風がひも解き、水が歌った

01.05.03


 褪せて黄ばんだ古い楽譜を、視察の土産だと言ってリュミエールに手渡したのは、
 風の守護聖ランディだった。風の守護聖は、これでなかなか目ざとい性質で、
 外界に行くたびにめずらしい物を見つけて聖地に持ち帰ってくる。
 今回ランディが女王の名代として視察に赴いたのは、古い歴史を誇る尚武の惑星で、
 勇気の守護聖である彼はそこで熱烈な歓迎を受け、たくさんの記念の品を贈られた。
 その中の一つがこの楽譜で、視察先の惑星の軍楽隊に伝わっていた文化財級の代物だという。
「これは、めずらしい物ですね。かなり古い楽譜なのでしょう。」
 ランディから楽譜を受け取ったリュミエールは、乾いた音を立てる紙を慎重に広げた。
 黄ばんだ紙には、音符とともに見慣れない文字が丁寧に書き込まれていた。
「読めそうですか?」
 期待を込めて訊ねるランディに、リュミエールはすまなそうに首を振った。
「いえ…何か歌詞が書いてあるようですが、残念ながら私には読めません。
 この文字自体は、見たことがあるような気もするのですが…。」
「そうですか。」
 ランディは目に見えない程度だが、がっかりした様子を見せた。
「ですが、旋律をたどることはできそうですよ。」
 リュミエールは神妙な顔つきで、半ばかすれて消えかかった譜面に目を走らせる。
「この曲、ハープで奏でることはできそうですか?」
 しばらく譜面を眺めたあと、リュミエールは微笑みながらうなずいた。
「ええ、今度のお茶会のときにまでにこの曲を練習して、
 皆様の前でお聴かせいたしましょうね。」
 

 夕方、私邸に楽譜を持ち帰ったリュミエールは、中庭にある小さな東屋で
 楽譜を紐解き、記されていた音符を時間をかけて丁寧に読んでいった。
 軍楽隊に伝わったというのが不思議なほど、その曲は美しく、激しく、もの悲しく、
 まるで恋歌のように切ない調べだった。
 ハープを手にしたリュミエールは、一呼吸おいてからその曲をつま弾き始めた。
 夜空にとけていく旋律はリュミエールの心を予想外に揺さぶり、ハープを弾き終えたあと
 彼は、しばらくそのまま円柱の間から夜空を見上げて一人感傷にふけることになった。
 

 数日後のよく晴れた土曜日の午後、ランディに約束したとおり、
 リュミエールはハープを小脇に抱えてお茶の会へと出かけた。
 庭園で開かれたお茶の会には、めずらしくすべての守護聖が顔を揃えていた。

 ジュリアスが皆の皿にケーキを取り分け、オスカーが紅茶をついでいる側で、
 ルヴァが視察先の惑星のあれこれについて、ランディに質問をしている。
 オリヴィエが果物を剥いている横でゼフェルは何かの図面を広げ、マルセルは
 小鳥にパン屑をやり、クラヴィスは木陰の涼しい席に陣取ってうたた寝をしている。

 おなじみの顔がそろったところで、リュミエールは、前回の視察の際に
 ランディからもらった楽譜の曲を披露したいと申し出た。
 他の八人は手を止めて、リュミエールのハープに耳を傾けた。
 軽く分散和音を奏でて調弦の具合を確かめると、水の守護聖は半ば目を閉じ、
 今日のためによく練習しておいた曲を奏で始めた。
 

 ハープを奏でているうちに、リュミエールはなんとなく違和感を覚えた。
 誰かの強い視線を感じる。
 水の守護聖はそっと顔をあげて、さりげなくあたりを見回した。
 そして意外な人間と目があった。
 眉を寄せ、何かに耐えているようなオスカーの顔。
 彼の鋭い氷青色の瞳が、リュミエールを食い入るように見つめている。
 居心地が悪くなったリュミエールは、演奏を予定よりも早めに切り上げた。
 

 演奏が終わると、演奏者のリュミエールに仲間の温かい拍手が送られた。
「素敵な曲でしたね、リュミエール様!」
「見事なものだったな。」
 一同のあげた称賛の声の中に、だが、オスカーの声はなかった。
「なんていう曲なんですか?」
 マルセルが、にこにこしながらリュミエールにたずねる。
「さあ、それは…曲名が知らない言葉で書かれていたので、私には読めなかったのですよ。」
 困ったように微笑むリュミエールに、オスカーが脇から静かな声で口をはさんだ。
「『ポーリュシカ・ポーレ』だ。」
「えっ?」
 だが、オスカーはそれ以上何も言わず、代わりにランディに向かって前回の視察について
 質問を始め、彼に詳しいことを尋ねようとしたリュミエールの言葉は宙に浮いてしまった。
 

