・三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)

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 後漢代以降流行する神獣鏡のうち、縁の断面が三角形を呈する鏡。
 樋口隆康は、三角縁神獣鏡を次のように定義する(『三角縁神獣鏡綜鑑』新潮社、1992年)。
1)径21〜23センチ大のものが最も多く、まれに径19センチや25センチのものもある。
2)縁の断面が三角形を呈している。
3)外区は、鋸歯文帯、複線波文帯、鋸歯文帯の三圏帯からなる。
4)内区の副圏帯は銘帯、唐草文帯、獣帯、波文帯、鋸歯文帯のいずれかが多い。
5)主文区は、四又は六個の小乳によって等間隔に区分され、その間に神像と瑞獣を求心式か同向式に配置する。
6)銘帯は七字区数種と四字区一種がある。
 三角縁神獣鏡は、日本列島における古墳出土鏡の中でも面数が多く、また多数の「同笵鏡(同型鏡)」を含むことでも知られる。これら出土鏡・同笵(同型)鏡には京都大学考古学研究室によって番号が付され、「三角縁神獣鏡目録」としてまとめられている。
 従来、三角縁神獣鏡は、「銅出徐州、師出洛陽」という銘文や「景初三年」「正始元年」という年号をもつものがあることから、魏で製作され、倭王卑弥呼に下賜された「銅鏡百枚」にあたるものと考えられてきた。小林行雄は三角縁神獣鏡が魏鏡であるとの前提に立ち、前期古墳に見られる同笵(同型)鏡の分有関係を研究して、初期ヤマト王権の政治構造や古墳の出現時期に関する体系的な学説を打ち立てた。
 一方、三角縁神獣鏡が中国大陸や朝鮮半島から出土していない*ことを根拠に、これを日本列島製とみる説も有力である。呉鏡との共通性から、江南の工人が列島に渡来して製作した、とするものである。
 小林の没後、若手研究者により三角縁神獣鏡の編年研究は大きく進展し、4〜5段階の変遷が想定されるようになった。また福永伸哉は、三角縁神獣鏡の鈕孔がほとんど長方形であることに着目し、これは呉鏡には見られず渤海湾沿岸地域の出土鏡と共通する特徴であること、また「いわゆる舶載鏡」と「いわゆる倣製鏡」とでは兄弟鏡を鋳造する方法が異なる可能性が高いことを指摘した。
 また、古墳での出土状況から想定される三角縁神獣鏡の性格についても、議論は深まってきている。例えば奈良県黒塚古墳では、30面以上の三角縁神獣鏡が棺をとりまくように出土した。これを「棺外への副葬であり扱いが軽い」とする見方と、「道教思想にのっとった、僻邪の鏡としての使われ方」**と評価する見方が対立している。
 「鋳型の出土」という決定的な証拠が得られないまま、製作地を巡る論争は現在も続いている。しかし舶載・国産いずれの説をとるにせよ、初期ヤマト王権の実態を明らかにするうえで重要な遺物であることだけは間違いがない。

*「三角縁」の「神獣鏡」自体は、洛陽での出土例がある(「日月天王」銘環状乳神獣鏡。洛陽金谷園駅附近出土。洛陽博物館所蔵)。しかしこの鏡の面径は14.3センチ。上記の定義1)や3)を満たさないことから、日本出土の三角縁神獣鏡と同種のものとは認識されていない(斜縁神獣鏡と説明する論者もいる)。
**三角縁神獣鏡の平均的な面径は、魏の尺度ではおおよそ九寸にあたる。葛洪『抱朴子』には、「古の入山の道士は、皆明鏡の径九寸巳上なるものを以って、背後に懸く。則ち老魅も敢へて人に近づかざるなり」とある。

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