土の曜日は、守護聖の仕事は基本的にはお休みである。そんな日にわざわざ仕事をしような
んて物好きは、守護聖の中では一人しかいない。その唯一の物好き、ジュリアスは先ほどから
イライラとした様子で書類に目を通していた。と言うのも……。
バタバタバタバタバタ!!
「こちらにはいらっしゃらないわ」
「こちらには、おいでになりませんでした」
バタバタバタバタバタ!!
「そちらはどうでした!?」
「こちらもダメでした」
廊下でずっとこんな声と、誰かが走り回る音が聞こえていたからで。
「騒々しい。一体何事か?」
遂に業を煮やしたジュリアスは、ドアを開けると執務室から出て行った。
「ジュリアス」
「ロザリアではないか。この騒ぎは何事か?」
「それが……」
ジュリアスが聞いた途端、ロザリアの顔が曇る。補佐官のロザリアは優秀な女性で、その有能
な仕事振りは、彼も一目置いていた。だが、そんな彼女にも一つだけ弱点があったのだ。以前
にも何度か、こんな風にロザリアが大騒ぎをした事があって、それを思い出したジュリアスは
ハッとした。
「まさか……!」
「その、まさかですわ」
「では、又、陛下は脱走されたのか!?」
大声で叫んだジュリアスに、ロザリアは慌てて言った。
「しーっ、お声が大きいですわ、ジュリアス」
「あぁ、すまぬ。で、陛下がどこに行かれたのか、心当たりは無いのか?」
「いえ、それがさっぱりですわ」
ため息をついたロザリアは、今朝の事を思い出していた。
アンジェリークが女王になってから補佐官のロザリアは、朝食はいつも彼女と一緒にとって
いた。ところが待てど暮らせど、この朝に限ってアンジェは現れない。《又、寝坊でもしてい
るのだろう》と、ロザリアは寝室まで彼女を起こしに行ったのだ。実際、女王候補の時にも女
王謁見の時に何度もアンジェが寝坊をして、ロザリアは何度も彼女を起こしに行っていた。そ
れはアンジェが女王になってからも変らずで、時に《守護聖達との謁見に遅刻しそうな》アン
ジェをベッドから叩き落して起こす事すらあったのだ。
「仕方ない娘ねぇ、いつまでたっても女王候補の時のままなんだから」
微笑を浮かべたロザリアはアンジェを起こしに行った。だが、その微笑みは瞬時に凍りついた。
と言うのは、ベッドの中はもぬけの殻だったのだ。ベッドに寝ていたのは金色のかつらをかぶ
せて、ご丁寧にピンクのネグリジェを着せられたテディベアだった。慌てて部屋を見渡すと窓
が大きく開けられ、ガラス窓には一枚の紙が貼り付けてあった。
『ロザリアへ ちょっとだけ出かけてきます。心配しないでね。』
この手紙を読んだロザリアは卒倒しそうになった。
「あの娘ったら、又、逃げたのねっ!!」
そんなわけで、ロザリアとその部下達がアンジェを探しているのだが、どこに行ったのか一向
に姿が見えない。
「どうしましょう、ジュリアス。もしも、陛下に何かあったら……」
「落ち着け、ロザリア。私も、陛下のお探ししよう」
「えぇ、お願いいたしますわ」
心配のあまり涙ぐむ彼女に言ったジュリアスは、さっそくアンジェの捜索に協力する為にその
場を後にした。
ジュリアスは自分の部下達に秘密裏にアンジェの捜索を行うよう命じると、自分でも心当た
りを探した。だが、アンジェはどこにもいない。こんな時に彼が頼りにするのは、思慮深く博
識なルヴァで、この時もその例に漏れず、彼の知恵を借りる事にした。
「ルヴァ、いるか?」
ルヴァは日の曜日であっても、大抵は図書館級に本が多い執務室で本を読んでいる。さもなけ
れば図書館で本を読んでいるか、自分の館の図書室。それで無ければ、釣りと言うのが彼の日
の曜日の過ごし方だった。
「はーい、どなたですかぁ?」
言いながらドアを開けたルヴァは、眉を顰めた。一瞬、本当に一瞬だったので、アンジェがい
なくなったのに頭が一杯だったジュリアスは気がつかなかったのだが。が、ルヴァはすぐにい
つもの人のいい笑顔になり、ジュリアスを迎えた。
「おやぁ、ジュリアス。今日は一体どうしました? あぁ、ちょっと待ってくださいね、今
