人間は、古来より鳥のように空を飛び、雲のようにふんわり浮かんでいたいという、止みがたい欲望を持ち続けてきました。それが観覧車に託された人類の夢であったといえましょう。
ここでは、観覧車の歴史を振り返ってみましょう。
観覧車の歴史

最初の観覧車の記録は、18世紀初め、ロシアモスクワのイズマイロフ公園に人間が綱をかけて回したというものです。

19世紀末には、近代的な鉄骨、電気による駆動の観覧車が登場しました。

1893年にシカゴで開催されたコロンビアン万国博物館での最大の呼び物として、大観覧車が登場しました。設計者は、ジョージ・W・ゲイル・フェリス。その人の名をとり、この大観覧車の名前は、「フェリス・ホイール」といわれました。因みに、以後、現在にいたるまで、英語では、観覧車のことを「フェリス・ホイール」といいます。この観覧車は、直径75m、60人乗りのゴンドラが36個ついて、一度に2,160人を収容するという、現在の目から見ても超巨大な観覧車でした。(収容能力世界一を自称している横浜の観覧車が、8人乗り60ゴンドラで、収容能力が480人ですから、このフェリス・ホイールの規模の大きさが分かると思います。)その観覧車は、1904年にセントルイスで開催された万国博に移設されました。

1894年にはイギリスでのエールズコート博覧会に「グレイト・ホイール」が登場しました。直径は、84mとシカゴのものを超えました。30人乗りのゴンドラが40個ついて1,200人を収容しました。

これとは、別に1894年コニーアイランドに、ステイプルチェイスパークを作ったジョージ・ティルユーが直径37.5m、18人乗りゴンドラ18個の観覧車を導入しました。

日本ではじめて観覧車が登場したのは、明治40年(1907年)、上野で開催された東京勧業博覧会でのことです。高さが約40mで8人から10人乗りのゴンドラが18個ついていました。

その後、特別の脚光をあびることはなかったものの、日本では、ジェットコースター、メリーゴーランドと共に遊園地の3種の神器と言われ、根強い人気を保っていました。
再び脚光を浴びたのが、やはり、博覧会でした。

昭和45年(1970年)の大阪の万博で45mの観覧車が設置されました。
1989年横浜みなとみらい博で高さ105mの観覧車が大人気となりました。
同年のアジア太平洋博で直径100m、高さ105mの観覧車が設置されました。

こうして、いよいよ、20世紀の末の現在、再び日本で観覧車ブームが起ったのです。
まず、横浜みなとみらい博で登場した直径100mの大観覧車は、博覧会終了後市民の声にこたえ存続され1998年まで運営されました。この観覧車は、1999年すぐ近くに移設され、1999年リニューアルオープンし根強い人気を得ています。

1995年には、遊園地以外に始めて、神戸で観覧車が設置されました。神戸ハーバーランド内に設置された50mの観覧車は、入場無料とし、物販、飲食施設と複合化した点で画期的でした。実に奇麗なイルミネーションが話題を博し、「見せる施設」としての役割を観覧車に加えることに成功しています。

1997年には、大阪の天保山、海遊館横に、直径100m、最高頂112.5mの観覧車が設置されました。これも、遊園地内ではなく観覧車の単独施設としての運営となりました。この観覧車は、海沿いに立地されたものの好例で、大阪湾全体を見渡せ、紀伊半島から、淡路島まで、広い景色が楽しめます。

1998年に大阪駅前のHEPで、ビルと一体となった観覧車が建設されました。HEPは、物販、飲食、アミューズメントの複合施設で、そのビルの頂上にビルの中からニョキッと真っ赤な観覧車が顔を出しています、

そして、1999年に、パレットタウンの観覧車が、オープンしたのです。
東京臨海副都心・パレットタウンの立地は、観覧車にとって、世界中探してもまたと無いような立地です。なにより、大都会の夜景と海を同時に見えることは、なかなかありません。その大都会は、世界でも有数の大都市東京です。また、都会の夜景を見ようとすると、ビルが邪魔になるものですが、東京湾という海の真ん中から東京の街を眺める為、見晴らしも抜群です。海は、羽田から房総半島まで見通せ、冬の天気のよい日には富士山が見ます。そして、新橋からすぐというアクセスのよさを合わせもっています。東京のオフィスに勤める人々がアフターファイブにデートを楽しめる最高の立地です。また、東京のあちこちから、観覧車の美しいイルミネーションが見え話題となっています。
ここで、観覧車は、中から外を見る装置としての意味に、外から見させる装置としての意味が付与されました。単独立地と、景観上の貢献という点で、東京大観覧車は、観覧車の歴史に新たなページを書き加えたのです。