世界の潮流とNGOの動き 第11回
オランダの実験と世界の未来
〜 テオ・ファン・ゴッホの殺害と寛容性文化の危機 〜

長坂寿久(拓殖大学国際開発学部教授)

キーワード・・・ オランダ、テオ・ファン・ゴッホ、ピム・フォルタイン、 イスラム原理主義(過激派)、寛容性の哲学、
            スピノザ、ピエール・ベール、
デカルト、移民政策

1. オランダの挑戦
   テオ・ファン・ゴッホ殺害事件(2004年11月2日)をめぐって、異文化への「寛容性」を文化とする国オランダが、文化的・政治的・社会的に大きく揺れている。オランダは21世紀の課題である異文化共存の新しいモデルとなりうるだろうか。オランダの実験が始まっている。

 イスラム原理主義とアメリカ原理主義は勝手に戦争を始めてしまった。21世紀に向けて、冷戦後の新しい世界システムの構築へ主導的役割を果たす二つのチャンスがあったにもかかわらず、アメリカはそれを簡単に捨て去ってしまった。一つはいうまでもなく国連を中軸とする多国間協議による、より多くの国に支持されうる新しい国際秩序の構築というチャンスであり、もう一つは21世紀のマルチカルチュラリズム時代への道を開くチャンス、つまり異文化共存という地球社会構築のチャンスである。アメリカはこの二つの21世紀の課題へ取り組むチャンスを無視して、旧世紀的単独覇権主義と異文化間衝突の社会へと、後ろ向きの道を選択してしまった。

 その結果、イスラム急進派(過激派)によるテロリズムと、アメリカの圧倒的火器力による戦争ゲームとの間の、新しい憎悪の戦争が始まってしまった。その戦争の恐るべき波及として世界中がテロの脅威を抱える状況がつくり出されている。
  アメリカが未来への道を混沌に陥れたしまった状況の中で、イスラム急進派と民主主義との共存のあり方を模索するという21世紀的課題がますます重要度を深めている。その課題を最先端で担うことになったのが、オランダである。

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2. テオ・ファン・ゴッホの殺害
  テオ・ファン・ゴッホ氏は、2004年11月2日、午前9時15分頃、アムステルダム市内のリネウス通りを自転車に乗って走行中、同じく自転車に乗ってきた若者に追い抜かれながら銃で狙撃され負傷した。氏は負傷しながら道路の反対側に逃げたが、若者は彼を追いかけ、刃物で数回刺し、最後に手紙を付けた刃物を氏の身体に突き刺し逃走した。
  若者はオーステル公園に逃走したが、間もなく逮捕された。市内に住むモロッコ系オランダ人で、イスムラ過激派の26歳の青年であった。しかも、イスラム過激派として情報機関が目を付けていた人物であった。   ファン・ゴッホ氏の遺体に突き刺されたナイフに添えられた手紙は、責任糾弾の脅迫状と殺害者リストであった。VVD(自由民主国民党)のヒルシ・アリ下院議員に対する死の脅迫文と同時に、VVDのファン・アールツェン下院院内総務、コーヘン・アムステルダム市長、それに政府に対して、「イスラムに対するテロリズム」の責任があると糾弾している。ヒシル・アリ議員とヘールト・ビィルダー議員は潜伏しており(ビルダー議員は議会には登院を始めている)、政府は直ちにリストの人々に対する非常護衛対策をとった。
  ファン・ゴッホ氏の殺害を契機に、その後オランダ各地で爆発や放火が相次いだ。イスラム教寺院や教会系の学校などが放火やバンダリズムの標的となった。

 テオ・ファン・ゴッホ氏は印象派画家で有名なビンセント・ファン・ゴッホの子孫であり、映画監督、小説家、批評家など多彩に活躍するマルチタレントして知られていた。同氏はイスラム教などについての毒舌で知られ、最新のドキュメンター映画として、イスラム教による女性抑圧を取り上げた『サブミッション』を製作・監督し、話題となっていた。
  『サブミッション』は、イスラム教によって抑圧されてオランダに逃れてきた女性の自伝的書物をドキュメンタリー風に映画化したものである。女性の身体にコーランの文句を書き付け、コーランによって抑圧されている女性の姿を象徴させ、女性蔑視を告発した。
  このことがイスラム教への冒涜とみなされ、イスラム過激派によって、ファン・ゴッホ氏が殺害される原因となったとみられている。

