記事タイトル:邪馬台国の事実にせまる 


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お名前: 夜須考古学   
邪馬台国は?二つ相似する
まだ見つからないし、見つからないのは?
解釈に誤りがあるからです。
邪馬台国は?哲学のこと。
哲学が解明できれば、解釈が可能となる。
[2008/06/26 08:12:10]

お名前: 夜須考古学   
耶麻台とは融合する事を、表わします。
従って、融合する事の、国の名を邪馬台国といいます。
この融合するの、解釈がわかれば、すべてが、解けるでしょう。
融合する事の、国の名を邪馬台国は何処なのかが、解決への道となります。
原始では、この融合するはありません?
根源がないのです。
それは、霊に頼っていたからです。

この霊は神様のことでは、ありません。
仏様のことを指します。
ここに於いて、霊に頼ってとあるのが、一つの山に仮定している。
ここでも先程の、原始時代の暮らし方が、一つの山に仮定している。
しかし、原始現代のいずれにも
於いても、結果は同じで、平坦地になります。
これでは山の形にはなりませんね。

耶麻の形とは、角が三点になっています。
そこで堆が、これだけでは、みつかりません。
堆とは対象となるモノのこと、を指します。
これが耶麻台です。
[2008/05/02 11:01:35]

お名前: 空   
邪馬台国にはいきがある?
いきつかないのが邪馬台国。
行ってもないもの邪馬台国。
[2007/12/13 17:30:26]

お名前: 夜須考古学    URL
邪馬台国の事実を知ることから、始めなくては、いけないようです。
邪馬台国とは、類比の事を言い表します。
山が重なると、これは対象していると、なりますね、これを類比あるいは
、台といいます。
たい、とは、日本語では(かたち)のことです。
奈良に二上山がありますが、古代人が神に関係する山と、いう事は、知られて
おります。
古代人はこの山に神のいどころ、として、あがめて、いたようです。
このように、二つの山が対象する事によって、神のかたち、としたのです。
この神の根源がイラクのメソポタミアに、起きた農耕天文学から、始まった
ものでした。
このものに、いろんな、神々が名づけられていました。
このモノの原形を、星座から、読み解いたのが、ウ王という、神の化身です。
[2007/09/30 07:22:28]

お名前: 夜須考古学     
太一
耶麻台
神宮皇后の紫宮。等など
[2007/09/03 12:49:08]

お名前: 夜須考古学   
邪馬台国はものなんです。
そのもの、とは?
たいにあるんです。
[2007/09/03 12:46:24]

お名前: 夜須考古学   
想像を絶する、夜須考古学 は天文学の知識、高度な医学、合金技術を「神々からの贈り物」という。
このやまたいは、相対性が根源である。
[2007/02/08 15:51:58]

お名前: やま   
やまたいこくなんてねぇー
[2006/12/04 10:19:44]

お名前: やま   
やまたいこくなんてねぇー
[2006/12/04 10:19:31]

お名前: 夜須考古学    URL
邪馬台国の事実の検証
存在していたのか,まだ何にも記されたものがないので,と
最近までは,倭人伝一辺倒の論説ばかりでした。
考古学はもう結論が出されているとした,考古学協会の諸氏。
でも日本の歴史のすべてとの共通性まで至る,人材は見られませんので,
後何百年たってもそれは無理であることすら,感じていない,いや
是れまでの検証方法に誤りがあるから,それすら判断できないまま,
ではいけませんので,こちらで一方的に進めています。
検証方法に誤りがあると,したのは
                日本の歴史のすべてとの共通性まで至る
迄達していないのです。
歴史や風習から見ると指摘しても誰も気が付いてくれません。
日本人は知らず知らずに,歴史の中で行われてきた,さまざまな慣習が,
実は古代人が辿ってきた道なのですが,道といっても何の意味がピンーと
くる人は,ぜんぜんいませんでした。
それは何かと申しますと神と仏から,さまざまな儀式の違い(違いではない)
むしろ共通性の上にあるのです。
それは形は違い神は神で仏は仏ではなかったのです,それぞれ共通している
のです。
神=仏とも,どちらも同じ意味があるのです,シュメールではイシュタル女神
としますと中国の夏王朝ではこれがジョカになります。
では日本では天照や天のうずめ等にもなります,又妙見さんにも変わります。
このように歴史上でも神の共通性が実はあるのです。
例えば神話や古事記も同じで浦島伝説の乙姫様や数々の神話も皆共通した神が
変化して現れています。
これはシュメール信仰に始まるお手本として法則を七に別けて表しています。
そうそう七夕は妙見菩薩でしたね,これが歴史のお手本なのです。
[2005/08/22 21:51:49]

