午後八時のお騒がせ

 

 突然の電話
「暇?」受話器をあてる間もなく、聞き慣れた声が響いた。「これから行っても
いい?」
出し抜けの言葉に戸惑う ―――― 返事に困った
 深く考えずに発した曖昧な頷き ―――― 曖昧さに突け込まれた。「じゃ、こ
れから行くわ」
 反対しようにも、一方的に電話が切れた。
 困惑と共に苦笑が自然と浮かぶ ――――― やれやれ、どうしたものかと、取
り敢えずは来客を迎える為に部屋の片付けを ―――― ドアチャイムが来訪者を
知らせる。
 不意のチャイム、自然と視線が時計に向く、針が殆ど進んでいない ――― い
くらなんでも早過ぎる
「やっほー!」ドアを開けると、明るい声とともに声の主が跳び込んで来る。
「どこからかけたの」半ば呆れた態度を装い、取り敢えず訊いてみる。
 曖昧な返事を返しながら目前の女性は、玄関口できょろきょろと辺りを見まわ
していた。
 身を乗り出し、家の奥を覗き込む、「下の公衆電話」人の顔を覗き込み、伺う
ように応えた。「 ――――― それよりも、はい!おみやげ」左手に下げたコン
ビニ袋を掲げる ――――― 中身は疑い様もなく、酒の摘みだった。
「だんなは?」袋を受け取り、取り敢えず礼を言う。返ってくる返事で、玄関の
鍵を閉じるか判断しよう。
「・・・けんかしちゃった」それまでの陽気な態度が一変する。顔を俯け気味に
低い声で答えた。
 あぅ ―――― 続ける言葉に困る。どうしたものか・・・「まぁ、ここじゃな
んだし中に入って」
「えぇ ――― 」彼女が弱々しく頷き答える。
 視線が重なり合う、大してしょげているようには伺えない。肩に掛った後ろ髪
を揺らしながら勝手知ったる家の中に入っていく。
 思わず漏れる溜息、彼女の後姿を見ながら玄関の鍵を閉じた。



「相変わらずね ―――― この部屋は」断りもなく人の部屋に乗り込んだ彼女の
一声。「それに・・・また本 ――― 増えたようね」机の上に詰まれた書籍の柱、
到るところに山積みにされた本の山を見て、率直な感想を述べたのだろう。
「まぁね ―――― 人の部屋の観察よりも、こっちにおいで」
「ふぅ〜ん」後ろ髪引かれる思いを切って、居間に引き返してソファーに坐る。
「コーヒー?」つまらないことを尋ねているな、食器棚の引き戸を開けてスコッ
チの瓶を取る。「それともこれにする?」
 分かりきった質問だった ―――― 当然、後者が選ばれた。
 グラスを二つ ―――― 一つを彼女の前に置いた。
 硝子卓の上に置かれたグラスを脇から眺め、急に萎れた彼女のグラスにスコッ
チを満たした。「それで・・・どうしたの」
 最初の一口、彼女が蒸せる。
「水で割ろうか?」
 首を振って断り、彼女は語り始めた。喧嘩の理由は、いつもの如く、他愛も無
い切っ掛けが原因のようだった。
 二人が始めて一緒に行ったレストランのメニューを、今日の夕食に作り、だん
なが気付かなかった ――――― 他人にしてみればくだらない理由、しかしその
くだらない理由が喧嘩の発端らしい
 思わず枯れた笑いが漏れる、だからどうしろと?
 止め処も無くだんなへの愚痴が続く。
「・・・気は済んだか」彼女が突き出す空いたグラスを受取った。
「まだ!」 ――――― なんとも、まぁ、見事なまでに付入る隙のない答え。満
たされたグラスを受取り、彼女は飲み込んだ。
「あ・・・そう」これ以上なにを言っても無駄だ、彼女の気が済むまで話させよ
う。
 不意に乾いた破裂音が外に響いた。
「・・・なんの音?」彼女の気がそれる。
「ベランダに出ればわかるよ」
 返事を聞くなり、好奇心に打ち勝てず彼女が立ち上がった。
 ベランダと隔てる窓を開けてあげる。暫くは夜空に打ち上がる無数の華たちが
彼女の相手をしてくるだろう ―――― その間に彼女の家に電話をかけよう。



「綺麗 ―――― 」夜空に咲く花火に見惚れた彼女の呟きが聞こえる。
「よかったね ――――― 住んでいる方としては、毎晩だから迷惑だけどね」彼
女の横に並んで、東京湾の灯りに目を向ける。
 遥か彼方に千葉港の灯りが浮かんでいた。
「・・・そんなものなのよね ―――― 世の中って」出し抜けに、悟り切ったよ
うに彼女が答えた。
 いつしか花火は終わり、道に連なる車の絶え間ない光りの流れを見下ろす。
「いつもの事だと、ありがたみもなくなるのよね」彼女が寂しげな呟きをもらし
た。
 彼女のことを黙ったまま見据える ―――― 寂しげな表情が溜息を堪えていた。
「毎日、あの人と顔を合わしていると・・・・」
「でも、それを覚悟して一緒になったんだろう ―――― 我慢しなきゃ」
 彼女が素直に頷き答えていた。
「はい ――― 」彼女の前に電話の受話器を差し出す。
「これは?」戸惑い半分で、彼女は電話を受け取った。
「だんな」
「えっ?」彼女の表情が紅くなっていく。
「迎えに来てもらいな ――――― 」後ろ手に挨拶しながら、彼女をベランダに
残し、先に家の中に戻る。

 

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