 サルマン・ラシディが書いた小説『悪魔の詩』事件とある意味では似た状況ともいえる。但し、『悪魔の詩』はイランの最高指導者ホメイニ師が作者の死刑を宣告していたが、テオ・ファン・ゴッホ氏の場合はそうした原理主義派最高指導者からの正式な指令というよりも、ある過激派一派の勝手なテロ行為という形になっているとみられる。
   サルマン・ラシディの『悪魔の詩』を日本語に翻訳した筑波大学の五十嵐一助教授(当時)は1991年に筑波大学構内で殺害された。五十嵐助教授を知っていて、直前に話しをしていただけに私自身大変なショックを受けた。

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パンドラの箱をあけたピム・フォルタイン
  2年前の2002年に移民制限を提唱した政治家ピム・フォルタインは、国民的人気を博し、自らフォルタイン党を創設して選挙に打って出たが、選挙(2002年5月)直前に殺害されてしまった。そのため選挙では同情票も含めて大幅に躍進したフォルタイン党が勝利を収めた。殺害した犯人はイスラム教徒や移民でもなく、動物保護主義者と名乗る白人のオランダ人だったため、関係者は胸をなで下ろしたといわれる。もしこの殺害者がイラスム過激派であったならば、オランダは今以上の大混乱となっていたであろう。

  ピム・フォルタインとファン・ゴッホ氏2人に対する殺害によって、オランダは400年かけてつくり上げてきた「寛容性」というオランダ文化のアイデンティティを大きく問われることになった。そこに至る経過の中で、パンドラの箱を開けたのは、政治家フォルタインであったといえるであろう。
  ピム・フォルタインは、国家の赤字、税金問題、老後の保険、外国人問題、犯罪や病院問題等々の政治問題を庶民に分かり易い言葉で解説し、市民が政治に参加して楽しむ方法を教え、政治的な勢いを作り上げた。
  彼は依然として国民的人気があり、最近ではオランダの歴史上もっとも偉大な人物の第 1位に選ばれたという。エラスムスよりも偉大な人間と評価する現代のオランダ人の状況はいささか歪んでいるとしかいいようがないようにも思える。
  彼のカリスマ性は、同時にオランダ人の寛容性の奥深くにある本音の部分を引き出すことにもなった。本音の言い方を彼は教えたのである。

 彼は何故かくも急激にオランダ人の多数の信頼を得るカリスマ性を獲得し得たのか。それまでのオランダ文化の「寛容性」とはどのようなものか。異文化・異人種の人々に対して差別的な発言や態度を示すことに対して、教養のない者のやることだとみなすことにとどまらず、タブーであるとする文化の国、それがオランダであった。
  急激な移民の流入によって、急激に変化するオランダ社会を背景に、彼は寛容性というオランダ文化を踏まえながら、オランダ人の本音を引き出すことに成功したのである。つまり、オランダ人の心のパンドラの箱を開けてしまったのである。
  彼を日本での報道のように、「極右」あるいは「超保守」とするのは全く間違いである。そうであればオランダ人は反発し、あれほどの熱烈な支持を与えなかっただろう。

  オランダの市民は、急激な移民の増加によってオランダの社会がどうも変な方向に変化しているように感じ始めていた。外国人がオランダの社会保障制度を食い物にし、治安を悪化させているという不満が広がっていった。そこで彼は「オランダはいっぱいだ」と発言し、これ以上外国人はいらないという本音を表現した。しかも、それを魅力的な表現で言ったのである。例えば、今のように5000人を入れることは急激すぎる、2000人程度に抑えるべきだと。移民を全面的に拒否したわけではなく、その流入スピード、急激な移民の流入を問題にしたのである。そして他方では、アフリカからの移民者を側近に据え、移民者への平等を訴えた。こうしたロジックがオランダ人の琴線にふれたのに違いない。