お名前: 夜須考古学    URL
邪馬台国とは
架空の名前ですから,歴史は現存しているが,実際は耶麻国と中国では位置づけています。
これも根元のふぶんから説明しないといけませんね。
では山の形は三角になっていて,頂上があり左右にスソ麓がありますね,これが三角形
の法則になります。
これは常識の法則とも謂い,ます,それでこの常識の源が神様になります。
これはシュメールに始まり世界共通の神にあたります。
これが日本に伝承しているのは,裏に歴史が秘められているのです。
その法則をシュメールでは山ヤマと発言していました。
山が神様に例えられていたわけです,それが常識の法則である。
三角形は地下のふぶんを線で横線で見ると,常識とはどの部分になるのか?
解決しましたか,邪馬台国。
線の真ん中が常識です。
[2005/08/15 12:16:45]

お名前: 夜須考古学    URL
邪馬台国とは架空の名前ですから,歴史は現存しているが,実際は耶麻国と中国では位置づけています。
いろんな資料をそのままうのみしては,いけません,神々神霊編にはじまり世界の創世神話編やシュメール宇宙の樹の写しも構成されていて,この解釈の出来ていないので,想像
の歴史になっているのです。つまり横から見ている
後ろからでは影になり,遂にはああだろう,こうだろうが展開されていて,真正面に位置
されていない,で書かれていた。
じゃあいままではみんなパアーになる
仕方ありませんね,偽者は消え去るのみ。
倭人伝は漢民族の皇帝が書かせた資料だから,倭国に関しては抵抗している。
相手のことを悪く書いて,いるから司馬は反抗して,抵抗したので罪に落とし入れられる
と,記録には記されている。
[2005/08/05 08:26:00]

お名前: 夜須考古学    URL
[卑弥呼は鮮卑国の巫女]
鮮卑
遊牧民族を成して、その原型は古代中国ヤンシャオ民族の別名である。
殷の末頃倭人と呼ばれた民族が東北から本州一帯に渡海し小国を形成した、
起源前1000年前殷の消滅により避難して来たヤンシャオ民族の呼び名で
この民族を総称して鮮卑から卑人の事を倭人と呼ぶが、中国では魏時期で
倭人伝に記される、卑弥呼ありの卑は民族の名称であり、倭国の総称名。
卑弥呼は倭国(鮮卑)女王卑国の巫女と記した。
「参考」
. ヒ いや.しい いや.しむ いや.しめる 
卑見; 卑近; 卑小; 卑属; 卑下と辞典に載せるが中国文献の(匈奴民族)
鮮卑、匈奴と遼東に侵入と光武帝の時記す。
神武東征後倭国の名悪し(中国命名鮮卑の言語国名)改め、やまとがある。
[2004/12/02 13:56:45]

