記事タイトル:沙庭さんへ 


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お名前: 行永   
私の名字は行永ゆきながです。なんじゃい?!息長と何か関係あるの?気になるのだが。私は京都府舞鶴市出身だ。
[2001/11/05 16:17:21]

お名前: はやしらいす   
沙庭さん、おは!
>伊勢神宮と息長氏は、関係がないのでは?神話の中でも反映が見られないですし、
> 伊勢神宮を管理していたのは渡会氏ですから。

 度会氏の祖は天日別命。だから、もともと豊受大神(あるいは豊宇賀能賣命)を奉斎
していたのではなく、天日別命を奉斎していたのではないかなあと思っています。
 後代、祭神が豊受大神に変わり、奉斎氏族として度会氏はそのまま残ったのではない
かと。
 (たとえば住吉大社、管理者は津守氏です。でも、これはあくまでも管理者であって
祀らせたのは時の天皇でしょう。これもいつ頃か?となると難しいのでぼかしておきま
す)(^^ゞ

 つまり、伊勢神宮、住吉大社、いづれも祀らせたのは時の天皇だと思う。管理者はそ
の土地のものに委託したって事じゃないかと思うわけよ。

 
>イメージとしてどうも内宮が新しいように思います。

 度会氏そのものは、伊勢神宮創祀以前から度会にいて天日別命を祀っていたと思われ
る。そこに、天照大神と豊受大神が遷されたってことではないかな。
 で、沙庭さん重々ご承知のように、外宮の方が地の利があって町としても栄えてます
よね。内宮はどうも奥まったところにある。この内宮も当初から現在地にあったのでは
ないかもしれない。岡田氏のから孫引きしますが、『日本書紀通釈』に、「もと度会は、
二宮の名なりしこと、共に度会郡にあれはなり」とあるようです。
 つまり内外宮ともにいまの外宮の方にあって、後代内宮が現在地に引っ越したのでは
ないでしょうか?

 内宮、外宮の新旧については、まず度会氏が当初から豊受大神(あるいは豊宇賀能賣
命)を奉斎していたのであれば、外宮の方が当然古くからあったことになります。
 ただはたしてそうなんだろうか? そこがわたくしの疑問なのよ。

 雄略期に天照大神が伊勢へ行ったとします。この時、それを受け入れ管理したのは度
会氏かも知れません。でも、その時はまだ豊受大神そのものが創出されてはいなかった
のではないか?
 それは、息長氏の台頭の後のことではあるまいかと。

 神社には必ずと言ってよいほど「お稲荷さん」が脇に祀られているのは、この内宮、
外宮の模倣ではないでしょうか?

 なあんちゃって。どう?
[2000/05/07 10:02:16]

お名前: 沙庭恭一      
ライスさん、こんばんは。

 場所を確認したわけではないんだけど、舞鶴に「行永」という地名があり、これが「息長」に由来しているみたいです。彌加宜(みかげ)神社の祭神が息長水依比賣(おきながみずよりひめ)の先祖である天御影命(あめのみかげのみこと)なんですって。御上(みかみ)神社(滋賀県野洲町)にも同じ神さんが祀られてるそうです。
 くわしくは、以下のサイトで。http://www.city.maizuru.kyoto.jp/

うーん。何とも言えないです。


 実際に表に出てくるのは天武の頃ですよね。壬申の乱以降ではなかったかな?

 斎明天皇では?大化の改新時には外戚として沈黙していたとおもいますが。
 伊勢神宮と息長氏は、関係がないのでは?神話の中でも反映が見られないですし、
 伊勢神宮を管理していたのは渡会氏ですから。


 伊勢神宮の創祀ですが、天照大神が先に祀られて、豊受大神は後に追祀されたのではないかなあと思っています。豊受大神の祖型は豊宇賀能賣命と考えますが、古事記では
和久産巣日の神の子として出てくるのと、渡相に坐す神、登由気の神として出てくるのみです。書紀にはいづれの記載もない。比較的新しく繰り入れられた神様だと思います。 

岡田氏とは、逆ですね。
岡田氏の根拠は外宮の創始伝承が暦上整合性が合うことを主張してます。その点は?
私からの印象は、令制下の祭祀が内宮の祭祀をかなり権威付けてます。ですから、イメージとしてどうも内宮が新しいように思います。