 テオ・ファン・ゴッホも、当初から彼に注目し、『サブミッション』の製作を進めるかたわら、すでに『ピム・フォルタイン』のドキュメンタリー映画を製作し続けていた。
 オランダ人は自分たちの国や自分たちが、アメリカやアメリカ人と同じようになる必要はないと明確に意識している。しかし、政治はアメリカ的競争力を重要視する施策をとった。教育分野における予算も、人文科学や古典など分野を大幅に削減して、技術取得やビジネスに直結する知識の育成の方へと配分を移してきた。政治がこの国のアメリカ化を急いでいる状況に対して、フォルタインは「オランダはアメリカのようになる必要はない」、「2級クラスの国家で何が悪い」と語り、オランダとは何かを問いかけた。国家のあり方、オランダ人のあり方に本質的な問いかけを投げかけたのである。
 その結果、オランダ中が彼の問いかけにまじめに耳を傾けるようになった。彼は国民的な政治論争を起こすことに成功し、メディアの討論番組は高視聴率を獲得するようになった。このようにして、人々は次第に本音を語り始めるようになっていった。

 テオ・ファン・ゴッホの殺害はオランダだから起きたのだと、私は思っている。オランダは寛容性の文化、表現の自由を文化とする国である。アムステルダム国際ドキュメンタリー・フィルム・フェスティバルは、世界のドキュメタリー映画祭の中でも最も知られている。もともとこの映画祭は、各国で上映禁止となった映画を埋もれさせない目的で始まったのものである。オランダとはそういう発想をする人々の国である。
 サルマン・ラシディの『悪魔の詩』事件を知っている他の国の人々は、イスラム教徒の逆鱗に触れるようなものを製作する勇気はもたないであろう。しかし、オランダ人の芸術家であるテオ・ファン・ゴッホはオランダ人であるが故に、イスラム教の女性差別や抑圧が許せず、表現の自由の文化によって育まれてきた彼は、それを表現したのであろう。そして、殺害されてしまった。彼の行為は極めてオランダ文化的行為なのであり、だからオランダで起こったのだといえるのである。オランダの400年の文化がまさに彼の殺害を通して問われているのである。そして、それは同時に、21世紀の課題である、異文化の共存というマルチカルチュラリズム文化時代への対応が問われているのだと、私には思えるのである。

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4.寛容性の哲学の再評価を
  昨年(04年)末にオランダへ行った。オランダはまさに大きく揺れていた。『オキシデンタリズム』 *という本が大変な注目を浴び、皆がこの本を買い求めようとしている。「もう売り切れた」とどの店の店員にも口を揃えて言われ、やっとの思いで手に入れることができた。「反西欧主義小史」というサブタイトルがついている。反西欧主義の動きについて簡単にまとめた本である。
  一方、テレビでは討論が続いている。「オランダ文化の寛容性は単なることなかれ主義だったのではないか」  「移民の急激な流入によって、オランダはもうこれまでのオランダではなくなっているのではないか」という議論が熱く取り交わされていた。また、「このままではオランダには未来はない、孫のために何とかせよ」と政府に訴える手紙を毎日書いている老女が報道されているとも聞いた。

 もちろん、ファン・ゴッホを殺害したイスラム過激派はほんの一部の小さなグループに過ぎないことは誰も知っている。しかし、犯人はオランダで高等学校の最上級まで行っており、その点でインテリというべき人々の中に入るべき若者であった。彼は地元のリーダーであったが、母親が亡くなった後過激になっていき、地域活動の中からイラスム教的に女性を排除するようになって、仲間からの反対にあい、彼自身が排除されてしまったという。モロッコ系のスポークスマンは「イラスム教徒にとって母親は何処に行ったのか」と問いかけているという。

