知の有効性を拓くーE.W.サイードのテキストを通して― 第9回
土田修(正会員、ジャーナリスト)
5.おわりにー知的亡命のすすめ

――ブッシュ政権の傲慢 
米国のブッシュ大統領は共和党の選挙キャンペーン・フィルムに五輪競技を使用し、国際的に笑いものになっている。もちろん国際五輪委員会はカンカンに怒っているのだが、なぜか日本のメディアはこのニュースを黙殺した。8月24日のル・モンド紙によると、ことの顛末はこうだ。

ブッシュの選挙キャンペーン・チームがテレビで流したフィルムというのは、1人の水泳選手の映像クリップに続き、イラクとアフガニスタンの国旗が映し出され、「1972年には世界に民主国家は40しかなかったが、今では120ある」「自由は日が昇るように広まっている」「今回のオリンピックでは2つの自由主義国家が増え、2つの全体国家が姿を消した」というナレーションが入っていた。

国際五輪委員会は五輪の競技映像を宣伝に使用することを禁止している五輪憲章に違反しているとして、米五輪委員会に問題を解決するよう求めた。米五輪委員会はブッシュの選挙キャンペーン・チームにただちに放映を止めるよう要求した。しかし選挙キャンペーン・チーム側のスポークスマンは、問題の映像クリップには五輪のマークもアテネの競技場も使っていないので違反ではないと説明している、という。

この問題についての各国五輪委員会のメンバーの反応は正当なものだ。「これは挑発行為だ。五輪競技は平和のメッセージ以外の何にも認められるべきではない」(イタリアの五輪委員)、「選挙キャンペーンに五輪を使うことは悪趣味の証明だ。しかし全く驚くには値しない。ブッシュのような輩がやったのだから」(イスラエルの五輪委員)。

このイスラエルの五輪委員はアメリカで五輪の放映権を持つNBCスポーツの副社長だそうだ。

さらに北朝鮮の五輪委員のコメントも面白い。「こんなことをするなんて、オリンピックの歴史の中で初めてのことだ。まさに奇跡だ」。この言葉にル・モンド紙は、北朝鮮の五輪委員は自分の国でも考えられないことだと思っているはずだ、と付け加えている。

極めつけはパラグアイ戦を前にしたイラク・サッカーチームの選手たちの反応だ。選手たちは自国の国旗が使われたことに食傷気味だという。インタビューに応じたトレーナーのアドナン・ハマド氏はチームを代表して明確に答えている。「ブッシュは我々の国の破壊に貢献した。1年半たっても我々は最悪の状態で打ち沈んだままだ。決して我々はブッシュ政権が我々の味方だとは思っていない」

――サイードの知識人論
ブッシュの選挙キャンペーンをめぐるル・モンド紙の記事はアメリカとイラクの関係性を端的に示している。

アメリカを「帝国」と表する識者も多い。圧倒的な軍事力を背景に世界中に軍隊を送り込み、アメリカ型世界戦略を押し進めている。一方、アメリカのパウエル国務長官は、日本に国連安保理の常任理事国と引き替えに平和憲法の放棄を迫った。これを受けてのことなのか、小泉首相は9月下旬の国連総会で常任理事国入りをめざす考えを表明するそうだ。

既に自民、民主党内では憲法改正案づくりがすすんでいる。イラクに自衛隊を派遣し、多国籍軍への参加を実現した小泉氏は、必然的に憲法改正へと駒をすすめている。自衛隊を海外で武力行使ができる軍隊と位置づけ集団的自衛権を認めることで、日米安保体制を強化し、米国の世界戦略への荷担と、その枠組み内での日本の軍事的役割の拡大を狙っているのは間違いない。

一体、誰のための改憲なのか、誰のための常任理事国入りなのか、小泉政権は国民に一切語ろうとしない。ところが、その裏で石破防衛庁長官は文官優位となっている長官補佐機構の再検討を同庁幹部に指示した。戦後日本の文民統制(シビリアンコントロール)の象徴でもあった「防衛参事官制度」の見直しも視野に入れているそうだ。

小泉政権は国民に何の説明もないまま、次々と戦後日本のハンドルを猛スピードでしかも大きく切り始めている。

サイードは「知識人の表象」(註)の中で「わたしの知識人論のなかで、ひとつの主題として重要な役割を演じているのが、普遍的で単一の基準にどこまでも固執する知識人の姿勢である」(同上)と書いている。さらに「知識人は、国粋的民族主義に対して、同業組合的集団思考に対して、階級意識に対して、白人・男性優位主義に対して、異議申し立てをする者となるべきである」(同上)と記している。サイードにとって知識人とは特定の学問分野で仕事をしたり、専門技能をいろんな分野で生かしている、いわゆる専門家や大学教官のことではない。普遍性や公正さという価値観に基づき、国家や政府への忠誠を拒み、精神の自律性を維持できる者すべてのことだ。慣習・伝統・権威から身を引き、国家・権力に飼い慣らされずに、常に周辺的存在でありつづけること。サイードはそれを知的亡命と位置づけている。

政府や国家と一線を画した市民活動やNPO、NGO活動が普遍性や公平性という価値観なしに成立するとは思わない。非政府的な視点やポジショニングを維持しなければ、政府やマスメディアによるプロパガンダを見抜き、正当な論理の地平に立つことはできないからだ。

サイードにとって知識人とは、はっきりした立場を代表・表象する人間のことだ。明確な立場を取り、異議申し立てし、行動する知識人。それはジャン=ポール・サルトルの知識人論とも通底している。サルトルの知識人とは、自分とは関係のないものに口をはさみ、人間や社会という大ざっぱな概念として語り継がれてきたあらゆる真理や価値観の総体に対して異議を申し立てる者のことだ。サルトルにとっても、専門的な知識を持つ者が知識人ではない。人は知識人であるのではなく、「異議を申し立てる」という行為によって知識人になるのだ、と明確に語っている。

アメリカの世界戦略やそれに追随して改憲・戦争へと突き進む政権に異議を唱え、論理的正当性と客観性を維持すること。非政府的視点を持ち、自律した精神を維持し、それを活動の糧とすること。国家や政府に対して真実を語り、真実を語らせるよう努力すること。積極的に批判を公の場で口にすること。サイードは歴史の必然性に竿を差し、歴史を塗り変えようとしているかのようだ。

間もなくサイードの突然の死から1年が過ぎようとしている。今、われわれがサイードのメッセージに耳を傾ける意味はどこにあるのか? それはサイードが一貫して語り続けてきた知の在り方を問い続け、知識人の役割を再認識することである。今、われわれが直面している危機的な歴史の状況を打開するには、不正で威圧的な世界観や卑屈で場当たり的な論理に対し、絶え間なく言説の可能性を拓き続け、知の有効性にかけることしかない。

(註)邦訳は「知識人とは何か」(平凡社ライブラリー)
  

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