この部屋には、文献関係の基礎知識が羅列されております。

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○公孫氏
 初代は公孫度、字は升済。遼東襄平の人。玄菟の郡吏から身を起こして冀州刺史となる。流言讒言で一度失脚するが、同郷の徐栄(董卓の中郎将)の推薦で遼東太守となる。彼を軽輩の成り上がり者と軽んじた者を粛正し恐怖政治をしいたが、高句麗や烏丸を相手に征戦も強かった。独立志向が強く、版図を広げて各地に太守や刺史を置いて、自らは遼東侯と自称、事実上の王として振る舞った。
 曹操の贈った武威将軍・永寧郷侯の印綬を「我は遼東の王。何でいまさら永寧郷侯だ。」と言って(といって棄てるでも叩き返すでもなく)武器庫にほうり込んだ話は、度の性格を物語るエピソードとして名高い。建安九(204)年に没。

 子の康は十二(207)年、曹操に追われて逃げてきた袁尚兄弟を殺して首を曹操に送り、康襄平侯・左将軍に列せられる。康の死後は、子の晃、淵らが幼かったため、弟の恭が推されて立ち、魏の文帝から車騎将軍・仮節・平郭侯に封じられた。この時期、魏とは平穏な関係を維持していた。

 公孫淵が成人して、太和二(228)年に病身の恭から位を奪ってからは、魏と呉の両国の間を行き来する危険なバランス外交で魏の圧力を凌ぐようになる。しかし蜀の孔明が陣没(234)して後顧の憂いがなくなると、魏も容赦がなくなった。景初元(237)年、毋丘儉ひきいる魏軍を退けると、淵はついに燕王を名乗り百官を置き、年号を紹漢とする。
 景初二(238)年春、魏は司馬懿仲達を繰り出す。いわゆる四千里征伐である。仲達の軍は六月に遼東に至って戦端を開き、八月に襄平を屠る。淵の首級は洛陽に送られた。仲達も翌元旦の明帝臨終の床に駆け戻った。
 倭女王卑彌呼の使者が帶方に詣ったのは、このさ中ではなく翌三(239)年六月の誤りであるとする説が一般的である。

 遼東公孫氏は、度が中平六年(189)に遼東に割拠して以来、淵まで三世四代、およそ五十年にして滅んだ。


○帶方郡
 朝鮮半島中部西岸にあった中国の郡。
 後漢の末、三国の鼎立に先だって、公孫氏は遼東を中心に事実上の自立を果たしていた。楽浪郡もその支配下にあったが、韓など現地勢力が強かった。このため、建安年間(196-220)に公孫康は武力を投入し、拠点として楽浪郡の南に新たな郡を置いた。これが帶方郡である。以後、倭・韓は帶方に属したという。
 魏の明帝は公孫氏を滅ぼす(238)にあたって、先に海を越えて楽浪と帶方を制し、その退路を断った。帶方太守劉夏が卑彌呼の使者の面倒を見るのは、それから間もなくのこと。
 後年、遼東を高句麗にとられて飛び地となった楽浪が衰え、遂に亡ぶ(313)のと前後して、帶方も消滅した。


○紀伝
 中国正史の定型様式。
紀は、帝紀,本紀などと言い、帝王の業績を編年的に記す。
志は、文化・法制・経済・人文地理・天文などの記録。
伝は、列伝で、人臣の事績を叙列して伝える。諸外国の地誌・民俗も列伝で扱う。
これに表が加わって、正史の基本形。


○三国志
 全65巻。うち本紀4、列伝26。志、表を欠く。晋の陳寿。
劉宋の裴松之による膨大な註(元嘉6:429)は貴重な逸失文献を引く。本文字句解釈の註ではなく、本文の補完に近い性格の註。


○陳寿(233-297)
 字は承祚。巴西郡安漢県の人。
父が馬稷に連座したこと、陳寿自身が蜀では諸葛瞻(孔明の子)に疎まれて不遇であったこと、恩師の[言焦]周が劉禅に降伏を勧めて国賊視されたこと等から、故国蜀に偏見があるという風聞があるが、誤った評価である。
 ややあって晋の張華の知遇を得、魏書30巻・蜀書15巻・呉書20巻(三国志)を著す(280頃)が、結局低水準の所で浮き沈みの多い人生を送る。三国志の評価が定着して正史に列せられるのは陳寿死後まもなくのこと。


○裴松之(372-451)
 字は世期。河東郡(山西省)聞喜県人。始め東晋に仕え、劉宋の中書侍郎。子孫にも史家を輩出。


○後漢書
 全120巻。うち本紀10,列伝80は劉宋の范曄の撰。志30は晋の司馬彪の著作を後世合わせたもの。
紀伝は多く東観漢記等に依拠するが、積極的に訂譌考異している。史記、漢書、三国志とともに四史と呼ばれる。
註は唐の章懐太子李賢。


○范曄(398-445)
 劉宋順陽の人。武興県侯、尚書吏部郎。元嘉元(424)、宣城太守に左遷された時期に後漢書を執筆開始。復って左衛門将軍、太子セン[憺-心]事に登るが謀反を讒言されて元嘉22(445)死刑となる。このため後漢書の志が完成せず。


○隋書
 全85巻。うち帝紀5,列伝50,志30。
唐初の貞觀10(636)に魏徴が顔師固らと帝紀・列伝を五代史の一つとして完成。同15(656)に李延寿らが五代史志(俗称)を完成。はじめ令狐徳芬/木、最終的には長孫无忌の監修。後世これが合わされて現行の隋書となった。従って、志は梁・陳・周・齊と隋五代の記事からなる。
 列伝では帝紀と異なり、倭国をイ妥国と表記するが、当時用いられた俗字と考えられる。


○通典
 全200巻。唐の貞元17(801)完成。
政治経済等の通史を部門別にまとめた史料。当時の正史が複数の執筆者チームで書かれているのに対し、個人の著作である。
先行資料に依拠する部分も疎漏なく、かつ不用意な節略をせず、的確にまとめている。
 著者の杜佑(735-812)は、中唐を代表する政治家・史学者。尚書左丞・礼部尚書、節度使、司空・司徒を歴任するなか、30余年を費やして通典を著す。


○旧唐書
 全200巻。うち本紀20、志30、列伝150。
劉[日旬] 等の撰で後晋の開運2(945)成立。
 短命政権の後晋(936〜946)が契丹に攻め滅ぼされる直前の戦時下、編集責任者が二転三転するなか比較的短期間の間に編まれた唐の正史。一人に伝を二つ立てる等の編集ミスや、情報量が初唐に厚く晩唐に薄く偏るなど問題点があったため、宋代に改めて別に唐書が編まれた。これらを区別してそれぞれ「旧唐書」「新唐書」という。しかし新唐書にも、駢文を嫌う文学的スタンスから収録文献の原文を散文に書き改めてしまうなどの問題部分があり、史料としては旧唐書の方が使用される場合も多い。
 わが国の関係では、旧唐書には、倭国と日本の二つの伝を別に立てるなどの不体裁がある。

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