藻塩焼く


投稿 A : 2000年3月6日   from:”かとしん”さん

 百人一首の定家の句に「来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに やくや藻塩の身もこがれつつ」とありますが、この藻塩に海水をかけて乾かして燃やし、灰を水に入れて上澄みを煮詰めて塩を採るという製塩法(これで良かったか?)、歌に詠われるくらいですので平安時代は盛んだったのかと考えますが、この方法はいつの時代から始まったもので、何処から伝わったものなのでしょうか?お判りでしたらお教え頂けませんでしょうか?
 あるいは、日本独自で古代から、ってなことはないか。

返答 A:
 トップページの本文の下から2行目に、次の文があります。「貝塚の時代は、"塩"が製造されておらず、商品価値のあるものでした。」この文の、"塩"の部分をダブル・クリックすると、"塩"についての解説が出てきます。

 藤原定家の歌を勝手に解釈します。『松帆浦で、旅に出た人が帰ってくるのを毎日待っているのが夕方だから悪いのでしょうか、風が凪ぎいて船がぜんぜん通いません。「今は漕ぎ出でな」と引き止める人でもいるのでしょうか。藻塩を焼く匂いが立ち込める中で、待ち遠しい気持ちに耐え切れません。早く会いたい。』・・・もう少し激しい歌かもしれません。
 小輩は、食塩の製造にはあまり興味がないのですが、確か万葉集か風土記に”藻塩焼く”という言葉が出てくるとのことでした。小輩が興味を持っているのは、食塩製造方法が確立される前に、縄文人はどのようにして塩分を摂取したかにあります。
 小輩のHPに食塩製造方法を下記のように記しています。

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 縄文時代に行われた製塩方法は、(上記の)天日方法に近いものです。製造方法は下記のようだと想像します。
@濃縮工程:塩田(砂、海藻を担体とする)に海水を散布して粗塩を作り、再度溶かして高濃度塩水を得る。又は、流水方法、小規模濃縮槽で高濃度塩水を得る。
A高濃度塩水を加熱又は自然蒸発させて、NaClの結晶を得る。
B結晶化したNaClを主成分とする塩を焼く。
C場合によったら2〜3年寝かせる。
 上記の製造方法で、問題点がいくつかあります。
@結晶化工程で、NaClの純分を上げるには、収率を下げればいいのですが、ミネラル分やヨー素分がなくなり、健康食品になりません。収率が低く、作るのが大変です。
A収率を上げると、MgCl2の含有率が上がり、苦味が強くなるだけでなく、潮解性(吸水性が高く、べたべたになりやすい)が高くなります。また、土器で煮つめる度合いを上げると、土器が壊れやすくなります。
・・・・・と想像します。縄文人は何処まで考えていたでしょう。どこかの製塩工場は、製造方法のノウハウをセールスポイント(苦味が少ない、べたづかない、結晶形が変わっている など)にして、大工場になったでしょうか。
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 縄文後期後葉から、製塩が行なわれています。霞ヶ浦西岸の遺跡で、製塩土器が多く発見されています。この土器は、小型で、文様がシンプルなものです。いわば、使い捨ての土器です。食塩を煮しめるために、土器が1回の使用で破壊してしまうのです。製塩が開始された時期と、大型貝塚が作られなくなった時期が一致します。また、その時期から千葉市の人口が急激に減少しました。このことから、貝は、食塩が製造される前に、塩分を補給するための食物であったと考えています。製塩法は一般には、渡来技術だと言われています。しかし、言われているだけで、完全に証明されている訳ではありません。”日本独自”の技術である可能性もあります。霞ヶ浦西岸の遺跡で製塩が行なわれた立地条件は、@燃料が得やすかったこと、A土器の大量生産が可能であった、B粗塩の運搬距離が短かった、であると考えます。千葉市は、製塩に適した環境でなかったか、新しい技術を取り入れる度量がなかったためと思います。

小輩のHPには、所々にダブル・クリックすると解説が出てくるところがあります。C14分析、C−N分析、プラント・オパール、塩 の解説があります(もっとあるかもしれません)。この解説を、ビジュアルにしたいとも思っているのですが、HPに対する反応があまりないので、そこまでやらなくても、と思ってしまいます。