 その晩、夜も更けた時刻になって、私邸にいたリュミエールのもとへ来客が告げられた。
 訪れたのは、普段は決して彼と親しいとは言えない炎の守護聖オスカーだった。
 だが、彼が来ることを半ば予期していたリュミエールは、特にあわてもせず
 客間に通す代わりに、彼を演奏用の小ホールに通した。
 小ホールに通されたオスカーはソファに腰を下ろすと、すすめられた飲み物にも
 手を着けず、静かな口調でこう頼んだ。
「今日、昼の茶会でお前が弾いた曲――あれをもう一度聴きたい。」
「わかりました。」
 リュミエールは余計な質問をしたりせず、ハープを抱えるとおもむろに弦を手を置いた。
 

 繰り返し繰り返し奏でられる、悲壮なまでに美しいハープの音色。
 オスカーは、追憶にふけるような表情でしばらくそれに聞き入っていたが、
 何度目かの演奏になったとき、ふと、朗々とした深みのある声で歌い出した。
 リュミエールが耳にしたことのない言葉。
 彼は、それが例の楽譜に載っていた歌詞だと気付いたが、
 そのまま手を止めず演奏を続けた。
 眉を寄せ、まぶたを伏せ、リュミエールの知らない言葉で
 切々と何かを歌い上げるオスカー。
 リュミエールの視線に気づいた炎の守護聖は、唇の端でにやりと笑ってみせると
 今度は、彼らが日常使っている主星の言葉で同じ歌を歌い出した。
 

 草原よ、草原
 広い草原よ
 駆けていく、英雄が
 遠い昔の英雄が

 風が運んでゆく
 そう、緑の草原を
 彼らの勇ましい歌
 なつかしい歌

 風が残すのは
 戦の誉れと
 ほこりまみれの路
 遠くへ続く路

 草原よ、草原
 多くの悲しみを見たことも
 血に染まったこともあっただろう
 遠い昔のこと
 

 炎のサクリアをのせた彼の歌声は、一瞬、風の吹き渡る草原の惑星の光景を
 幻のように浮かび上がらせた。
 

 コーダを響かせ、演奏を終えたリュミエールは、オスカーが口を開くまで
 穏やかな沈黙を保った。やがてオスカーがおもむろに声をかけた。
「いい演奏だったな。ありがとう、リュミエール。
 久しぶりに故郷の歌を聴けて懐かしかったぜ。」
 炎の守護聖はゆっくりと立ち上がり、感謝を込めてリュミエールの手を握った。
 

「あなたの故郷の歌だったのですか。」
 リュミエールが側にあった楽譜をオスカーに差し出すと、オスカーは器用な
 手つきで楽譜を広げ、氷青色の目を細めた。
「ああ、間違いない。草原の惑星の歌だ。
 ここに書かれていたのは、俺の故郷の言葉なんだぜ。」
 炎の守護聖の声は、とても優しい響きを帯びていた。
 草原の惑星に伝わるその歌の名は『ポーリュシカ・ポーレ』。
 故郷の草原への愛を歌い上げた『ポーリュシカ・ポーレ』は、オスカーが
 生まれた時代には、知らぬ者がないほど人々に愛され歌われた曲だった。
 だが、時代がたつにつれ、かつての愛唱歌も、いつしか忘れられていき、
 今では、別の惑星の軍楽隊の収集したこの古楽譜の中に、わずかに記録が残るのみ。
 生きているうちに、もう一度この曲を耳にすることができるとは思わなかったと
 オスカーは、あらためてリュミエールに礼を述べた。
「この楽譜は、ランディが視察先でいただいてきたものだとか。
 私よりもあなたが持っている方がふさわしいでしょう、差し上げますよ。」
「いや、いい。」
 オスカーは、首を振った。
「これは、お前が持っていてくれ。」
「よろしいのですか?」
 オスカーは、うなずいた。
「その代わり、俺のためにときどきこの曲を弾いてくれないか。」
「おやすいご用です。」
 リュミエールは普段の反目も忘れ、オスカーに穏やかに微笑んだ。
 つられたように、オスカーも笑顔を向ける。
「こんな血なまぐさい歌は、本当はお前の好みではないだろう?」
「いえ、とてもあなたらしい歌だと思いますよ。」
 この歌は、あなたを育んだ風土そのものですね。
 そう言って笑みをこぼすリュミエールに、オスカーは少しだけ目を瞠った。
 

 夜更けの星空の下を、濃紺のマントを翻して帰っていくオスカーの背を
 リュミエールはハープを奏でながら見送った。
 夜風がハープの音色をさらっていく。
 水の守護聖はハープの旋律に乗せて、たった今覚えたばかりの歌詞を口ずさんでいた。
 

 草原よ、草原
 広い草原よ
 駆けていく、英雄が
 遠い昔の英雄が
 

 草の波の中に立つ燃えるような紅毛の少年の姿が、星明かりの下で一瞬輝き、
 風の中に消えていった。
 


(終)

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