お茶を持ってきますから」
「いや、すまないがそんな暇は無いのだ。ルヴァ、陛下が又、脱走なされた」
「はぁ、又、ですかぁ。今月に入ってから、これで4度目ですかねぇ。前回は、確か…」
放って置けば何時までものんきに喋っていそうなルヴァに、ジュリアスは急かすように言った。
「今月に入ってからは、5度目の脱走だ。それで、ルヴァはどこか陛下の行きそうな場所に
心当たりは無いか」
ジュリアスの質問に、ルヴァはいつもののんびりした口調で応えた。
「ありますよ。ええとですね、陛下は、今日はクラヴィスの所に行くと仰ってましたよ」
「何、クラヴィスの所だと!? そうか、では、すぐに行くとしよう」
「あっ、ジュリアス…」
ルヴァが声をかけた時には、彼は部屋を出て行ってしまった後だった。
「陛下は、私の所に来た後すぐにクラヴィスの所へ行くと言っていたので、今頃はオスカー
の館にいると思いますけど。でも、まぁ、構いませんね。たまにはジュリアスに意地悪を
したとしても、罰は当たりませんよねぇ?」
窓の下を走るように歩いて行くジュリアスを見送りながら、ルヴァは一人呟いた。呟くルヴァ
の机には『体が疲れている時に 胃に優しい食事メニュー』と書かれた本が乗せられていた。
「…………に、安らぎを」
クラヴィスの館についたジュリアスがドアをノックしようとすると、彼の部屋の中からはこん
な声が聞こえる。
(珍しい、奴が休日に仕事か? 普段でも怠慢なクラヴィスがか?)
不思議な事もあるものだと思いつつ、ジュリアスはドアをノックするのと同時に部屋に入った。
「クラヴィス、入るぞ」
「お前か。何の用だ?」
クラヴィスはジュリアスを見ると、露骨に眉を顰めた。
「陛下が、又、脱走なされたのだ。ルヴァからお前の所へ向かったと聞いたのだが……」
そう言いながら部屋の中を見回すジュリアスに、クラヴィスは面倒くさそうに言った。
「陛下ならここには居らぬぞ。さきほど、オスカーの所へ向かうと仰っていたようだが」
「何っ、それを早く言え。私はこれから陛下を連れ戻しに行く。お前はくれぐれもこの事を
内密にするように」
「あぁ、わかった」
ジュリアスが部屋から出て行くのを確認したクラヴィスは、ふっと微笑むと小声で言った。
「そう言えば陛下はオスカーの所へ行く前に、リュミエールの所へ行くと仰っていたのだが、
それぐらいの嫌がらせはしても構うまい。お前もそう思うだろう、オスカー?」
「ジュリアス様には申し訳ないのですが、今回に限って言えばそうですね」
物陰から姿を現し答えたのは、ジュリアスがたった今向かったオスカー本人だった。
「それにしても俺がいたのにも気が付かないとは、ジュリアス様も相当に慌てておいでのよ
うですね」
自分の敬愛するジュリアスと犬猿の仲のクラヴィスとは、オスカーもあまり仲が良くない。な
のに、なぜかオスカーはそのクラヴィスと親しげに話している。
「しかたあるまい、あれもロザリア同様に陛下が一番大事の人間だからな」
そして、クラヴィスもオスカーに苦笑交じりに頷いた。
一方、ロザリアもアンジェを探して聖地中をさまよい歩いていた。と言うのも、一つの所で
アンジェに関する情報を得てその場所に行くと、すでにそこには彼女いないのだ。で、別の場
所に行くと、そこにもアンジェはいない。そう言うわけで数ヶ所を探したロザリアは、くたく
たになっていた。
「えっ、ここにも陛下はいらっしゃいませんの?」
マルセル、リュミエール、ランディと次々に館を訪ねた後に、オリヴィエの館にたどり着いた
ロザリアは、息も絶え絶えになっていた。
「うん、そうなんだ。陛下はあたしのとこに来てから、クラヴィスのとこに行くって言って
たけど…って、お待ちよ」
オリヴィエが言い終わる前に部屋を飛び出そうとしたロザリアを見て、彼は慌てて腕を引っ張
って止めた。
「ロザリア、あんた、ヨレヨレじゃないの。今日は朝からずっと陛下を探し回っていたんだ
ろ。お茶でも飲んでいったら?」
