記事タイトル:狩野探幽と中国人物 |
探幽の母系を遡ると何氏が関るのか他の他人には判らない事情がある。 そこで人名辞典を書籍から持ち出し紐解きそして、家系から合うのか 検討してみました。 探幽の母は養秀院と言ふ、その母は岳星院と言ふ、この女が始め佐々成政の兄に 嫁ぎ、名を佐々清蔵(成政の兄政次の子)と言ふ、姉は隋泉院(松原直元室)である。 隋泉院との間に五郎四郎重勝がいる、その四郎を隋泉院は娘の婿養子にした。 隋泉院と直元には男子がなく、妹岳星院と二人で直元にひきとられた。 二人の間には権兵衛・勘兵衛成清・信濃守・の三人が出来た。 成清は桑山家に任官したが、改易となり興福寺別当信賀大僧正の推挙にて、 興福寺坊官福智院家の養子となり、舜恕と言ふ。 休西(信濃守)は摂政鷹司房信に仕え、男子宇左衛門(号・休閑)は播州浅野家に 仕え、妹は石塚毎好に嫁し、女理玖が生まれた。(大石蔵之介室) 五郎四郎は清蔵が戦死(本能寺)・してから成政の元で育てられ、成政の死後 母(岳星院)と共に直元に引き取られ、母の叔母婿(佐久間信栄の叔父か)京都 所司代前田玄以の元に逃れ、織田秀信に仕えたが、関が原で改易され、 直元の処に身を寄せた。そして婿養子に迎えられた。 岳星院は関白鷹司信房へ嫁す。女子は孝子後の将軍徳川家光の正室となる。 佐々成清に嫁いだ佐久間信盛の女(正勝の妹)の事で狩野孝信の室も成清の 女であったのである。 児島宮刊行会謹製[2004/03/01 20:13:35]
狩野派は正信を祖とし孝信に至り室町画談の絵画か一変し、中国古典の人物 を好んで描くようになった。この変化の意とは何なのか、考察してみると 以外にも孝信の妻に関係があるようだ。妻は佐々成政の女子にあたると言う。 佐々成政の妻は佐久間信盛の女であるという、実はここに原因が見え佐久間 は本姓ではなかった、それは佐々家も同じ児島系である、これを紐解くのは お社にその真実が隠され、尾張にあるお宮にその実績が残っていた。 佐久間と佐々の奉献がおこなわれており、そのお社に関係している。 児島は備前が起こりであり、南朝の児島が『太平記』の作者ともいわれその 実態は明らかではないが、京の都は信盛の代々の土地であり、大徳寺高東院 は紫野にありここが古く先祖の屋敷があつたと話す。 紫と言えば天皇に関る言語らしく貴品な人の着装であるとされてきた。 そこで信盛の先祖は誰である?吾が先祖は高倉院の男であるとされ、児島に向 かいここで暮らしたそうである。由来により児島姓から一族の佐久間に育ち 姓を佐久間と名乗ったという云われがある。 ここに狩野探幽との関係が生まれている、高倉院系統には熊野との接点があり 熊野は古代中国と接点がある。熊野一族として見ても良いだろう、孝信は土佐 家の後天皇の為に描く皇室御用絵師となった、これも同じ接点があるからで、 古代に関る絵画をよく描くようになったのもここに根拠があったからで、 探幽が子供のおり徳川家康の御前で即効書きを献じたのは語り草となっており ここにも家康・秀忠・家光と三代に渡り佐久間信栄は御伽集として城に勤務 していたのは、狩野派との関りを探る上で参考になろう。[2004/02/28 16:19:31]