記憶
何度か歯肉に針を刺され、所々に麻酔が効いてくるのがわかる。
注射された部分がパンパンに膨れ上がり、破裂しそうな感覚があったが
痺れと共にその感覚も薄らいでゆく。
「はい、口を開けて下さい」
歯科医は細い金属の棒のようなもので、軽く虫歯を叩いた。
「痛くないですか?」
僕にはその振動が感じられるだけで、麻酔されるまで疼いていた部分には
痛覚というものが無くなっていた。
肉体というものは、麻酔をかければ痛みを緩和、あるいは全く
感じなくなってしまう。切れれば痛みがまた襲うが、耐えられぬ
痛みではない。
痛みのピークを避けて回復へと誘ってくれる。
僕は口を開けたまま、ええっと答え歯科医は口を大きく開けて
下さいと言った。
言われるまま僕は、無防備に下あごを伸ばし
甲高い金属音を聞いた。
金属音が近づき、痛覚のないエナメル質、象牙質を破壊し始めた。
口腔内に細かく散らばる象牙質の破片が再生できないことを
僕は知っている。いや、そんなことは誰でも知っている。
さっきまであった僕の天然歯は借り物で復元されるより他に
修復は不可能なのだ。
「やっぱりいざ辞めるとなると寂しいです」
遼平は彼女の言葉に相槌を打ち、その気持ちを理解したことを
示したが、もう流されてはいけない。
「家庭のことはきちんとしているのか」
「うん、してる」
美奈子はさっきまで遼平を正視していたが
してる、と言いながら足元に視線を落とした。
美奈子の嘘はすぐに分かった。
彼女は嘘をつくのが下手な女だった。
その天性の誠実さが、苦しむ人を生んでしまったのを
彼女は気付いていないだろう。
スーパーの屋上にある駐車場は、思いの他静かだった。
そこで、美奈子に会ってしまうとは思わなかった。
だが、美奈子は遼平が屋上に車を停めることを知っていたのだと思う。
美奈子にしてみれば、偶然を装った必然であったのだろう。
彼女は精一杯のお洒落をしているように見えた。
その姿を見て欲しいということが、意地らしくもあり
また切なくも思えた。
最後に綺麗な自分を焼きつけたかったのだろう。
遼平は美奈子の心に答えることは出来なかった。
彼女の態度や雰囲気からは、未練というものが滲み出ているのが
痛い程分かる。
悟られぬ様に押さえているつもりなのだろうが
その表情は誰が見ても感づくような哀愁が漂っていた。
甘い顔を見せることは出来ない。
己の本心を押さえることが、苦しめた人たちへの罪滅ぼしであり
全てを解決する為の始まりであるのだと思う。
ふいに屋上の片隅に設置してあるボイラーが
ゴーという音をたて、静寂を破った。
「僕の気持ちを無駄にしないでくれ」
遼平は精一杯冷たい表情を作り、美奈子を見つめた。
ものすごく何かを伝えたい。
人はそんな表情をすることがある。
まさに今、美奈子はそんな表情をしている。
遼平がその場にあと5秒でもいれば、彼女の口からは
言葉が漏れていただろう。
本音を言えば、その言葉が聞きたかった。
遼平とて未練はある。
だが、それを聞いてしまえば、再び袋小路に迷い込み
取り返しのつかない事態を招く危険性があった。
年を取る毎に強くなっているつもりではいたが
底の知れた強さであることを悟り、情が入れば
なお更弱さが表面に浮き出てくる。
遼平は今まさに口を開かんとする美奈子に向かって
「じゃあ・・・・・」と一言残し、踵を返すと階段へと向かった。
振り返りはしなかった。背中に彼女の視線を感じるが
振り返るわけにはいかない。
美奈子の想いを痛い程感じ、歩を一歩進める毎に
彼女の心を踏みつけていくようにも思えた。
誰が好き好んでこんな態度をとるものか!
気持ちとは正反対の態度が、常識とか結果とかで見れば
正しいことがある。
今はこうするより他に術がない。
互いの気持ちを諦めなければならないと悟った時から
美奈子は何度も涙を流した。
目の前で大粒の涙が流れる様を見て、どうして
こんなにしっかりした人がこんなに心を乱してしまったのだろうと
不思議に思えた。
美奈子は誰が見ても「しっかりした女」であった。
遼平の知る全ての人が、それを認めていた。
そんな彼女が遼平だけには「しっかりした女」でいることが出来なかった。
男としては冥利に尽きる。
そのことが更に美奈子への愛着を募らせた。
出来ることなら。。。
そんな想いを、現実は許してはくれない。
結局そうなることを、頭の中では初めから二人とも分かっていた。
情が深くなりすぎていた。
10メートル程離れた彼女の車の中に、子供が乗っていた。
今年、小学校に上がった娘がいる。
遼平が去り、きっとまた美奈子は涙したに違いない。
子供の前で涙を見せてしまったのだろうか。
目にごみが入ったなどという嘘を言ったのだろうか。
買い物をしながら、そんな情景をぼんやりと想像していた。
もう一本の虫歯は抜歯しなければならないらしい。
「痛かったら右手を挙げてください」と歯科医は落ち着いた声で囁く。
囁きに聞こえるのは、麻酔が効いているからかも知れない。