「そうも参りませんわ。陛下にもしもの事があったら、私…」
目を潤ませ、それでもアンジェを探しに行こうとするロザリアを見て、オリヴィエは天を仰ぐ
とため息をついた。
「リュミちゃん、これじゃあロザリアがかわいそうだよ。ジュリアスはそのままにしとくと
して、ロザリアにバラしちゃったらダメ?」
「そうですね、このままロザリアまで巻き込まれたのでは不憫ですから」
言いながらリュミエールはお茶とお菓子を乗せたトレーを運んできた。
「オリヴィエ、リュミエール、あなた方は何かご存知ですの!?」
ロザリアは叫ぶと二人に詰め寄った。
―――結局、その日、ジュリアスが懸命にアンジェの居場所を探したのにもかかわらず、彼
女を捕まえる事は出来なかった。なぜか誰の館に行っても《ついさっきまでいたのに》アンジ
ェとすれ違いになってしまうのだ。ジュリアスは考えた末に、守護聖全員にアンジェが来たら
その場に引き止めて、自分に連絡するように申し付けた。だが、そうして執務室に戻った直後、
館から大至急戻るようにと連絡があったのだ。その連絡を告げた者のただ事で無い様子に、彼
は《もしや陛下の身に何か起こったのでは》と考えた。けれど、何が起こったのかを聞いても、
一向に要領を得ない。考えた末にジュリアスは、一旦、自分の館に戻る事にした。
「一体、どうしたと言うのだ!?」
「ジュリアス様、それが……」
「お帰りなさ〜い」
長年ジュリアスに仕えている老執事が言いかけた時だった。バックにハートマークでも散らし
ていそうな明るい女性の声が聞こえ、ジュリアスは声の主を見た。
「へ、へい、へい…………」
彼はそう言った切り声も出せずに、口をパクパクと動かし続けた。
「やだ、どうしたの、ジュリアス。もしかして、何かの病気かしら?」
声の主は、ジュリアスが必死で探し回っていた女王・アンジェリーク、その人だったのだ。
「えーと、熱は無いみたいね」
なぜかピンクのエプロンをつけたアンジェは、無邪気に言うと彼のおでこに掌をピタッと当て
た。
「陛下っ、一体、こんな所で何をしてらっしゃるんですかっ!?」
ジュリアスが叫ぶのを見て、彼女は思い出したように言った。
「そうそう、すっかり忘れてたわ。ジュリアス、お食事にする、それとも先にお風呂にする?」
「はっ!?」
ニコニコと、まるで天使のように微笑んだ女王陛下にこう尋ねられ、ジュリアスは軽いパニッ
クに陥った。
「へ、陛下、一体何を……?」
「だから、ご飯とお風呂とどっちがいい? あっ、そう言えばこんなのもあったわね」
ニッコリ。
アンジェはかわいらしく微笑むと、ジュリアスの頭に爆弾を落とした。
「それとも、わ・た・し?」
まるで新婚家庭の奥様のように色っぽくしなまで作るアンジェは、天使と言うよりは子悪魔の
方が似合っていたかもしれない。途端に首まで真赤になって何もいえなくなってしまったジュ
リアスに、彼に仕える老執事は同情したような視線を向けた。
その頃、いつの間にやらクラヴィスの部屋に集まったロザリアと守護聖達は、大画面に映さ
れる新婚さんのいちゃつきもどき、もとい、ジュリアスがアンジェのかわいらしい攻撃にさら
せれている様子を見ていた。どういう仕掛けかはわからないが、クラヴィスの水晶球に映され
る画像が、彼の部屋に設置された大画像に映し出され、彼等はそれを見ていたのだ。
「な、何ですの、あれは……?」
わなわなと振るえながらロザリアが問うと、
「見ての通りだ」
と、クラヴィスが短く答えた。
あれから、アンジェを探し回ってへとへとになっていたロザリアは、オリヴィエとリュミエ
ールから事情を教えて貰っていた。で、今回の《女王陛下脱走計画》に関わった者達と一緒に、
アンジェと計画の原因になったジュリアスの様子を覗き見していたのだが。
「ったく、陛下も趣味悪いわよねぇ。ジュリアスなんかの為に、『オリヴィエ、最高にかわ
いく見えるエプロンとお化粧の仕方を教えて』なんて言ってくるし」
オリヴィエが顔をしかめて言えば、ゼフェルが言う。