 息長帯比売についても考えないといけないのですけど、これは福岡県田川郡香原町の辛國息長大姫大目命神社との関連もあるのかもしれず。
 そんなこんなでなかなか先へ進めません。(-_

超難問ですよ。
[2000/05/06 01:49:05]

お名前: はやしらいす    URL
沙庭さん、こんち。

>豊受大神ですよね。息長氏が丹後国に気配がある。うーん。
>質問です。息長氏が丹後国に一族がいましたか?管見した限り、
>無かったと思いましたが。

 場所を確認したわけではないんだけど、舞鶴に「行永」という地名があり、これが
「息長」に由来しているみたいです。彌加宜(みかげ)神社の祭神が息長水依比賣
(おきながみずよりひめ)の先祖である天御影命(あめのみかげのみこと)なんです
って。御上(みかみ)神社(滋賀県野洲町)にも同じ神さんが祀られてるそうです。
 くわしくは、以下のサイトで。
http://www.city.maizuru.kyoto.jp/

>息長氏が伊勢神宮創始に参
>画したのであれば、記載されたても良さそうに思いますが。

 このあたりはたしかに難しいですが、息長氏はおそらくもっと新しく台頭した氏族で
はないでしょうか。実際に表に出てくるのは天武の頃ですよね。壬申の乱以降ではなか
ったかな?
 伊勢神宮の創祀ですが、天照大神が先に祀られて、豊受大神は後に追祀されたのでは
ないかなあと思っています。豊受大神の祖型は豊宇賀能賣命と考えますが、古事記では
和久産巣日の神の子として出てくるのと、渡相に坐す神、登由気の神として出てくるの
みです。書紀にはいづれの記載もない。比較的新しく繰り入れられた神様だと思います。
 
 息長帯比売についても考えないといけないのですけど、これは福岡県田川郡香原町の
辛國息長大姫大目命神社との関連もあるのかもしれず。

 そんなこんなでなかなか先へ進めません。(-_-;)

> 尾張の山中様式の物が丹後半島より起源を発すると言う説があり
>ますが、どうも整合性が文献上より窺い知れそうにありません。

 土器のことはさっぱりわかりませんが、湖東の坂田郡からだと濃尾平野への入り口に
なりますから、可能性はなきにしもあらずかもよ。 
[2000/05/04 19:48:55]

お名前: 沙庭恭一   
どうもお久しぶりです。

豊受大神ですよね。息長氏が丹後国に気配がある。うーん。
質問です。息長氏が丹後国に一族がいましたか?管見した限り、
無かったと思いましたが。
 しかも神宮の創始伝承(垂仁天皇紀25年条)の中に息長氏が
入っていない。ヤマトヒメの通行コース上に5氏族が分布して
ます。それらを消去法で考えて行くと大伴・物部・中臣は5
世紀代の新興氏族と考えて良いと思います。しかし、和邇氏
・阿倍氏は、伝統ある氏族です。息長氏が伊勢神宮創始に参
画したのであれば、記載されたても良さそうに思いますが。
また、そのヤマトヒメの通行上ですので、記載されても良さ
そうに思います。
 尾張の山中様式の物が丹後半島より起源を発すると言う説があり
ますが、どうも整合性が文献上より窺い知れそうにありません。
 去年、私がどう書いたか、忘れてしまいましたが、現在の考えで
は?です。
[2000/05/04 01:33:05]

お名前: はやしらいす   
 沙庭さん、一年後をメドに息長氏について書くと申し上げて、その一年がきました。
 じつは、なんの進歩もありません。
 三月に籠神社、奈具神社(宮津の方)、若狭彦、若狭姫神社、帰りは鯖街道を通って
湖西の白髭神社などを見てきました。
 その関連でHPを徘徊しましたが、舞鶴あたりにどうも息長氏の気配がありそうです。
 丹波国訶沙郡とやっぱり関係あるんじゃないかな。「ユキ」「スキ」の「スキ」です。
 
 豊受大神もやっぱり関連するのではないでしょうか。籠神社の人は「豊受大神と豊宇賀
能賣命とは違う」って言ってましたけど、「そんなことあるもんか、豊宇賀能賣命が祖型
に違いないですよね。
 そこから坂田郡の方へ行ったんじゃないでしょうか?
 彼等も天日槍の系統でしたよね。
[2000/05/03 01:18:42]

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