お名前: 夜須考古学    URL
卑弥呼と邪馬台国は別物です。
ここでは違いに重点をおき記す、邪馬台国が有名な為昔より色んな説が
あるが、最近の伊都前原平原の調査を担当した柳田康夫氏によれば、
伊都は卑弥呼の居た国で倭国の女王と結論づけた、他にも高島忠平氏、
奥野正男氏、安楽勉氏、西谷氏、田島龍太氏の各氏は高島氏の司会の
もと、一人づつ結論づけして解答し伊都の平原墓卑弥呼で全員一致
した。
28日大宰府公民館で「邪馬台国の国々」のシンポジュームがありました
奥野先生もパネラーとして参加されました、他に高島忠平氏、西谷正氏
柳田康夫氏(前大宰府歴史資料館副館長)、田島隆太氏(唐津教育委員会課長)
安楽勉氏(原辻遺跡調査所長)の六名で各自が現思考を述べられました。
この中で私が目を奪われたのが柳田氏(伊都遺跡を発掘調査官)の語られた
伊都でのもっとも最新の見解である。
思考であるが現実化されていた、それは伊都の三雲遺跡は弥生初期の王と
見られる、又平原遺跡は巫女の墓であり弥生後期の女の墓であると児島学
に同じ見方と一致した、これはホームで述べる、次は安楽氏の思考、
壱岐対馬の遺跡は年代が違い対馬の島の甕棺群は船を利用しないと行けない
のでとし、弥生初期のモノであり、原の辻は時期が楽浪郡系の土器から見て
弥生中期〜後期と分かれている、注目はこの時期であり楽浪系でこれは、
卑弥呼〜伊都王の頃の時期で晋国が成立する時期で邪馬台国の最重要点で
ある、奥野先生は卑弥呼女王国は伊都であるとし、その権威の国は筑後川
流域まで達しているとされた事。
この国の域に忘れていた事があったがこれもホームで述べる。
これがもっともこれまで語られていない部分である。邪馬台国論の穴場?
西谷氏は二つの王国があるとし、卑弥呼伊都と幾内大和邪馬台国王と思考
されもう、あきれた、神武東征を否定されたので、考古学者は皆この説
でスター気分でもう人気は終わった
[2004/12/01 18:55:41]

お名前: 夜須考古学   
倭人が起源前1000年前水稲と共に渡来したとの説、いや1300年前に渡来
したとか、あまりにも自説ばかり主張する人が多いのには憤慨する。
こうもよく小説家のような作品ばかり書店に出回り過ぎうわさが氾濫し
すぎて、『記紀』と天皇家の歴史さえも否定し遂には天皇は作られた
もので、つまり自説のようなものだと云わんばかりになって混乱を
きたしている。
ここではいいかげんな論は相手にしないで、天皇家から見る古代編である。
倭国が始まる以前、北部九州に於いては、何も見えていないBC(起源前)
1027年に古代中国殷の皇帝肘王が周(一族)の諫言を聞かず滅ぼされた、
この頃非難して現日本東北地方から北海道或いは現アメリカへ移動していた。
BC1027年〜771年斉楚呉越国が出来BC265年皇帝が妾の女の子始皇帝がBC
206年まで続き歴代の王系伏義に続く神農、黄帝、尭、舜、兎、(夏王の都
安邑として後倭国成立にかかわる)、殷春秋戦国期の時越王勾践(児島高徳先祖)
の舜や兎が秦の始皇帝により会稽山に祀られた。これにより倭国の神の初見。
これからが倭国の始まりとなり、10000余戸の中国の移動があり、北部九州を
目指して渡海している。倭国に国々が起こり酋長が出てきて一度の渡来の為
食が不足をきたし遂に戦乱となる。ここが漢国の記した『魏志倭人伝』の中の
王の樹立である、王は奴国(筑紫野三笠に居た、ここには一族の思い兼、大国主
、や天孫降臨に見える人が住んでいました。その名残も地名に残されて今も語り
告がれています。夜須を含む範囲に奴国が見え日本内には見当たらない多くの
遺跡があり、10000余戸の移動の姿が見られまして、約三世紀終りにはなくなり
ました。これは神武の東征があったと記した『記紀』の根拠を裏付けています。
[2004/03/17 09:09:43]

お名前: 夜須考古学   
邪馬台国は「安邑」やすむら
から始まる、このやすむらは現在の夜須町である。
同じ名前の地名が実は王権と関る秘密がある、安邑は
古代中国の都の地名で夏王朝の兔に始まり、その国は魏である。
これは一時秦に破れ又直ぐに20年過ぎて取り返している。
この国の流れは三国時代まで続いていた。
安邑に始まり倭国のやすむらへ受け継がれていた。
これが邪馬台国である。
[2004/03/14 17:18:28]