「俺なんかなぁ、『最近、ジュリアスが仕事のし過ぎで疲れているみたい。どうにか仕事の
能率が上がるように、パソコンの改造お願いできないかしら』なんて頼まれて、ここしば
らく王立研究院に通い詰めだったんだそ」
「私は、今日ジュリアスに安らぎを与えるように頼まれた。だが、女王陛下にあれだけ気に
かけてもらえれば、そんな必要はあるまいに」
大画面にはアンジェがジュリアスの口元にスープを入れたスプーンを運び、真赤な顔した彼は
必死でそれを断っている所だった。さしずめ、
『はい、あーんして』
『そ、そのような事は出来ません』
といった感じだろうか。それを見るクラヴィスは、果てしなく不機嫌だった。
「僕だってそう思いますよ。いいですよね、ジュリアス様は。陛下はジュリアス様がリラッ
クス出来る香りの花を、僕の所から持っていっているんですよ」
「俺の所からは、食後のコーヒーを調達している」
「私の所からは、夕食に使うハーブです」
マルセルが羨ましそうに言うと、オスカーとリュミエールも大きく頷いた。
「俺は、その荷物の全てを持ってジュリアス様の館までお供したんですよ。ルヴァ様、俺、ジュリアス様だけが陛下にそこまで想われているなんて、不公平だと思います」
最後に言ったのはランディで、
「えぇ、本当に許せませんわ」
ロザリアは拳を握り、怒りのオーラを燃え盛らせながら言った。
「前回、陛下が脱走なさったのもジュリアスに手作りのクッキーを届ける為でしたし、今回
もジュリアスの為。私、今度と言う今度は許せませんわ」
ロザリアの顔には《許すまじ、ジュリアス!!!》と大きく書かれていた。
「そうですよね、ジュリアス様だけが毎回いい目を見るなんて、そんなのズルイ」
マルセルが言うと、
「そう言えばこんな物があったのだが、リュミエール、お前もどうだ」
いつの間にやら、ジュリアスそっくりの人形と針を手にしたクラヴィスがボソリと言った。
「まぁ、クラヴィス様。なんと言う事を」
言いながらもリュミエールの手には何本もの針が握られている。
「俺の道具箱にはかなづちと五寸釘があるぞ」
「おっ、ゼフェル、気が利くじゃないか」
「あっ、ズルイよ、ランディ。僕も五寸釘貸してよ」
ゼフェル、ランディ、マルセルは、仲良く手と手にかなづちと五寸釘を持って爽やかに言った。
その後ではオスカーが苦悩に満ちた表情で、アンジェといちゃつく画像の中のジュリアスに
切々と訴えていた。
「お許しください、ジュリアス様。俺はジュリアス様を裏切るわけではありませんが、守護
聖として陛下をお守りする義務があるんです」
それを聞いたオリヴィエが、すかさず茶々を入れる。
「何気取ってんの、オスカー。あんたはアンジェちゃんをジュリアスに奪われてもいいの?
あたしは、そんなのごめんだからね」
「本当ですよぉ、オスカー。例えジュリアスが首座の守護聖だとしても、私達は彼の横暴と
断固として戦わなくてはいけません」
手に『必ず成功するライバルを蹴落とす100の方法』と書かれた分厚い本を手にしたオリヴィ
エに、『男女が別れる100の理由』と書かれた本を手にしたルヴァはニッコリと笑った。
そんな皆の様子を見ていたロザリアは、満足げに微笑むと厳かに言った。
「皆様、これよりこの私、補佐官のロザリアと、ジュリアス以外の守護聖で一致団結して、
アンジェ、いえ、陛下をジュリアスの魔手からお守りしましょう」
彼女の宣言に、ジュリアスを除いたその場にいた者達は全員で
「お―――っ!!」
と、勇ましく声を上げた。
「見てらっしゃい、ジュリアス。私からアンジェを奪うなんて、例え首座の守護聖だとして
も許さなくてよ」
ロザリアは、未だにアンジェと幸せそうにくっ付いているジュリアスを睨みつけた。
その翌日から、ジュリアスとそれ以外の守護聖達との親密度は壊滅的に悪くなった。原因が
わからずに悩むジュリアスをアンジェが心配して構い、その結果益々親密度は悪くなるのだが。
どうして皆の態度が急変したのか原因がわからず、ジュリアスは悩みまくったのは言うまでも
無い……。