記事タイトル:古代史のあから始めよう 


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お名前: 望月古亶    URL
 漢風諡号と『懐風藻』

 坂本太郎さんの「列聖漢風諡号の撰進について」という史論に次のような記載がある。

《漢風諡号が実際に世に行われたのはいつからであるか。これが制定もしくは実施を明らかにしたものこそないにしても、史料の検討によってはおよそその時代を彷彿することができるであろう。いま管見の及んだそれらの史料を次にあげてみよう。
 一、懐風藻(天平勝宝三年十一月撰)           文武天皇
 二、続日本紀天平宝字三年六月庚戌詔           聖武天皇
 三、武智麻呂伝(天平宝字四年以後の撰)         天武天皇
 四、続日本紀天応元年六月壬子土師宿禰古人等上言     纏向珠城宮御宇垂仁天皇
 五、同天応元年七月癸酉栗原勝子公上言          神功皇后
 六、同延暦九年七月辛巳津連真道等上言          神功皇后、軽島豊明朝御宇応神天皇、…
 右のうち文武・聖武の二つは初めにも述べたとおり、除外例を要求せられるものであるから、いまの一般論ではしばらく問題を別にして、武智麻呂伝は撰時が定まらないから、これも論外とすれば、漢風諡号一般の初見はまず天応元年六月であり、天応・延暦の間にようやく世に行われたとする昔からの見解を再認しなければならぬであろう。》

 ところで天平勝宝三年(751)に成立した『懐風藻』の序には次のように書かれている。

《…橿原建邦の時に、天造草創にして、人文未だ作らずありき。★神后坎を征し、品帝乾に乗じたまふに至りて、百済入朝して、…。★聖徳太子に逮びて、爵を設け官を分かち、…》

 頭注に「神后」は、「神功皇后が西征即ち三韓征伐をされて」とある。

 もちろん「文武天皇」もでてくる。したがって、『懐風藻』には漢風諡号が三つすなわち神功皇后、聖徳太子、文武天皇があるので、文武天皇は例外とはいえないのである。
 さらに「神功皇后」が「神后」に変化する時間の経過を考えれば、坂本太郎さんが主張する淡海三船撰上説は間違いだといえる。天平勝宝三年(751)に、30歳そこそこで神武天皇等の漢風諡号を撰上することは考えられないといわざるをえない。
 坂本太郎さんは都合が悪いと例外扱いにしてしまうようだ。ここは日本古代史の構造計算にかかわるところであるのでもう少し慎重を期すべきだったと思う。
[2008/05/19 07:00:54]

お名前: 望月古亶    URL
「白河本旧事紀と古今和歌集」

 月曜日の晩、テレビで里見浩太朗が演ずる「水戸黄門」が放映されている。「この紋所が目に入らぬか」の名セリフの前に、ときおり城中の国家老の元に書状が届けられる。その書状に「梅里」の署名があり、そのル―ツの話である。
 徳川光圀は、家康の十一男・頼房の三男(頼重―亀丸―光圀)であるが水戸の藩主になった。そのいきさつは、長男の頼重が生まれたとき、尾張の義直や紀州の頼宣に未だ男子が生まれず、それを憚って頼重は正式に披露されなかったと伝えられる。儒教を重んずる光圀には、長子でないのに藩主になるのは筋ではないと思っていたのか。それで、兄の子の綱方を高松藩から迎えた。綱方が早死にするとその弟の綱条を迎えた。
 この「梅里」は、『古今和歌集』にでてくる王仁の「おほさざきの帝をそへたてまつれる歌」によるといわれる。おほさざきの帝とは、第16代仁徳天皇のことである。かりにこの歌が『古事記』や『日本書紀』の前に存在したとすると、紀貫之が宮中の祭祀を永年務めてきた白河家に伝わる『先代旧事本紀』すなわち『白河本旧事紀』の原本をみていた可能性がある。
 『古今和歌集』は、第60代醍醐天皇(897〜929)のときに、勅撰和歌集の第1号として編纂された。撰進の勅命は延喜5年(905)に出され、受けたのは大内記・紀友則、御書所預・紀貫之、前甲斐少目・凡河内躬恒、右衛門府生・壬生忠岑の四人である。しかし、友則は撰進中に死亡しているので、その後は紀貫之が代表で進められたと考えられ、完成したのは延喜16年(916)のころである。
 『古今和歌集』には、《難波津の歌は帝の御初めなり》として、細書で〈おほさざきの帝、難波津にて皇子ときこえける時、東宮をたがひに譲りて、位につきたまはで三年になりにければ、王仁といふ人のいぶかり思ひて、よみてたてまつりける歌なり。「この花」はむめの花をいふなるべし〉と記載し、「難波津に咲くやこの花 冬ごもり今は春べと 咲くやこの花 と言へるなるべし」とある。この歌は『古事記』や『日本書紀』にはない。ところが、『白河本旧事紀』の「天皇本紀」の 「仁徳本紀」にはある。即位前紀の辛未年の10月の条につぎのように記載されている。

