資料館へ戻る   TOPへ戻る   大論争へ

纏向遺跡(まきむくいせき)

奈良県桜井市、三輪山の北西麓に所在する遺跡。巻向川の形成した扇状地上に立地し、その広さは300万平方mに達する超巨大遺跡である。遺跡名の「纒向」は、垂仁天皇纒向珠城宮・景行天皇纒向日代宮等、『記紀』にも登場する地名である。
 縄紋時代・弥生時代の遺構・遺物も多少みられるものの、遺跡のピークは弥生時代終末期〜古墳時代前期にかけてである。この時期の遺構・遺物はバラエティーに富んでいる。
 遺構では、巻向川の旧河道から水を引いたと思われる「纒向大溝」、浄化枡を備えた下水施設、多量の土器が出土した土坑群、方形周溝墓(前方後方形周溝墓を含む)、十数棟以上の掘立て柱建物跡などが発見されている。掘立て柱建物跡には、「祭殿」かと思われる方形プランの柱跡も含まれる。一方竪穴式住居址は数棟しか発見されておらず非常に少ない。
 また、遺跡内には、纒向石塚・纒向矢塚・纒向勝山・東田大塚といった、箸墓古墳に併行もしくは先行すると目される前方後円形の墳墓が存在することも注目される。
 遺物としては、大量の土器の他、「弧紋」という吉備地方に起源を持つ紋様を施した木製品や、鶏形の埴輪や木製品など、祭祀に関係すると思われる遺物が多く出土している。
 纏向遺跡最大の特徴は、出土した土器のうち約三割が、大和以外の外来の土器である点である。これら外来の土器は南九州から南関東にいたる日本列島各地の土器であり、中でも東海地方の土器が最も多い。また、朝鮮半島の韓式土器も出土している。
 以上のように、大溝の存在や外来系土器の出土は、物流の集積地としての性格を示している(時代は新しくなるが、この遺跡からは「大市」と墨書された土器も出土している)。また、この遺跡が、弥生時代あまり人の住まなかった地域に突如として出現したと見られることも、示唆的である。まだ遺跡全体の数%しか発掘されていないにも関わらず、これだけの豊かな情報をもたらしている纏向遺跡。「古墳造営のためのキャンプ地」「初期ヤマト王権の宮都」はたまた「邪馬台国の中心地」などさまざまの可能性が考えられている。

資料館へ戻る   TOPへ戻る   大論争へ