-最新作「ハーフ・ア・チャンス」は、アラン・ドロン、ジャン=ポール・ベルモントとの共演という大変豪華なキャスティングの作品となりましたが。
まずアラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモントが共演するというアイディアがあって、その後すぐにわたしを第三の人物として登場させようということになったの。だから彼らの再会が第一の目的だったんだけど、前にふたりが共演した「ボルサリーノ」の続編みたいにならないようにプラスαが必要だったのね。そのαがわたしだったわけ。
-ふたりの伝説的俳優の再会に立ち会えるなんて誰にでも巡ってくるチャンスではありませんよね。
そうね、とにかく、撮影前からすごく楽しみだった。わたしはふたりを見ながら大きくなったようなものだから。ふたりとも、わたしの子供時代を彩ってくれたスターなのね。たとえば、映画館で自分がスクリーンの中に入って行けたらと思う瞬間があるでしょう。今回の共演はわたしにとってそれが実現したようなものだから。それで、現場でわたしは、その再会を傍観する立場だった。それで、ふたりはずっと共演していなかったから、フランスでは、同世代の大スター同士ということで、彼らを敵同士だって思いたがる人が多いの。でも、実際は全然そうじゃない。それに、ふたりは大きな子供みたいなの。そんなふたりがこういう映画で共演したのは素晴らしいことで、ふたりとも心から楽しんでたわ。カッコいい車やヘリコプターに囲まれて、まるでおもちゃ屋さんに入った子供みたいだったわ。
-そんな国民的スターふたりとの共演と、ビッグ・バジェットという作品に出演した自分を女優としてどう評価しますか。
バジェットの大小によって、確かに、撮影の手段や規模など、いろんな事が違ってくるけれど、役柄へのアプローチは変わらないわ。女優としては、まず、その役を好きになること。それから、その役に入りこんで、役といっしょに生きるの。そうすると、台詞がその人物の言葉としてわたしの口から出てくる。それで、演技についてだけど、ふたりは山ほどアクション映画に出てきたけど、わたしは初めてだったの。ピストルを撃つのも、スポーツカーを運転するのも。これこそ映画の素晴らしいところよ。人の人生を生きるだけじゃなくて、自分自身として、自分の人生では経験できないことを経験できる。何週間も、ポルシェやフェラーリの運転を習いに通ったし。運転しているのは本当にわたしなの。とにかく女優として素晴らしい経験をしたわ。
-ルコントの作品に出演するのはもちろん初めてですが。
彼との出会いは素敵な驚きに満ち溢れていたの。ひとことで言うなら、わたしにとってはルコントは「太陽の光」のような人。本当にいっしょにいて楽しいし、仕事がしやすい人。何をしたいか、どうすべきか、どうすべきでないか。指示がものすごく具体的で明快なの。そしてわたしは、その監督の指示を迷うことなく100%信頼したの。
-今回の作品にしろ、今までの作品にしろ、共演者はかなり年上の俳優ばかりですよね。ルコントとの現場での関係性もそうだったようですが、年上の俳優や監督に囲まれて現場では頭を悩ませたりせず、直感に頼って演技することのほうが多いのでしょうか。
緊張すると、いろんなことを考えるものでしょう。でも、あんまり考えても仕方がないのね、答えは決して出ないんだから。わたしはこうなるかな、彼はどうするかなって、いろいろ考えたり想像したりするけど、結局なんの役にもたたないのね。わたしはどうするか予め決めることはしない。それより発見や驚きのほうが好きなの。
-現在25歳なわけですが、この作品での役柄からいってもいまだあなたに対するロリータ幻想がまとわりついている気がしますが。
「ロリータ」って、つまり、ナバコフの小説の主人公の通り、年は若いけど女の雰囲気を持った、つまり男性に女を感じさせるような女の子じゃない?確かに、わたしをこの言葉で形容する人は多いわ。でも、それって、オリジナルな表現じゃないのよね。単にわたしがすごく若かったっていうだけの理由だったのよ。わたし自身は、自分をロリータだと思ったことは一度もないわ。わたしは年輩の人にも若い人にも同じように好きになってもらいたいし。ううん、それよりも、たったひとりの人に愛されるのがいいわ。そういう人が見つかったときにね。
-とはいえ、今まで演じてきた役柄は、そういうイメージですよね。
