身体詩について  
   
                               

  「身体詩とはなんですか?」という問いに対するシンプルで正確な答えを得るために、
 とても長い年月と、そして世界を駆け巡りつづけるということが必要とされました。
 1988年のフランス公演以来、私たちTAICHI-KIKAKUは、民族、文化、もちろん言語の
 異なった世界の国々で舞台公演を続け、その国の人々をみつめて、丁寧に交流して
 ゆくうちに人と人との間には圧倒的に普遍的なコミュニケーションが存在していると
 いうことに気づきました。
 それは《ひとは存在そのものでコミュニケーションしている》という発見でした。

  〈存在〉とは物質体である肉体を使ったゼスチュア(かお、からだの表情)及び説明的
 言語以前の音声そして、その人間、否、いきもの生物と云った方がいいのかもしれません。
 そのいきもの生物が発する肉眼ではみることのできない《気エネルギー》の発露・交換に
 よって8〜9割のコミュニケーションを行なっているんだという発見でした。アラブでもイスラ
 エルでもヴェトナムでもボスニアでも公演をし、人々をみつめ交流してきて、それはさらに
 確信へと近づいてゆきました。

  時に私はパリの知り合いのcaféのカウンターに12時間立ちっぱなしで、くる日もくる日も、
 次から次へとやってきては去ってゆく人々とそのしぐさ、他者との交流をみつめつづけた
 こともありました。
 温厚なコミュニケーションばかりではありません。時に目の前で暴力沙汰が繰りひろげら
 れることもありました。
 そういう行為の直前には、ほんとうにどす赤黒いような怒りの気エネルギーというものが
 発されているのです。
 幸福なひとや、哀しいひとや、孤独なひとも、そのそれぞれの気エネルギーを発露している。
 感情といったレベルではない生命エネルギーの発露、源のように…

  この気エネルギーを使った〈存在〉というものをなんとか舞台にとりこむことができれば、
 感情、感覚といったものでも、記号やスタイル形式、もちろん字幕なんかでなく、ダイレクト
 に普遍的に観ている人々に伝えることができる。
 さらにすすめて、最も大切な《気エネルギー》の配分をより大きくすれば、舞台と観客が
 直接交流、気の交換や交流をすることも可能になると考えたのです。

  しかし、この〈存在〉なるものを舞台にのせるためには、特に誰にも見られていないと
 いう素の状態では成り立ちません。
 それではテンションの高い本番中の舞台に観客席からそのまま上がってゆくイメージと
 同じです。
 それを舞台表現にするためには〈観客〉にみられているということを受け入れながら、
 気エネルギーを高め、所作、動作を普遍的にシンプルにしてゆくということ―、それを、
 実際に公演を通じて世界で試行錯誤してみる時間が私たちには必要でした。

  そうやって生み出したのが、世界の中でもTAICHI-KIKAKUだけの表現、「21世紀の
 舞台芸術」「言葉を超えた演劇」と呼ばれるようになった身体詩なのです。
 舞台表現になりうる〈存在〉(ゼスチュアと気エネルギー)に演技の要素をさし入れて
 構築したものが身体詩―

  しかし、最も大切なのは《気エネルギー》そのものを表現の中心に置いているということです。
 作品はふへんてきな神様への捧げものであり、精神科学的なものを芸術として表現したい
 という「はじめの芸術」という理念を私たちはもっています。
 そして、それを支えうる純粋な気エネルギーの発露の核は《祈り》の感覚に似ている気がします。
 そうです。長い年月をかけて、今ようやくたどりついたひとつの答え―
 身体詩とは世界の人々と愛の心を活性化させて、ダイレクトにコミュニケーションをしたいと
 いうTAICHI-KIKAKUの《祈り》の具現化なのです。


  モリムラルミコ(TAICHI-KIKAKU演出)