 政府はオランダ語の習得やオランダ社会の理解を条件とする、移民のオランダ社会への統合を導く「外国人融合政策」を強化している。しかし、その一方では、この国に嫌気がさしたオランダ人が国外へ脱出しようとする動きが報じられている。
  『オキシデンタリズム』 のような本の登場と共に、歴史家も発言を始めている。オランダ史の泰斗であるジョナサン・イスラエルは、「オランダは深刻な文化的危機に直面している」と指摘する。そして、ピエール・ベールを中心に、スピノザ、デカルト、ジョン・ロックなど、17世紀の黄金時代にオランダで育まれた「寛容の哲学」が、今こそ再認識され、再評価されるべきだと述べている **。

 各哲学者の主張を私の印象でまとめれば、次のようになるだろうか。
 スピノザ (1632〜1677年)はユダヤ系オランダ人で、デカルト哲学を基礎に、形而上学と人間学を統合した新たな倫理学を構築した。意志の自由を明確にし、宗教的偏見を批判し、聖書研究の自由を主張し、「他人の権利を自己の権利同様に守るということを『契約』」することによって、「こうした社会の権利関係を民主制と名付け」た。彼は政治的にも宗教的にも自由主義的立場を支持した。

 デカルト(1596〜1650年)はフランス人だが、1628年にオランダに移住し、「我思う、故に我あり」という言葉はあまりにも有名である。彼は自由と寛容の国オランダで自己存在の哲学を構築し、「近代哲学の父」と呼ばれている。

 ジョナサン・イスラエルが最も心酔するピエール・ベール (1647〜1706年)はフランス人であるが、オランダに亡命して、ロッテルダムの大学で教授となり、オランダで寛容の哲学を追求した。「ペールは、フランス17世紀末の凄惨な新教徒迫害時代の権力と反権力の二重の圧迫下で、あらゆるドグマティズムへの先鋭な批判の刃を磨きあげ、理性と信仰の相剋を徹底的に生き抜いた思想家」「歴史批判の開拓者として独断と偏見の集積のなかで事実の価値を教え、宗教的寛容の旗手としては『思想の自由』の歴史上に重要な足跡を残した」と紹介されている***。彼は生涯をオランダで過ごした。

  寛容性、個人の自由、平等性、表現の自由という、17世紀にオランダ在住の哲学者たちによって開拓され、その後の長きに渡って高度の洗練された社会的・文化的教義となってきた思想・哲学の系譜がある。それらは、その本質故にオランダ社会によって育まれ、オランダ文化となった。イスラエル氏は、その「寛容性理論」こそが、現代再評価され見直されるべきだと主張する。
 オランダ人がアイデンティティの危機に直面してしまっている原因は、ベールを始めとしたこれら哲学者の思想をわれわれが忘れ、学校でも教えなくなったからだというのが、彼の主張の根幹にある。

 再度指摘したい。イスラム原理主義の挑発に乗って、アメリカ原理主義が台頭して戦争を始めた。非常に残念なことに、そのことによって21世紀の課題であるマルチカルチュラリズム時代の実現は遠のいてしまった。私たちの21世紀は、混沌とした実に危うい世界に突入しようとしている。
 その飛び火を受け、社会生活の中でそれへの対応を問われることになった最前衛の国がオランダである。それはオランダが寛容性の国であるが故にその挑戦を受け、21世紀のマルチカルチュラリズム時代に向けて『寛容性の哲学』を再構築できるか否か、その実験を行う国として選ばれてしまったからである。

 これからオランダで起こることは、21世紀の課題への挑戦として、実験として、注目し続ける必要があるであろう。先進国の中で世界最大のNGOセクターを誇るオランダなら、新しい寛容性の哲学と実践のモデルを、オランダというコミュニティにおいて開発してくれるであろうと、私は大いに期待しているのである。