いいえ、そうじゃないわ。若いからって、必ずしもロリータだとは限らないでしょ。誰にでも、14、15歳の時はあるのよ。わたしはただ、若い女の子の役をやっただけ。確かに、わたしがやった役にはあいまいなところがあったわ。相手役が年輩の人だったり、父親とされる人物だったり。でも、それはわたしが望んだり決めたりしたわけじゃなくて、自然とそうなっただけ。今までの役は、別にロリータ風の衣装が気に入ったからやったんじゃなくて、それ以外の理由、特に全体の設定が気に入ったから、もしくは脚本が美しかったからやったのよ。ロリータかどうかなんて、考えもしなかったわ。見た人が想像するのは自由だけど。わたし自身は、仕事をするときにロリータのことなんて考えないわ。
-ロリータというレッテルはあなたにとって邪魔なものだということですね。
ロリータにこだわってるみたいね。それを受け入れるっていうより、わたしには人の考えを変えることはできないのよ。間違いを正すために、時間を費やすことはできないの。人がわたしをどう見るかをわたしは変えられないし、それは見る人の問題であって、わたしには関係ないと思ってるから。
-あなたに対するロリータ幻想は年齢とともに崩れさっていると思いますか。
そうね、年を取ればロリータ幻想なんて崩れるしかないわ。永遠にロリータを守り続けることなんて不可能だもの(笑)。もし続いているとしたら、みんなロリータのなんたるかを知らないってことになるわね。だってわたし、本物のロリータより10歳も年上なのよ!みんな、イメージが固定してるのね。10歳若く見てくれるのはかまわないし、ノー・プロブレムだけどね。話がずれるけど、仕方がないことなのよ。もっとずっと酷い見方をされることだってあるのよ。だから、ロリータに見られるぐらいどうってことないわ。ロリータに関する質問が4つも続いたわね!
-そういったあなたへのレッテルも含めてあなたは今までマスコミとある種散々戦ってきたわけですよね。それがここへきて変化しているように感じます。たとえば、フランスの評では、この映画「ハーフ・ア・チャンス」は作品としての評価はあまり高くないようですが、その一方で、あなたの女優としての評価はかなり高かったように感じるのですが。
演技が評価されたのは、もちろんそれなりの出来だったからだけど、それは作品のごく一部でしかないわ。ただマスコミのわたしへの評価にそういう変化が起きたのは確かね。歌手としてより、女優としての評価のほうが主だけど。
-その反面、私生活についてはマスコミのあなたへの関心はいまだスキャンダラスなものとしてが多いようですが。
そういう話にはいつだって興味を示すものよ。あなただって、興味あるでしょ? そう、今も続いているわ。それぞれが好きなことを言ってるけど、そういうものなんじゃない?
-12年前のデビュー当時、「ファム・ファタル」というレッテルを貼られ、それに振り回されはしなかったのでしょうか。
11年よ。わたしは、自分をファム・ファタルだなんてもちろん思ってないわ。その日の天気や気分によって変わる、ただのひとりの女だと思っているだけ。優しいときもあれば、意地悪なときもある。きれいなときもあれば、カッコ悪いときもある。バカなときもあれば、賢いときもある。誰だって毎日変わるものなのに、みんな写真みたいに固定しようとするわ。人って本当は複雑でしょ。今だって、こういうインタビューで、確かにあなたはわたしについて何かを知るわ。でも、たった1時間会ったくらいで、お互いを理解したとは言えないじゃない。だいたい人がいう事の90パーセントは間違いで、正しいのは10パーセントにも満たないんだから。読んだ話、聞いた話、勝手な噂話、全くの作り話、いろいろあるけど、いずれにしても常に山ほどの間違いがあって、さっきも言った通り、いちいち全部を訂正してる時間なんてわたしにはないの。そんなことに時間をとられてたら、他のこと特に本来大切な仕事、自分の情熱を傾けるべきことができなくなってしまうじゃない。だから、あれこれ言われても関係ないと思うようにしてるの。
-そういうことを幼いときに経験して、大人になることを強いられたと思いますか。
そうね。だから、最初はかなり苦しんだわ。14歳にしていきなりジャングルのような世界に入れば、普通ではいられないのは当然だから。14歳のときは、物事を相対的に見ながら自分にとっていいことと悪いことを区別したりできなくて…。だから、全部をまともに受け止めてしまってとても苦しんだの。それで自然に、そういうことは見ないよう、気にしないようになったの。そうやって自分を守る方法を覚えたの。だから、大人になるってことだったと思うわ。
-まわりの大人をある種敵対視しなくてはいけなかったということは、相当辛かったと思いますが。