返答 B:
昨日の返答があやふやだったと反省する1日を過ごしました。
『藻塩焼く』は、万葉集と常陸国風土記に言葉が現われることから、奈良時代初頭には、海藻を用いる製塩法が行われていたようです。

万葉集 第三巻の雑歌に次の歌があります。鑑賞してください。
  @志賀の海女は藻刈り塩焼き暇なみ櫛笥の小櫛取りも見なくに
  A縄の浦に塩焼く煙夕されば行き過ぎかねて山にたなびく
第三巻に見当をつけて、探した結果ですが、@は「藻刈り」と「塩焼き」は別の行為かもしれません。Aは藻について記していません。全巻を見れば、どんどん見つかると思います。

海藻を焼いて、塩を作っていたかどうかは賛否両論があります。小輩は、なぜ焼く必要があるんだと考えるので、海藻を担体として粗塩を作り、その塩を溶解させ、煮つめる方法で塩を結晶化させる方法をHPに書きました。

日本で、最も古く製塩が行なわれたのは、現時点では霞ヶ浦西岸の遺跡で、縄文後期末です。関東地方は大陸の影響を受けやすい地方ではないので、日本独自の技術によるものかもしれません。この技術は縄文晩期はそれ程伝播せず、弥生時代になると、製塩が消滅しました。 
弥生中期に瀬戸内海沿岸の製塩が始まります。奈良時代には鉄釜で煮詰める製塩法が瀬戸内海沿岸で始まります。これが、古来の製塩法と呼ばれるものです。縄文時代に行われた土器による製塩法ではありません。この製塩法は、大陸から渡来した技術によるものかもしれません。

返答 C:
Kyo Yanai 氏に万葉集に次の長歌があることを教えてもらいました。
--- 藻塩焼
06/0935
名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに
藻塩焼きつつ 海人娘女 ありとは聞けど 見に行かむ よしのなければ ますらを
の 心はなしに 手弱女の 思ひたわみて たもとほり 我れはぞ恋ふる 舟楫をなみ

”塩”については多くの歌が万葉集にあるとのことで、リストをメールでもらいました。
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~yanai/


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Kyo Yanai 氏からのメールを以下にそのまま掲載します。

>製塩の方法ではなく、”藻塩焼く”という言葉が入っている万葉集の歌を探していたのですが。
そうでしたか。では、以下にリストしますね。....... 念のため、掲示板にも入れておきますね。

--- 藻塩焼

06/0935
名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海人娘女 ありとは聞けど 見に行かむ よしのなければ ますらをの 心はなしに 手弱女の 思ひたわみて たもとほり 我れはぞ恋ふる 舟楫をなみ


--- 塩焼など

01/0005 霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣け居れば 玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神 我が大君の 行幸の 山越す風の ひとり居る 我が衣手に 朝夕に 返らひぬれば 大夫と 思へる我れも草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の 海人娘子らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 我が下心
03/0278 志賀の海女は藻刈り塩焼き暇なみ櫛笥の小櫛取りも見なくに
03/0354 縄の浦に塩焼く煙夕されば行き過ぎかねて山にたなびく
03/0366 越の海の 角鹿の浜ゆ 大船に 真楫貫き下ろし 鯨魚取り 海道に出でて 喘きつつ 我が漕ぎ行けば ますらをの 手結が浦に 海女娘子 塩焼く煙 草枕 旅にしあれば ひとりして 見る験なみ 海神の 手に巻かしたる 玉たすき 懸けて偲ひつ 大和島根を
03/0413 須磨の海女の塩焼き衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず
06/0938 やすみしし 我が大君の 神ながら 高知らせる 印南野の 大海の原の 荒栲の藤井の浦に 鮪釣ると 海人舟騒き 塩焼くと 人ぞさはにある 浦をよみ うべも 釣りはす 浜をよみ うべも塩焼く あり通ひ 見さくもしるし 清き白浜
06/0947 須磨の海女の塩焼き衣の慣れなばか一日も君を忘れて思はむ
07/1246 志賀の海人の塩焼く煙風をいたみ立ちは上らず山にたなびく
11/2622 志賀の海人の塩焼き衣なれぬれど恋といふものは忘れかねつも
11/2742 志賀の海人の煙焼き立て焼く塩の辛き恋をも我れはするかも
12/2971 大君の塩焼く海人の藤衣なれはすれどもいやめづらしも


きょう