5.オランダのイスラム人口とムスリムの意識
  オランダにおけるイスラム教徒人口と、オランダ政府の対テロリズム (イスラム教過激派)対策について少し紹介しておきたい****。 
 オランダの人口は1600万人強である。その中のイラスム教徒数は、1990年の50万人から、2003年には94万5000人に増加している。これはオランダ全人口の5.8 %にあたる。そのうち3分の2を、トルコ人とモロッコ人が占めている。
 イスラム教徒の人々のうち95%以上が欧米先進国以外(つまり中東など)の出身者である。オランダ在住の欧米先進国以外の出身者のうちイスラム教徒は54%となっている。そして、オランダにはイスラム教の寺院であるモスクが500もある。
 なお、イスラム教徒数は、オランダ人口全体では、5.8%だが、アムステルダム市人口比では12%である。ファン・ゴッホの殺人容疑者であるモロッコ系の若者が住んでいたのはアムステルダム西部のスロテルファールト地区 (オフドルフなどを含む)であり、そこでは住人の半数以上がイスラム教徒である。
 ちなみに、オランダでは大都市ほどオランダ人が他の小都市に流出し、外国人が集中するようになっている。とくにアムステルダム、ロッテルダム、ハーグ、ライデン、ハールレムなどでは外国人の比率がここ数年とくに高まってきている。

 社会文化計画局(SCP)の『オランダのムスリム』報告書 (04年7月)によると、オランダ在住のイスラム教徒は、イスラム教徒としてのアイデンティティは薄れていないが、モスクに通う人は減少しているという。1998年から2002年の間に、トルコ出身者でモスクに参拝する人は44%から35%に減少、子どもをイスラム教系学校に通わせたいとする親は38%から23%に減少している。また、同報告書は「若いムスリムを中心とした少数派の中で、オランダ社会を『敵意があり、差別的』と感じている民族・宗教グループが形成されている」とも警告しているという。
 在オランダのムスリム(イスラム教徒)488人に対して行った世論調査によると(フォークス・エトノマーケティク社調査、04年12月発表)、このうちほぼ半分(51%)がイスラム系政党の誕生を望んでいるという。一方、望まないとするムスリムは2割強 (20.9%)であった。

 オランダの選挙は比例代表制である。従ってイスラム政党が旗揚げされた場合、その党の登場を望んでいる人が前述の調査の比率どおりにこの新党に投票すると、下院で最高8議席を獲得することになる。この政党の綱領については、「シャリーア(イスラム法)に基づくものでなくてはいけない」と答えた人が30%近く、これに反対の人が34.2 %だった。
 現在のイスラム系の人々の投票行動は(2003年1月選挙)、労働党へ投票した人がもっとも多く32.4%、緑の党 (グリーンレフト)12.5%、キリスト教民主同盟(CDA)はわずかに6.8%である。さらに投票しなかった人が31.5%と多い。また、同調査によれば、オランダ在住ムスリムの71%が、「イスラムへの冒?はもっと厳しく取り締まるべき」と回答しているという。

 イスラム教の人々にとって宗教上の義務として実行されているラマダーン(断食月)には、在蘭イスラム教徒の人々(主にトルコ人とモロッコ人)も多く参加している。MCAコミュニケーション社の世論調査 (04年10月公表)ではモロッコ人の99%、トルコ人の88%がラマダーン月に断食を実行している。
 在オランダのイスラム教徒の人々の生活意識について、上記の政府機関 (SCP)調査では、「在蘭イスラム教徒のモスク参拝と断食が減っており、宗教離れが進んでいる」と報告されているが、MCA社のラマダーン調査では逆の印象となっている。このためSCPの報告は、イスラム教徒側から「宗教離れを誇張し過ぎている」と激しく批判されていた。

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6. オランダの政策措置
  2人の殺害に対するテロリズム対策として、オランダ政府はどのような政策をこれまでとってきたのであろうか。以下に気づいたものについて列挙してみよう。記述は、2004年12月から過去に遡った時系列によった。

○〔04年12月〕難民資格認定者のオランダ仮居住許可期間を現行の3年から5年に延長(外国人法改正案を下院で可決)。難 民が無期限の居住許可を得るのに仮許可後これまでは3年だったが、5年に延長。仮許可期間中に本国の情勢が安全になる と、難民は帰国を要求されることになる。ただし、オランダはEUの中でもこれまで短く、他の国に合わせることにしたための措 置。ちなみにドイツにおいては仮許可期間は7年と厳しい。