お名前: 夜須考古学    URL
邪馬台国に居た人物がこれまで偽文献とされてきた『秀真伝』と『三笠紀』の中から
当夜須考古学の調査で浮かび出てきました。
「ほつまたえ」の作者は阿智臣,和邇臣であるとし、ここでは阿智臣から説明しよう。
阿智臣の祖先は思い兼命といわれ、天孫降臨に名前がみえる、思い兼命は何者か?
これも調べてみた、何と古代文字(漢字文字をかな読みした出雲文字の作者)を考え出した人であった、この人物について更に詳しく調べた結果秦の始皇帝の後裔阿智王の後裔
であることも判明し、北部九州の渡来人、倭人民族高御産日神族であることを突き止めた、ここに古代の真実が明らかになりつつある。倭人は秦の統治が滅亡した時渡来した
事も同時に判明した訳である。いわゆる魏に統治が奪われた時期なのである、これは記録から解明され、倭国の王の中国皇帝に貢献したのはこの時の関わりが緒をひいていた
のであろう、金印の拝受である。
ではこれらの民族の住む奴国は何処に位置していたのか、これは「秀真伝」と「三笠紀」の中に記された作者から見出せよう。『三笠紀』の作者は同じ土地に住んでいたと
考えられている、作者は三笠臣である。
三笠がここでは重要な位置を表し王の位置も探りだすことが出来る、三笠臣とは三笠に
住んだ人の土地名から名前を名乗っていたのだ。この土地の語源三笠はいつ頃呼ばれたか、検討は簡単であつた、吾が考古学は常に夜須内の研究に費やしていて、この三笠の
語源は『古事記』に記されている神宮皇后の三韓征伐のおり夜須に巡察(吾が土地を見て
廻ること)のおり筑紫の山家の付近を通りかけた時突然の突風で御笠(頭にかぶる)が風
に飛ばされたので、三笠と土地名が付けられたとある。これが第一のヒント
三笠とは現在の筑紫野市の事であり、明治まで三笠群と呼ばれ夜須との境界に位置する。筑紫野市津古という名の急行電車の駅裏に八龍神社がありついこの頃友人の家に
向かう時立ち寄りこれが第二ヒントとなった。
それはこの社に特徴があつた、由来書にこの社名の解説が述べてある、八龍神とは
豊玉姫の呼び名としるしてある。又豊玉姫はウガヤ王の母にあたられ、又玉依姫の
姉君とされている。そして豊玉姫とはすべての水を司る神名と記し、ヒコホホデミ
命は護国豊穣を司る神名と記す、又山幸彦とは山を司る神名と記す。
ここに先程の三笠臣と阿智臣の故里との一致が見えた、筑紫野市が事実奴国の名称
という事。ここが倭国の王が君臨していた処なのだ、すると伊都国との関係がどう
なるのか皆さん気になるだろう。
伊都には卑弥呼とその一族が住む処であつた、それは伊都国から天孫降臨が始まって
いたと云う日向峠があり高千穂とは峰の言語であり、高千穂宮崎ではないとしていた
これは後日解明されるであろう。伊都の王ウガヤと妻の玉依姫との関係は『古事記』
が記す通りである。玉依姫は筑紫野であって伊都に、とついで来たのだろう。それは
八龍神社から判断すれば判ろう、事実豊玉姫は祖霊なのであったのだから。
ここで整理すれば古代の倭国の姿が見えており、『秀真伝』の中の記録と同じ神名
が記されていて、詳しく古代の辞典として今後注目されるであろう。児島宮提供
[2004/02/22 18:16:56]

お名前: 夜須考古学   
豊葦原国譲りから邪馬台国夜須へのタイトルでアドレスは
http;//www9.ocn.ne.jp/~aysk535/で邪馬台国とは何だろう
と思われる方には是非お奨めしたい。
まず邪馬台国の論理よりも事実の写真とかで観る事から始めた
方がなお良く理解出来ると思います。あわせてヤフー邪馬台国掲示板
で探索していると夜須町掲示板がありあわせて見るといっそう邪馬台国
とはこれなのかと理解出来ますよ。これまで根拠はすべて違っています
年代測定で判るとか、それは断じてあり得ないのです、何故かと言いま
すと、古代中国の倭人伝、隋書、梁書,等に記されているものと一致した
ところが見出せないからです。日本の歴史の中にもたくさん記されてお
りますが、万葉集の中に詠まれたり、古事記は梁書と相通ずるものが
あります。日本書記はあまり知らない人が記した書物ですべてが古代
の記録にはあたりません。
[2003/11/28 09:28:30]

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