップ」(GPPAC)は、次のように報告している。

 「国連が存在したこの半世紀以上にわたり、戦争の惨害を抑止することがきわめて困難であることがはっきりしてきました。既存のメカニズムは不適当であるということも明らかになりました。私たちは、核による人類滅亡という事態は避けることができましたが、冷戦は、世界のもっとも貧しい地域で破壊的な紛争を生み出しました。ソビエト連邦の崩壊後に現われるかと考えられた新世界秩序はまたたくまに崩れ去り、あちこちで内戦が発生しています。」そうした今日の紛争による犠牲者の90%は民間人となっている。

 今世紀に入って、新しい世界システムの構築への模索、「国家」概念の変容などが明らかになっていくに従い、憲法九条の先駆性は新たな意味を持ち、その重みを増しつつある。憲法九条は、430年前のヘントの和平条約の先駆性に比肩する意味をもち始めたといえるのである。

 憲法九条は、日本において現実に武装化・戦争化への強力な抑止力となっていると同時に、21世紀に人類が到達すべき理想・目標を指し示している。その意味において、憲法九条は、近代国家システムを超えた新しい世界システムの構築への理念・目標となっていくという世界史的役割を果たす可能性を持っている。

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