 《冬十月、皇太子菟道稚郎子尊を兎道の山上に葬る。是の後、大鷦鷯尊、尚を皇太子、位に即かざるを以て薨ずるを悲しみて、未だ天皇の位に即きたまはず。時に百済の王仁、奏して曰く。皇太子薨ずるは、此れ天命なり。之を如何ともすることあたはず。大王天相あり。須からく速かに天皇の位に即きたまふべし。乃ち歌を献て曰く。
 那迩波都迩 佐久耶許能波奈 布由許毛理 伊麻波波留遍仁 磋久耶許農波奈》
 
 『白河本旧事紀』は、 『古事記』や『日本書紀』に先立って編纂されたものである。それは第14代仲哀天皇の聖寿52歳が物語っている。(『在野史論・第十集』所収「数表で解く日本古代史」)また、成立時点は白雉元年(650)より以前と考えられる。(『異伝聖徳太子』解説五・白河本旧事紀の成立年代)。この歌には「と」と「仁」の違いがあり、またある人の言うのにここの「農」は「の」と読んで万葉仮名でないので、『古事記』や『日本書紀』以後に作られたものだという。「の」の読みは、第一次的な読みで万葉仮名より前の聖徳太子の作った仮名いわゆる「聖徳仮名」であり、万葉仮名とは完全に一致するものではないと考える。『古今和歌集』の序の作成者で、宮中の図書係である紀貫之は、900年ころ『白河本旧事紀』の原本をみていたのではないだろうか。
 なお、『白河本旧事紀』を永年保存していた白河家は、第65代花山天皇の皇子清仁親王に発し、親王の王子延信王が万寿2年(1025)源姓を賜わって臣列に下り、寛徳3年(1046)勅定によって神祇伯に任ぜられたのがはじまりと伝えられる。

 なお、この歌は、いくつかの木簡の出土状況からして『日本書紀』が成立する前から存在していたらしい。しかし、『古今和歌集』の序と同様に「と」と記載され、「仁・に」と記載している『白河本旧事紀』とは別ルートのようである。もとは一緒と考えられるが、紀貫之が『白河本旧事紀』をみていなくとも書けた可能性はある。
[2007/06/21 18:24:35]

お名前: 望月古亶    URL
 本居宣長や坂本太郎は、『古事記』や『日本書紀』を理解していたとは思えないふしがあります。宣長はあっぱれとあわれを区別できなかったし、太郎は三船と御船との違いがわかっていなかったようです。このように日本古代史の理解には構造的な欠陥があり、今後、『白河本旧事紀(旧事紀白河家三十巻本)』との比較研究を進める必要があります。
[2007/05/19 06:15:49]

お名前: 望月古亶    URL
『古事記』や『日本書紀』より前に推古天皇28年に編纂された聖徳太子らによる『天皇国紀等』が存在し、『古事記』や『日本書紀』はその焼き直しである。701年から720年にかけて対外的にも国内的にも改訂せざるを得なかったのだ。
 懿徳天皇と懿徳太子の諡号にその謎が秘められている。本居宣長や坂本太郎の漢風諡号淡海御船撰上説には多くの問題がある。
[2007/02/25 18:11:05]

お名前: 夜須考古学   
古代史の基本がまだ見えておらず、先行した話題や千葉の歴史民族博物館等
の年代測定や古代遺跡の捏造から日本の古代史はふり出しに返ってしまった。
これまでの古代歴史も始めからやり直さなければならなくなり、学者も戸惑い
をきたしている。何か見つけようとすればするほど瞑想にふけやすくなり、此れ
までを振り返れば危険が伴う事になる。
では何から始めたら良いのか提言しよう。
それは素直にこれまでの歴史の由来に帰結する事をせよである。
歴史は積み重ねであり祖先達の文明である、これから先ず検討すれば、頂点は
やはり天皇の歴史だろう。日本は神国と呼ばれ神の祭主は天皇である。
これが現段階の日本の歴史の始まりで、神武東征から日本国が成立している。
これの本質を見る事から探し、それは古代中国の歴史がそのまま倭国日本の
樹立に繋がって居たのである。続きなのでありそれは天皇つまり王から天皇へ
呼び方が変化しただけで、この中国の原本を尋ねれば古代中国の夏王朝の都
(安邑、やすむら)に帰結する。これは三国時代の魏の国にまで至り倭国の王
が貢献したのも解すれば本家に帰りであろうが実際には倭国に渡来していて
、『古事記』も示すとおり戦乱があったとしている何故を理解しなくてはなら
ない、それは
戦乱つまりあまりにも多くの渡来があり、上下のどころの騒ぎではなかった。
まだ稲作も普及しておらず、食の戦乱である。卑弥呼が180年王になったが
一先ず休憩くらいであり、死んでからも台与等が仮の王になり戦乱を治めようと
なったのであり、一応治まってから男王(ウガヤフキアエズ尊が中国に挨拶に
行ったのであろう、それは祖国だからであった。この国はその安邑である。
中国の古代を調べて見よう、それから安邑と王について調べると日本の古代
がよく判るとお奨め致します。
[2004/03/14 16:48:28]

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