そうね。でもそれは、ひとことで言えるほど単純じゃなくて、本当に複雑だったわ。たとえば、大人っていうものが必ずしも親切なものじゃないとかそういうことがわかったとかいうレベルじゃなくて、大人がどういうものか一から学んだのよ。それまでのわたしにとって、大人といえば家族だったから、この仕事して初めて大人がどういうものかを知るようになったわ。もちろん、悪い大人ばかりじゃなかった。素晴らしい人にもたくさん出会ったもの。つまりわたしが今言ってるのはマスコミのことよ。マスコミって、そもそも他人のことをあれこれ書いたり判断するのが仕事だから。だけどその対象にされるっていうのは本当に辛いことだわ。結局、人間は冷酷な面があって人の夢をぶち壊すことがあるの。そんな目にばかりあってそういうことに苦しまされると、その後、事態を理解しようと、分析しようと思うようになるのね。それでそれがいったん理解できると、そういう中でも生きていけるようになるの。選択ができるようになるの。わかるかしら。つまり、何がよくて何が悪いかとか、より分けられるようになるのね。
-状況が苦しかったのはいつですか。
14歳から16歳。
-なぜ、それほど批判されたのだと思いますか。
「成功」ね。成功っていい意味でも悪い意味でも、人の反応を引き起こすものよ。歌を出しても、全然売れなかったら誰も関心すらもたないでしょ。誉められも、貶されもしないわ。わたしの場合、成功があまりにも大きすぎたの。すぐにレコードが世界中でヒットして、わたしも世界中を回ったわ。そういう状況こそが嫉妬心を引き起こしたり、何らかの反応を起こさせるものなのよ。
-先ほど、自分に関して言われることの10パーセントしか真実でないと言いましたが、残りの90パーセントは、どういうときに出てくるのでしょうか。
90パーセントっていうのは正確な数字ではなくておおよそよ。それで、完全に自分を見せるのは、熱い砂に足を入れているとき(笑)。
-家族とか、ボーイフレンドといるときとか?
あと、友達とか。ただし、あくまでも完全にっていうことならね。だって、今こうして話してるわたしも、わたし自身には違いないのよ。変に聞こえるかもしれないけど。別に演技をしてるわけじゃないし、話を作って答えてるわけでもないの。わたしは本当のことを話してるのよ。ただ真実をすべて話すんじゃなくて、その中から話したいと思う部分を話してるっていうだけでね。
-世間のイメージと本当の自分とのギャップで苦しんだことは?
別に苦しんだっていうことはないわ。わたしは、本来どっちかというと内気で控えめな性格なんだけど、仕事のおかげで激しい面を持つことができるの。プライベートでは、テーブルに乗って踊ったり、目立とうとするタイプじゃないの、わたし。でも、仕事では、そういうことが求められるし、許される。だから仕事では、舞台の上でもどこでも、完全に解放された気分になれるの。でも、だからって、自分が分裂しているわけじゃないわ。まさにそのためにこの仕事をしてるんだもの。自分を表現したり、強烈な素晴らしい時間を過ごすためにね。ジキルとハイドみたいに分裂してるわけじゃないわよ。ふたつの違った感覚を味わえるのは、いいことだし、どちらも同じわたしなの。
-辛かった時期に挫折せず、それでも頑張ってこの仕事を続けられたのはなぜだと思いますか。
ともかくこの仕事が好きなの。仕事とともに生きてきたと言っても過言ではないわ。音楽と映画といっしょに。映画は後から始めたから、最初は主に音楽だったんだけど。だから頑張れたんだと思う。それから、家族にすごく恵まれているの。ママやおじさんやパパ。親しい友達もわたしを信じて応援してくれた。この世界ではあらゆることが現実と少しずれていて、頭でっかちなんかになりやすいんだけど、幸いそういう人たちがまわりにいて、わたしを守ってくれたの。ごまかしたりせずに、いつも本当のことを言ってくれた。それも頑張れた理由ね。
-キャリアを重ねる上で家族以外に何か信じられるものはありますか。
自分の欲求と直感よ。何が正しい選択なのか、確信を持つことは決してできないものでしょ。って言うか、結果がどうなるかは決してわからない。でも、自分が何をやりたいかについては確信が持てる。本当にやりたくて引き受けた仕事なら、心の底から取り組めるものじゃない。わたしは疑う気持ちよりも、何かをやりたい気持ちの方が強力なものだと思ってるの。わかる?それで前進するのよ。
-それで、この11年でどれだけ前進できたと思いますか。
わからないけれど、たくさんのことをやればやるほど、多くのことを示せるし、それだけ好かれる理由もふえてくるんだと思うわ。年月とともに、いろんなことを証明できるのね。ただ、終りはないのよ。高い評価から、一夜明ければ悪評に変わることもある。つまりこの職業は、いつもいつも、永遠に問い直され続けるのよ。それでもキャリアを重ねれば、少しは確立される部分もあるわ。それで、少し何か自分の中でプラスされるの。
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