○〔04年12月〕2004年下半期はオランダがEU議長国を務め、そのもとでトルコとのEU加盟交渉の開始が決定された。オラ ンダ政府は議長国として、トルコの加盟交渉の条件をより厳しくする提案を行った。イスラム原理主義と民主主義の対立構造 が深刻化する中で、それを根拠にトルコの加盟を敬遠する人々がいる。一方、トルコは政教分離を踏まえた穏やかなイスラム 教徒コミュニティを構成するだろうという期待から、対立先鋭化の緩衝地帯としてトルコ人社会の存在を必要と考え、早期加盟 を歓迎する人々も多い。

○〔04年11月〕オランダでは児童の学校を親が自由に選択できる。そのため、基礎教育学校では、オランダ人はオランダ人が 多く入学している学校に入リ、外国出身児童の比率が高い学校にはさらに外国出身児童が集中する傾向となっている。前者 はホワイトスクール、後者はブラックスクールと呼ばれている。この両極化を改善するため、ロッテルダム市は、ブラックスクー ルにはオランダ人児童を優先的に外国出身児童の比率が高い基礎教育学校(ブラックスクール)にはオランダ人児童を優先的 に受入れさせ、逆も同様にして学校をオランダ人児童と外国出身児童の混在する場としていく方針を発表。但し、教育選択の 平等待遇規定に反するとして批判もあるため実行できるかは未定。

○〔04年11月〕政府は警察と保安局の権限を拡大し、重犯罪の賛美や言い逃れ行為は違法であるとする等のテロリズム取締 り強化対策を提示した。下院はこれを支持。オランダの総合情報・治安局(AIVD)からムスリム・テロリズムに関する情報が漏 洩した件について、ファン・ゴッホ氏殺害容疑者が漏洩された情報を入手した可能性も否定できないと調査中。政府(内相・法 相)はファン・ゴッホ氏に対する脅迫は以前からあったが、氏個人の身辺警護についての失敗はなかった、また容疑者の監視 についてAIVDには失策はなかったとの見解固持。

○〔04年11月〕ベアトリックス女王は、アムステルダムでモロッコ人青少年と懇談。オランダに住む人すべての平等の重要性を 強調。

○〔04年11月〕政府は、イラク派遣のオランダ軍部隊(約1350人)は05年3月に撤退することを決定。04年6月に最長8カ月 間の延長を決定していたが、予定通りそれに従ったもの。下院の大多数が政府の決定を支持。

○〔04年11月〕「国家に対する犯罪で有罪となった人物が二重国籍である場合、オランダ国籍を剥奪する」ことを閣議決定。オ ランダ国籍の剥奪によって当該人物は外国人となり、国外退去処分とすることができる。但し、その人物がオランダ国籍しか 持っていない場合は、剥奪によって無国籍者となることが国際条約違反となるため、対象外とする。
 オランダ国籍を取得した人のうち68%は二重国籍者だという。また、在蘭外国人一世の47%、二世では80%が二重国籍と いう。ちなみにトルコやモロッコ出身者は3人中2人が二重国籍である。これはモロッコ人は一生モロッコ人であると国内法で 定められており、国籍放棄ができないため、トルコ人は男性は兵役義務を終えるまで(最長38歳)国籍放棄できないためとい われる。

○〔04年11月〕スキポール空港(アムステルダム)は安全性向上のため、新たなシステムの導入を決定。旅券検査窓口、プラ ットホーム、ハンガー、荷物集配所などの保護領域内への従業員の出入りを、瞳孔スキャン・システムでチェックする。通行証 に本人の瞳孔データを埋め込む。体重も記録し、本人が別の人物を連れ込むことを阻止する(05年1月から漸次導入予定)。 現在は写真貼り付けの通行証と通行カードによって本人確認を行っている。

