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益井先生は、私が大学時代在籍した管弦楽団時代顧問を務めていただき、公私共に大変お世話になった方
です。
「千年後を見つめる心」
國學院大學嘱託益井邦夫
客年錦秋、奈良・薬師寺に赴き、朝日を浴びて黄金色に輝く相輪や鴟尾をいただいた、真新しい西塔や金堂を眺め、堂内に入って久し振りに薬師三尊像や聖観音像と対面した。
北側では講堂の建築工事が朝早くから始まってゐて、さまざまな音が四囲に響き、また千年を遥かに超えた杉や檜材などの御用材の甘い香りが漂ってゐた。
かつて西塔の新築工事に入って程無くの頃、組物や妻飾などの製作に追はれてゐた宮大工の棟梁から、建築に纏はるエピソードを伺ったことがあった。
御用材はこれまで台湾産で賄はれてきたが、台湾では先年、自然保護のために伐採が禁じられたので、これからの寺院建築や修復は難しくなった。ここに用ゐた樹木は、薬師寺が創建された天武天皇の御代9年(680)前後に芽吹いたもの。同じ年輪を刻んだ材木でないと、東塔と同じ1300年はもたない。当時の大工はどういふ道具を使って切り、削り、彫ったのだらう。
解体したいろいろな寺院の古材の肌を摩り、古文献にあたり、思考錯誤の末に槍鉋を創作したことなど、興味深い話を聞いたが、今でも語り草は、西塔が東塔より背が少し高いといふ理由で、「今は生木、1300年枯れれば東塔と同じ高さになる」。そこには1300年後の西塔の姿を思ひ描いた宮大工の旺盛な研究心があった。
似たやうな話で、明石海峡大橋の本州側と淡路島側に聳え立つ二本の橋脚の間隔が、下部に比べて上部の方が僅かに開いてゐるといふ。これは地球が丸いからだといふ。地球の大きさに比べたら点にもならない間隔であるのに、そこには地球規模で橋脚の幅を考へた現代匠たちのスケールの大きな思考力があった。
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薬師寺を出た足で、平城宮跡に近い真言律宗法華寺に向かった。奈良時代光明皇后が総国分尼寺として創建した法華減罪之寺である。平安時代以降衰退したが、鎌倉時代に西大寺の叡尊によって再興、だが明治初期の廃仏毀釈の時から西大寺派となり今に至ってゐる。それを元の姿に戻し、1250年の法要を護持し、光明宗として仏法興隆に努めようとする、その慶讚奉告法要に出席したが、ここでも千年を超越した悠久の昔を追ひ求める尼僧たちの清らかな心があった。
「造らうとせずに、無意識にできたものが美しい」と言ひ残した、名工荒川豊蔵さんは昭和5年、大萱(現、可児市)で志野の陶片を発見した。従来、志野を含めて黄瀬戸や瀬戸黒などの桃山時代の茶陶は瀬戸で焼かれてゐいたといふ当時の定説を覆し、その技法を復元した。釉薬がダイナミックに弾けた志野茶碗や黄瀬戸茶碗は彼の作品の魅力である。そこには500年近い過去を見つめた情熱があった。
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電子レンジの生みの親であり、集積回路技術をアメリカから導入して、電子卓上計算機(通称・電卓)を考案した佐々木正さんの今の夢は、ナノ粒子を液化した太陽電池を装填したソーラーカーの開発だといふ。
ナノとは10億分の1の単位で、電子顕微鏡の世界。彼はそれよりもさらに細やかな粒子の発見に努めてゐる。細やかに粒子になると、ちょっとした光にも敏感に反応して、より強力な電気を生む。石油や原子力に代る、無公害クリーン・エネルギーである。太陽の光を存分に活用する夢の電池の実用化は近い。そこには億といふ単位を超えた世界に挑み続ける科学者たちの熱意がある。
今年は皇紀2660年。世間では西暦2000年と騒いでゐるが、それよりも660年も古い。しかも最近の遺跡発掘調査の結果、日本人の歩んできた歴史の長さをさらに延ばした。かういふ世界に精魂傾ける人々がゐる限り、日本民族の将来はまだまだ明るく、捨てたものではないと思ふ。
神社新報平成12年1月31日 第2539号から転載
