記事タイトル:稲作の年代と時期 


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お名前: 夜須考古学   
稲作の倭国での開始は神武東征から全国にひろまった。これは『古事記』や
神社等の祝詞等も説明しているから耳をすまして聞くとたいていは大方同じ
内容である事が判る。
これが大和の不思議でありよく邪馬台国近畿説のある裏の部分である。
神様は自然による稲作のお話に共通していて、神の域である。
人はウガヤからであり神武の父である。ここから伝説の国譲りが始まる。
人は何故この事に気がつかなかったのか、稲作の開始が「古事記」の始まりで
有る事に。稲作は神と人との関りから始まっている事に、それが神の域である
神様で太陽はあまてらすをあらわし、牛はすさのおである。
豊玉姫は水を司る意味を表し、ニニギは護国豊穣を司る神様なのであり、
この神々が稲作の開始を述べているのだが。歴博はこれを否定し捏造した
年代測定をだした事に疑惑が存在する。早く眼をさませ。
[2004/03/14 17:08:58]

お名前: 夜須考古学   
弥生後期の始まりが500年遡ると発表された歴史民族博物館の推定がやはり間違っていた
と指摘する。その根拠たるものは佐賀奴畑遺跡の土器形態と模様から推定されていた、
これの誤りが今日160日付けのヤフー邪馬台国で発表された。
今世紀の一大発見だと思うがマスコミのだらしなさが露呈するように新聞の報道
でも書かれないのも当然のさまである事が判ろう。インターネットは実に現世期の
たまものであろう、直ぐに見ている人に伝わる。前置きはこれくらいにして今日の
本題のニュースに移ろう。展示室で見たが古代邪馬台国の稲作年代や、邪馬台国の
事実に迫る重要なもので、種籾入れの壷である、この時期の正確な年代の基礎となる
資料の話で邪馬台国のファンには是非読んでいただきたい。考古学の方でも検討
する上で資料の発見か、と言ってももう終わりの段階を迎えていて、難しげな問題で
あるとされている。ところが不思議にも見落としていたこの壷は夜須町峰遺跡等
からも出土していて、何が問題の解決に繋がるのか判断も出来なかった。ここが
見落としていた部分で壷の持つ意味が理解出来なくては何にもならないであろう。
ではその壷の持つ意味を解説してみよう、壷の形態は縄文式と思われていたが、
ここに至り模様と形態から見えるものとはを考えて見よう。佐賀の稲作年代の基本と
云われた形の土器は何を語るのであろうか。ここから見える形も必要であるが、
模様がここのポイントである。それが今回の発表の原点である、模様とは越国の
模様とも語られ山模様が線刻されているところに注目していただきたい。いずれ
近い内にに公開する予定であり、その案内をさしていただこう。夜須町では稲作の
石包丁や竈と食の土器工房もあり、梁書に記されているものが鉄と絹織物、牛馬等
があつた事実がホームページ豊葦原国から邪馬台国夜須への探索で見れるのでまず、
見てからご判断いただきたい、ヤフー邪馬台国の探索で見れます。
簡単に越国について述べよう、古代中国の王系の末裔である勾践は越と呉の戦乱で
呉は海に入ったとあり渡海した様子が梁書で記され、これは平安時代の桓武天皇自
ら語られていた記とであつた。勾践は児島高徳の書いた太平記にも述べられていた
この事が日本の古代の道しるべとなつている。高徳の先祖は後鳥羽殷であつてよく
事情が知っていたからこそ書かれた記とであるとその末裔の人が語る。つまりここ
で語るという勾践の末裔とは何であろう邪馬台国の王そのものである。ウガヤが
その末裔とも桓武天皇は述べられている。ここで邪馬台国そのものの、基本が出て
いる、倭人とは太伯の末裔で倭人と云う事実は何者にも語れまい。それを解く鍵が
夜須町にあったと報告しておきましょう、これからの夜須町に注目して日本の始ま
りと精神に想いを馳せて見よう。
[2003/12/16 17:47:16]

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