○〔04年11月〕総合検査局(AVID)は急進ムスリム150人の行動を追跡中。追跡対象の拡大を下院支持。

○〔04年11月10日〕検察当局は各地で大規模な立ち入り捜査を実施し、10人程を逮捕した。ハーグでは警官3人が手榴弾 で負傷、2人重傷。捜査当局はファン・ゴッホ氏殺害とは別件の殺人テロ計画を阻止できたと発表。

○〔04年11月〕マキシマ妃は11月5日下院の社会欧州連合総会で「この殺人は、オランダと欧州が誇りとするすべてのものに 反している。誰もが自分の意見を述べる権利をもっていることに反している」と演説。マキシマ妃は、政府が7月に「外国人女性 の社会統合の促進を目指す委員会」(委員長は元グリーンレフト党党首)を設置した際に、同委員に就任。

○〔04年11月2日〕テオ・ファン・ゴッホ氏殺害される。遺体に残された脅迫状にリストされた人物に対して非常警護対策が直ち にとられる一方、批判的な作家・芸術家などにも護衛を付けるなど警護対象の拡大措置をとられた。

○〔04年9月〕オランダ政府はオランダ国籍の取得時に、本国の国籍放棄義務の免除枠を制限し、放棄義務制度を強化するこ とにした。

○〔04年9月〕政府は、法務当局、警察、情報・治安局に対して、テロの脅威に備えた早期の観察、捜査、妨害追跡などができ る権限を付与した。また未然防止のため、身体検査の実施、身柄拘束期間の延長、入国拒否などの措置を可能にした。

○ [04年8月]イラクのオランダ兵はすでに3人死亡。またイラクのテロ組織は、オランダに対して、イラクから撤退しないとテロ攻 撃をしかけると、アラブ系インターネットのウェッブサイトで脅迫。

○〔04年7月〕政府はテロ警戒令を発令。下院、国防省、総合情報・治安局、ボルセレ原子力発電所、スキポ―ル空港の襲撃 計画が発覚。

○〔04年7月〕テロ襲撃容疑者4人を逮捕。

○〔04年5月〕アレキサンダー皇太子とマキシマ妃は結婚を機に、オランダで暮らす外国人の社会統合の促進に努力する団体 に対して送られる、「オラニェのリンゴ賞」を創設、その後援者となった。第1回受賞式は04年5月に行われ、外国人師弟の保 護援助プロジェクト「コンタクトピアレント」を行っているセリッセンワン学校(ボクステル)、マルチ文化リビングルームの「デ・ブル フ」(アムステルダム)、ライデンのタイタムフェスティバルが受賞した。

○〔04年4月〕オランダ国籍取得希望者に対して新たに「帰化試験制度」を導入。この試験によって、国籍取得にはオランダ語と オランダ社会に関する知識が十分であると認められることが条件となる。これまではオランダに合法的に最低5年居住、あるい はオランダ人と3年間婚姻関係にあることのみが条件だった。そのため、2003年のオランダ国籍取得数は02年の4万1879 人から2万4581人に半減した。

○〔付記〕オランダ政府の移民に対する現在の政策は「社会融合プログラム」が中心となっている。移民に対してオランダ語の習 得(1〜1年半にわたり600時間の履修)と、オランダ社会で生活していく上で必要な知識を習得させるため、政府と自治体が 金銭的支援を行っている。但し、政府と自治体による金銭的負担(授業料支払)は2005年末までで終了予定で、以降は移民 の本人負担となる。

*『オキシデンタリズム』:『Occidentalism ? A Short History of Anti-Westernism』,Ian Buruma & Avishai Margalit, Atlantic Books,London,2004

**ジョナサン・イスラエル:『Bayle,Enlightment,Toleration and Modern Wester Society』,Jonathan I. Israel, Pierre Bayle-Lezing 2004。イスラエルの『The Dutch Republic ? Its Rise,Greatness,and Fall 1477-1806』Oxford,1995.はオランダ史の本格的な標準歴史書として知られている。

***ピエール・ベール:「ピエール・ベールの生涯と著作」『ピエール・ベヒル著作集』法政大学出版局、 www.furugosho.com

****政策に関するニュースは、『THE WEEK』(Japan Press Network)などの資料を主に参考にしてまとめた。

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